津軽三味線「ながれぶし」の思い出 山田五十鈴

 

一昨年、津軽三味線「ながれぶし」を帝国劇場で上演した折に、三橋美智也家元に共演していただきました。わたくしは、清元や、長唄には、以前から親しんでおりましたが、じょんがら三味線には土着の力強さ、郷愁をさそう響きがあり、家元の御熱心なご指導のおかげでやっと音を出すことができました。以来、舞台やテレビでごいっしょすることも多くなり大層うれしく思っております。

 

 私事で大変恐縮ですが、私の最近の舞台は三味線・琴・胡弓・小鼓・大鼓と劇中必ずといってよいほどの和楽器を演奏する場面が多く、そのけいこの中で、ただ和楽器を修得するというだけではなく、その音色の中から演じる役の心を汲みとろうとういたしております。また家元にはステージに立つったり、芝居に出演する折の真摯な態度の中に広く民謡の心を求め、さらにそれを発展させていこうとする姿勢がひしひしと感じられます。

 

歌は一曲三分で人生を語り、芝居は三時間で人生を演じると申しますが、時間の長短はあっても、共に人生をそして心をあらわすことにちがいはありません。この度の25周年に際し、こののちも家元と民謡三橋流のご発展をお祈り申し上げるとともに、私も家元に負けないように芸にはげもうと心に誓っております。

 

おめでとう 25周年  森下八利

 

歌手生活25周年おめでとう。私と三橋さんの出会いは丸20年前に遡る。33年7月2日在職中野QRで雑誌平凡提供、DJ番組のはしり「平凡アワー」に出演、四谷を基地に大島航路淡路丸(阿里道子さん乗船)と日本遊覧航空のセスナ機にそれぞれFM無線機を搭載、大島元町のホテルにステージ設けて四元中継放送を行った時だ。          司会は三橋さんの後輩の玉置宏さん。セスナ機に三橋さんと小桜京子さん、私は無線担当で同乗した。企画はデイレクター田中敏夫君の発議。当時では実に手の込んだユニークな番組で、三橋節を中心に大くのファンを魅了させた。

 

セスナ機が船上を超低空で旋回するたびに三橋さんは窓際におしつけられ、私は必死に無線機にしがみつき夢中で中継したことが思い出される。20年後の今日、三橋さんはわが社の「電撃ワイドウルトラ放送局」のレギュラーパーソナリテイとして多くの若者を対象に頑張ってくれています。これまでも栄光を顧みず「今からが私の新しい第一歩であり出発である」とふたつ返事で快諾下さった心意気とチャレンジ精神に心から敬意を表します。
つい先日東名中央ccでのお手合わせで、一打一打を真摯に全力傾注する姿とマナーの良さに教えられました。息の長い歌手として益々の御発展と師匠として後輩の指導育成を期待します。25周年本当におめでとうございます。

 

<北海道・東北>

 

  民謡研究家 須藤恭央  三橋美智也とソーラン節

 

三橋美智也は北海道・函館近郊の上磯のうまれであり、生粋の道産子である。
彼の母・サツは、当時絶世の美声の持ち主で当時北海道の民謡家が好んで唄った、追分節や博多節をうたわせると右に出る者がいないほどの唄い手であった。三橋美智也はこの母のきびしい指導で四歳のことから唄い始めている。
また彼のおじに、江差追分の不世出の名人といわれた三浦為七郎がいる。美智也少年はこの人の影響もうけて民謡に精進した。
さてソーラン節は、元々鰊漁の時に歌われた、一連の作業歌の中に一つで、沖で枠網に追い込んだにしんを、大きなタモ網で船にすくい上げる時にうたった、力強い唄である

 

 彼三橋美智也のソーラン節は、一口に言えば、オーケストラ(洋楽)の伴奏に乗せて唄っても、漁労の気分や、潮の香りをまったく失わない、純粋に民謡のこころを伝える、数少ない歌の一つであろう。
今、ますます、その芸に円熟味をましてきた三橋美智也の今後の精進に期待したい。

 

