歌ひとすじ 三橋美智也さんの自書

三橋美智也さんには「歌ひとすじに」という自伝があります。昭和にかかれたもので、生い立ちから初めての結婚いたるまでを書いたものです。
とても感動的な自伝ですので、それを私の微力で補いながら三橋さんの26歳までの人生を読んでいただきたいと思います

 

歌と人生

 

ー生い立ちから結婚までー

 

1、陽の当たらぬ道

 

 さいはての国、北海道ではもう十一月の声を聞くと初雪がちらつく日もあります。
そういった寒々とした11月のある日、正確にいうと昭和5年11月10日、私は当時セメント会社につてめていた三橋亀造を父に、サツを母として北海道上磯郡上磯という田舎町に生まれました。

 

この11月10日は私にとって第一の人生の出発点であると同時に、また私の第二の人生の出発点にもあたる日なのです。と申しますのは今年の11月10日、私が26歳になったその日、私は人生を切り開いていく伴侶としての妻喜久子と新しい家庭生活にはいったからです。

 

この26年間、私は歌ひとすじに生きてきました。
この26年間の私から歌を取り去ってしまったら一体なにが残るでしょう。私は決して華やかなステージ、歌手として大げさに新聞や雑誌で伝えられる名誉、贅沢な生活を夢見たことはありませんでした。しかし、私はいつも、私を含めて日本人が、そして特に誠実にいきていこうとする大衆がみんな歌えるような歌を歌いたいと心がけてきました。

 

いま私は私と共に私の歌を歌って下さる多くの方々とともにあります。
いたるところのステージで、そしてラジオで私を暖かく見守って下さる方がたがあることを知り、いつまでも皆様方の歌を歌っていこうとその度に新たな勇気を奮い起こしています。*

 

*三橋美智也さんはこの当時、ラジオ番組をもっていました。
昭和31年秋から始まった文化放送の「キング三橋美智也ショー」です。玉置宏さんが司会でした。「夜の7時から始まる週一の30分番組で、当時人気絶頂だった三橋さんの歌とトークの番組でしたが、まだSPレコードが主流の時代に、キングレコードのマザーテープをつかって曲を流すのですから、音質がけた違いによく、それも大きな話題になっていました。」(玉置宏の昔の話でございます)より

 

 

 私のこれまでの人生は決して坦々としたものではありませんでした。子供の頃から私は陽のあたらぬ道を進んできました。しかし、何時かは私の歌が日本中の人に認めてもらえるという夢と希望をもって明るく生活してきました。

 

 私は率直に言ってたいへん貧しい家にうまれました。その上、父は私が二歳の時に落盤で死んでしまいました。乳飲み子の私をかかえた母は、一時はあまりの心の傷手に茫然としていましたが、その悲しみから立ち上がって私をつれて当別の川田男爵のお邸に住み込みで働くようになりました

「三橋さんは二歳と書いていますが、三歳と11か月の間違いです。
三橋さんの四歳の誕生日前の11月9日に亡くなっています。
「歌ひとすじ」を書いていた時は、三橋さんが寝る間もないくらい忙しい頃で、寝不足もあったでしょう、また忙しくて校正する暇もなく、間違ってしまったと私は思います。
実はサツさんは三回結婚されています。三橋美智也さんには前夫の子の秋子さんというお姉さんがいらっしゃいます。サツさんの最初の苗字は三橋で、(みつはし)と呼んでいました。

 

川田男爵というのは、日本に男爵イモを広めた人として有名です。日銀総裁もつとめた父親の男爵を継承しています。実は造船家として大きな仕事をした人です。造船の勉強をするためにイギリスに留学した時に、イギリスの農業をみて驚きます。そして、国が発展し、国が栄えるには農業が大切だということを悟ります。
日本に帰ってから、横浜の造船関係の会社で働きます。日露戦争の時、造船不況に喘いでいた函館ドックは、技術家であり造船事業経営の経験のある龍吉に会社再建の白羽の矢を立て社長に招聘。龍吉は北海道へ渡ります。龍吉は積極的な策を実践して函館ドックを立て直します。函館ドックの経営が軌道に乗ったところで勇退した龍吉は、残された生涯を北海道農業近代化のためにささげることを決意し、当別「現北斗市」におよそ1,200町歩の山林農地の払い下げを受けて農場を建設。主として、米国より最新式の農機具を多数輸入し、機械化による農業を試みました当時の川田農場には西洋式の牛舎・サイロ・風力発電などもあり、その風景は近在に類を見ない威容を誇っていました。
川田龍吉男爵は、イギリスやアメリカから様々な種いもを取り寄せて試験栽培を行ないました。その中で「アイリッシュコブラー」という品種が北海道の地に一番適しており、普及させることに努めました。後に、このじゃがいもは「男爵様が育てたいも」から「男爵いも」と名付けられます。(川田龍吉資料館より校正して引用)
三橋美智也さんのお母さんが住み込みで働いた家は、別当(現北斗市)の大きな農場の中にありました。 三橋美智也さんが牛舎で寝てしまい、どこをさがしても見つからないので行方不明になったと騒がれたこともありました。
三橋美智也さんは4歳くらいの時に、自然に恵まれた環境で育ったことになります。」
挿入終わり

北海道はご承知のように大変に郷土色ゆたかな民謡が多く、また土地の人々も何か会合があるごとにその民謡を歌う風習がありました、
当別にも「民謡会」があり、一日の働きを終えた土地の人々が、土地の匂いのする民謡に一日の疲れを忘れていたのです。私の母も毎日のように仕事から解放されるとその民謡会に出席して得意のノドをきかせていました。

 

 私の母は民謡が得意で、民謡歌手として若い頃には台湾にまで行ったと後年私は聞かされました。また、母方の叔父には、北海道では追分で名の売れた民謡歌手の三浦為七郎がおり、私の民謡にたいする熱情は、私の血に流れているものと、私の環境によってますます拍車をかけられたものといえましょう。

 

母親のサツさんは、当時絶世の美声の持ち主で、当時北海道の民謡家が好んで唄った、追分節や博多節を歌わせると右にでるものがいないほどの唄い手であったのです。美智也さんはこのサツさんの厳しい指導で四歳のころから歌い始めています。また彼の叔父に江差追分の不世出の名人と言われた三浦為七郎さんがいます。(民謡研究家須藤恭央氏より)
三橋さんは、お母さまのお腹の中から民謡を聞き初め、生まれてからも母親や親戚など周辺の人々からも影響をうけて、民謡に対する感性をたかめていったまさに、民謡の為に生まれたような人だったのです。

 

2、 母が手ほどきの民謡

 

母は私が四歳のときに私をつれて当時、当別にいた金谷五郎と結婚しました。この新しい父と母との間には、その後三人の男と一人の女がもうけられました。一人っ子だった私はこうして四人の弟妹を持つようになりました。 その後父は国鉄につとめるようになりました。

 

私はいろいろな会合の時に大人の人達が歌っている民謡に本能的に心をひかれ、それを聞きながら、次第にうろおぼえながら少しずつ覚えていきました。
五歳の頃にはもう大分民謡が歌えるようになっていました。「天才」とか「神童」とかいう言葉が私に浴びせられるようになりました。

 

 村のお祭りの時にはタイコをたたきながら公会堂で「津軽おはら節」を歌いました。
夢中になって歌い終わったとき、私をめがけてお金を包んだり、アメを包んだりした紙がなげられ、舞台中がそういった花(お祝いの品)で真っ白になったほどでした。

*枝雀さんとの対談の中で、三橋さんは、「その頃は。ステージに立つと、もう真っ白になりましたね、ヒネリ銭で。だから養子に行った先のお父さんが国鉄に務めていたんですけど、僕の一回のお花の方が多いいのね。それでしょんぼりしちゃってね。自分の子供の方がずっと上りが上だって。大変なことだったんですよ」と言っています。
子だくさんで貧乏だった金谷家の家計が、幼い三橋さんの肩にかかったのも無理がありませんでした。
二條ひろ子著「三橋美智也の遺言」にも「僕は子供の時からはたらきづめに働いてきたんだ」という記述があります。
またTVの枝雀対談でこんなことを言っています。
枝雀「その歌はどなたにその気があったんですか。」
三橋美智也「うちの叔父に江差追分の「三浦節」というのをつくった叔父がいる。江差追分の前歌をつくったといわれています。「僕も江差追分のドキュメンタリーをやったことがありましたけど、たいへんさかんなんです。大阪でも歌ってらっしゃる方がいらっしゃいますけど、三浦節の方がむずかしいです。うちの亡くなったおふくろも歌がうまかったもんですから、けいこ場があってね、そこでちょこんと座って聞いているわけね。そうするとおぼえちゃう、門前の小僧と言いますけど、苦労しないでおぼえちゃう。だから下手な歌うたっているとニヤニヤニヤニヤわらってしまうわけ。そこちがうよ」とかいっているわけね。
引用終わり

私の民謡がすこしずつ本物に近づいて来るのを聞いて母は人並みはずれて体が弱く、また親もないので、将来芸事で身を立てるようにと、ひまさえあれば一生懸命民謡をおしえてくれました。

 

 底冷えのする夜など、眠さをがまんしてくりかえしくりかえし同じところを歌わせられるのは、まだ5歳の私にとっては何事にも変えられぬ苦痛でした。*

 

 

*三橋さんは5歳の時に、函館の巴座で初舞台をふみます

しかし母の熱意に動かされて私は歯をくいしばって努力しました。この母の熱意がなかったら、私は一生、北海道のどこかでしがないドサ回りとして埋もれていたことでしょう。 
 さて、六歳のと金谷の父が函館の保線区にうつったので、私たち一家も函館にうつり、私は巴小学校に入学しました

 

 

3、函館の腕白時代

 

 小学校の時代の私は、はっきりいいますと勉強がきらいでした。しかし、勉強がきらいなだけその余ったエネルギーを毎日毎日民謡に注ぎ込んでいました。相変わらす母が私にとってはきびしい民謡の先生でした。

 

 小学校は五年生まで男女共学でした。体も小さく病弱だっだにも関わらず私はとっても腕白小僧でした。よく同じクラスの女の子をいじめたり、からかったりしては水をいっぱいいれたバケツを手に高く持ち上げたまま廊下で直立不動の姿勢で立たせられていました。小学校時代のいたずらっ子が一応経験するいたずらはもちろんなんでもやりました。悪いこととはしりながら、持前のいたずらのムシが腹の中で騒ぎ出すとどうしてもこらえることができなくなるのです。

 

 担任の先生に岩淵先生という女の先生がおりましたが、衛生の方も担当なさっていて、あるとき全校生徒に蛔虫駆除のために「ムシクダシ」をのませました。私はそれを口にいれてから水をのめばいいんだ、といい出しました。ところが水の中にいれればいいんだと早合点した友達が、虫下しを水の中になげこみました。それをみていたクラス全体がわれもわれもとみんな水の中のすててしまったので、岩淵先生は大変に怒ってしまい、例によって私が主謀者ということで一日中校庭に立たせられていたのを覚えています

 

岩渕先生にはもう一つ思い出があります。
どうもわたしは、模範生には程遠かったらしく、どうしても「朕おもうに」という教育勅語がおぼえれられません。宿題としていいつけられたときも、あまりありがたくもないものをおぼえるのはまっぴらとばかりに遊びに出かけてついに暗記しませんでした。翌日、一人一人名ざしで暗誦させられました。みんな友達はよく暗誦して行きます。とうとう私の番になりました。「朕おもうに」とはじめはスラスラでたのですが、あとが続きません。とうとうゲンコを頭に一発くらってしまいました。でも、こういったことも今では懐かしい、そして何物にもかえがたい楽しい思い出なのです。

*三橋さんが暗記できなかった、これが「朕??惟フニ」の全文です
朕??惟フニ我カ皇?皇宗國ヲ肇??ムルコト宏遠??ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ演リニシテヘ育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦??相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博??愛衆ニ及??ホシ學ヲ修メ業ヲ習??ヒ以テ智能ヲ啓??發シコ器??ヲ成就シ進??テ公??益??ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵??ヒ一旦緩??急??アレハ義勇??公??ニ奉シ以テ天壤無窮??ノ皇運??ヲ扶翼??スヘシ是ノ如キハ獨リ朕??カ忠良ノ臣民タルノミナラス又??以テ爾祖??先ノ遺??風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道??ハ實ニ我カ皇?皇宗ノ遺??訓ニシテ子孫臣民ノ?ニ遵??守スヘキ所??之ヲ古今ニ通??シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕??爾臣民ト?ニ拳??々服??膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶??幾??フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽

 

これではまったくわからないとおもいますので、現代訳はこうなっています
現代語訳 
朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。
 汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。
 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。 」

 

三橋さんが小学校に入っていた時は、1930年代で
ウキぺディアによれば、教育勅語は十五年戦争時には極端に神聖化された[1]。
治安維持法体制下の1930年代に入ると、教育勅語は国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語の写しは、ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。また、生徒に対しては教育勅語の全文を暗誦することも強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その体制を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用されるに至った。
とあります。
三橋さんは1937年に小学校に入学しています。国家総動員法が出た時は1938年で7歳で小学校二年生ですので「教育勅語」の暗唱がおこなわれていたとおもいます。軍国少年として育ったことになりますが、三橋さんは民謡の舞台に立つことで、学校以外の外の世界も小さい時から知っていますし、経済的には家計を助けるくらいの実力があり、純粋の普通の軍国少年とは違うちょっと違う感性をはぐくんでいたとおもわれます。
引用終わり

 それに一年に一回は何か病気にとりつかれました。現在ステージに立っている私を見た方はとても本当とは思えないでしょうが。本当に病弱だったのです。私が現在のようにタフになったのは、戦後、食べていくためにやってきた数々の肉体労働のおかげなのです。
つらかった日雇い、冬の朝早くおきてのボイラーたき、そういった数々の仕事、貧しい家にうまれたがために幼いころから自分がはたらいて食べてゆく以外に方法がなかった私の生活環境が、何日ステージやラジオがつづいても倒れないような丈夫な体をつくってくれたのでした。

 

 

4、コンクールに入賞

 

 私は小学生のとき、何度か盲腸炎らしいという宣告をうけました。どうしても右の下腹部が痛くなるのです。何度も何度もそうしたことがあったある冬のこと、とうとう手術しなければいけないのかと思って函館病院で診断してもらいました。どころが原因は盲腸炎ではなかったのです。はげしい寒さのため膀胱が大きくなりそれがお腹を圧迫しているためだとわかりました。ほっとして病院をでましたが、死に目にあうようは病気も少なくありませんでした。*

*北海道の寒さは格別です。激しい寒さの為に膀胱が大きくなるというのはウエブ検索ではでてきませんが、北海道などの極寒の地域ではある病気なのでしょう。住環境も今のようではなかったと思いますし、それだけきびしい寒さに三橋さんは耐えていたということだと思います。
引用終わり

こんなに体が弱くてもいたずらっこであることに変わりはありませんでした。病気のためとそしていろいろなお祭りにたのまれて民謡を歌に行っていたために学校の出席日数は半分にもみたいないものでした
勉強きらいな私にもたった一つ好き学科がありました。それは音楽で、一年から六年までこの課目だけは優等でした。

 

 母にげんこをとばされながら勉強した民謡もだいぶ上達してきました。9歳の時に、全道民謡コンクールに出場して「江差追分」を歌い、人気投票、審査員投票とも一位で優勝しました。新聞は「民謡の天才児」とか「民謡のために生まれてきた少年」とかデカでかと私のことが写真いりで、掲載されました。どうやら、私もやっと門前の小僧式の民謡歌手から脱却して、本当の民謡歌手になれそうだという自信がわいてきました。*

*全国郷土民謡大会で「江差追分」を歌い、人気投票・審査員投票とも一位で優勝する。
いがぐり頭の三橋さんを中心にした舞台写真が残っています。
それには、金谷美智也卓氏掛第一回公演披露記念昭和15年6月「13日より3日間於吉野演芸場としてあります。

「卓氏掛」というのは演題にかけるものではないでしょうか。金谷美智也と大きく書いてありますがこのりっぱな卓にかける掛物を作った第一回披露記念ということではないでしょうか。居並ぶ人たちは美智也後援会の人たちだと思います。金谷美智也後援会が発足して、お母さんの民謡一座にはいります。

「江差追分」は土地の民謡だけに歌う人も多くそれだけに私はその味をだす上に苦労しました。私たちの祖先が長いあいだかかって積み重ねてきた生活がこの「江差追分」には強くにじみでています。たくましく荒波に生きてきた私たち祖先の叫びなのです。これは決して権力によって上からおしつけられたきれいごとの歌ではありません。地の通った人間の心の叫びなのです。当時、九歳の私は、民謡の成り立ちとその伝承について朧げながら考えるようになってきました。私は、この江差追分をたくましく生きていゆく民衆のうたとして歌ったつもりです。幸いにも私は一位に入賞することができました。
日頃うるさい先生だった母も、このときばかりは涙を流して喜んでくれました。このころには民謡のレパートリーも大分増えてきました。私はこういった大衆の間に伝えられた民謡をずっと歌い続けていきたいという強い決心をもつようになりました。

 

 

5、あこがれの東京へ

 

 昭和十六年、私が五年生のとても寒い十二月のある朝。私はラジオで日本がアメリカとイギリスと戦争をはじめたことをしりました。私の民謡の勉強は戦争中の苦しい期間も一日も休みなく続けられました。

 

 私が六年生のとき、函館の東西蓄音機店を経営しておられた渡辺さんが、私のことをコロムビア・レコードの方に話してくださいました。
そのころには、私は少年民謡歌手として北海道では相当名が知られるようになってきました。思いがけなくも小学校を卒業する年の三月、東京コロムビア・レコードから「民謡をレコードに吹き込んでみないか」という手紙がとどきました。そのときの嬉しさはなんとも言葉では表現できません。

 

 当時の私は、北海道から一歩も出たことがありませんでした。
それがあこがれの東京へいってレコードに自分の歌が吹き込めるのです。学校のクラス・メートに盛大に見送られて私は海を渡って東京に向かいました。北海道から海をへだてた本土はまったく私には未知の世界でした。

 

 私は汽車の窓からくいいるように本土の冬景色にみとれていました。
コロンムビア・レコードのスタジオでは私は「江差追分」「博多節」「米山甚句」「たんと節」「新よされ節」「じょんがら節」を吹き込みました。

 

 この時はいまでも函館を中心に北海道で三味線をひいておられる鎌田蓮道さんが三味線と尺八をうけもってくださいました。十二歳の小学生の私が「江差追分」の前歌、本歌、後歌を蒲田さんの尺八に乗って歌いづつけたので、コロムビアの方はすっかりびっくりしてしまいました。
いま聞き直してみますと、まだまだ至らない点だらけですが、十二歳にしては相当な出来だと自信をもっています。何かこの頃には純粋でひたむきに歌おうとする強い決意にあふれていたようです。

 

さてこの年、つまり昭和18年の四月に私は小学校生活に別れをつげて函館市的場高等小学校に入学しました。昭和18年といえば戦局が次第に日本に不利になり、食糧事情がも相当悪くなってきた年です。このころから私の関心は民謡とともに三味線にも発展して行きました。

 

6、三味線修業

 

私は前に述べた鎌田蓮道さんに13歳のと時に三味線の手ほどきをうけました。どうしても私は、津軽三味線のあの不思議な音楽が忘れられなかったからです。それまでも母から口三味線で、いろいろと三味線のことは教えをうけていました。でも、はじめて三味線を手にとってみて、三味線のむずかしさ、すばらしさがよくわかりました。

 

口三味線というのは、邦楽用語。楽器の旋律を擬声音で歌って記憶する便利な方法として古くから行われた唱歌(しようが)が,雅楽から一節切(ひとよぎり)を経て,三味線に応用されたもの。〈チン・トン・シャン〉は三味線音楽の代名詞のようになっているが,チンは三の弦の勘所(かんどころ)を押さえた音,トンは二の弦の開放音,シャンは二と三の弦とを同時に弾いた音であり,そのほか,一と二の弦を押さえた音はツン,一,二弦同時のときはチャン,三の弦の開放がテン,撥(ばち)ですくう場合はラ行を用いる,といったぐあいに,弦の違いや押さえた音,放した音から,撥の使い方,ハジキという指使いまでが,口で唱えることによって,すぐにわかるようになっている。

 

 

鎌田さんに弟子入りする少し前のことです。あるお祭りでのことです。私はそこで例のごとく民謡を歌うことになっていましたが、その出番までの時間つぶしにふと三味線を手にとってみました。いたずらに弾いてみますとちゃんとメロデイができます。
これは面白いというので、いろいろやってみているうちに、これなら私にも出来るという自信がわいてきました。

 

 三味線には、二上り、三下り、とかいろいろありますが糸は今までみようみまねであわせられます。それで本格的に民謡の三味線を勉強するために鎌田さんの門を叩きました。
「ひとつとや」からはじめました。つづいて「金比羅船」そして次が「津軽おはら節」でした。ここまで教わりますと、あとは習うものがなくなってしまいました。そのほかのいろいろの民謡の三味線は、それまでに私が口三味線で知っていたものばかりだったからです。


三橋さんの場合、習うというより、親しんでいったということだとおもいます。三味線を上達するためには口三味線をおぼえるのが一番早いといわれています。口三味線もお母さんから教えてもらっていた。だから上達が早かったとおもわれます。環境の中でどんどん実力をつけていったのだと思います。

 やがて戦争もたけなわとなり、鎌田さんは応召され、三味線をひいてくれる人を失った私は、自分で三味線をひきながら民謡をうたって工場などを慰問してあるくようになりました。こうやって私は津軽三味線がひけるようになりました。私が三味線をひけるということは、後になって私の運を切り開く大きな原因となったのです。私がキングレコードに認められて今日の私が生まれたのも、もとはといえば、民謡の三味線がひけたからなのです。しかし、その頃の私は、民謡と三味線の自習で夢中でした。

 

 

7、働いても 働いても

 

 私は働かなければなりませんでした。三味線を手に、せまいニワカ舞台で「江差追分」「津軽じょんがら節」などを歌って歩きました。いい知れぬ孤独感に襲われることもありました。子だくさんの私の家はたえず貧しさに追われていました。働いても働いても楽にならない暮し。私だって友達と遊び回っていたい。しかし、みんなが楽しかるべき時私一人は舞台に立たなければならない。私は何度泣いたかしれません。しかし、そんな私のわがままは家計を助けるためには許されません。

 

 ともすれば崩れそうな当時の私を支えていたものは、負けずぎらいな私の土性っ骨だけでした。北海道の冬の寒さはまた格別です。冷たい吹雪が吹き込んでくる薄汚れた狭いステージで、ひびの入った手に三味線の糸が痛く食い込んでくるときもありました。そして指から血が流れることすらありました。私が子供のころからはたらかなければならないといったって誰を恨むことができましょう。父だって一生けんめい働いているのです。貧しさというものは絶対「悪」ではありません。子供のころから私は生きてゆくには自分自身しか頼れないことをイヤというほど教えられたのです。


二條弘子著「三橋美智也の遺言」
「僕は子供のころから働きづめに働いてきたんだ」

 話を少し前にもどしましょう。幼い頃から、私は木上がり大好きでした。高い所に上りヒョーヒョーとして下を見下ろしていろいろ考えているのが好きでした。小学校のときの話です・あるお祭りで頼まれて例の如くに「江差追分」を歌った時のことでした。子供ながら紋付の羽織袴をつけた私はどうしても高いところに上りたくなる欲望をこらえきれず、舞台に直角に突っ立つっているハシゴを上り、ハリのところにたどりつきました。

 

 そこに逆にぶら下がったりして下の舞台をゆっくりと見物していました。ところがすっかり出番を忘れてしまいました。下では裏方があわてふためいています。話し声をきくと、どうやら私がどこにもいないといって探しているらしいのです。あわてた私はまたハシゴをするするおりて顔中ススだらけでステージに立ったことを今でも覚えています。

 

 私は高等小学校のときも身体は相変わらず小さく、そのためステージの上にテーブルをおき、その上に座布団をしき、それにちょこんとすわって民謡を歌ったこともよくあります。鎌田蓮道さんのお母さんは私にとって大変きびしいがいい先生でした。私がよく文句を忘れてしまので、座布団の上に座っている私の背後にいて、次はなに、次は何、という風に教えてくれました。つまりプロンプターの役目です。でも、ちょっとでも調子が狂おうものなら、歌い終わると、今のはこの音が狂っていたね、と実にこまかく、そしてきびしく注意してくださいました。

*枝雀対談「それでいまでも背は低いんですけど、当時はちゃんとテーブルの上に座布団上にひいて、そこの上にちょこっと座ってうたったんですね。夜だんだん暗くなってくる、遅くなってくると子供ですから、ねむくなってくるんですよね。
そうすると後ろの方に鎌田さんというおばさんがいましてね、次はなんだって歌詞を言う人がいるんですよね。その歌詞を聞きながら歌ったり、眠いんですけど。それで終わってやれやれと帰るんですけど。」いまだに歌詞をわすれることがありますけど。

8、苦しい修業

 

戦争末期、私は函館の京極座ではじめて津軽三味線の二人の名人、白川軍八郎さんと木田林松栄さんの三味線をききました。それは実にすばらしいものでした。連音符が多く、テンポの実に速い独特の三味線のひき方なのですが、私はすっかりそのとりこになってしまいました。

 

 でも、そのころ相当三味線を勉強していた私はきいている中に、二人の三味線のちがいを明瞭にとらえることができました。家に、帰ってからそのちがいを母に口三味線ではなしましたところ、さすがの母もびっくりしていました。私は、自分でも一日一日と私の三味線がすこしずつ進歩して行くのを認めることができました。

 

 私が最初にステージで三味線をひいたのは忘れもしません。函館の日露漁業の公会堂でなのです。そのときは、引き終わってみるとすっかり手にアセをかいていました。そのころからみれば、二人の名人の三味線のちがいを口三味線で表現するまでに成長していたのです。

 

 もう私は民謡歌手としてはセミプロになっていました。当時函館に女流民謡歌手で山本麗子という方がいました。17か8の方だと覚えています。この方といっしょに私は樺太へ民謡歌手として巡業しました。
あとにも先にも樺太にいったのはこの時だけです。*いまこの方は、北海道の登別で按摩さんをしているそうです。

*昭和19年、江差追分の名人浜田喜一さんの一座「かもめ会」の一員となって樺太巡業にいっています。

 鎌田さんは今でも函館で尺八を吹いておられます。今年の六月、八年ぶりで故郷へ帰った時に、ぜひお会いしたかったのですが、遂にお会いできず残念でした。

 

三橋さん白川軍八郎さんや木田林さんの津軽三味線をきいていから、その魅力が忘れられず、白川さんや木田林さんを師と仰ぐようになったのです。

9、民謡の「海行かば」

 

 高等小学校のときの音楽の担当は渡部先生でした。この方は校歌を作曲された方で、とても音楽的な素養の深い方でした。

 

 ある日、渡部先生が私をピアノ室に呼んで「君は大変声がよいから本格的に聞いてみてあげよう」とおっしゃって、テストの意味で、「海行かば」を歌わされました。ところが民謡ばかり歌っていた私のこととて「海行かば…」まではいいのですが、「草むす屍」となるとどうしても語呂をいれてふしまわしが民謡になってしまうのです。何回やってみても民謡になってしまうのです。とうとう渡部先生は「君は声はいいが、まあダメだね」ということになりました。


『海行かば』(うみゆかば)とは、日本の国民歌謡の一つ[1
当時の大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲。信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した。信時の自筆譜では「海ゆかば」である。
放送は1937年(昭和12年)10月13日から10月16日の国民精神総動員強調週間に「新しい種目として」行われたとの記録がある[2]。本曲への国民一般の印象を決定したのは、太平洋戦争期、ラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際に、必ず冒頭曲として流されたことである

 先生はいまでも元気で教鞭をとっておられて、今年函館でお会いしたときには「あのときには、ダメだねなんていったけど、いやあ、あれは私の見込み違いだったね」頭をかいて笑っていられました。でも「本当によかった、よかった」といって何度も私の手を握って下さいました。

 

 故郷の思いはつきることがありません。たとえ苦しい生活を送ったにせよ、故里は私の心のより処なのです。私はいま「ふるさとの山に向ひていうことなし…」という石川啄木詩を思い出しています。私を生み、育ててくれた北海道の大自然に私は限りない感謝の念でいっぱいです。

 

 私はふと一人で故郷の思い出にふけることがよくあります。私にとってはそれが最も楽しい時間なのです。ちっぽけな神社のお祭りに、子供ながらしかめつらしく羽織袴に身を包み「江差追分」を一生けんめい歌っている私の姿が、つい昨日のことのように克明に私の頭の中によみがえってきます。

 

その当時、現在のようにこんなにまで多くの方々から愛される歌を将来歌えるようになるなんで一体考えることができたでしょうか。
今年の六月、八年ぶりで故郷の北海道で長期間歌ったとき、お世話になった方々、いっしょにいたづらした友達に会えました。
十分に語る時間はなかったのですが、これらの方々の私に対する暖いご声援には何とお礼の言葉をのべていいかわかりません。

 

 話を戻します。私は三味線の勉強にはげむ一方では小唄を習い始めました。函館に花柳三千枝(今は改名されたと聞きました)という日本舞踊の先生がおりましたがその方のお母さんについて習ったのです。一日に二曲をあげるというスピードぶりでした。又、当時函館の一流楽団といわれた新響楽団と三味線で「赤城の子守唄」を協演したこともありました。

 

三橋さんの小唄の最初のお師匠さんは函館の日本舞踊の先生の花柳三千枝さんのお母さんです。

三橋さんはプロとして、函館の一流楽団の新響楽団と三味線で「赤城の子守唄」の協演している
10、波に負けまいと声をふりしぼる

 

 私は十代の最初をいわゆる「暗い谷間」の時代にすごしました。戦争はますますはげしさを加え、アメリカの飛行機が内地はもちろんのこと、私たちの北海道の上空をわがもの顔で乱舞するようになりました。まだ十代なかばにもみたない私もクラス・メートとともに勤労動員にかりだされるようになりました。

 

 パルプ工場、造船所、ドラム缶製造所、制繩所、などなど、私たちはかり出されて学業を捨てて働かざるを得ませんでした。灯火管制のため、うすぐらい電灯の下でおそくまで残業させられる日が続きました。しかし、私は、民謡歌手として少しは名が知られていましたので、慰安会のあるたびに三味線をひきならが民謡をうたわせられるようになりました。このため幸いにどこに動員されても比較的軽い仕事に回されました。

 

 昭和20年3月、終戦の5ヶ月ばかり前に私は高等小学校を卒業しました。そのころ函館にいては危ないというので、一家は母の実家の泉沢村に疎開していました。日本の敗戦はもう目の前に迫っていたのです。高等小学校をおえた私はうろうろしていれば徴用でまたどこかの軍需工場に送られるに決まっています。

 

 それで、私は泉沢村で、国鉄の日雇い人夫になりました。「ピタ」といって線路の石ころをツルハシでヨイコラヨイコラやっているあの人夫仕事なのです。その仕事をしている最中でもアメリカの戦闘機が私たちの頭上をとび回っていました。

 

 夜は夜で、海岸にでて波にまけない声をつくろうと、海に向かって声をかぎりに民謡を歌いまくっていました。そんな私を母がこっそりと後をつけて見に来たことも何回となくありました。きっと母は心の中では泣いていたことでしょう。しかし、この発生訓練は私の声を本格的に創りあげ、鍛え上げるのにたいへん役立ったと今では思っています。黒々とした海のぬこうから夜目にもそれとわかる波が浜に押し寄せてきます。その音にまけまいと声をふりしぼる私。この光景はいまだに私の脳裏に鮮明に焼きつけられています。

 

*  (現上磯郡木古内町泉沢)泉沢駅は現在は道南いさりび鉄道の駅で、海に面しており、三橋さんは昼間は海の見える線路で工夫として働き、夜はそばの海で歌の練習をしたのだと思います。津軽海峡に面している海は風が強く、そのつよい風にむかって練習したのでした。

 

11、終戦の喜び

 

このころ私の仕事は日雇いだったので、毎日出る必要もなく、時々民謡歌手の巡業に参加しました。
 巡業地への途中でアメリカの戦闘機に追いかけられたことも何度かありました。しかし、今思い出してもぞっとするのは鷲別で興行していたときのことです。その日に室蘭市が艦砲射撃ですっかりこわされてしまったのです。室蘭の背後の山の形がすっかり変わってしまったほどすさまじいものだったのです。このしらせを聞いた家族はてっきり私もやられてしまったものと思っていたそうです。

 

 しかし、鷲別では何ともなかった私も、鷲別と幌別間で乗っている汽車がグラマンにみつかって機銃掃射を受けたときには、これが最後かと何度諦めたかもしれません。やっと命びろいして私は函館にたどりつくことができました。何か、生きていられたことが夢のように思えてなりませんでした。一息ついて函館から泉沢に帰ろうとおもいましたが、爆撃を受けて線路が切断されているのでいつ汽車がでるかわかりません。それで、舟をかりて一人で三時間ほど漕ぎ続けて泉沢にかえりました。*

*三橋さんは流れの早い津軽海峡を函館から泉沢まで小舟で渡ったことになります


やがて終戦となりました。私はなにかほっとしたような安堵感にとりつかれてぐったりしてしまいました。私の父や母にしてみれば戦争に負けてしまったことは、今までの心のよりどころとしていたものがすっかりガラガラと崩れてしまい、この先何を信じ何を求めてよいのか途方にくれたのでしょう。しかし、私にとってはもう動員や徴用で工場でなれぬ作業に従事しなくてもいいのです。それに、好きな歌を何物にも妨害されないで自由に続けられるのです、私は自然にわき起こってくる喜びの感情をどうすることもできませんでした。

 

 昭和20年の秋、日本人は敗戦の痛手にすっかりうちひしがれて、立ち直れず無気力な生活のどん底に追いつめられていました。
食べるものとて、着るものとてなく、希望もなくうつろな目を半ば開いて町を行き来する人の姿だけが目につくような有様でした。

 

 

12、荷物を肩に御難の巡業

 

インフレで余計苦しくなった生活を支えるために、私はまた働かなければなりませんでした。折りよく民謡歌手としては北海道一の浜田喜一さんのご紹介で巡業に出ることになりました。そのころは三味線も相当のところまできましたので、民謡や郷土色豊かな踊りの人々と一緒に函館を出て、江差海岸や小樽方面の地方巡業をしました。

 

 しかし、終戦までは私の歌を愛してよく聞きに来てくださった方々も、こんどはそれどころではなかったのです。インフレにふきあおられて苦しくなった生活にすっかり身も心も疲れきっていたのです。こんな状態でどうして私の歌など聞こうという心の余裕がありましょう。
どこに行っても今まで経験したことのないほどの不入りでした。この巡業は完全に失敗に終わりました。

 

 村から町へ、そして町から村へ、私たちは生活の糧を求めて歌って歩きました。次の興行地に行くのに乗り物に要る金さえありませんでした。私たちは足をひきづって歩いたのです。ある時は六里の山道を荷物を肩に三日月に照らされて歩き続けたこともありました。

六里 6×3.927km=23.562km

 雨の日も風の日もこの苦しい巡業が続けられました。雨だからといって、風だからといって一日休むことは、それだけ私たちの生活をまっくらにしてしまうからです。何日も何日もドンブリに半分ぐらい、しかもご飯つぶが辛うじてイモにおんぶしているようは食事しかありつけませんでした。

 

 薄よごれた板の間からピューピューふきあげる風に身を切られる思いで、うすい綿のはみ出たふとんを頭からかぶってうつらうつらするとき、私の頭に浮かぶのは、はずかしいことですが、純白のまじりっけなしの米のご飯でした。

 

 歌手のエネルギー源となる食事が十分とれないのではどうしょうもありません。でもたとえ少人数でも私の歌を聞きに来て下さるお客がいると思うと、出ない声をふりしぼっても民謡を歌いつづけました。でもどうしてもおなかに力がはいらないのです。歌手生活を通じてこんなに苦しいことはありませんでした

 

 

13、飢えと寒さの吹雪の峠

 

秋がすぎて冬がやってきました。雪の中を私たちの巡業は続きました。そういったある日私たちはものすごい吹雪で、一寸先もみえない峠道を、胸まで雪に入りながら次の興行地へと急いでおりました。

 

 おなかはすくし、体は疲れてくるし、気はめいるばかりでした。でも、ここで一人へたばったらみんな次々と動けなくなってしまうに決まっています。もうすこしの辛抱だと自分に云いきかせて、みんなの気をひき引き立てるように高声で話しかけながら私は先頭を歩いて行きました。

 

 荷物の重みが肩に食い入って、しびれるような痛さが全身の感覚をマヒさせてゆきます。眠ったらおしまいだ、と私は江差追分をうたいながら一歩一歩重い足をひきずって行きました。

 

 やっと峠も下りにさしかかったころ、ふと前方に人の気配を感じました。今ごろこんな峠を歩いているのはどんな人だろうと思いながら進んでいきますと、その人影は私の前で立止りました。

 

「おお、みっちゃん」
のめりそうになっている私の頭の上で声がしました。上をみると函館の知り合いの人なのです。
「あぁ、あんたか」
 それから私は地方巡業に出てからのことをいろいろ話しました。その方は興行がうまくいっていないのを聞いて、大変同情してくれました。私が、みんなおなかがすいて倒れそうだというと、自分は今食事してきたばかりだからと云って大きなオニギリを二つ私にくれました。

 

 包を開いてみると、なんと二つともまじりっけなしの全部お米のオニギリなのです。みんなの顔にみるみる生色が戻ってきました。私たちはたちまちそのカチカチに凍った二つのオニギリを処理してしまいました。そのおいしさは現在どんなものを食べても味わえぬものです。

 

 私たちはこの二つのオニギリのお陰で救われたといえましょう。もし、このオニギリにありつけなかったら、私たちは吹雪の峠道で、飢えと寒さのためにどうなっていたかわかりません。これは私の一生忘れることのできない思い出なのです。

 

 

14.失われた聴衆を再び

 

 散々だった巡業を終えて私は家に帰りました。やがて、山形をはじめとして東北で活躍しておられた民謡歌手、三浦為七郎さんが、奥さんと一緒に北海道に出てこられ、私も巡業の誘いをうけました。

 

私たちは、三浦為七郎と金谷美智也の二枚看板で旅にでました。22年の春から秋にかけて、新緑から濃緑に、そして黄ばんでゆく原始林の移り変わりを眺めながら旅を続けました。


三浦為七郎さんは、江差追分の名人で、三浦節を作った人で、三橋さんの叔父さんです。奥さんは三浦寒月さん。三橋さんは寒月さんのコロンビアレコード吹き込みの時に三味線を伴奏しています。「たんと節」*
 食べるものも着るものも、それほど楽にはなりませんでしたが、世の中が終戦の虚脱状態から少しは立ち直ってきていました。今度の興行は成功でした。私は、一時失いかけた民謡の聴衆を再び私の手に握ったのです。

 

 一方では、進駐してきたアメリカ兵とともに、アメリカの黒人の間に生まれ、機械文明の中で発達したジャズが日本にもどっと入ってきました。北海道でもみようみまねでチューイン・ガムをかみながら、あやしげな英語でジャズを口ずさむ人々の姿がみられるようになりました。しかし生活に苦しさにあえぐ大衆は、そういった舶来のリズムを口ずさむどころの騒ぎではなかったのです。

 

 今日一日の生活の資をどうして獲得するかに精いっぱいだったのです。そうして疲れきった人々が求める歌といえば、やはり異民族の間に生まれ、そして育ったリズムよりも、何といっても私たち日本人の血の中に流れているメロデイなのです。

 

 日本の土に育くまれた民謡は、私たちの母なる大地の匂いがしみついています。私たち祖先から伝えられた大衆の歌である民謡には、私たちを暖く包んでくれるものがあります。生活に疲れた人々は、その疲れをいやすために私が歌う郷土の民謡をきこうとして小さな小屋に集まってきてくれました。そして私の歌う民謡にあわせて手拍子をとってくれるのです。

 

 インフレの荒波にもまれ、たとえ一円でも尊いときに、そのなけなしの財布をはたいて私の歌を聞きに来てくれる。そして疲れている体なのに最後まで私の歌を聞いてくれる。私はそれを思うと目頭が思わず知らず熱くなってくるのをとめることが出来ませんでした。

 

 何も私が格別歌が巧かったからではありません。民謡という私と民衆の体の中に共に流れている日本人の血によって私と聴衆は一つに結ばれていたのです。私はどうあっても私たち大衆の歌として、民謡を一生歌い続けたい。そして日本一の民謡歌手になりたいとその時固く決心しました。そのことステージの感激は、現在私がどのステージでも感じることが出来ないほど大きなものでした。

 

 民謡歌手としての私は、すこしずつ有名になっていきました。昭和23年、私は三浦さんとの巡業を終えて、ひとまず家に帰りました。私は17歳でした。

 

 

15、大衆の労働歌「民謡」

 

私は将来を深く心に期して、白川軍八郎さんの一行と海を渡って東北巡業の旅にでました。 東北は北海道とともに民謡のさかんな所です。そしてまた数々の実にすぐれた民謡が残されているところです。


三橋さんはあこがれであり、師匠と仰ぐ、白川軍八郎さん一行と一緒に東北巡業の旅に出ます


 東北地方は日本全国の中、工業方面では一番おくれている地方です。しかし、みのり豊かな農作物、暖流と寒流の交錯からみられる夥しい種類の漁獲物では全国屈指の地方です。

 