(青森放送) 松木宏泰         津軽路取材行によせて   

 

三月も末だというのに吹雪が地を這っていた。
津軽路に民謡の源流を求めて、三橋美智也さんと満留デイレクター一行がやってきたのは、そんな日だった。私は内心、この劣悪の天候では悲鳴をあげてそそくさにホテルに引き上げようと言い出すのではないかと思った。
吹雪はますますつのり、岩木川沿いの道は白魔の世界で一寸先も見えない。三橋さんはそれでも一向平気で、精力的に民家へ飛び込んででは土地の民謡を聞いた。
十三湖では、三橋さんのファンだというおばあちゃんが痛い足をひきづりながら会いにきてくれた。目を閉じて古謡を口ずさむおばあちゃんは「ほかの人ァ、みんな嘘唄にしてしまって…三橋さん、本物を伝えられるのはあんただけだ」と言って涙ぐんだ。二人の固い握手に私もおもわずじいんときた。

 

 (梅若流宗家) 浅野梅若  お祝いの言葉

 

終戦後の混乱と、動揺が続いていたころの夏で、しかも特に暑さがきびしかった日、奧羽線横手駅で師匠の白川軍一郎先生ご一行と巡業中の三橋先生と偶然にもあったのが、私の初対面で、その日を今なつかしく思い浮かべています。
その後まもなく、上京されたと聞き、その大成を祈っていたところでしたが、限りなき努力と天性で人生の哀歓をうたいあげたすべてが、大ヒット一躍歌謡界の黄金時代をきづいてくれたことに、大きな声援をおくっていたところです。
 三橋先生の歌は、民謡調が主ですので、それが基盤となって、全国津々浦々に至るまで、民謡ブームが続いておりますことは、先生の大きなご貢献のたまものであると、深く感謝と敬意を表するものであります。
あれからもう30年、歳月の流れは誠に早いものですが、これから益々ご壮健で芸道ひとすじに、ご活躍くださいますよう遥かにお祈り申し上げます。

 

 

(岩手県知事) 千田正  三橋美智也歌手生活25周年を祝う 

 

三橋美智也さんの歌手生活25周年にあたり、心からお祝い申し上げます。

 

人には常に自然を愛し、美を求め、こころ豊かで生きがいのある生活を願っているのでありますが、、この日本の美しい風土をさながらに、広く日本人の心をとらえ続けてこられた三橋さん歌業には、まさに敬服のほかはありません。

 

 三橋さんの歌は、我々の生活の中に溶け込み、生き続け、人々の心に喜びと潤いを与え続けてまいったのであります。しかも民謡のみならず、歌謡曲に三味線演奏にと幅広く活動されたことが、単にファンのみにならず各界、各層の人々からも愛され続けてまいったゆえんであると思います。

 

一口に25周年と申しますが、それはまことに長い年月であります。しかし三橋さんのご活躍の年月を思うとき、それがすこしも長く感じないのは、いつまでも若さを感じさせる芸の深さと幅の広さによるものでありましょう。日本の古い民俗生活のなかから、いつとはなしに生まれ、風土と人情に育まれ歌い継がれた民謡を、いつまでも伝承していくことが我々の責務であるとおもいますが、とくに民謡の宝庫東北においては、なおさらであるともうせましょう。
このような意味において、三橋さんが「南部牛追い唄」「南部馬方節」「沢内さんさおどり」など岩手の民謡をはじめとして東北の民謡を歌いあげてこられましたことは民謡の保護、継承の面においての貢献もまことに大きいものと感謝いたす次第であります。
芸能生活25周年、更に飛躍して、大衆と共に歩み日本民族の心を歌い上げてくださることを多くのファンの方々共に心から祈って止みません。

 

 

 

(歌手)  大塚文雄    歌手生活25周年によせて         

 