 古来、東北地方の人々は山の多い不毛の土地にクワを入れ、荒波にちっぽけな舟をこぎ出し、天候や自然の猛威と闘いながら黙々と自分たちの生活をつくりあげていったのです。彼らにとって歌は生活の一部でした。

 

 心をこめて掘り返し水をいれた田に、何人かが一列になって苗を植えていきます。お互いのはげましと秋の稔りへの祈りをこめて彼らの歌う歌が広々とした田園をそよ風に送られて流れてゆきます。

 

  そしてー夕日をいっぱいにうけてイワシ舟が帰ってきます。子供たちも老人もみんな浜へ出て無事を喜び、明日もまた大漁になれと嬉しさを暮れゆく大空に向かって歌い上げてゆきます。こうして野の歌、海の歌、山の歌がうまれました。

みはしさんのお昼はきまったように納豆とめざしでした。
二條弘子「三橋美智也の遺言」
「先生は納豆が大好きで、お昼のメニューは納豆とメザシ、と判で押したようでした:」

 健康な大衆に間に生まれた民謡。それは自分たちが手を汚して働いた大衆の労働歌だったのです。日本の民謡こそ私たちの歌、誰にも命令されずに強制もされず私たちの祖先がつくり出した私たちの歌として、全世界に誇りうる唯一の歌なのです。今日私たちがきいている日本の民謡は何とたくましく、なんと大らかなのでしょう。
 私はこういったすぐれた民謡を育ててくれた東北の人々に限りない愛着をかんじました。いや、私たちが歩いていく道端の雑草にまでもいい知れぬ親近感にうたれました。

 

 私が一番最初にキングレコードに流行小唄として吹き込んだ「酒の苦さよ」の原曲はこういった東北の風土にうまれた民謡「新相馬ぶし」です。第二作の「瞼のふるさと」は南部牛方節」といずれも東北地方の民謡なのです。東北地方の民謡「斉太郎ぶし」は今でも私の重要なレパートリーの一つとなっています。

 

 

16、東京へ行こう

 

私たちは秋田県に入りました。私たちの興行は成功で、多くの方々が私の歌を聞くために集まってきました、これだけ多くの人々が……と考えたとき私は限りない幸福感に酔い痴れていました。

 

 しかし、ある言葉がいつも冷たく突刺すように胸にうずくまっていました。どうしても勉強がしたい。一人前の人間になりたい。私はいつしか一行の夜の宴を離れて一人星空に照らされた川辺を散歩することが多くなっていました。

 

 私は一生を歌に賭けました。歌は好きで好きでしかたがありませんでした。しかし、昔ながらの芸人気質、場当たり主義で軽薄で無責任で、勉強よりも何よりも快楽を追うといった芸人気質だけはそまりたくなかったのです。

 

 もっと別の世界に、一個の平凡で、そして誠実な人間でありたかったのです。しかし、いくら自分がおちこむまいと思っても巧妙にしかけられたワナにはどうするすべもありません。私は大学を出てまじめな勤め人になりたいと真剣に考えるようになっていました。もちろん歌を捨てるというのではありません。歌は自分の趣味として保持しておきたかったのです。

三橋さんは、芸人としての悪い面に疑問を感じ、勉強して人間として成長したいという強い思いがあったのだと思います。芸人の不安定な生活から、堅気の勤め人の生活を望んだと思います。

 秋田県の横手の近くに巡業したときのことです。いよいよ決心は固くなってきました。その時、ちょうどわたしは巡業前の短い時間をつぶそうといなかの汚い映画館に入っていました。

 

 映画の題名は忘れてしまいましたが、そのあるシーンは今でも実に鮮明に心にやきつけられています。そのシーンは、東京の、私たちとは別の世界の生活でした。私はくいいるようにスクリーンをみつめていました。東京には私の夢と希望をかなえてくれる生活がある。草深い田舎にひっこんでいたのでは一生かかっても味わえない生活がある。

 

私が自由にかけまわる余地が東京にはありそうに思えました。「よし、東京に行こう」。私の腹は決まりました。こうしてこの映画は、私の人生に実に大きな転機をつくってくれたのです。

三橋さんがおぼえていないのですから、私がわかるわけがないのですが、昭和22年には黒沢明の「素晴らしき日曜日」が公開されています。

 

17、ドロンの巻

 

その翌日、白川さんが偶然にこういわれました。
「君なんか才能があるんだからいつまでも田舎廻りをしていたんじゃだめだ。東京がいい。やはり東京だ。君なんか東京へでたら民謡を教えていれば生活できるんだ。生活ができるようになったら上の学校にでも行けばよい。でも、私にみたいに年よりになったらもうだめだ。行くなら若いうちだ」

 

白川さんは何気なく私のそういったのでしょう。私が東京へいこうという強い決心を固めたともしらないで。この白川さんの言葉は私の決心に、さらに油を注ぐ結果になりました。

白川軍八郎
(明治42年 1月23日〜昭和37年 5月18日 (1962年)
青森県 北津軽郡金木町(五所川原市)に生まれる
4歳の時に失明し、大正3年9歳で津軽三味線の始祖とされる仁太坊に弟子入り。瞬く間に師を凌ぐほどの腕前となり、太田長作の長泥手、梅田豊月の梅田手を独学で身につけて、15歳にして軍八郎手を生み出した。それまで唄い手に隷属する存在であった津軽三味線を、抜群の演奏により曲弾きとして確立、唄と同格にまで引き上げた功労者で、“津軽三味線の神様”と呼ばれる。津軽三味線の特徴の一つ、叩き三味線の創始者である。

 東京へ行きたい。しかし、当時は簡単に東京へ行けるわけではありません。どこに行くにも移動証明というものが必要だったのです。これ一枚がないと米の配給も、何もかも受けられなかったのです。これなしで東京で生活できるというのは、よほどの金持ちに限られていたのです。

 

さて、移動証明を貰う段になって困りました。まさか東京に出るからとも言えません。それで、貯金を下ろすに必要だからと、嘘をついて移動証明を一行の事務をしていた人からもらいました。そして、その夜荷物をもって駅にむかいました。東京までの切符を買いますと、あとは財布に500円しか残っていません。東京に出てどうしょう、果たして食べていけるか、などという不安よりも、東京へ出られるという希望で一杯でした。


1950年(昭和25年物価)
大卒初任給(公務員)4.223円 高卒初任給(公務員)--------円
牛乳:12円 かけそば:15円 ラーメン:20円 喫茶店(コーヒー):25円
銭湯:10円 週刊誌:15円 新聞購読料:70円 ※朝刊のみ 映画館:80円

汽車はとても混んでいました。東北の米どころから米を仕入れて東京で高く売りつける、いわゆるかつぎ屋がデッキの所にもあふれていました。私は最後の車のデッキに立って月の光に冷く光るレールをじっととみつめていました。

 

一瞬一瞬と私のふるさとは遠くなっていきます。いつの日か、このレールの上を逆に走って故郷へ帰れる日がくるだろうか。たとえどんな職業であれ、ひとかどの人間にはならなければ家へは帰るまい。そう思うとなにかしら感傷的な気持ちになり、ひとりでに涙が目に浮かんでくるのをどうするとこもできませんでした。汽車は私のそういった気持ちにはかかわりなく、無情に走り続けていました。

 

 

18、エノケン、ロッパの門も叩く

 

人の声にうつらうつらしていた私もやっと眼がさめました。窓からみる東京は、十二歳のときにみた東京とは大方ちがっているようです。記憶がうすらいだせいもありましょうが、十二歳の時コロムビア・レコードに吹き込みに来た時の東京よりは大分よごれてごみごみしているような感じをうけました。

 

 戦災で焼野と化した所にも、急造のバラックが立ち並び、装飾も大分ケバケバしいのですがなにかうつろなものを感じました。朝早く汽車は上野につき、私は七年ぶりで再び東京の土を踏みました。忘れもしません。昭和25年5月のくっきりと晴れた日のことでした。

 

 その時の私のかっこうときたら東京の人がみたら、さぞ珍妙なものだったろうと思います。くたびれた背広に、身の回りのものをつめたリュックと太ザオの三味線を持っていました。東京について、最悪の場合は、「流し」でもして食いつなごうと思って三味線を持ってきたのです。

 

 米のかつぎ屋のいっぱい乗っている汽車からいかにもお上りさん然としたわたしが降りて来たので、てっきりかつぎ屋の一人と思われたのでしょう。「シャリか、シャリか」としきりに闇屋みたいな風態の男が近寄ってきます。

 

「いや、おれはちがうんだ」逃げるように駅をでました。雲一つない東京の5月の空に向かって私は少しでも多くの東京の空気を吸うように深呼吸しました。

 

 しかし、私は着いたその日から仕事をみつけなければ生きていけません。早々リュックと三味線を一時預け所にあずけて、仕事をさがしに飛び歩きました。吉本興行、エノケンさんやロッパさんの門を叩きました。しかし、どこでも剣もホロロに断られたのです。先方にしてみれば、またお上りさんが一人来たよ、ぐらいにしか思っていなかったでしょう。


吉本興行の東京吉本は、一部の劇場を映画館に転身させながらも、浅草花月劇場を中心に、演芸にも積極的に取り組んだ。しかし演目は、戦前のモダン・ハイカラ路線は影を潜め、浅草公園六区の他の劇場と同様、ストリップや女剣劇を中心とし、その合間にコントを入れるといったものになっていった。この当時浅草花月に出演していたのは、清水金一、トニー谷、由利徹、海野かつを、ショパン猪狩(後の東京コミックショウ)などである。

エノケン・ロッパ (榎本健一。古川ロッパ)
松竹のエノケン、東宝のロッパとして人気を博し、エノケンは浅草松竹座で、下町のエノケン。ロッパは松竹から東宝に移籍し、インテリ層をターゲットとしてモダンな喜劇を有楽座で旗揚げして丸の内のロッパといわれた。最盛期は犬猿の仲ともいわれた。芸風は異なる。「動きが激しく、軽業もこなす肉体派のエノケンと徳川無声の声帯模写で人気をとり「口千両」といわれたロッパだった。ともに軽演劇で活躍し、コメデイアンであり、映画俳優であり、歌手でもあった。ロッパの弟子筋に森繁久彌がいる。

 


二條弘子「三橋美智也の遺言」
「当時、芸能界ではエノケン(榎本健一)さんとロッパ(古川ロッパ)さんが全盛だったから、お二人のうちどちらかに弟子入りすれば道がひらけるのではないか、と漠然と考えたんだね。弟子入りできなくても、自分のノドと三味線を買ってもらえば、どこかに紹介してもらえるんじゃないか、という甘い計算もあったような気がする」

 

19、空財布に背水の陣

 

19歳の私はすっかり途方にくれてしまいました。万策つきてコロムビア・レコードを訪ねました。12歳の時に吹き込ましてもらったといっても、19歳の田舎出の青年にコロムビアが用があるはずはありません。仕方なく私は当時全国的に有名だった民謡の大家、菊池淡水先生の住所を教えてもらいました。

 

 菊池先生にあって、なにか当座の仕事の紹介をおねがいしようと思ったからです。菊池先生のお宅は「鎌倉市山ノ内」と聞きました。しかし、東京についたばかりの私は、鎌倉は横須賀線にのればいい、と教えてもらっても、山ノ内が鎌倉の一つ手前、北鎌倉でおりなければならないことまでわかる筈がありません。鎌倉市山ノ内なら鎌倉駅でよかろうと思ったのです。
 鎌倉駅で聞きますとバスにのらなければならないといいます。財布の中はすっかりさびしくなっていましたが仕方なくバスで北鎌倉まで行きました。

 

さて、北鎌倉の駅に着いた私は、番地を聞くのを忘れていたのに気がつきました。
 私は仕方なく一軒づつ菊池という門標をさがして歩きました。門標のない家は一々、戸を叩いて歩きました。何十軒歩いたことでしょう。やっと菊池という門標をみつけました。ほっとして私はいっぺんに足の疲れを感じ始めました。でも勇気を奮い起こして戸をたたきますと、なんと菊池違いなのです。そのお家で菊池淡水先生のお宅をうかがってもしらないというのです。

 

 私はすっかり気を落としてしまいました。もし菊池先生のお宅がみつからなかったらどうしよう。家へはもちろんかえれないし……。私はまた疲れた足をひきずって一軒一軒、菊池先生のお宅を探して歩きました。やっと郵便局をみつけたわたしは、そこで菊池先生のお宅を教わりました。

 

そのときの喜び、やっと東京でなんとかなりそうだという喜びに私は走るようにして菊池先生のお宅に向かいました。先生のお宅には奥さんとお嬢さんだけで、先生は小梅さんといっしょにお仕事で九州に行っておられるとのこと。私はまさか秋田からドロンをきめこんできたとはいえません。奥さんに問われるままに、北海道で幼い頃から民謡を歌っていたこと、今までの経歴、そして東京で勉強したくて北海道から出てきたこと、何分東京には知人とてなく、先生にはご迷惑でしょうが先生よりほかに頼る方がないことなどをせきこんでお話しました。

 

奥さんはそういうわたしに大変同情されて、翌日の朝先生が帰るからそのときまたきてみてほしいというということでした。まさか、その夜、みずしらずのお宅にご厄介になることもできません。私は奥さんに教えられて近くの本当に安い木賃宿に泊まりました。もう、私の財布はほとんど空になっていました。

菊池淡水
?1950年 日本民謡協会を設立・育成し民謡発展の基礎を作り上げた。
?日本で民謡を初めて五線譜で表し出版した。
?大倉喜七郎の肝煎りで考案されたオークラウロ(尺八とフルートを掛け合わせた楽器)の奏者としてNHK交響楽団などとも共演した。
エピソードとして初め横手市の板金屋を営んでいる叔父の家に弟子入りしたが、仕事がいやで16歳の時奉公先から逃げて上京し、後藤桃水に師事しています。淡水さんは実は家出の先輩であったのです。 
(引用おわり)

 

20.最初の職業

 

翌日、私は三時半おきて先生のお宅をたずねました。もう初夏の空はうっすらと白みはじめていました。先生はちょうどお宅について寝たところでしたが、おきて私の歌をテストしてくださいました。私はこれが私の人生の岐れ路だったと思って一心に歌いました。
じっと目をつぶって私の歌に聞き入っていた先生はこれなら大丈夫だろうと、いってくださいました。

 

「しかし、君も大変な冒険をして東京に来たものだね。東京はね。つめたいところだよ。歌だけで生活できると考えてきたのは少し甘かったんじゃないかな。君も、まずほかに一定の収入の当てのある職業を探すことだ。それから出発することだ。一体、君は歌一本で行こうと思っているのかね。それともなんか地道な仕事につきたいのかね。
「先生、私はカタギの仕事をしたいんです。」

 

 当時、私は末路がみじめな芸人を既にいやというほど知っていました。芸界のいやなしきたりも身に沁みて知っていました。それで、出来るなら、学校をでてサラリーマンとして、堅実でまじめな生活を送ろうと考えていたのです。

 

先生は、早速、横浜の雪見橋にある雪見湯(今は焼けてなくなりましたが)に紹介してくださいました。このお風呂をやっていた門勝二さんは大変に民謡が好きな方で、民謡を通じて菊池先生とはじっこんの方だったのです。ここでわたしが東京に出ていてからの最初の職業が始まったのです。

 

お風呂屋の手伝いをしながら一方、夜は集まってくる近くの民謡好きの方々のために民謡を教えていました。まあ、民謡温泉とでもいうべきところだったのです。私は大変まじめに働きました。やはり此処に民謡を教わりにきた方はおとしよりの方が多かったように記憶しております。門勝二さんにはいろいろお世話になり今でも感謝しております。

 

此処での私のお弟子さん中に、亀谷うめという方がいました。私が大変まじめに働いているのが感心だというので、綱島温泉の東京園という民謡温泉でまじめな青年をほしがっているから行ってみないかというお話です。亀谷さんは私のために、わざわざ東京園にいってその支配人をしていた北沢とし子、つまり現在の私の養母に話をしてくださいました。

 

こうして私は東京についた翌月から、東京園で住み込みで働くことになったのです。
今考えてみると私は運がよかったのです。本当にラッキーだったのです。右も左も分からずに、ただ学校に行って勉強したいという一心から夢中で東京に出た私は、菊池先生から門さん、亀谷さんとリレーされて北沢の母のいる東京園に入ることができたのです。これらの方々のご厚意があればこそ、今日の三橋美智也ができたのです。これらの方々の暖かい御厚意は一生わすれられません。

 

人間の一生には「運」というものが非常な力で影響するものです。私の一生もそうでした。この「運」が私につていいなかったら、私は今ごろどうしていたでしょうか。

 

 

 

21 ボイラーマンの民謡先生

 

東京園ではあらゆる仕事をしました。ボイラー・マン、喫茶部のボーイ、チケット売り場、そしてふき掃除から庭掃除、さては便所掃除までいや顔はせず、人のやるものはなんでもしたのです。こういった仕事を、私は持ち前の負けん気からやってのけたのです。朝だって絶対に起こされたことがありませんでした。ともすれば崩れそうな私はいつも、澄子さんのお母さんに言われた言葉を思い出しては何クソとばかりにまた仕事にぶつかっていったのです。

 

 ボイラーたきは辛い仕事です。当時はまだカマが今のようによくならないころで、満タンのするのには大変な時間がかかったのです。9時に風呂をはじめるのには、冬などそのために三時半にはおきなければなりませんでした。

 

 北風のピューピュー吹く寒い日でも、私はじっと歯をくいしばって三時半には誰にもだれにも起こされず床をはなれました。遅番のときには寝るのが11時半過ぎになりました。しかし、ボイラーたきを私は三年ばかりつづけました。体の弱かった私も精神がはりつめていればなんでも出来ることを、この三年間のボイラーマン生活から学びとりました。

 

 体も太り筋肉もついてきました。体が小さいからと思っておられる方はいつもびっくりなさるのが私の腕の力です。私は右のオヤユビとヒトサシユビでビールのセンを簡単に二つに折ってしまう特技をもっています。今年私といっしょに北海道に行った大津美子さんや西村つたえ江さんは「今日は三橋さんはいくつつぶすかしら」と記録をとっていたほどです。何日ステージがつづけても倒れない体は、ここの仕事によって作り上げられたものと言えるでしょう。

二條弘子「三橋美智也の遺言」
「力仕事が多かったから、自分でも驚くほど筋肉がついちゃってさ、右手と人差し指でビールの線を真っ二つに折れるようになっちゃったくらいだ。弱かった体もどんどん元気になったなっていったから、人間、精神力がいかに大切か、思い知ったね。ただいつまでたってもなれることのできない仕事もあったよ。浴室の洗い場をきれいに掃除する仕事さ、人間のアカというのはすごいもんで、ニュルニュルした油汚れがちょことやそっとじゃおちやしない、当時は機械なんかなくて全部手作業だと、しまいには気持ちが悪くなっちゃうんだ」

ここはもともと民謡温泉だったので、北沢の母は私に弟子をとることをすすめました。この大広間で毎晩私は民謡を教えることになりました。忽ち私の声を聞いて50人ばかりの近在の方が、弟子入りしてくれました。お弟子さんの月謝が300円だったので、私は月に一万5千円はいります。よしこれで念願の学校へいけるぞ、と私は大きな希望に胸をふくらませました。こうなると一日一日がたのしくなるものです。

 

私はこの年の11月に横浜外語に入学しました。そこで「ジス、イズ・ア・ペン」からまた勉強がはじまりました。
 5年感中断していた勉強が再開されたのです。しかし、今度は私は必死でした。小学校や高等小学校時代の勉強嫌いな腕白小僧は、今度模範生になったのです。早く学校をでてサラリーマンになりたい。その夢を追って、私は夜学から帰ってから明け方近くまで机にむかうことも少なくありませんでした。

 

ボイラー焚きは、冬場は早朝3時30分からですからほとんど寝る間はなかったと思います。禅寺では、禅僧がおきるのが3時に起きています。修行生活と同じ時間割です。

 

22、新しい父母

 

民謡の先生でなんとか生活ができたというものの、東京園のボイラーマンの給料は四千円というみじめなものでした。この中から食費として1500円をひかれますと、てもとに入るのはひと月でわずかに2500円です。これでどうして生活しろというのでしょう。

大卒初任給(公務員)5.500円 高卒初任給(公務員)3.850円
牛乳:12円 かけそば:15円 ラーメン:25円 喫茶店(コーヒー):30円
銭湯:12円 週刊誌:25円 映画館:100円
新聞購読料:280円 ※11月より朝夕刊セット開始 ※8月まで朝刊のみ配達 100円  9月値上げ 130円

 東京園でつとめ出した年の12月に、私は小型四輪と三輪車の運転免許をとったのです。これは東京園の社長(北沢の母のオイですからいまでは私のイトコにあたるのですが)が冷たい人なのでいつクビになってもいいようにと、北沢の母と相談してこっそりとうけたのです。当時進駐軍のジープの運転手でも、二三万はとれたので、もし首にでもなったらそれをしながら学校に通おうと思っていたのです。

英語をならっていたのは、進駐軍の仕事をしようというつもりもあったかもしれません。英語は勉強にも役に立ちますが、進駐軍が幅を利かせる時代には、英語は有能な武器だったと思います。三橋さんはおどろくべき勉強家です


 やがて、私の民謡教授もどうやら軌道に乗り、近くに出張稽古場をもつようになりました。この方も大勢のお弟子さんが来るようになりました。私のその頃の最初のお弟子さんの一人に、今コロムビア・レコードで活躍している平野繁松くんがいます。

 

 平野君が最初に私のところの来た頃は、今と違ってわたしのようにやせて小さかったのです。歌わせてみると声は張りがあって大変いいですが、節回しがまことになっていないんです。しかし、私はこの人はいい素質をもっているから、仕込めばモノになるだろうと思い、私の身許においてなにくれとなく特別に手ほどきをするようになりました。

 

 この東京園の生活で、私が終生忘れることができない方がふたりあります。一人は当時「おばあちゃん」と私が呼んでいた方。北沢の母のお姉さんで、東京園の社長の母に当たる方です。この方は私を大変可愛がって下さって、着るものなど惜しみなく買ってくださいました。私が世に出るまで物質的面でのお世話をかけ通しでした。

 

 もう一人は、当時、私が「おばさん」と呼んでいた北沢の母、つまり今の私の母なのです。母は物質面でこそ私に援助はできませでしたが、かげになり日向になって私をかばい、常に私をはげましてくれました。この二人の物質面、精神面の援助があればこそ今日の私がうまれたのです。この二人の御恩は終生わすれられません。私の成功を真っ先によろこんでくれるのはいつもこの二人なのです。

 

 北沢のおじさん、おばさんには子供がありませんでした。私の向学心とまじめに働いていることに好感をもっていた北沢のおばさんは、一年後には私をひきとって養子として自分たちの手元から学校にかよわせてくれることになりました。戸籍面で私それからは北沢の性を名のる事になりました。

三橋さんは北沢家の養子なります。昭和48年北澤としさん死去にともない、戸籍を三橋に戻す

 

23 「おとっつあん」高校生

 

私は27年4月、明治大学附属中野高校に入学しました。どうしても高等小学校卒業だけの学力では終わりたくなかったからです。私は大学を卒業して立派なサラリーマンになりたかったのです。21歳の春でした。

 

 入学式を終え、クラスが編成されましたが何と前をみても後ろをふりかえっても、クラス・メートは15歳か16歳の少年たちばかりです。小学校から、中学、それから高校へと順調なコースをたどってくればその年齢であるに不思議はありません。私だけが彼らより五つか六つ年上だったのです。入学したばかりの時は先生と間違えられたことも少なくありませんでした。

 

 21歳の高校生として私は、まだあどけなさの残っているクラス・メートと同じようにツメエリの制服に学校の制帽をかぶって登校しました。忽ち、私は「おとっつあん」という二ックネームがつけられました。

 

クラス・メートにしてみればもう20歳でヒゲズラのわたしには当然つけてしかるべきニックネ−ムだったのでしょう。しかし、私はこの六つも年下の友達の間に入っているうちにすっかり気が若くなっていました。自分自身の気持ちの変化に私はびっくりしてしまいました。

二條弘子「三橋美智也の遺言」
「温泉の方でもバックアップ体制を敷いてくれました。当初周囲からは夜間高校への通学を進められたそうです。たしかに苦学生のお決まりのコースでしたが、先生はそれではだめだと考えました。
『ただでさえみんなよりも5年も遅れていたんだよ。定時制は四年間だから、さらにまた一年遅れることになるじゃないか。僕は大学に進学するつもりでいたから、その一年がもったいないと思ったんだ。それにきつい仕事をしながらの通学にはやはりむりがある。学校を最優先した生活をおくりたかったんだ』このあたりが一本筋がとおったところです。」引用終わり

 念願の高校に入れた喜びもつかの間、私は解決すべき問題が生じました。朝早く起きて学校へ出かけます。授業がおわればすぐに綱島まで帰って、カマたきの仕事をしなければなりません。入学当時はこの離れ業をどうにかやりこなしていたのですが、いつまでも続けていたのでは身体を壊してしまいます。わたしは二つのうちどちらか一つを選択しなければならない立場に追い込まれました。

 

もちろん私は学校をえらびました。幸いにしてこのころには民謡歌手としての私の名も相当しられるようになり民謡のお弟子さんたちの月謝で、どうにかたべて学校へいくくらいの収入のメドがつくようになっていました。私はこうして東京園をやめて、綱島に下宿をみつけました。そして昼は学校、夜は民謡の先生という生活が始まったのです

 

24 新たな希望

 

私が綱島の東京園でボイラーマンの仕事にありついて昭和25年、当時の読売ホールで日本民謡協会の発会式がありました。全国各地から有名な民謡歌手、研究家があつまり、雨のドシャ降りの日にもかかわらず大変な盛況でした。この日、私は浅黄の着物を着て、三味線をひきながら「相馬盆歌」を歌いました。自分で自信もてる出来栄えでした。これが東京での私のデビューだったのです。
 民謡の諸先輩に交じってはじめて東京のステージを踏んだ私の姿をまだご記憶の方もいらっしゃることでしょう。


東京での初舞台
昭和25年。読売ホールの日本民謡協会の発表会で三味線を弾きながら「相馬盆歌」を歌う。

一年生のときの私はきわめて出席日数が良好の部類でした。毎日、毎日が新たな希望の日として訪れてきました。私はクラス・メートの少年たちとともによく勉強し、そして適当によくサボり、よく遊びました。
夏のクラス活動での旅行などは、若き日の楽しかった思い出として、数々のアルバム写真とともに永久に私の胸に残ることでしょう。

 

一年生の秋ごろから、私はNHK「民謡を訪ねて」という番組に出演するようになりました。また二年生からはラジオ東京で町田嘉章さんが解説をなさっている「民謡お国自慢」にもでるようになりました。こうしてすこしずつ私の努力は実っていきました。私の声がラジオに出る日、私は新聞の朝刊のラジオ欄をみるのが楽しみでした。私の名が新聞にでているのです。何百万という人々が私の名を知ってくれる。まだ東京に出てきて間もない私の喜びがどんなものだったか皆さんはご想像できることと思います。

*民謡をたずねて(みんようをたずねて)は、民謡の公開演奏番組である。1952年1月9日放送開始
民謡お国自慢 ラジオ東京*

私の弟子で親友である平野繁松君をすすめてNHKの素人のど自慢コンクールに出させたのも昭和27年のことです。このとき私が三味線を引いたのですが、神奈川大会で鐘がわずかにふたつ、全部歌い終わらないうちに残念ながら平野くんは失格してしまいました。しかし、平野くんのすぐれた素質を信じていた私は、がっかして元気のない彼をはげまして翌28年も出場させました。このときは健闘空しく関東甲信越大会の第一位に止まりましたが、昭和29年にはついに全国大会民謡の部で見事第一位を獲得取ることができました。

 

私たちはの努力がやっと実を結んだのです。私は平野くんと抱き合って喜びました。
全国大会の入賞者は、その日の夜の放送であらためてそののどを披露することになっています。
平野君も意気揚々と私の三味線にのってうたいまくりました。司会の宮田輝さんが平野君とのインタビューのときに「この伴奏でうたっただから一位も当然ですね」といってくれました。このころ私はちょうど二年生のときでした。クラスの全員は自分のことのように喜んでくれました。


素人ののど自慢の伴奏をする、三橋さんの三味線はプロのものですから、宮田輝さんに褒められるのもむりがありませんでした。
この当時は三橋さんは歌の伴奏だけで、歌は歌ってしませんでした。

二年生ごろから私はステージや放送のために時々学校を休むようになりました。このころからは、私の高校時代の第一親友で三年間私の隣の机にすわっていた松尾秀一君が、代返や宿題を一手にひきうけてくれました。試験がちかづくころともなれば、夜おそくまで、私は彼の家で、彼のノートをいじくりまわしていたことも少なくありませんでした。

 

高校は単元制なので、卒業に必要な単元をとるにはどうしても出席日数をかせがねがなりません。ステージや放送で私が学校に来られない日には、松尾君が代返を見事にやってくれました。彼はその方には天才的な才能があったらしいのです。私は彼に任せて安心して学校休むことができました。


三橋さんはこのころ、地方巡業のステージやラジオ放送のために相当忙しかったものと思われます。それと学業を両立させたのですから、本人の努力はいうにおよばず、高校生の年下の友たちの友情は熱いものだったにちがいありません

 

 

25、アルバイト歌手

 

クラスの担任は才木先生でした。いま32歳のかたですが、芝で生まれ芝で育ったというチャキチャキの江戸っ子なのです。「火事と喧嘩は江戸の華」とかで、先生も大変短気でしたが、一方非常な情熱家でした。高校の三年間を通じて大変にいろいろな面でお世話をうけた先生です。

 

二年生のとき、はじめて学校の催しのときに歌いました。「常盤炭坑節」「真室川音頭」「草刈唄」「相馬盆歌」といずれも東北民謡を四曲並べ、最後に津軽三味線の曲弾きでしめくくりとしました。

 

先生方はみんな私にこんなことができるのかといったような顔をしておどろいていらっしゃいました。私はあくまで学生として勉強にいそしむために学校に入ったのです。ステージやラジオは勉強を続けるための手段にすぎません。ですから、先生方には、私が民謡歌手であることなど一言もしゃべったことはありません。私はみんなと同じ学生でいたかったのです。でも、クラスの友達はみんな知っていて、よく聞いてくれていたのですが………

 

 私が民謡歌手であることを知った先生方は、二年生のとき、生まれてはじめて出来た「三橋美智也後援会」のために名を連ねてくださいました。教頭の大亦先生、理科の東海林先生、英語の田島先生、体育の名和先生、そして担任で社会の才木先生の五人です。

それまでは金谷美智也後援会でしたから、三橋美智也後援会が初めてできたことになります


人文地理の石塚先生も私が大変お世話になった方です。
先生は民謡に深い興味をもっておられて、私の民謡について忌憚のない忠告や激励を与えて下さり、また、先生が収録していためずらしい民謡を聞かせて下さったり、いろいろ指導していただきました。

 

 先生には人文地理の調査として。クラス全員が江ノ島へつれていって頂いたことがあります。たしか三月のものすごく雪の降った次の日だと覚えています。そのとき先生は大体次のような話を聞かせてくださいました。

 

地理学上から言って映画には嘘が多すぎる。たとえば「青い山脈」だ。ラスト近くに水泳のシーンがある。そこは岩石海岸だ。次にケンカのシーンは大砂丘。日本中どこをさがして岩石海岸と大砂丘のがくっついているところはない。また、これはある東北地方の小都市での物語りだが、ラストの自転車行進のシーンにはランの花がでてくる。ランの花は東北地方ではみられない花なのだ。

 

 私はこの話を大変に興味深く聞いていました。今年、私のはじめての映画「あの娘が泣いている波止場」の撮影の打ち合わせで、スタッフの人々にあったとき、石坂先生の話をうけうりしたしたことろ、「三橋君はずい分地理学にくわしいですね」とびっくりしていました。

 

嘘が多すぎるといっても劇映画とドキュメンタリーは違うわけです。もちろん劇映画であっても、あまり荒唐無稽なことをすれば、リアル感が出ないので、よい映画とはいえません。しかし、ある程度はゆるされるわけで、嘘であるといってしまうと間違います。スタッフの方が三橋さんの話に感心したのは、三橋さんの話し方がうまかったのだとと思います。

26 新時代の民謡運動

 

さて、三年生のとき、それまでの日本民謡協会のコットウ趣味的な行き方に不満を感じていた私は、角田正孝、中沢銀二、平野繁松君らとともに「日本民謡青年新志会」を創りました。日本民謡はわれわれ大衆の歌なのです。民謡は大衆の中から生れ、大衆とともに歩んできました。ですから日本の民謡は日本の現在の大衆とともにあるべきです。それなのに歌い方の枝葉末節にばかりこだわって、大衆が自由に歌い続けてきた民謡をひとつのワクにはめこもうとする行き方にはどうしてもついていけません。

 

現代の大衆がみんなで歌えるように新しい感覚を民謡に取り込もうとしてこの会をつくったのです。私は忘れられかけた民謡のよさを一人でも多くの人に再認識してほしかったのです。それには現在の時代感覚にマッチしてものが必要になってきます。その研究をわれわれ若いものたちでやってみようと思い立ったのです。第一回の発表会はこの年、伊勢丹ホールで開きましたが盛況で、私たちの運動はさらに自信を深めました。月に一度合評会は私に家でやりました。ただ口うつしで民謡を覚えるだけではいけないと、みんなで楽譜の勉強をはじめました。

三橋さんを助けてくれた菊池淡水さんは民謡をはじめて五線譜にした人です。
淡水さんは尺八奏者でした。そのころまだ、邦楽は口写しや口三味線で表現していて、五線譜は少なかったのではないでしょうか。洋楽といしょに演奏するためや、邦楽がわからない人たちにまで運動を広めるためには楽譜であらわす必要がありました。

 そのころの失敗談を一つ。当時の私はまだ歯並びが悪く、矯正しようと思っていました。NHKの「民謡をたずねて」で、私が歌ったときのことです。歯のスキマから息がスースー漏れるのをふせぐために、私はチューインガムを歯並び悪くて出来たすき間につめておきました。

 

 最初の曲は私の十八番「江差追分」です。ハリのある高音がでてこれはいけると思った途端、チューインガムがおっこちでノドにつかえて、ついに前歌のさわりの所でゴクリとやってしまいました。

 

大変な失敗です。私は次の「木曽節」「白頭山節」を歌うと早々にして家に帰って寝てしまいました。ふとんとかぶると本当に悲しくて涙がとめどもなく流れてきます。なんという失敗だろうと思うと、人生のとりかえしのつかない失敗にさえおもえてきたのです。

 

 気を取り直そうと努力していた翌日、道であった近所のおばさんに「みっちゃんあんたの長唄、中々みごとだったね」といわれて私はまた悲嘆のどん底につきおとされてしまいました。
とうとう私は熱をだして一ヶ月もねてしまうハメになったのですが、クラスでは、「あののんきものの、おとっつあんが熱を出したんんだから、よっほどショックだったんだろうな」と噂し合っていたそうです。

 

27ふるさとの便り

 

 そんなとき私の心の慰めとなったのは、ひさしぶりに届いた北海道の母(私の生母)からの便りでした。そこには、私の追分をラジオで聞いたが大変良かった、と書いてありました。今まで、私が自分でどんなによく歌えたと思っても一回もほめた言葉を送ってきたことのない母です。それなのに、私が悲観しているだろうと思って、手紙などほとんどくれたことのない母がわざわざほめてくれたのです。この手紙は何物にも代え難い私へのプレゼントでした。

 

 遠く離れた北海道で母はいまごろ何をしているだろう。矢も盾もたまらず母に会いたくなりました。六年間もあっていない母、もう白いものが髪にちらほらみえる年頃なのに、まだ弟妹の世話に一日をすごしているであろう母。東京へ出た私の成功を毎日神に祈っていると友人が教えてくれた母、私の将来を考えて幼い頃から民謡を仕込んでくれた母―何一つこれといった親孝行もしてやれなかった母の思い出をふとんの中で、私はしきりに追い求めていました。

 

 母のおもかげはいつしか幼い頃の友達、そして私を育ててくれたふるさとの北海道の四季の移り変わりにオーバーラップされてゆきます。私はいつしか北海道の大原始林の真っ只中に立っていました。そして「江差追分」を歌っているのです。前歌、本歌のサワリを実に堂々と歌っているではありませんか。とだれかが私を呼んでいるようなのです。こんなところに人が来るはずもないがと不思議に思ってあたりを見回しても人の気配もありません。

 

 私はつづいて後歌を歌いはじめます。ところがどうしたことでしょうか、いつもつまずいたことのない後歌のサワリで音をはずしてしまいました。と、げんこつがいやというほど私の頭をうちました。みると母がそこにたっています。―目をさました私は、今のは夢だったのがと始めて知りました。
 もう夜でした。灯りをつけて幾分気が落ち着いた私は久しぶりで故郷の母への長い手紙をかきました。いつの日か、再び故郷へ行ける日まで会えない母に私の心のありったけをこめて……。

三橋さんはお母さんから、間違うと拳骨をうけながら民謡を習っていたことになりますが、いまでは感謝となっています。

そのころ私は、青年新志会のことについてキング・レコードの音楽課長の掛川さんといろいろお話をしたことが機縁となって、流行小唄の吹き込みのときに三味線をかかえてキング・レコードのスタジオに現れるようになっていました。学校の授業を午前中だけ出席して、すぐその足で音羽のスタジオに向かい、ツメエリの学生服のまま三味線伴奏をするという日が多くなりました。私はこのころも三味線で一生くらそうと思ったことはなく、あくまでも私のアルバイトとして割切っていました。実直なサラリーマンになることが念願だったのです。

 

 幸運というものは思いがけないときのやってくるものです。こちらが扉を開いて待っていても、それはしばしば扉の前を素通りしていきます。こちらが扉を閉じていて待っていても、小さな隙間をみつけて知らず知らずの中に飛び込びくることがあります。しかし、その場合でも、幸運が訪れてくれたと感じるのは、大分後になってからのことではないでしょうか。「幸運」の正解とはそんな風にして中々つかみ難いものです。私の場合でもそんな風なものでした。

 

 

流行小唄 は定義があいまいです。 現在民謡や淡谷のり子「夜の東京」のような歌謡曲といわれるものも含まれています。
三橋さんは「瞼のふるさと」「宇目の唄げんか」「ねんねこしゃっしゃりませ」「かっぱ踊り」と流行小唄を次々ふきこんだといっています。

 

 

28、開かれた幸運の扉

 

それは、昭和28年の夏のある暑い日のことでした。私はいつものように、午後から学校を休んでキングレコードのスタジオで三味線の糸を合わせておりました。
ちょうど、そのとき半開きのスタジオの扉から幸運が気まぐれにも私に近づいて来たのでしょう。

 

 その日、民謡歌手の方が「江差追分」を吹き込まれることになっていたのです。あまりの暑さのためにその方は声の調子が狂っていたようでした。テストを重ねれば重ねるほど音がはずれてゆくのです。もちろん私は三味線ひきとして頼まれたのですから、余計な口を出すべきではなかったのでしょう。でも、その方がお気の毒になり「ここのところは、こう歌ったら音がちゃんととれるんじゃないですか」と江差追分の離行している一節を歌ってみました。

 

 「江差追分」は子供のころから歌っていた私の故郷の歌です。ですから幾分でもお手伝いが出来るだろうと思ったのです。ところが歌い終わるか終わらないうちに、この吹き込みに立ちあっていた掛川さんが飛び込んでこられて
「三橋君、あとで話があるんだ」というのです。

 

 掛川さんは吹き込みの伴奏を終えた私に
「君、いいじゃないか、絶対いけるよ。もう一度うたってくれないか」といいます
私は「江差追分」を今度はじっくりと前歌、本歌、後歌と全部歌ってきかせました。
じっと聞いていた掛川さんは
「うん。たいしたもんだ。新民謡をやってみないか」といいます。

 

 こうして私はキングレコードと専属契約をむすぶことになりました。北沢の父母は大変よろこんでくれました。
「辛かったろうけど、やっと努力が実りそうだね」といわれたとき
「いや、私は歌手で立とうとは思っていません。アルバイトですよ」とはっきり云ったことを今でも覚えています。


キングに入るときのエピソードは有名ですが、三橋さんはもう一つの異なった話を書いています。それは、歌ひとすじの中の「懐かしき人々」という文章の中にあります。「懐かしき人々」の中では、民謡歌手が弟子の平野繁松さんになっています。「昭和29年に念願かなってNHKの全国ノド自慢大会に関東甲信越大会の民謡の部で優勝して、平野君はさっそくキングで吹き込むことになり、私も伴奏としてついて行きました。吹き込みの当日平野君は風邪気味でどうも調子が悪く、うまく唄えないので、私が代わりに唄って手本をみせたところキングの方々に認められてこれが私のキング入社のきっかけとなったわけです。」
なぜ二つの話があるのかわかりませんが、二つあることは事実です。

 

それまでは三橋さんは歌の伴奏ばかりだったので、キングの掛川デレクターも三橋さんの声には気が付かなかったというのは事実だったと思います。
それだけ、三橋さんの三味線の実力があったというべきだと思います。
29 コチコチになって吹き込み

 

 掛川さんは、私が民謡協会にいた頃から私の歌を聞いて下さった方だし、私たちの新民謡運動には理解をもっていて下さるかたでした。掛川さんは私のキングレコードでのデビュー曲として「新相馬ぶし」による「酒の苦さよ」を渡してくださいました。作詞は山崎正先生、作曲は山口俊郎先生です。私の思い出多いデビュー曲を作曲してくださった山口先生は後に私が現在のような地歩を築く一番大きな原因となった「おんな船頭唄」を私のために作曲してくださった方です。思えば山口先生と私とは不思議な縁によって繋がれているのでしょう。