私が日ごろ尊敬する大先輩、三橋美智也先生の歌手生活25周年記念誠におめでとうございます。
昔から十年一昔と申します通り、25年の歳月は並々ならぬ、不撓不屈の連続であったと思います。
想い起せばこの長い期間、とくに敗戦後の日本歴史上はじめての試練のとき、三橋先生は常に時の流れをでデモクラシーの不消化を、凶悪犯罪の激化をあららけき人の心を何時も、次々とヒット曲にて唄い続け慰め、労り、職場に家庭に新しき時代の夜明けを位置づけ、勇気づけてくださいました。私も拙い乍ら芸道一筋にまい進できますことは、少年時代から三橋先生に憧れ、そして三橋先生の基道に乗せていただいた、暖かいご指導、ご鞭撻の賜物と常に感謝しております。どうそ今後ともますますご健勝で道進展充実の為にご尽力あらんことをお祈りいたしまして今回の先生の御栄誉を心からお祈り申し上げます。

 

 

(東北放送デレクター)大友寿一

 

宮城県を知らずとも、この唄はご存知でしょう。まさしく、国民民謡です。「さいたら節」と「遠島甚句」が組み合わさったのが「大漁唄いこみ」。海に生きる男達の大漁の喜びが伝わってくる躍動感に溢れた唄です。
古来、文人墨客が憧れた文学の里「松島」と牡鹿半島沖、三大漁場に浮かぶ霊島「金華山」がこの唄の背景となっているのです。三橋美智也さんの唄を聴き、一度でもお歌いになれば、あなたはきっとみちのく宮城への旅情をかきたてられるでしょう。

 

かつて俳聖松尾芭蕉が「松島の月まず心にかかりて」奥の細道を訪れ「松島は扶桑第一の好風にして…其の気色瞥然として美人の顔を粧う…造化の天工、いづれの人か筆をふるい詞を尽くさむ」と絶賛した「松島」と標高445メートル、周囲24キロメートル、マツ・モミ・ブナの原生林の中に500頭の鹿と70匹のニホン猿が野生のままに生きる自然休養林の「金華山」をこの唄を通して知って頂ければ幸いです。
因みに「大漁唄いこみ」の発祥の地、牡鹿半島、つまり遠島沿岸は全国51番目の国定公園に指定され「南三陸、金華山国定公園」として来年(五十四年)から宮城県の代表的観光地としてスタートします。

 

 

 

(歌手)春日八郎

 

三橋君25周年おめでとう。私も昨年25周年をむかえ、新しい心構えでさらに前進はスタートを切ったところです。同じキングキングレコードの良きライバルとしてはげみあい、今日まで歌ってこられたのも三橋君あればこそと思います。
昭和29年1月、私より一年おくれてデビュー。歌謡曲から民謡まで幅広い三橋君の歌を初めて聞いたとき、私は大変な脅威を感じました。民謡で鍛えた張りのある美声、独特のこぶし回しに聞きほれました。同時に安閑としてはいられない思いで心が逸ったものです。
当時のキングレコードは数多くのスターがきらめく星座のごとく居並んでいました。デビューして間もない不安定なわたしにとって彼の出現はほんとうにびっくりさせられました。

 

 一口に25年といってもけっして平坦な年月ではなかったはずです。歌の道に完成はありません。自分自身が変化していけば10年20年に出した曲の感じ方もちがってきます。時代背景によっても表現方法も変わってくると思います。常に新しい感覚を身につけていかねばならないでしょう。何よりも健康であることが要求されます。

 

 昨年一月あまり入院し、わが事にように心配しましたが、幸い大事にいたらず本当に胸をなでおろしました。2人ともまだ若いのです。今後もすばらしきライバルとして共に歌い続けていきましょう。

 

 

 

 

<関東・甲信越>

 

<茨城>(歌手) 佐藤松子

 

私が三橋さんに初めてお逢いしたのは、今から27、8年前に遡りましょうか。その頃は私も民謡協会に入会したばかり、三橋さんもお仕事をしながら民謡のお好きな人たちに趣味で津軽三味線を弾きながら、唄わせてあげたり聞かせてあげたりしておられるという頃のことでございます。

 