 

 それは忘れもしません。昭和28年9月25日のことでした。私にとってはレコード吹き込みは実に十年ぶりのことなのです。同級の友達は前日、さかんの私を激励してくれました。
「おとっつあん、一丁やってこいよ」
「あがるんじゃねえぞ」
「大丈夫だよ。俺があがるもんかい」
 私は笑ってそういいましたが。果たして忠告通りデビュー盤だというので、すっかりコチコチになってしまっていたのです。

 

本番を知らせるブザーが鳴ると、それが「死の宣告」でもあるかのようにノドがカラカラにかわいてきます。
前奏があって歌いだすと、すっかり声が上ずってきます。表面ではいいところをみせてやろうと度胸のよさそうな顔をしていますが、どうしても体がガクガクふるえてとめることができません。やっと何回か本番を繰り返してO・kがでました。体が汗ばんでいました。新人のデビューだというのでわざわざ立ち会ってくれた清水文芸部長が「いい声じゃないか。「船頭小唄」をモダンにしたようなものでも歌わせたいね」とそばの人に言っているのを耳にした私は、顔がすっかり真っ赤になってしまいました。これは名古屋方面では好評で一万枚を売ったそうです。

 

 その後「瞼のふるさと」「宇目の唄げんか」「ねんねこしゃっしゃりませ」「かっぱ踊り」と流行小唄を次々に吹き込みましたが、一向に売れないのです。やっぱいオレはだめなのかな、といいしれぬ寂しさに襲われる日が続きました。
でもそんなさみしさも学校の門を一歩はいったとたんにすべて消し飛んでしまうのでした。

 

そのころ、吹き込やテストは授業に比較的差し支えのない土曜日を選んでもらうように頼んでおきました。ですから、土曜日の授業は三分の一ぐらいしか出席できませんでした。
「おとつつあん、あしたは金もうけか」
「レコードがグンとうれたら、どこかに旅行にもでも行かないか。軍資金だからしっかり歌ってくれよ」
「この間の土曜日な、松尾のやつ代返ドジって危なかったんだぞ」
金曜日の昼休みは、教室で私を中心にしてこんな話が咲くのでした。当時、レコードが売れないのは、自分よりも熱心に応援してくれる両親やクラス・メートに悪いような気がしていたのです。

 

三橋さんは初期に民謡ばかりうたっていたので、頭角があらわせなかったといわれています
25周年の音楽評論家方たちの座談会でこんな話がでていました。

 

25周年座談会
日時 昭和53年4月26日 会場 キングレコード本社 社長室
出席者  平井賢 (音楽評論家)伊奈一男(音楽評論家)佐藤泉(音楽評論家)小倉智昭(音楽評論家)
     本吉常浩(キングレコードプロデユーサー)元吉
本吉
そもそも民謡の三味線を弾いていた人ですから…。それでテストをしたら声がよい…っていうんで歌手になったんです。

 

伊奈
 いくつも作って駄目で、勿論レコードはだしていないんですけど、それで「酒の苦さよ」に至った。「新相馬…」ですか、あれは…。

 

平井
 「新相馬…」だからあれはヒットしなかった。
ぼくはね、あれはデビュー盤も2枚目も民謡ラインを出したことに三橋が足ぶみをしていた原因があると思う…。

 

伊奈
 だから「酒の苦さよ」を出してから「おんな船頭唄」までの間に、ほぼ一年半という歳月がかかっているんです。その間にいくつか出していますね、やはりそれは当たっていません。だから当然「おんな船頭唄」だってB面に行くわけですよ。

 

小倉
 そうか…。

 

平井
 あれは民謡歌いだからって、民謡路線をふませたってことば、足踏みをさせた最大の原因だよ。

 

小倉 
 今だってそれはいえますね。あれはロックだからロック、演歌だから演歌やらせりゃいいってのはそうじゃないってことか…。

 

平井
 そうそう…。

 

佐藤
 現在でもいえる。

 

伊奈
 だからこのB面扱いをつきやぶったのは歌の持っている或いは本人の歌い手としてエネルギー、資質というもの、それを大衆の方がひろい上げたということですよ。
引用終わり

 

 

 

30.私と読書

 

 グループで集まって詩の朗読をしたり、武蔵野に残された文学に関係のある遺跡を散策してみたり、下手くそな和歌をつくってみたり、学校での生活は、今までの私のすごしてきた世界では経験できなかった楽しさを私に教えてくれました。私の友達は、多く文学愛好青年型が多かったように思います。時には徹夜でディスカッションし合ったこともありました。親友の松尾君など漱石にすっかり熱中し、雨の日も風の日も雑司が谷の漱石のお墓を一日一回は訪問しないと眠れないというように熱狂的な漱石信者でした

 

私は斎藤茂吉や三木露風に心ひかれていました

三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。

 

三木露風は三橋さん生まれた上磯で1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院で文学講師を務めた。その間の1922年(大正11年)、ここでカトリックの洗礼を受けクリスチャンになる。生まれ故郷の上磯に8年もいた詩人に三橋さんは惹かれるものがあったのではないでしょうか。

「ふるさとの小野の木立に 笛の音のうるむ月夜や 
少女子はあつき心にそをば聞き 涙ながしき
十年経ぬ 同じ心に君泣くや 母となりても」
という露風の詩は私の最も好きな詩でした。

 

かたっぱしから私は手に触れる文学書を読みふけりました。毎晩おそくまで本を読んでいて、身体に悪いと母に注意されたことも何度あったか知れません

 

 私はどちらかといえば乱読の方でした。私の26年間の半生を通じて、この頃が一番読書欲に燃えているころでした。物心つくと同時に舞台に立たされ、年少の頃から自分で働かなければならなかった私は、読書する時間とてありませんでした。そしてまた本を読んで教養を身につけたいという心のゆとりもなかった程、働き続けなければならなかったのです。春とともにすさまじい音を立てて氷をうかべながら流れゆく私のふるさとの河のように、おさえつけられていた私の読書欲が一時に爆発したのです。日本文学であれ、外国文学であれ時間のゆるすかぎり読みあさりました。
20歳すぎてはじめて私は、本を通じて偉大な思想を残してくれた先人に対し、深い尊敬の念をもつようになりました。本を読み、友達と語ることによって私は未知の世界に一歩一歩足を踏み入れていきました。そして人間の偉大さを教わりました。


小さいころから、働きづめで本を読む時間もなかった。小学校の頃は歌うということが生活の中心であり、家計も助けていたし、学校教育の勉強の面白さより歌の方がおもしろかった。それは歌を習う環境が学校とくらべるとプロの世界であり、本格的であり、三橋さんを惹きつけていたと思います。それが、東京に出てから、自ら勉強することから、学ぶ楽しさと本によって新しい世界がひらけてきた。乱読に近い本の読み方をしています。知らなかった世界がひらけてきた。向学心が強い人だと思います。

 

 

31、はじめての流行歌

 

 戦後最大のヒットとなった「お富さん」を作曲した渡久地政信先生が、私のために「角帽浪人」の曲を作ってくださったのは、29年の夏も終わろうとしているころでした。題名の示すとおり、現代の世相の一断面をユーモラスに捉えたなかなか面白い曲でした。

 

 そのころの私は流行小唄から脱却して、まだ私のふみ込んだことのないジャンルの歌を歌ってみたいと思っていました。この曲を頂いた私は大変よろこんで早速、流行歌としてどう歌うべきかを研究しはじめました。まず私の悪いクセ、民謡ではゆるされることですが、北海道や東北方言の常として「ィ」と「エ」の発音が区別できないこと。歌が大変に重いこと。言葉の区切りがキチッとしないこと。以上三つの点を直さなければならないと思いました。鏡の前で口の開け方からまず勉強しはじめました。何度も何度も渡久地先生のお宅にうかがって歌の重さとれるようにレッスンして頂きました。

 

 そしてまた、今まで先輩の歌手が残したヒット曲のレコードを集め、その曲を自分で歌ってみてはその歌手の「よさ」を自分に取り入れるようにしました。とりわけ研究したのは同じキング・レコードの先輩で歌のうまさでは群を抜いていた春日八郎さんについてでした。私は春日さんのよさを綿密に分析して、その良さを支えている要素を自分にもとりいれて自分なりに消化したつもりです。

 

春日八郎さんは三橋さんの25周年にこんなメッセージを寄せています。
春日八郎

 

三橋君25周年おめでとう。私も昨年25周年をむかえ、新しい心構えでさらに前進はスタートを切ったところです。同じキングキングレコードの良きライバルとしてはげみあい、今日まで歌ってこられたのも三橋君あればこそと思います。

 

昭和29年1月、私より一年おくれてデビュー。歌謡曲から民謡まで幅広い三橋君の歌を初めて聞いたとき、私は大変な脅威を感じました。民謡で鍛えた張りのある美声、独特のこぶし回しに聞きほれました。同時に安閑としてはいられない思いで心が逸ったものです。
当時のキングレコードは数多くのスターがきらめく星座のごとく居並んでいました。デビューして間もない不安定なわたしにとって彼の出現はほんとうにびっくりさせられました。
一口に25年といってもけっして平坦な年月ではなかったはずです。歌の道に完成はありません。自分自身が変化していけば10年20年に出した曲の感じ方もちがってきます。時代背景によっても表現方法も変わってくると思います。常に新しい感覚を身につけていかねばならないでしょう。何よりも健康であることがようきゅうせれます。
昨年一あまり入院し、わが事にように心配しましたが、幸い大事にいたらず本当に胸をなでおろしました。2人ともまだ若いのです。今後もすばらしきライバルとして共に歌い続けていきましょう。

 

引用終わり

 

 

 

 

この曲についてはこのように自分としては十分努力したつもりだったんですが「お富さん」のかげに隠れてあまり目立ちませんでした。折角まだ新米の私の歌を認めて作曲して下さった渡久地先生には大変申し訳ないことをしてしまいました。でも、この曲が、私が流行歌に進むキッカケを与えてくれたのです。その意味で私にとってはわすれられない曲ですし、その思い出とともに、渡久地先生の御厚意は忘れることができません。

 

 この曲の最後に「へのへのへー」という文句がありましたが、口の悪い同級生などは「みこしの松が出たら角帽浪人ふられてへのへのへー、というところだね。おとっつあん 頑張れよ」とからかわれました。

 

 

 

32、 私の最初のヒット曲

 

「おんな船頭唄」は私の最初のヒットとして、皆さまに私の存在を気づいていただく原因となった曲です。曲は私のデビュー盤を書いて下さった山口俊郎先生です。詩は藤間哲郎さんでした。

 

 私はこの曲を頂いてから、自分になりにどの部分を聞かせどころとするかを研究しました。いよいよ吹き込みの日、声の調子もよかったので、思い切って声にアクセントをつけて歌ってみました。わりと思った通りに行ったようなので、作詞の藤間さんに
「どうです。いいでしょう」
というと
「こんな歌い方じゃだめだ」
一言のもとにはねつけられました。

 

デイレクターがそんな歌い方ではだめだからこう歌ってくれ、と注文をつけるのは当然です。しかし作詞の先生にこういうことをいわれたので私はカッときてしまいました。
「作詞家が何をいう」と音楽課長の掛川さんに食ってかかりました。そして自分なりにいいと思ったように歌いました。やはりまだ学生で一本気だったのです。この曲がヒットしてから藤間さんとその時のことを思い出しては大笑いしたものです。私の負けん気はこの頃でもむきだしのまま続いていたようです。

 

 この曲を吹き込んだのは卒業試験も間近のころでした。担任の才木先生が「三橋、こんどの新曲はなんだ」というので、先生の前で歌ってきかせましたところ
「え、なんだって……嬉しがらせて、泣かせて消えた 憎いあの夜の旅の風……だって。こりゃ、こりゃ、お前、高校生がこんな歌を吹き込んで……」
ということで大変びっくりしておられました。もう私は24歳になっていましたが、やはり高校生には違いありません。才木先生がびっくりなさったのも当然のことと思います。

 

 まだ新米の私としては表面になれるはずがなく、照菊さんの「逢初ブルース」の裏面として発売されました。町を歩いているとレコード屋のポスターが目にうつりますが、大きな字で「逢初ブルース」と書いてあり、その横に小さな字ではずかしそうに、「おんな船頭唄」と目につきそうもなく書いてあります。また今度も売れっこないだろうと私は内心あきらめていました。しかし、皆様に認められて、今では三十万枚を売って私が生まれてはじめて、夢にまでみたヒット盤歌手となることができました。

 

 

33

 

卒業式の黒田節

 

「おんな船頭唄」を吹き込んですぐ、私は卒業試験の勉強に精をだしました。当分、吹き込みを中止して徹夜でがんばりました。吹き込や放送のために生じたクラス・メートからのおくれをとりもどさなければならなかったからです。どうやら、試験も無事に通過しました。

 

「おんな船頭唄」のレコードが店頭にならべられる1週間ほどの前に、私の思い出深い高校生活にピリオドを打つことになりました。新に新しい世界を教えてくれた三年間の尊い生活。私の半生の中でも最も貴重な部分の一つを占める学校生活。「蛍の光」をうたいながら、私は、過ぎ去った三年間へのつきぬ愛惜の念に、いつしか頬に熱いものが流れているのを感じました。

 

 卒業式の謝恩会で、私は、お世話になった先生方、同級生への私のできる精いっぱいの感謝のしるしとして、レコードに吹き込ん以外はほとんど歌ったことのない「黒田節」を心をこめて歌いました。それから、後輩の在学生へ誰か一言、という言葉を聞いて私は夢中で壇上にたちました。何か言わないではいられない気持だったのです。

 

 

34 「ご機嫌さんよ 達者かね」

 

「ご機嫌さんよ 達者かね」は「おんな船頭唄」につづく私の第二のヒットとなった曲です。作詞の高野公男さん、作曲の船村徹さんはともに私と同じ世代に属する新進の方々です。高野さんの詩は、いままでの流行歌の作詞法の定型を破ったもので、一読胸にぐっと響くものがありましたし、船村さんの曲にはローカル・カラー豊かな土の匂いといいましょうか、そういったものへのノスタルジィが感じられました。私は、われわれ庶民の気どらないありのままの生活感情を、のどかな地方風景の中にスケッチ風に表現してみたいと思いました。

 

 20貫を越す船村さんが、私に「母の便りの」という一節を、歌舞伎役者の思い入れよろしく何度も何度も「ハハノタヨリノ、いいね、ハハノタヨリノ」と「ハハ」の後ろの「ハ」を強調して歌って聞かせるのです。
みんな同じ世代だし、私も気に入った曲なので、少し泥臭いけれどもがんばってうたいました。このレコードのヒットで、私はステージ、ラジオ、テレビに忙しい時間を送るようになりました。

 

 

35、生涯を歌に賭けて

 

前にも書いたように、私が東京に出てきたのは、学校にはいってまじめな勤人になりたいと思ったからでした。家から一銭の仕送りをうけることができない私は、まず生活を確保していから勉強しなければならなかったのです。
そしてあくまでもアルバイトとして歌ってきたのでした。

 

 しかし、民謡とともに流行歌を歌いはじめ「おんな船頭唄」がすこしずつ売れてくるようになると、ステージやラジオにひっぱりだされるようになりました。もちろんステージといっても東京や大阪のような大きな都会ではありません。いわゆるドサ廻りの旅なのです。そうすると、どうしても上の学校めざしての勉強の時間が少なくなってしまいます。ラジオに出ていてもそのことが気になって仕方がありませんでした。

 

 ステージでもラジオでも、そんなことばかり考えていますと、どうしても歌が不安定になってきます。歌う以上はベスト・コンディションに自分をおかなければいけません。勉強と歌手生活、それがこの頃からお互いに背を向け始めてきたのです。ステージを最少限度に止めて勉学に専念するか、上の学校への勉強をあきらめて歌手として職業を選ぶか、とにかくその二つを両立させることは明らかに無理になってきました

 

 私は幾晩考え続けたことでしょう。私はついに決心しました。私の歌を喜んで待ち望んでいる多くの人々がいる。一日の仕事に疲れた体を私の歌をきくことによって休ませることができる人がいる。私は物心ついたことから働かなければなりませんでした。自分の生活を切り開くために神経をすりへらして働いている人々、その方々の神経を少しでも休め、また明日への意欲に少しでもお役にたつことができるなら、私は学校をすてて、その方々のために歌い続けようと決心しました。

 

 それに私には、すでに多くの人々が忘れてしまっているすぐれた日本の民謡の数々を、もういっぺん掘り出して、そのよさを日本人のみなさんに理解してもらう仕事があります。これは私の一生の念願なのです。それにまた、大人も子供も、だれでもがどこでもあけっぴろげで大声で歌うことができる健康な流行歌を歌っていきたいという考えがありました。 いくら時代がそれを要求したと言ったって、あまりにも不健康で人前では歌えないような歌を歌うことは絶対にいやだったんです。

 

 私が歌ってきた民謡といえば、草刈唄なんかには、東北地方の古くからの風習「夜ばい」が歌われています。
ところが、それが少しも不健康に感じられません。セックスの問題でも、それが白日の太陽の前でおおらかに行われるときには、非常に健康なものだと思います。
しかし、それがコソコソとジメジメと陰険に行われるときには限りない不潔感が生じるのです。

 

今までの流行歌は、われわれ庶民の生活とは縁のないキレイゴトすぎるようなものか、でなければ、ジメジメした不潔感のものか、極端なもの多すぎたのではないでしょうか。土に生まれた素朴な民謡の持つ健康感を流行歌でも歌えたらと、私は考えるようになりました。

 

 決心がつくと私は、全生活を歌にぶち込めるようになりました。私がよく寝ると友達に笑われますが、歌手にとって睡眠が第一なのです。自分をいつもトップ・コンデションにもってきておくことが一番大切なことです。お客様は高いお金を出して聞きに来てくださるのです。それなのに、自分の最高の歌をお聞かせ出来ないということは歌手として一番不誠実なことです。学生時代のモットー「よく学び、よく遊べ」が、こうして「よく歌い、よく眠れ」に変わったのです。

 

 

36、「島の船唄」のスケッチ

 

「島の船唄」は、私が現在まで歌ってきた流行歌の中で最も好きな曲の一つですし、私の個性に一番あっていると曲と思います。作曲は、前に私のために「角帽浪人」を書いて下さった渡久地政信先生です。

 

真夏の海に、夕陽をあびてゆっくりと船は島をめざして帰ってゆきます。今頃は島では恋女房が無事の帰りを首を長くして待っていることでしょう。つのる思いを櫓に託しゆっくりとこいでゆきます。大空には夕焼け雲が明日の天気を約束している……私はそんな風景を頭に描きながら、この素朴で雄大な歌を歌いました。

 

こういった、スケールが大きく、力強く、そして素朴な曲を書いてくださる方が、私はほしかったのです。渡久地先生は実によく私の個性を生かしてくださいました。しかし、間もなく渡久地先生はキングを去られたので、この曲は私に対する先生の最後の曲となりました。

 

 技巧的にもむずかしい曲で、高音を活かそうと張り上げると普通の音域の人では、どうしても声が割れて聞きづらくなります。このレコードが出たのは11月ですが、この同じ月にやはり先生の曲で「夜のバイオリン」が松島詩子さんの歌で出ました。松島さんは本格的に歌を勉強された方だけあって、実にすばらしくこの歌を歌っています。渡久地先生の傑作が二つこの月にでたわけです。

 

今でも私をよく知っている方々は「島の船唄は君の最高傑作だ」と云ってくださいます。私も末永くこの曲を歌い続けていこうと思っています。この曲は11万枚売れて私のヒット第三弾となりました。

 

37.大好きな民謡

 

「おんな船頭唄」以来、私は「島の船唄」までの間に「斉太郎ぶし」「常磐炭坑ぶし」「「はんや節」「新相馬ぶし」「いやさか音頭」と民謡を五曲ほど吹き込んでいます。「斉太郎ぶし」は私の大好きな民謡の一つで、宮城県の漁民の間に伝わる勇壮な民謡です。東北では最も有名な民謡の一つですが、かつて私が白川さんの一座で東北地方を巡業していた頃にもよく聞いた歌です。

白川さんというのは津軽三味線の白川軍八郎さんのことです。
この当時、三橋さんは巡業の合間に、現地の民謡も聞いていました。巡業の合間に聞く機会があったものと思われます。斎太郎節は三橋さんがもっとも好きな民謡です。

 思えば、東北巡業の時、東北の民謡をナマの形で勉強できたことがわたしにとっては大変プラスになっていました。
そして流行歌の方でいえば「おんな船頭唄」の系列として後に「島の船唄」「船頭追分」「哀愁列車」が出来、「ご機嫌さんよ達者かね」の系列として「りんご村から」「手まり数え唄」が出来ました。
ステージでも、一部、二部、三部に分け、一部には、私のヒット曲、二部は私の好きな民謡、三部はたいてい聴衆の方からのヒット曲という構成をとっています。

 

38、第2線にランク

 

「あの娘が泣いている波止場」は「ご機嫌さんよ達者かね」を作曲してくれた船村徹さんの第二弾でした。この歌は、私にとってははじめてのテンポの早い、いわゆるマドロスものでした。それまで、テンポのゆっくりしたものをじっくり歌ってきた私にとってはたいへん歌いにくいもので、なんか逃げるように、なげやりにしか歌えませんでした。

 

この曲が出来ていから船村さんと喧嘩したことが思いだされます。池袋で船村さんはじめ会社の人達と飲んでいた時のことです。酒が入るにつれて、若い人ばかりだったので、流行歌のあり方についてまじめな議論が闘わされました。その中で船村さんが、「歌い手というものは…」という言葉を使いました。

 

 私にはそれが歌手全体に対する軽蔑のように響いたのです。それで「何を言うんだ。表へ出ろ」「いい度胸だ」と売り言葉に買い言葉で大変な喧嘩になりかけましたが、周囲の人から止められてしまいました。

 

 この喧嘩が縁となって船村さんとは大変親しくなりました。この喧嘩は、お互いに自分の職業に誠実であろうとし、また責任をもち、自分の職業を尊重するところから起こったのです。喧嘩はいけないことでしょうが、こういった若さに溢れた発奮ということは必要なことだと思います。そういうところから本当にすぐれた作品が生まれてくるのではないでしょうか。お互いの抵抗が強いほど、出来上がった作品にピンと張った糸のような作品上の緊張感が出てくるのではないでしょうか。作詞家、作曲家、そして歌手の三人の自己主張が強く、そしてその三つのはげしい闘いの中からこそ、本当に聞く人の心をうつ歌がうまれるのだと思います。

 

 この曲は「小島の鴎」の裏面として発売されました。ところが「小島の鴎」よりも、この「あの娘が泣いている波止場」の方が評判がよく、昭和31年にはいってからは、おそまきがら気づいた会社では、裏と表をひっくりかえして「あの娘が泣いている波止場」として売るようになりました。この曲はテンポが早くて調子がよいためか、歌ってくださる方も多く16,7万枚はでたようです。


A面は大御所の高橋掬太郎さんの作詞の小島の鴎でしたが、
新進の作家のB面がヒットしてしまった例です。
船村さんと高野公男さんの新しい感覚が大衆に受けたようです。
三橋さんも高野公男さんもいままでの作詞家の法則をこえるような作詞家だったといっています。

 このころでは、どうやら私の名前を知っていて下さる方も少しずつですが増えてきました。でも若手歌手の中でも春日八郎、三浦洸などという先輩のかげにかくれて、いってみれば第二線ぐらいにランクされていました。時として新聞に自分の名前が出てくるのをみて喜ぶこともありました。「人気がでてきてよかったね」といわれることもありました。でも、正直に言って、私は、はたして自分が人気があるのかどうか、人気とはどんなものか少しも理解できなかったのです。何か、私としてはつかみどころのない、形のないものにすがりついているような気持ちでした。

 

 そんなある日読売新聞の12月のレコード評の欄に、私の名前が出てきるのをみつけました。三橋美智也の「あの娘が泣いている波止場」(キング)には、なげやりなニヒルなものが素朴な歌い方の中から顔を出す。もう一曲の「君は海鳥渡り鳥」にも素朴な哀調がある。面白い個性のの持ち主である。

 

これがそのその全文です。サインはAとしてありました。それまでもいろいろな新聞の記者の方々がインタビューにきて下さったりしたことはありましたが、まだ一部にしか名の知られていない私を、天下の大新聞がとりあげて下さったのはこれが最初だったのです。私はこの批評を何回もくりかえしてよみました。「素朴だ」とか「哀調がある」とか「土くさい」とかいわれたことは前にもよくありましたが、「なげやりなにニヒルなもの」と書かれたのはこれがはじめてです。なるほど私の歌には、そういった私自身気がついていない一面があるのかなと思いました。それに会社が売物とした表面の「小島の鴎」には一語もふれずにすっとばして、裏面のあまり人が気がつかない「あの娘が泣いている波止場」をとりあげているのも大変に興味深く感じられました。

 

会社の宣伝部の方に聞いてみますと、この方が読売の音楽記者の安部さんで、非常におっかない方で、悪口ばかり云ってほめたこことはあまりない方なのだそうです。でも、前に私の「斉太郎ぶし」のレコードを聞いて大変にほめていられたということです。

 

安部さんには12月もおし迫ったある寒い日、宣伝課長の高橋さんに連れられてはじめてお会いしました。たいへん口が悪く、思った通りをそのまま口にだしたり、書いたりする方ですが、私もそのタイプなので、それ以後よく意見を闘わしたり、忠告していただくようになりました。この「あの娘が泣いている波止場」は今春、東宝で映画化され、私もはじめて映画というものに出演しました。

 

 

39 敬服する春日八郎さん

 

「君は海鳥渡り鳥」は春日八郎さんの「別れの一本杉」とカップルで出されたものです。作詞は矢野亮先生、作曲は真木陽さん、私が幼少のころから歌いつづけてきた日本民謡の語呂廻しを、うまく流行歌に転化した曲と言えましょう。そして、やわらかくこころの底から情をこめて歌えるマドロスものです。

 

こういった「海」を主題にした歌には、私はものすごくノスタルジイを感じるのです。四方をを海に囲まれている北海道に生まれ、育ったせいかもしれません。しかし「海」のもついのもつ雄大さ、壮大さ、そしてきびしさというものに私は今でも限りない魅力を感じでいるのです。

 

 組み合わせになった春日さんの「別れの一本杉は」船村さんの曲で、私も大変好きな曲で春日さんは私の大先輩ですし、歌は私など及ばないようなうまさを持っています。恐らく今の歌手の中では一番うまい方ではないでしょうか。しかし、私はこのころから春日さんの歌の良さに敬服するとともに、仕事の上でよいライバルであることを意識しました。もちろん春日さんと私とでは進む方向も歌のスタイルも違います。しかし、今後も長く春日さんは私にとってよき友であり、よきライバルであることでしょう。

 

 

40「船頭追分」

 

「船頭追分」は今年の正月新譜として出たもので、中野忠晴先生の曲です。これは昨年春日さんが歌ってヒットした「妻恋峠」に対抗したもので、私が幼少のころから歌っていた民謡「江差追分」を現代風にアレンジしたものと言えましょう。

 

 中野先生とは「ああ新撰組」につづく二回目のコンビです。この吹き込みの日は、いつになく声の調子がよく、テストを一回しただけで、すぐ本番となり、しかもそれが一回でオーケーがでました。

 

 この曲の最高音は上のAの音です。それを声をはりあげる、というよりは突き上げで行って出すのですから、声のよほどコンデションのいい時でないと安定した歌をきかせることができません。それにこの曲を一日何回も歌ったりしたらすぐ声帯をこわしてしまいます。ですから私は一日にこの曲は一回しか歌いません。それ以上は歌えないのです。
この曲をつくるために、中野先生は「江差追分」の前歌、本歌、後歌を全部勉強しておぼえられましたが、その先生の努力には全く頭が下り、私を発奮させる好機となりました。

 

読売新聞の安部さんは、新聞批評で
 歳末のデパートの特売さながらに、昭和31年の歌謡曲レコード正月新譜がならべられた。そのどれにも、なんの特長も、なんの努力のあともみられない、こういったチリやアクタの中にあってただ一曲だけ印象に残った

 

 三橋美智也の「船頭追分」(キング)がそれだ。「追分」をもとにしたひなびたメロデイにまず心惹かれる。三橋の素朴な声がこの曲をしみじみと歌う。三橋の歌をどろくさいと一言で片づけてしまえばそれまでだが、冷たいメカニズムの中に生活しているわれわれの中に、このような素朴な歌を歌う人がいるとこうことは大変なことなのだ。この素朴さを失わないようにしてほしい。昭和31年のホープは彼以外に今ところ見当たらないのだから。

 

と書きました。このように書かれた私は、大変光栄だと感じるとともに、よし今年も一丁やるぞとを決意をあらたにしました。ほかの新聞や批評も割とこの歌の良さをみとめてくれました。この曲はたいへん地味な曲ですが、私の最も好きな曲の一つです。

 

 

 

41、「リンゴ村から」

 

 

 

「リンゴ村から」は今年の私のレコードの中で一番ヒットした曲です。昨年11月末、大阪の北野劇場でキング・レコード歌謡曲大会がありました。そのとき私といっしょに出演して居られた林伊佐緒先生が「三橋くん、君にぴったりのいいメロディが出来たよ」とおっしゃって渡して下さったのがこの曲です。歌ってみると大変すなおで自然な曲です。

 

大阪が終わって12月の9、10日名古屋の公演がありましたが、そのときデイレクターの和田さんにこの歌を歌ってきかせました。一回聞くなり和田さんは「よし、やろう」ということになり、東京に帰ってすぐこの曲の吹き込みとなりました。

 

おぼえているかい 故郷の村を……
私は自分自身にいい聞かせるようにこの歌を歌いました。故郷の土を晴れてふめる日が近からんことを心に願いつつ……

 

このレコードのテスト盤を聞いた母は「この曲はあんたにびったりだね。きっとヒットするよ」と云ってくれました。日頃そんなことを余り口にしない母なのに、珍しいことをいうものだと思っていましたら、その母の予言通りに私の今年の最大のヒットとなりました。20万枚を突破してまだ売れ行きが落ちないとのことです。
今年の5月、大阪の大劇では、絹のカーテンの向うで幼い頃の思い出を幻想的におどっているのをバックにしてこの曲をうたいました。このシーンは大阪では大変ほめて頂けました。

 

42 故郷で大変な歓迎

 

今まで私の歌ってきた曲は、どちらかといえば民謡調の流行歌が多かったのですが、私がはじめて純粋の歌謡曲に取り組んだのが「哀愁列車」でした。これは中川姿子さんの歌の裏面として出ました。会社の方ではいろいろと営業上の都合もあったのでしょうが、私の歌が裏面として出されたことに対してファンの方々から多くの手紙をいただきました。
なぜ裏面でだまっているのか、というのです。

 

 また新聞記者の方々からも、おかしいじゃないかという声を聞きました。これは私にばかりでなく会社にも大分避難の投書が来たようです。記者の方々もファンの方も、私のことをいろいろと考えて下さるのは大変ありがたいことだと思いましたが、私には私なりの自信があったのです。いつでも裏表をひっくりかえてしみせるという自負をもっていました。

 

5月末から20日間にわたる故郷北海道の公演の時、まず第一公演は函館のステージから引き続き北海道を、この曲のトップで歌いまくっていきました。私はまずこの曲を、どこよりも先に、私を育ててくれた故郷のステージから歌いたかったからです。故郷の方々はこの曲を非常に高く評価してくださいました。この曲の思い出は、八年ぶりの故郷の思い出と切り離しては考えられません。
八年前に、石川啄木の「石をもて追われるごとく」の歌のように故郷を飛び出た私を、故郷の方々は心から暖かく迎えてくださいました。

 

行く先々のステージでは、私の歌を聞くために早朝から並んで開場待って下さった方々で超満員でした。そしてその方々が心から私のために惜しみなく拍手をおくってくださいました。この感激は私の半生のうち最もすばらしいものでした。もう私はこういった歓迎をうけることはあるまい、と思うど思わず知らず目頭が熱くなってくるのをどうすることもできませんでした。そして、こういった方々のためにも立派な歌を歌い続けようと心に深く深く決心しました。

 

「縁があったら又逢おう」は矢野亮先生の作詞、船村徹さんの作曲で、内容からいうと「あの娘がないている波止場」に似たものです。これが船村さんの私に対する最後の曲となりました。船村さんは間もなくコロムビアに移り、最近では、私の一番弟子であり親友であった平野繁松君を流行歌にデビューさせました。平野君が一日も早く流行歌手としても成功するように祈ってやみません。また船村さんにも題名どおり「縁があったらまた逢おう」という気持ちが彼を一層なつかしく思い出させます。

 

 

 

 

 

 

 

 

43、平凡な結婚

 

さて、皆様もご承知のように私は、私の26回目の誕生日に当たる11月10日に、松本喜久子と結婚して、新しい人生のスタートを切りました。私は、前からいわゆる芸能人の中によくみられる特殊は生活におちいることなく、人並みの平凡な生活にあこがれていました。

 

私自身が平凡な人間にすぎないのです。何も私は人並み外れて偉い人間でも頭がいい人間でもありません。ただ平凡な、自分でも不思議に思うほど平凡な人間なのです。ですから、私は、私の生活に平凡な幸福を求めておりました。

 

それに、私は、私をひきとって学校へ通わせてくれた養父母に親孝行とまで大げさにいわないまでも、安心してもらいたかったのです。平凡な私が求めたのは、金でも、名声でもなく、平凡な家庭生活でした。平凡な結婚でした。人間の幸福というものは結婚にある、とは昔から言い古された言葉です。でもその言葉には百パーセントの真理が含まれていると思います。平凡な結婚をして平凡な庶民生活の幸福を味わい、大衆の一人として、大衆の歌を歌って行きたかったのです

 

私は生まれつき派手な生活とは縁遠く、またそんなものは好きになれませんでした。堅実で地味な生活にあこがれていました。一日のつとめを終えて家に帰ると、妻が台所で焼いている晩おかずのメザシの匂いが鼻をくすぐる……そんな生活を夢に描いていました。
私は一旦ステージから離れたら、歌手三橋美智也とは見てもらいたくなかったのです。平凡な庶民の一人、三橋美智也として見て欲しかったのです。

 

私はある先輩からこういう忠告をいただいたことがあります。
「ステージの上にたって拍手の嵐に身を投げ出すのは気持ちがよいことだ。しかし、いつも自分自身をもっていなければいけない。拍手は君という一個の人間にささげられているのではない。歌手三橋という、あくまでも「歌手」というレッテルが君の頭についている。つまり世の中がでっちあげた君の影に拍手を贈っているのだ」と。

 

当時これから一人前の歌手になろうとしていた私にはこの先輩の言葉は鋭いメスのように心にひびきました。決し私はこの先輩のありがたい忠告を忘れたことはありません。
私の学校時代の先生方や親しい新聞記者の方々からもいわれました。「君が人気絶頂にあると思った時が一番危機なんだ。君への賞賛は本当の君ではなく彼らがでっちあげたもうひとりの君への熱中なのだ」と。私はいつもこの言葉を忘れたことがありません。

 

歌手として最善のステージを皆様にお目にかけ、家ではひとりの平凡な誠実な人間でありたい。私はいつもこう念願しておりました。そして誠実に生活するために、実に平凡な結婚生活に飛び込みました。結婚生活が私に更に今までなかった経験を与え、歌に生活の深みが表現できるようになれば望外の幸せだと思っております

 

思えば私の半生は、決して明るいものではありませんでした。ともすれば失いがちな希望に灯をともして下さった多くの方々のおかげで、私は今日まで歩んで来ることができました。私の父母、友達、そしてファンの皆様方の暖かいご理解と援助がなかったら、私は人生半ばにして脱落者となっていたかもしれません。

 

私は歌手という職業をえらびました。私はこの半生を歌ひとすじに進んできました。私の歌ひとすじの人生は今後も一歩一歩坂道を上りつづけてゆくことでしょう。

 

 

なつかしきに人々

 

 

林伊佐緒先生

 

いつだったかははっきりしませんが、去年の11月、日劇公演が終わって林伊佐緒先生を始め、キングの方々と徳島に行ったとき、宇野で船を待っているとき、私は景色に気をとれてているうちに、他の人を見失い、単身、徳島に向かいました。遅れては申し訳ないという気持ちで、恐る恐る旅館に行きますと、誰もまだきていません。

 

林先生らは、私が見えないので、仕方なく置いていくことにしたそうで、旅館に私がいるので、非常に驚いていました。先生にご心配をかけたことが真っ先に思い出されます。

 

恩師 山口俊郎先生

 

初めて先生にお会い致したのは、音楽部長である掛川さんに、何か新民謡をやらないかと云われて、弟子の平野繁松さんと一緒に紹介されたときでした。
その時、何が一番良いかと話し合いましたが、私は、福島県民謡で、「新相馬ぶし」というのがあったので、これを先生にアレンジしていただきました。
それで作詞は、春日八郎さんの「お富さん」を作られた山崎正先生で、私の唄が、会社で作詞された初めてのものでありました。

 

詩は感傷的で、非常にさびしみのある内容で「新相馬ぶし」のメロデイに対して、ぴったりしていて、これをアレンジしていただいたら、当時の清水文芸部長が、非常に賞賛してくださったので、これを「酒の苦さ」というタイトルで、出しました。

 

初めての作品なので、色々と山口先生に流行歌調の唄い方を懇切に教えていただきました。先生の教え方は先生なりの個性でなく、歌詞の持つ個性を引き出すのが非常に上手でした。これがのちに私に対して大きな原動力になったので。それは「おんな船頭唄」という決定打を出してくださったからです。私としては、生涯において、忘れられない深さをもつ先生というよりも、お父さんという感じがする先生です。

 

時代感覚の敏感な掛川音楽課長

 

「酒の苦さよ」を初めて出してから、「おんな船頭唄」まで、全部といってよい程、掛川さんがデレクターをして下さいました。その間に春日八郎さんの全盛の頃、私に渡久地政信先生が、何かの拍子で。「お富さん」を君がやったらどうだといわれましたが、掛川さんは、私のキングに入ってからの勉強の過程を考えて、まだ君には無理ではないかと云って、その曲は春日さんにあげました。それが、大ヒットしましたが、今の私としては、やはり、あの曲は、春日さんにむいていると思います。その当時、渡久地先生からいただいたものに、掛川さんの担当で「角帽浪人」とうのを出しました。

 

作詞は猪又良先生のもので、時代を非常に風刺したもので、面白いと思いました。当時学生であった私だけに、一生懸命に勉強しました。しかし、いかんせん民謡の持つくせというかアクセントが重くて、「お富さん」の陰に隠れてしまいました。そうしているうちに色々と自分のスランプがありましたが、勉強に勉強を重ねて、民謡と歌謡曲との懸橋をしたのが、あの「おんな船頭唄」でありました。

 

 これもやはり掛川さんは、春日さんにやってみようという意見でしたが、三橋には、面白い持ち味があるからと云って、私に与えてくださいました。勿論、作曲は、山口先生でした。曲を頂いたところ、非常に胸を打つものがあり、自分としても、何かやれると思いました。作詞は、藤間哲郎先生でしたが、非常に哀調のこもったすばらしいものでした。

 

感じは東海林太郎先生のものを取り、それに自分独自の民謡の語呂廻しをまぜて、自分としては、充分ではなかったけれども、一応聞いていただけるだけのものと思っていました。新譜会議で、照菊さんのB面にいれられ、これも前と同じように絶ちきれになると私は思っていましたところが、大阪支店の鈴木さんが一人で頑張って私を推してく下さったのです。と同時に。神戸の湊川蓄音機のご主人が「酒の苦さよ」以来の私のファンで、これを俄然後援して下さって、関西方面を起点として、大ヒットすることが出来て、掛川さんと山口先生と手をにぎり合って喜びあったのは云うまでもありません。

 

豊千代さんについて

 

 現在では会社を引いたような状態ですが、この方は、私と同じく山口先生の弟子で、豊吉さん社中の一人でありました。私と「宇目のうた喧嘩」の吹き込みの時、私がレッスン室で、唄の練習をしていたら、後で、鳴き声が聞こえるので、振り返ってみると、豊千代さんが涙を流していました。聞いてみると母親が貧血で倒れたとのことです。女性の身で、親を養っていることを前から聞いていて感心していましたが、私をかまわず泣いてくれたのは、今までこの方一人であり、記憶に残る人であります。

 

 

平野繁松くんのこと

 

私が、横浜の綱島温泉で(東京園)で、民謡を教えていた時に、その数多くの弟子の中に平野繁松くんがおりました。カンがよく声量があるので、わたしも大いに期待しておりました。そのうちNHKの全国ノド自慢大会に、「相馬盆歌」を持って参加することになったので、私も弟子のために一役買って、三味線の伴奏をつとめることにしました。それが昭和28年のことで、関東甲信越大会に民謡の部で優勝して、全国大会に臨みましたが、「大漁歌い込み」を唄った東北代表の我妻桃也さんが優勝し、平野くんは2位になりました。
我妻さんと私とは「三味をひくから唄ってください。よしそれなら唄おう」という親しい間柄でした。まあ先輩である我妻さんであるので、残念でしたが仕方ないと思い、来年頑張るつもりで、勉励しました。翌29年に、念願かなって優勝することができたことは私事のようにうれしく思いました。

 

そこで平野くんはさっそくキングで吹き込むことになり、やはり私も伴奏としてついていきましたが、吹き込みのの当日、平野くんは風邪気味で、どうも調子が悪く、うまく唄えないので、私が代りに唄って手本を見せたところ、キングの方々に認められ、これが私のキング入社のきっかけとなったわけです。