お仕事でたまたまご一緒することはございましたが、出番の都合でついぞ三橋さんのお唄をしみじみお聞きすることが出来ないまま何年か過ぎました。
あるタクシーの中で初めて聞いた歌謡曲が三橋さんが其の後のキングレコードに入社されて初吹き込みの唄と伺い、すばらしい声の方だなとびっくりいたしたものでございました。もう故人になってしまいましたが、私の母なぞ三橋さんの唄を聞くたびに「松子さんこんなすばらしい高音と低音がきれいな唄い手さんはいないね。私はこの人の唄をきくと胸がスーとするよ」たいへんな三橋ファンの一人でございました。
私もご縁がございまして同じキングレコードに籍を置かせていただいておりますが、これからも三橋さんには、歌謡曲と民謡で、若い方にも喜ばれるようなすばらしいお唄で、皆様をよろこばせて上げていただきたいと存じます。
三橋さん一緒にがんばりましょう。

 

 

 

<栃木> 作曲家 船村徹  ふるさとの民謡 日光和楽踊り=@

 

全国の中でも、私の故郷・栃木県の民謡として知られているのは数少ない。私が子供のころ、盆踊りのときに歌い踊られたのは日光和楽踊りが主で、所によっては同じメロデイで、郡や町によって地方毎に別な歌詞で歌われていたのを記憶しています。このような民謡は、歌も踊りもいつの時代になっても、聞く人の心に故郷への郷愁を与え、幼い日々の限りない想い出に導いてくれるものです。

 

こうした民謡も、この偉大なる歌手、三橋美智也氏の唄によって、昭和30年を前後して一大ブームを巻き起こし、ここに偉大なる実績を残しているのも、この人を置いて他にない。

 

 私と三橋美智也氏とは、歌謡曲の方ではいろいろお付き合いがあるものの、民謡の上では残念ながらご縁がうすい、この度歌手の生活25周年に当たっては、歌謡曲の方でその記念盤として「さすらい船」(シングル盤)の作曲を受け持ったが、その歌唱力は25年前を思わせるすばらしいものであり、これを機会に再び大輪の花が開くことを期待し、ともに願う一人であります。

 

 

<群馬>(草津料芸組合組合長)山崎むめ

 

群馬県の民謡といえば八木節と草津節をすぐ思いうかべますが私達芸を商売にしているものも民謡はとても大切にしています。他県からお越しのお客様にいつも群馬の民謡を聞いていただいていますが、どなたもさすがと感心されます。
その代表的な民謡の一つ「草津節」を、三橋さんの記念LPに加えていただくことは、県民の一人としてとてもうれしく思います。
一筋の道を25年とのことですがご苦労の連続だったとお察しいたします。
でもまだお若い三橋さんの事です。この25年を一つの契機とされまして更にご精進され、日本民謡界のためにご尽力くださいますよう、上州のそれよりお祈りいたします。

 

 

 

 

<埼玉>(埼玉県) 畑やわら  秩父の祭りと民謡

 

秩父には、四季を通じていくつもの祭礼がある。中でも毎年12月2日、3日に開かれる秩父夜祭り≠ヘ日本三大曳山祭りの一つとして全国に知られている。

 

 秩父路の秋は早く、浦山谷が色付きはじめたと見る間もなく渓谷は紅の錦につつまれる。そそり立つ山脈をぬうように、秋雲がせわしく流れゆく…。霜月ともなると、秩父連山はもう冬の装いで忙しい。木枯らしが風花を運ぶ頃、盆地のあちこちに秩父音頭の囃子櫓が立ち始め、やがて夜のしじまを破って祭りの馴らし太鼓の音が小刻みに耳許をかすめる。歓喜に沸く祭りももうすぐだ

 

この秩父の夜祭りは、寛文年間にはじまったというから既に三百余年の歴史をもつ。大波小波が打ち寄せるかのように屋台囃子が豪快に鳴り響き、ぼんぼりや提灯に無数のあかりを点した山車が、冬には珍しい、夜空に乱舞する仕掛け花火の中を急坂の祭場へ曳き上げられるころ、夜祭りは最高潮に達する。

 