 

 その頃、私は、現在、ビクター専属の中沢銀司さんや角田正孝さん、高橋光水さんと平野くんや学友と新民謡の研究のため、青年新志会を結成し、私がその会の会長になったわけですが、伊勢丹のホールで、発表会を開いたこともありました。そのときは、鈴木正夫さんなどが応援出演して下さり非常に感激したことを覚えています。

 

 現在平野くんは、コロンビアの専属ですが、中沢さんを始め他の新志会同人と共に、将来を非常に期待してております。皆、新しい民謡の覚醒のために尽くして下さると思います。

 

才木久夫先生のこと

 

 才木先生は 私の高校時代三年間のクラス主任でありました。神経質なところが見受けられ、熱情的で、非常に感激家の先生で、よく個人的にも話し合ったものです。例えば、卒業間近頃、先生の結婚問題が上がったときに、わざわざ自宅まで来て、私に相談したこともありました。そのとき、私は自分なりの意見を述べましたが、非常に感激されたものです。
 先生は、宮沢賢治を非常に崇拝しておられ、あの有名な「雨ニモマケズ。風ニモマケズ」の詩をよく聞かされたものです。このことからも、十分に先生らしい人柄がうかがえるように思われます。よく旅をすれば、その人の人間性が解るといわれておりますが、高校に入学してはじめて夏休みに、先生を混えて、親しい友人と信州に旅行したことがありましたが、お互の気持ちが溶け合って、先生というよりか友人のように気軽に親密さをまして行きました。先生は、社会科担当で、私は、一年のときに一般社会を、三年のときには世界史を習いました。先生の講義は、先生独特の雄弁さでありました。このことも、先生が、よく口癖にように云っておられたように、教師になって初めて受け持ったのが、私たクラスだに、それだけ印象深く、思い出に残るものであったことでしょう。私の婚約が決まった時、さっそくお手紙をいただきたときは、過ぎ去ったことを色々と思いうかべながら非常にうれしく思いました。

 

江戸っ子石塚義一郎先生

 

愛称であり、自認する所の「ガマ」というのが石塚先生のニックネームです。現在でも、そうだと思いますが、私が学生時代のときは、校内でも有名なものでした。
なぜ、そのようなニックネームがついたのかということはすぐ、想像できるので、あえていう必要はないと思います。

 

私は、高校二年のときに先生から人文地理を習いました。このことからも、先生が民謡に非常な興味をもっておられることはいうまでもありません。そのような関係から、友人と二人で、先生宅によく遊びに行ったものであります。勿論、民謡のことで尽きません。

 

当時、私はまた、キングに入社していなかったのですが、新志会の会長をしていた関係上、民謡を研究していたので、愛用の三味線を持って、「黒田節」や「相馬盆歌」などを唄って、その由来などを語り合ったものでした。

 

先生のお父さんは新潟県柏崎付近のご出身で非常に民謡に興味を持っておられ、よく秋の夜長を更けるのも知らずすごしたものであります。先生は民謡については非常に熱心で、愛用のレープレコードに、全国の民謡を約600曲も蒐集しておられ、今年の夏は佐渡から新潟県刈羽郡の地方まで、わざわざ重いテープレコーダーをもって出かけるという具合です。

 

私が東京で公演のあるときは、欠かさず楽屋にたずねて来てくださり、一度、私にその蒐集を披露したいと云っておられました。私もぜひ、聞きたいと思っていますが、いかんせん、連日寸暇もない有様で、拝聴出来ないことを残念に思っています。私は落語が好きで、友人と二人で、試験の終わった時など、寄席にいったものでした。ところが先生は落語にかけては通で、教室で人文地理の授業がいつも間にか、落語に変わってしまうことも度々でした。

 

先生はまた風流な方で、そのニックネームに因んでか、先生のお家の狭い庭には毎年夏になると殿様蛙を10匹位わざわざはなして、日夜楽しんでおられました。しまいにはカエルの方からなれなれしく先生の掌の上まであがりこんでケロッとしていたことなど仲々よそではみられぬ風情がありました。始めてカエルを飼われたその翌年の初夏には、毎日毎日昨年の蛙が顔を出すことを期待して、狭い庭の小さい池の周りを注意されたそうですが、とうとう一匹もてでこなかったことを非常に残念がれておりました。

 

民謡のこころ

 

日本の民謡

 

日本の民謡は日本人にとって心の故郷です。日本民謡には、私たちの祖先が何代も何代にもわたって自分たちの力で築き上げた「生活」のにおいがあります。
私たちが集まったとき、口をついて出る歌と言えば、その人が生まれ育った地方の郷土色豊かな民謡なのです。それほど日本民謡は私たち日本人にとってもはやなくてはならないものです。

 

最近良く「民謡ブーム」という字を、新聞や雑誌でみかけます。しかし、私たち大衆の間に生れ大衆とともに育った歌が民謡なのに、どうして今頃になって「民謡ブーム」などと大げさな言葉を必要とするのでしょうか。
しかし、何れににせよ民謡の尊い存在に多くの人々が注目しはじめたことは、私たち日本民謡の素晴らしさを皆さまにわかって頂こうと努力して来た者にとっては、非常に喜ばしいことです。

 

私は幼い頃から日本民謡を歌い続けてきました。そして民謡とともに半生を歩んできました。この半生の体験によって、私は、私なりの民謡のあり方について考えをもつようになりました。
現在では、民謡も一種の流行歌になりつつあります。ラジオ、テレビやレコードというマス・コミュ二ケイションの出現によってその傾向は急速に助長されつつあります。九州宮崎県の奥深く九州山脈のふもとの椎葉に。平家の残党とともに生まれた「稗搗節」、その椎葉から九州山脈を越した向こう側、熊本県の五木に生まれ「五木の子守唄」が、ひとたびレコードに吹き込まれ、マイクを通すと、北のはて北海道にまで盛んに歌われるようになる世の中なのです。

 

昔はある地方で歌われている民謡も、山を一つ越せば隣村では全く知られていないという状態でした。ところが、今ではチャンスさえあれば、全国で歌われるような状態です。
こういった時代ですから、あくまでも民謡は伝統に沿った古典的ものであるという認識は変わりなくとも、時代の流れと共に進まなければなりません。つまり現代の大衆がうけいれてくれるものでなければならないのです。

 

ここに「新民謡」が必然的に考えられてきます。民謡をただ昔からのコットウ品として棚の上にあげておいたのでは、やがてホコリをかぶって見捨てられてしまいます。江戸時代の私たちの祖先がその時代の生活感情によってつくりあげた民謡を、そのまま歌っていたのでは現代に生きている大衆はかえりみてくれません。
やはり、私たちの時代の生活感情にあうように歌ってこそ、はじめて大衆の注意をひくことができるのです。

 

「正調」という難しい理屈ばかり振り回して、民謡のただ一箇所のふしまわしばかりを問題にして、、どうのこうのといっていたのでは、民謡はたた旧時代の歌として博物館的なものとしてしか大衆には映じないでしょう。

 

町田嘉章氏が、全国の民謡を蒐集録音することによって、幾分でも過去の古典民謡の保存に力を注いでいられるのは、大労作として敬意を表します。しかし、それだけでは一部の人々の懐古趣味の関心をひくだけで、大衆の方々の注意をひくことはできません。
また日大にいっている私の友人が、15人ばかりのぐループをつくって民謡の保存の努力していますが、現在のところでは、単に民謡という形式にとらえているにすぎません。
もちろん、経済的な制約もあって、彼等のグループにそれ以上の仕事を望むのは無理だと知っていますが。

 

日本民謡協会の行き方にも、こういった懐古趣味、もっと悪くいえば、過去の安直なセンチメンタリズムが強く感じられるのです。日本民謡協会はれっきとした研究団体なのですから、その行き方に対して、世の中の方々が共感がもてるようなものがなければなりません。ところが今の協会の行き方を見ておりますと、時代のことも現代社会のことも大衆の感覚についても全く考えない。ただ民謡を追うという孤立主義の傾向が強いのです。

 

現代の社会とのつながりなど少しも考えずに、やれ、どこの節回しがちがうのなんのと枝葉末節のことばかりに気をとられているのです。
民謡とは発生当初からそんなものではありませんでした。民謡は「野の声、山の声」なのです。それはあくまでも大衆の間に生まれた歌なのです。。大衆のほとんどは音楽的に高度な訓練をうけて来た人々ではありません。ですから、みんなが歌いやすいように歌っていました。大人も子供も、男も女も自分なりに歌い、何代も何代も歌い次いできたのです。口から口へと伝えれられた口誦歌ですから、伝えられる中に次第に歌いやすいようにと変化したのも当然です。そしてあくまでも大衆の歌である民謡はそれでいいわけなのです。あまりに難しいことばかり云っていたら大衆の歌としての民謡は一体どうすればいいのでしょう。

 

私が民謡協会の若い人たちといっしょに「日本民謡青年新志会」を作ったのも、こういった古めかしい民謡協会の考え方に反発して、現代の大衆と民謡をいかにしてつなぐことが出来るかを研究しようと思ったからです。
東北地方に「最太郎ぶし」という民謡があります。これは今も宮城県の漁師の間に歌われている民謡ですが、オーケストラの伴奏で歌ってみますと、日本版「ヴォルガの舟歌」という感じがします。
これなら現代のみなさんにも興味をもって頂けると思います。

 

つまり現代の大衆にアッピール要素を導入することが必要なのです。それなくては民謡を現代において蘇生させることができません。ただ単に民謡の表面だけをなでまわして事足れりとするような形式的な研究や、盲目的な遺産の継承であっては、そこに少しも新しい時代への流れを汲み取ることができません。新しい時代感覚と、大衆の歌である日本民謡への激しい情熱をもって、民謡を徹底的に再検討し蘇生させなければなりません。そして新鮮な息吹をもって、正しい遺産の継承が行われなければならないのです。

 

滅びゆく民謡

 

私たちの祖先は数々の美しい民謡を残してくれました。そしてその多くは労働の間から生まれた「労作唄」なのです。たとえば各地にみられる「田植の唄」は田んぼに苗を植えてゆくときの仕事にあわせて作られたものです。今でも「田植え唄」にあわせて一家総出で苗をうえていく風景をみることができます。このようにして民謡は労働の唄として生まれました。「田植え唄」の中にも、「仕事はじめの唄」とか「仕事休みの唄」などいろいろあるのはそのためです。

 

民謡には「音頭とり」とか「つけ音頭」というのがあります。例をあげますと。農村では田植えは一年中の重要な仕事として一家総出の大仕事です。新婚間もないお嫁さんももちろん動員されます。ところが嫁に来たてでは、たとえ途中で体が疲れたからといっても、嫁入り先の両親が手を休めないのに、勝手に自分だけ体を休めるわけにはいきません。どうしても無理してしまいます。そこで、お嫁さんも休めるようにと、音頭とりがうまれたのです。

 

みんなが田植え唄をうたいながら一列に並んで植えて行きます。歌詞が一通り終わると、音頭取りが、「ハーヨイヨイヨイ ハーヨイヨイ」という風に調子をとります。この調子の間は手を休めるのですから、お嫁さんも腰をのばして休めるわけです。このように労働のために作られた民謡は、大変合理的な一面をもっております。

 

ところが世の中はすっかり産業形態が変わってしまいました。人間が自分の手で営々とつくりあげてきたのを、現在では人間が直接手を下さなくとも、機械が全部やてくれるのです。そうするとその人間の手に合わせて作られた労働歌としての民謡は、その労働がなくなったのですから、不必要なものになっていまいます。

 

一例をあげましょう。畑仕事の民謡として各地に、それぞれ「麦つき唄」とか「麦穂打ち唄」という民謡がありました。これは刈り取った麦をウスにいれてついたり、麦の穂を長いクルリ棒で四方からたたいてカラを落とすとき、その手の動きにあわせてつくられた労作歌なのです。

 

有名な「麦つき唄」として岩手県水沢地方の

 

麦つきが楽だと思うべが 楽じゃない
なに仕事仕事に楽があればこそ
なに仕事仕事に楽があらばこそ
という麦つき唄」。

 

麦もつけたし 寝ごろも来たし
家の親達ねろねろと
麦をつくなら 男をつきゃれ
男力で ほんとに麦の皮むける

 

という福島県の「相馬麦つき唄」はいづれも、庭にいくつものウスを並べ、一つのウスに二人ずつ向かい合って横杵で麦をつくるときの労作歌なのです。

 

しかし、今では麦の刈り入れ後の作業はすべて脱穀機がやってくれるのです。そうするともう「麦つき唄」や「麦穂打ち唄」は直接の労作歌としてび必要がなくなります。このようにして、産業形態が変わり、労働を人間の手から機械がうばうようになったので、労作歌は忘れられていく傾向にあります。何とかして保存はしたいのですが、時代の波はそんな感傷を吹き飛ばして、過去のものとして現代の私たちから引き離してしまうのです。

 

新しい時代の民謡

 

私は前に、私たちが私たちの祖先から受継いで来た民謡を、現代人の感覚にアッピールするように手を加えるのでなければ、せっかくのすぐれた民謡も滅んでしまうことを述べました。
その意味で、中山晋平先生たちが提唱された新民謡運動は非常に意義のあるものといえましょう。新らしい時代に即した民謡を、という新民謡運動の中から中山先生の「三朝小唄」「上州小唄」「十日町小唄」など、後藤桃水さんの「八戸小唄」「稲揚げ唄」などが生まれました。これらのものは将来も古来の日本民謡と並んで、輝かしい光を放ち続けることと思います。
この意味で歌詞も大変重要です。やはり歌詞も意味のわからない昔がながらの言葉が、次第にかげをひそめ 現代が大衆が歌いやすいように変化してきます。

 

伊那節といえば皆様はすぐ、

 

天竜下れば飛沫にぬれる
待たせやりたや
待たせやりたや檜笠

 

という歌詞を思い出されることと思います。伊那節はこの歌詞で有名になったのですが、この歌詞がつけられたのは比較的に新しく大正時代のことなのです。

 

この伊那節は、昔は「御獄山」とか「御獄節」の名で、信濃の木曽谷、伊那谷はもとより、三河飛騨、美濃へかけての山間部一帯で祝い唄や盆踊りとして歌われていました。
その頃の歌詞は

 

「木曽の御獄よりくる矢獄
近く見ゆるは 近く見ゆるは駒ケ嶽」

 

というのでした。

 

やがて元禄時代に入って伊那谷を中心に馬子たちに歌われた歌詞は

 

「木曽へ木曽へとつけ出す米は
伊那や高遠の 伊那や高遠の御獄米」

 

とかわっています。

 

そして大正時代に伊那の中心ち飯田市で懸賞募集したとき、第一位に入選したのが先に書いた

 

「天竜下れば飛沫にぬれる
待たせやりたや
待たせやりたや檜笠」

 

という歌詞です。

 

現在、伊那節といえば誰でもがこの歌詞を思い出します。このように歌詞もその時代の生活感情とともに変わっていくのです。

 

またこれからの民謡歌手は日本古来の楽器はもちろんのこと、洋楽器のオーケストラでも歌えるようにならなければなりません。
もちろん楽譜が読めないのでは問題外です
こういった努力を怠っていれば、もはや民謡は一部の懐古趣味の人々の古めかしい感傷の中だけしか存在をゆるされないようになるでしょう。

 

海の民謡・山の民謡

 

四面のすべて海の囲まれている日本には、昔から数多くの海の民謡が生まれました。海の民謡は、船乗り唄、大漁唄、いずれを問わず日本民謡の中で、最もスケールが大きく、そして美しく力強いものです。そこには海に生きてきた男たちのたくましさ、おおらかさ、はげしさが実に見事にとらえられています。
大空と、潮の香を運んでくる海風、そして赤銅色にに光り輝く海の男の、たくましい男性美……一つとしてスケールの大きい歌の民謡の材料にならないものはありません。

 

こうして私たちは数多くの海の民謡を持つようになりました。私がレコードに吹き込んだものだけでも「ソーラン節」「斉太郎ぶし」「はんや節」と三曲あります。
この他にも「遠島甚句」「大漁節」など現在広く歌われている海の民謡は枚挙にいとまがありません。
「ソーラン節」「大漁節」のあの男性的な雄大な歌は、高くハリのある豊かな声でうたってこそ味があります。それは潮風にきたえにきたえられた漁師の喉で歌いつがれてきた民謡だからです。
「斉太郎ぶし」の切々胸をしめつけられるような哀調は、海に生きる男の人間性をあますところなく私たちに教えてくれます。

 

私は、こういった世界にほこるべき日本の海の民謡を永久に歌い続けていきたいと思っています。先日、あるファンの方から「あなたが歌った「島の船唄」や「船頭追分」は、昔から歌い続けられてきた民謡とともに、新らしい時代の民謡として歌い続けられることでしょう。」というお手紙をいただきました。「島の船唄」や「船頭追分」が、私たちの祖先のたくましい労働の間に発生した「斉太郎ぶし」や「ソーラン節」のようなすぐれた民謡に連なるものとして皆さまに歌っていただくことができることは、わたしにとって最大の名誉だとおもっています。

 

こういった海の民謡に対し、山の民謡、つまり山唄には、どこの地方のものでも、のぞかな感じにあふれています。
雪にとじこめられた長い冬も終わり、大自然が再び活発な生への営みをみせはじめます。
貧しい地方の若い男女は、新芽のもえいずるを狙って、山にワラビやゼンマイなどを青物をとりにでかけます。こうして山仕事は、農村の若い男女を、長い冬からそして家からも解放してくれたのです。

 

山仕事は若い男女が、口やかましい老人たちの監視されることなくお互いに青春を謳歌する場所をつくってくれました、ですから山唄の多くが、山のこういったワラビやゼンマイとりの仕事の中で芽生えた愛情をうちあける恋の唄であるのも当然といえましょう。
「十五七が、山のぼりに、笛吹けば 峯の小松は皆なびく」という「津軽山唄」は私が「さすらいの唄で」の名でレコードに吹き込んでおりますが、最も素朴で最も美しい山唄のひとつです。

 

民謡の唄い方

 

よく私は民謡はどう歌ったらいいか、というご質問を皆様方からうけます。そのたびに困ってしまうのですが、そのお返事としてここでは私が民謡を歌う上においていつも気をつけていることを述べます。

 

民謡は(1)声(2)節(3)情緒といわれています。
まず(1)の声ですが声の質は人間が持って生まれたのでどうしょうもありません。しかし、発声法を勉強し声を訓練することによって、自分の声を「鍛えられた」声にすることができます。いくら美声の持主でも、声の出し方を知らないのでは宝の持ちぐされになってしまいます。

 

第2の節(ふし)ですが、民謡では小節をきかせることが大切です。それに単調で一本調子にならないことです。始めから終わりまで犬の遠吠えみたいに、ガムシャラに声をふりしぼって歌う人がいますが、そんなことはエネルギーの浪費です。固くならずに、声を張るべきところは強く張り、おさえるべき所はぐっとおさえることです。つまり出来るだけ軽く流して突っ込む所を思いっきり歌い上げるのです。このカン所が大切です。

 

最後に情緒ですが、これはその地方らしい情緒をどのようにしたら歌に生かせるか、ということになります。
たとえば九州の「黒田節」に東北地方の相馬盆唄の情緒をそのまま持っていったって「黒田節」にはなりません。やはり「黒田節」には九州らしい情緒が必要なのです。

 

以上三つの点いつてい述べましたが、大切なのは心をこめて歌うことです。いくらテクニックだけが先走っていても歌う「心」がなければ他人の耳には空々しいこととしてしか響きません。これは流行歌でもジャスでもシャンソンでも同じことだと思います。私は自分の歌を決してとびぬけて上手だとうぬぼれていません。しかし、どの歌も、心をこめて歌ってきたつもりです。

 

津軽三味線

 

私がステージで自分でひく三味線は、玄人の方からも非常に好評を頂いております。民謡には三味線がつきものです。私が三味線をひきはじめたのは13の年ですから、もうあしかけ十五年も三味線を自分でひきながら民謡を歌っております。
私が最も自信をもっているのは津軽三味線です。あの連音符がやたらに多い、急速調の三味線奏法です。この津軽三味線について私の考えを述べてみましょう。

 

三味線は琉球が渡来したと言われています。インドシナの安南地方には、今でも日本の三味線、琉球の蛇皮線に似た三弦楽器が残っているという話ですから、そういった東南アジア地方から島伝いに琉球を経て日本につたえられたものと思います

 

この三味線が日本列島を南から北へと伝えられてゆくとき、その道は二つに分かれました。一つは太平洋沿いに北上し、一つは日本海沿いに北上しました。このうち、太平洋まわりの三味線は、義太夫や浄瑠璃に採用されて一躍脚光をあびました。それは洗練され磨かれて都会芸術として鑑賞されました。

 

一方日本海周りの三味線は、北陸から津軽に入り、ここで津軽三味線として大成しました。私は自分で津軽三味線をひいてみて、その生命ともいうべきこまかくころがしていくさわりが、大薩摩に非常によく似ているのに驚きました。

 

津軽地方には「ゴゼ唄」と称するものがあります。「ゴゼ」とは、漢字で「盲女」と書きますが、字の如く目のみえない女の人ということです。
昔から越後方面から東北地方の裏日本地方に、盲の女に人たちが、三味線をひきながら民謡をうたって「門付け」して歩く風習がみられました。つまり一軒一軒流してあるくのです。津軽地方では「コジキ節」ともいいますがこういった盲の女の人たちは裏日本を北上して本土の一番北にある津軽地方にまで、「コジキ節」を持って門付けして歩くのが決まったルートになっていました。

 

津軽までくれば本土のどんづまりです。中には、ここから越後まで引き返していく人々もいましたが、中にはこの津軽地方に住みついてしまう人々もいました。こうして津軽地方では「コジキ節」が次第に大衆のなかに間にひろまっていったのです。

 

津軽ものといわれる一連の民謡があります。これは津軽地方独特のもので、この「乞食節」が次第に大衆の間に広まっていってのです。
津軽ものといわれる一連の民謡があります。これは津軽地方独特のもので、この「コジキ節」が発展したものといわれていますが「じょんがら」「よされ」「おはら」が中でもゆうめいです。

 

そして津軽のこういった民謡では、三味線が非常に重要な要素を占めています。民謡の唄の部分を生かすも殺すも三味線にあるのです。津軽三味線の妙味は日本民謡髄一のものといえましょう。津軽ものでは、歌い手のふしに関係なく三味線のふしが変わるのです。つまりアドリブの妙味なのです。この三味線の譜のアドリブの妙味は何ともいえないものです。

 

これは私個人の考えですが、あの津軽三味線の急速調のひき方は、門付けして歩く流れ者が、寒いとき、湯治場なので湯に入って一杯機嫌の人々に、がむしゃらに三味線をひきまくって、お金を取る、という彼等の生活問題が直接影響したものと考えることができると思います。青森県に浅虫(あさむし)という有名な温泉があります。この温泉に一夜の宿をとる旅人たちが、貧しげな民謡歌手がひく津軽三味線に、どれほど旅情をなぐさめられたか知れない、ということが古い文書にのっています。

 

このようにして津軽三味線は津軽の民謡にとってはなくてはならないものになりました。この津軽三味線にあわせては、雪の深い津軽の地方の農民、漁民が、一日の仕事の疲れをこの地方の民謡をうたってなぐさめていたのです。歌が次第に熱をおびてくると、三味線の方もあらゆるテクニックを駆使してアドリブ(即興演奏)の妙味をみせてきます。
そして歌も三味線も一つにとけこんで熱狂的な騒ぎのうちに、夜はふけていきます。
私は津軽三味線をよく夜のつれづれにひきながら、私たちの祖先の人々のそうした集まりを頭におもい浮かべるのです。このようにして、津軽三味線はあくまで野の芸人によって徐々に技術的に高められていったといえるでしょう。都会のある一部の限られた人々に奉仕するてためのものではなく、野に山に働く大衆のたまのものとして成長してきたのです。

 

都会の三味線、義太夫や浄瑠璃に取り入れられて発達した三味線、お座敷芸術として発達した三味線が、すべて坐ってひくのに対して、津軽三味線は立ったままひくところに特色があります。私のステージをごらんになった方はよくお解りのことと思いますが、この立ったままにくというところに津軽三味線の特異性があります。

 

 

ではなぜ津軽三味線だけが立ってでしょうか。これは津軽三味線があくまで、名の知れない人々によって伝承され、発展させられたからです。彼らの歌は「コジキ節」といわれる門付け専門の歌です。門付けするのに一軒一軒その門の前ですわっていたら、これでは商売になりません。彼等は家の門の前で立って三味線をかきならしながら得意のノドをきかせたのです。

 

こうして義太夫や浄瑠璃の三味線の名人が、「名声」と「栄誉」と「富豪」を得たのに対して、津軽三味線の名人は大衆を喜ばせ、そして誰にもしられずにこの世から消えていったのです。都会芸術の三味線の名人が、昔は支配階級のおかかえものとして贅沢に暮らし、現在でも文化功労賞のような名誉に輝くことができるのに、草深い地方の大衆の間に育った津軽三味線の名人たちは、何等の名声も栄誉もそして金銭の報酬もなく、わずかに大衆の心に消しがたい印象を残したのみで、この世から消えていったのです。

 

だからといって津軽三味線が義太夫の三味線より芸術的でないとは絶対にいえません。
このヒトサジユビ ナカユビ、クリスユビ、コユビまで使ってはずみびきをする津軽三味線の妙味は、一流の義太夫や長唄の三味線の専門家でも絶対に出せないものなのです。

 

北海道や東北地方には数多くの民謡の興行組織があります。それは実に面白みのあるもので何時間でもあきません。その中でも素朴な津軽三味線は、一度耳についたら絶対にわすれられない印象をきく人に与えます。
私は、この埋もれた「野の芸術」を世間の人々にぜひ紹介したい強い念願をもちつづけてきました。いや、私に背負わされた義務とさえいえましょう。東京のステージで津軽三味線を紹介したのは、私が最初ではないかと思います。私の津軽三味線の中から、野に生まれて育った「津軽三味線」のよさを少し汲み取っていただけたら、私にとってこれ以上の幸福はありません。なぜなら、それは私の、大衆の間に生き、大衆のために演奏し、そして大衆の間に埋もれていった津軽三味線の先輩に対する感謝の気持ちが、少しでもみなさまにわかって頂けたからなのです。

 

『江差追分』の思い出

 

 

私が幼少のころから歌いつづけ 12歳の時はじめてレコード吹き込みをしたものとして「江差追分」は私にとっては一番親しみ深い民謡です。

 

この「江差追分」は津軽地方から北海道にわたって大成されたといわれております。津軽地方の民謡で「謙良節」というのがあります。これは越後新発田の松崎謙良という人が作ったものといわれていますが、この津軽地方の民謡と、小諸追分の系統の「追分」が合わさって「江差追分」が出来たということです。

 

「江差追分」はまた「松前節」ともよばれています。江戸時代、蝦夷島とか渡島とかよばれていた北海道は、福山の地に松前城を築いた松前藩の治下にありました。内地との交渉は昆布とニシンの移出が主なもので、今でも北海道はニシンの本場として有名ですが、元禄時代になると、毎年春先の漁期ともなると、江差地方のニシン場には、東北、北陸方面から威勢の良い「やんしゅ」と呼ばれる出稼ぎの若い人々が集まって、江戸にもない賑わいをみせました。

 

このようにして国を遠く離れて出稼ぎに来ている人々の故郷への郷愁が「江差追分」の悲痛な哀調となったのです。
この「江差追分」には前歌、本歌、後歌があり、いろいろな歌詞で歌われています。昭和初期に「江差追分」の名人としてならした三浦為七郎は、私の叔父に当たりますが、私はこの初代に続き、二代目三浦為七郎を襲名しております。

 

この「江差追分」には源義経のロマンスがからんだ面白い伝説がありますが、以下はこれについて私が中野高校時代、学校の校友会新聞「桜山」に発表したものを再録します。
当時はまだ高校生のこととて、勇んでペンをとったのですが、今読み返してみると文章の硬さに驚くばかりです。でも、当時の私の姿がとてもよく出ていると思いますから、そのまま手を加えずに再録します。

 

源の義経の言説と追分節の起源

 

伝説によれば丁度今を去ること八百余年前、源義経は兄者の頼朝との勢力争いの為ついに追われる身となった。
衣川では片腕ともたのむ弁慶に討死にされ、四、五人の護衛とともに落ち延びてきたが、固まっていればお互い不利な点から、止むを得ず一人、一人別れる事にし、義経は単身信州の木曽路を経て東北青森方面へと逃れた。昼間は発見される恐れがあるので、夜中でなければ歩けず、それも変装しなければならなかった。髭は伸び放題あり、衣は綻びて、さながら乞食同様の格好で漸く追手の目を逃れ、或漁村へと落付くことが出来た。

 

しかし、頼朝は気狂いのような暴君であったので、草の根をわけても探せよ!と下知を下した為に、なお一層の拍手の手厳しさが増して来た。果たして義経の隠れている部落へも手がまわり、村人が訝り始めた或晩、彼は少量の食料をたずさえて、一艘の小舟に乗り海の彼方へ脱出してしまった。

 

行けども漕げども海また海、方角は全然見当が付かず、明けては暮れるのを数日を過した早朝に、ふと、かもめの鳴く声に目を醒ましてみれば、遥か彼方に青葉の茂った山々が眩い程太陽の光線を反射して美しく輝いていた。
彼は勇気百倍、近くの陸続きの岩へ漕ぎつけて巖上へ飛び上がった途端、人声が聞こえるのでハッとして小舟に飛び乗ろうとした時はすでに遅く、見慣れぬ部落人が抜刀して口々にシャモシャモ(内地人)と言いながら襲いかかってきた。

 

義経は無我夢中である。彼は慣れた手練のはや業で忽ち二三人を取ってはなげつけたものの、極度の疲労から今は観念して巖上にどっかと腰を下ろしてしまった。と不思議なことに部落人は急に襲いかかることを止めて彼の前へ跪坐して礼拝した。

 

義経はおおよそ大和ではないことを知り、身の安全を保てるを推察cすると首領らしき人の態度をじっとみた。敵意はなさそうだし彼の命ずるに儘に同行することにした。自然環境に慣れるに従って、此処は蝦夷国積丹半島で、自分の身の回りの世話をしているのが土人の尊長で「緇餒箇辺」とい名であることもわかった。彼の勢力は南下十余里、敷島内の部落より東は遠く全市古平、高島まで領土とする程の猛漢であった。この猛漢に一人の優しい娘があった。芳紀十八、名も姿にふさわしく 婦琢几姫と言った。此の父に此の娘、蕀おそろしき木に艶なる薔薇の咲くに似ている。

 

父の命により娘は同族の若者某を婚約が出来、一夜彼の巖上に篝火を焚き、夜明け方カンムイ岩の神霊に向かって誓の詞を捧げようとした。その刹那、義経が巖上に飛び上がってきたので、尊長は憤怒し義経にきりかかったが、尊長はもんどり打って投げられたので、鬼と畏れた尊長の恐縮さを見ては多数の子分も肝を潰す外なかった。
しかし、この荒海をシャモの来る筈はない。正しくカンムイ岩の神霊だと思った尊長も姫も皆といっしょに彼の怪物にたいして跪坐して礼拝した。

 

この様なことも年月を経る義経には薄々解って来た。彼は土人の皆より敬意を表されていた。
フミキ姫の病気を草の根をのませて全快させたりした。こういったことも彼の尊敬の心を加えたし、姫と合歡の式をあげる筈の某も感謝の意を表した。
義経は土人の間に武勇の神として崇められ、名は矢張りヨシツネサマとよばれていた。やがて某の妻となるべきフキミ姫はいつしか恋を得た。恋の相手はいうまでもなくヨシツネサマであった。頼朝に追われ、身の危険を冒して漸く命を拾うことが出来た義経には、、都に残してた妻子との別れをおしんで再起を心に誓った実臣の行く末を案ずれば、恋の虜にはなれないのであった。

 

たとえ、尊長を説き伏せて都へ攻め上るとしても、それは到底想像だに及ばぬことであり、さればとて此の儘過すことは無意味な気がする彼ではあった。フミキ姫はアイヌ特有の情熱ある眼をもち野性美を発散させて月夜の番、熊祭の夜などは黒鶏を左右に分け肩まで垂れて、センカキと称する布で鉢巻をなし。土人の群れに交じって踊りは誠に優美可憐なメノコであった。姫が苦悩を希望とに幾夜の夢を破ったか想像するに難しからぬことである。姫は一夜怪しい夢に寝巻きのまま彼の巖頭に走った。

 

姫の恋はついに破れた。今しも激浪怒涛にもまれながら一葉の偏舟に棹さして行き去るは恋しい恋しいヨシツネ様であった。
姫は声を限りに懸人を泣き叫び、招き呼んだ。けれども無駄だった。偏舟はカンムイ岩の辺に影に消えた。姫は自らも恋人の後を追わんとした。きゃしゃな身を絶壁より躍らんとする瞬間、父の腕に抱きとめられていた。
姫は恋人の名を叫んで止まなかった。果ては妾の良人を失ったと叫んだ。

 

義経をを神霊の化身と信じていた姫の父は姫の告白に驚愕せざると得なかった。誓言した男をすてて神人に恋をしたのは悪魔だと父は判断した。悪魔は退治しなければならぬと決心し父は神霊に罪を謝せと迫った
姫は父の意を汲む暇を有せず巖頭から身を投じようとした。
父の手の匁は、一閃。姫の背からは血が流れ、姫は恋のために命を捨てたのですある
姫の婚約した若い男は姫の死後、一日たりとも巖頭を見わわぬ日はなかった

 

北海にも寒い冬は去って暖かい春がやって来た。
花が咲き鳥が歌い出した頃、姫が最後を遂げた巖頭の跡に不思議な草が茂ってきた。高さ三尺から四尺ばかりで扁平な葉が簇っているのである。

 

土人等は姫の名をその儘に婦琢几草と名づけた。失恋の男は亡き姫を草葉を口におしあてて吹奏するのであった。
妙なる音のしらべは脚下に飛沫をあげる波の音に和し、恰も姫が遠く去りゆく義経を恋い慕って泣き叫ぶ如く、または彼の男が心から訴えるが如く、哀調切々たる悲哀の絶調を聞いては武骨の土人なども只一人貰い泣きせぬものはなかったのである。

 

今もなお、その悲哀を物語り、人口に膾炙せる文句に

 

忍路高嶋及びもないが せめて歌棄磯谷まで

 

今日の俊志、積丹半島の北端にお神威岩という巨岩がある。それが追分節の伝説の所以である。

 

「註」松前追分と信州より開拓の為に流れついた歌とがあり自分の場合は前者を取ってある程度の資料を得て随筆風に書きました。

 

民謡のこころ

 

この対談は、読売新聞の阿部亮一さんと文化放送で「民謡のこころ」と題して行ったものの中から一部を抜粋したものですが、この中に私の日頃の民謡に対する考え方が阿部さんの巧みなリードで要約されていると思いましたので、ここで採録した次第です。

 

新しき民謡の創造、民謡の海外進出など日頃の私の考え方を、ここにテーマとして提出したわけですが、すくなくとも私は、この実現に努力を生涯かけてつづけて行きたいと思っています。なお、この対談は今年(31年)八月二十八日に放送されましたものです。

 

安倍 
三橋さんは民謡の研究会をやっていらっしゃるそうですね。

 

 

三橋 
ええ、私はもともと東京へ飛び出して来た頃から、三味線と民謡の教師をしていたのですけど、…。そのうち青年新志会というのをつくりましてね、
日本民謡協会の中にですが、…ここに浦本理事長という方がいまして、この方へ慈恵医大の総長だった方ですが、大変に私たちに理解を持っていてくれましたので、いろいろと新らしい試みによる行き方を研究していました。

 

ところが民謡も古いことにあまりにもこだわりすぎると発展性もなくなります。そこで吾々の意見と古い方々の見解とがときに対立することがありましてね。まあ、例えて言えば、一つの語呂廻しがあるでしょう。民謡の中には、その語呂廻し方が少し違うと、それはウソや、という。
そういうことより私なんかは、情緒というもの…、土地のローカルカラーとでもいうべきものですか、そうしたことに主眼をおいて新しいものを創ったなら、その方が大衆にアッピールする方向にすすんでいくものだと思います。
そういた点ではなくなった中山晋平先生が童謡とか「十日町小唄」とかを作っていますね。そういったものでも民謡の中にはいっていますが、時代がたてば、あれも純然たる民謡の部に入っていくんじゃあないかと思っています。

 

安倍
今月は何か民謡をふきこみましたか

 

三橋
ええ、「木會ぶし」をいれました。これまた調子の良い歌ですが、とても感じを出すことがむずかしいんですよ。私は北海道生まれなもんですから。木會の方のように歌えるかどうか、それは疑問なんですが、一生懸命に研究してうたってみましたら案外よかったので安心しました。

 

安倍
僕は民謡というものを保存してそして発展させるために二つの道をとるべきだと思うんです。一つは純粋の民謡というものを完全に文化財として保存していくという方法、つまり本当の民謡の唄い方をその土地の人々に唄ってもらって、それをテープなんかに保存して残しておく。

 

三橋
そうですね。しかし、それはあくまでも一つの行き方です。文化財としての。

 

安倍
それから、いま三橋さんがいったように若い人たちにアッピールするような新しい形の民謡を作り出していく方法と…。

 

三橋
私は最初から考えていたんですが、どうせ歌手になるなら民謡歌手の方が流行歌手よりも貫禄があるんです。クラッシックですからね。しかし、大衆に民謡を理解していただくために、そういう流行歌の面からも大衆を引っ張って云って、そして自分の国の民謡になじませるということですね。これは大変すずかしいことではあるんですが…。
また考えように」よっては私の生き方はズルいかもしれませんけどね。まあ、そんな意味で「おんな船頭唄」とか出てくるんですけれど、私はそう言ったものから日本の庶民の良さ、庶民生活の底に流れる一つの時代の変遷といったもの、つまり日本の風俗とか年代とかいうものからにじみでたもの、それを引きずり出して行きたいと思っているんです。

 

安倍
それは僕たちも大いにやってほしいと思います。それからね僕たち小学校のとき、いろんな小学唱歌というものを習いましたね。その中にはスコットランドとかアイルランドとかいろいろな国の民謡が含まれていました。そして何の抵抗もなく歌ったり聞いたりできる。スコットランド民謡とかイギリス民謡 ドイツ民謡とか、外国にもいい民謡が多いですね。、民謡は国境というものを超え、民族というものを越えてなにか共感をよぶものがありますね。

 

三橋
そうですね。国境はないですね。そういう芸術というものには国境はないですね。

 

 

民謡の海外進出

 

 

 

安倍
だけど、日本人自体が日本の民謡というものをもっと大切にすべきだと思います。

 

三橋
いま、民謡が全盛期だとか何とかいろいろ言われていますが、私には民謡が消えるセツナでもあるような気がします
これは若い人にも理解してもらいたいことなんですが、新しい簡単な歌でもいいんです、これを唄う場合、日本人が唄った場合にですね。対外的につまり外人がみて、これは日本の民謡だ、と言えるようしにしたいこれを日本人が、まあ民謡のオーソリテイの方々が、どこまで、こうした面のことを理解していただくかが問題ですが、すくなくとも私はとういうことをやっていく積りです。

 

安倍
それから、外国からクラッシックの歌手が来る場合、イタリアのオペラ歌手、ドイツの有名なリードの歌い手でも、必ず自分たちの民謡をもってきますね。これとおなじように日本人の歌手も海外に進出する場合に日本の民謡の良さを紹介するようにしたいものだと思います。

 

三橋
そうですね。それはたしかに必要だ

 

安倍
やはり三橋さんには、今後そう言って民謡というものを…

 

 

三橋
自分の一つの生き方というものは、大衆の方に判っていただけると思いますが、結局、自分の民謡を生かしながら、その間に歌謡曲を中に入れて行く…大衆の方々の喜んでいただける歌を唄いたいと思っています。

 

安倍
これは、ちょっと聞いたんですが、アメリカの一世 二世の日本人の連中が三橋さんの歌をききたがっている

 

三橋
この間、シカゴの方が、これは或会社の奥様なんですが、二世なんですけど、私の歌が好きでしてね。わざわざ日本へ観光団でやってきまして、わたしの会社を訪ねてきましたよ。私の吹き込みをみて、私のレコードを全部買っていきました。向こうでは売り切れてないらしいんです。ハワイから米本土の方でも、お陰さまで私の評判が良いんですって。それでね、本間さんという方がいるでしょう。北海道のその方の話もあり、ハワイからの話もあるしね。一度民謡の普及に行ってきたいと思っています。

 

安倍
僕たちもぜひそうして貰いたいと思います。日本の民謡を引っさげて、日本の民謡を唄い、その良さを、それは結局日本人の良さだと思うんですが、それを理解させて貰う

 

三橋
今まで日本人の方が行ったことがないでしょう。男性ではね。女性の方はよく行くのだそうですが、そこで研究を発表する意味からもぜひ行きたいと思っています

 

安倍
では三橋さんどうもいろいろありがとうございました。

 

終わり

 

*三橋美智也さんはこの当時、ラジオ番組をもっていました。
昭和31年秋から始まった文化放送の「キング三橋美智也ショー」です。玉置宏さんが司会でした。「夜の7時から始まる週一の30分番組で、当時人気絶頂だった三橋さんの歌とトークの番組でしたが、まだSPレコードが主流の時代に、キングレコードのマザーテープをつかって曲を流すのですから、音質がけた違いによく、それも大きな話題になっていました。」(玉置宏の昔の話でございます)より

 

あいうえお