 この秩父の夜祭で歌い踊られる「秩父音頭」こそ、我が埼玉県のもっとも代表的な民謡なのである。

 

 

 

<東京> (プロボウラー) 矢島純一

 

 大先輩三橋美智也さんには、現在も家族ぐるみのお付き合いを頂いておりますが、本当に頭の下がる生き方に感服しております。

 

 数年前、三橋さんがボーリングに魅入られ、多い時は一日50ゲーム以上を二人で投げ続けたこともありましたし、私がアドバイスしたことへののみこみは早く、さすがスポーツ万能の方と感心したものです。

 

 私は東京の生まれですし、田舎の良さは味わっていませんが、憩いのひと時、三橋さんの民謡を聞きながら未だ見ぬ故郷を想像しています。

 

 全国各地の民謡を、その土地の雰囲気で、丁寧に歌われていますが、中々大変なことだろうと思います。これからも歌の道一筋に、大活躍されんことを心から祈っています。

 

 

 

 

<千葉> (日本テレビプロデユーサー) 吉田勲明

 

三橋美智也さんといえば、幼くして「江差追分」をレコーデイングして世の人々をあっと驚かせた人物である。そして、津軽三味線のひき手の名人と云われた白川軍八郎氏に師事し、苦難を共にし、津軽もの独特の手法を学びとったのである。三橋さんは芸事には大変に意欲的で、東京キューバンボーイズと故三味線豊吉さんと一緒に「津軽じょんがら節」を演奏したのが最初であったとおもわれますが、その後寺内タケシさんと、エレキの競演等、三橋さんが挑戦するものは、ことごとく当たりに当っている。これは誰にでも出来るということではなく、三橋さんならではの事と思う。

 

昭和50年には、民謡三橋流を創設し、多くの弟子をかかえた立派な家元である。聞けば自分の敷地内の大きい道場(根本道場)を建て、民謡三橋流並みに、民謡専門家を養成すべく本格的に後継者作りに乗り出したと、もれうけたまっている。
ともあれ、我々ファンに、増々磨きのかかった芸を披露して楽しませてください。

 

 

<神奈川>(落語家) 桂米丸 25周年を迎えて 三橋美智也さんおめでとう
 
私と民謡との出合いは、十四年続いたTBSラジオの民謡のどくらべ≠セ。特別ゲストで出演した三橋美智也さんとのその折り以来のおつきあいだ。

 

民謡は心のふるさと、私達の心をなごませてくれる。
民謡の宝庫といわれる東北地方、その青森(訂正・北海道)出身の三橋さん、四歳でこの道にはいられ、津軽三味線は幼くして既に会得し、その天性と努力によって、民謡は勿論、それを基礎にした芸の力は、歌謡曲にも発揮され、数々のヒット曲を飛ばし、私自身もリンゴ村から≠ヘ一杯飲むとすぐ歌いたくなり、遂にご本人の前で歌う心臓にまでなった。

 

 楽屋でも、スター気取りのない三橋さん、私の崇拝する人だ、その三橋さんが今回、歌手生活25周年を迎えるとの事、心からお祝い申し上げるとともに、益々いい歌をどんどん世に送り出して欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 

<山梨> 山梨県社会教育の会会長 沢登初義  二十五の風雪に耐えて輝く富士 三橋美智也さん

 

三橋さんが歌謡界に不動の一歩を印した昭和28年。それは私が山梨県の社会教育主事として、県の教育庁に入った年でした。
日本の社会教育の草分け、創設の時代。昨日は青年の集い、今日は婦人の会合、明日はPTAと、連続する社会教育に、いつでも、どこでも、だれでも歌える故郷の唄を欲しいと、私は思い続けました。その願いにぴったりと合ったのが三橋さんの「武田節」です。

 

 作詞は私の師範学校の先輩米山愛紫、その米山先生から相談をうけて、作曲を明本京静氏に依頼し、さらにレコード化を山本丈晴氏を介してキングレコードに委託したのは私でした。
あれから20有余年、「甲斐の山々陽に映えて…」の三橋さんの武田節は、正に山梨県の唄になり、やがて日本の唄になりました。
歴史歌謡は君が…と、米山先輩からバトンを渡された私は、新府城、武田二十四将、富士の雲笠おどり、武田笛、月の南部城と武田の唄を作り続けました。これらの唄を、いつも心をこめてうたって、命あるものにしてくれたのは三橋さんでした。
三橋さんのこの歌声が、山梨県民の心に誇りを潤いを与へ、やがて武田を世にだす大きな力になってくれました。

 

山梨になくてはならない人 三橋さん
日本人の心の唄を支える人 三橋さん
思い出してください三橋さん、武田信玄の旌旗の詩
疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山
世は正に歌謡戦国、25の風雪を踏みしめて、風林火山で頑張ってください。心からご活躍を祈ります

 

<長野>(伊那市長) 三沢功博

 

三橋さんの歌には何かと思い出もありますが、この道ひとすじに25年とのこと、その偉大さに感心させられます。

 

特に私たちの住む長野県の民謡は、このレコードに納められている「小諸馬子唄」をはじめ、親しまれている歌がたくさんありますが、やはり「伊那節」を一番大切にしています。
海のない長野ですので、必然的に山のうた、里のうたが中心となりますが、それだけに故郷の香りが匂ってくるようです。
何かと喧噪な毎日が続いていますが、民謡を通して明るい社会づくり、豊かな家庭生活がきづかれるように切望いたします。
又、三橋さんにおかれましては、今後とも斯界のリーダーとしてのますますのご活躍を祈って止みません。

 

 

 

 

<新潟> 明治大学中野高校 石塚義一郎  おけさに寄せて 

 

「おけさ」は新潟県を代表する民謡です。越後地方では出雲崎・柏埼・寺泊・地蔵堂などの地名をつけて呼んでおります。中でも、「新潟おけさ」はもっとも洗練された唄として誇りある郷土民謡の一つであると思います。
一般に有名な「佐渡おけさ」は佐渡が島の「おけさ」を総称して呼ばれたもので、もとは島の各地域名をつけて越後とおなじような呼び方をしていたものです。
島の民謡らしく明るく大らかな唄いぶりに魅力があります。

 

「おけさ」くらい大衆に愛され、長い間うたい続けられた民謡は他に類をみないと自負している一人ですが、唄い手によってそれぞれ個性ゆたかでその人の郷土の匂いがするのも楽しみの一つです。
日本海の荒波を背景にして、雪と米の国に育てられた哀愁こもる「おけさ」を自分に与えれた一つの特権のごとくに唄うとき、上手下手は別として郷土への愛着が満足感を与えてくれるように思います。
九州から伝えられた「ハイヤ節」という唄を一番美しくこのように完成させた新潟県人のたゆまぬ努力の結晶として、根性のたまものと解釈してもよいでしょう。

 

<中部北陸>

 

<富山>北日本放送チーフデレクター 荒木賢秀  25周年LP発売メッセージ

 

三橋美智也さんの歌は、人間へのいたわり≠謳う青春歌だと思う。人間として、忘れ得ぬことができない、ふるさとの香り∞母の匂い≠ニいったものが三橋さんの歌の中に脈打って流れている。

 

 三橋さんの歌と、私の出逢いは、下宿住まいの学生の頃、そう、歌謡映画のはしりでもあったでしょうか、三橋さんの響きのある美しい高音で唄う「あの娘が泣いている波止場」の映画化でアルバイトをしていた時でした。

 

そして数年たって放送局に入り、歌謡番組を担当すると、常にベスト上位にランクされてきたのは「夕焼けとんび」であり、「赤い夕陽の故郷」であり「古城」「達者でナ」「星屑の街」などの名曲の数々であり、私が仕事で悩んだとき、悲しい思いをしたときおーいくよくよするなよ、しっかりしろよ≠ニ兄貴のようにやさしく語り掛け、勇気をあたえてくれました。
そんな三橋さんの歌が、数百曲に及ぶレパートリーの中から、今、精選されて、歌手生活25周年記念盤としてLP5枚組に納められるとは誠にうれしいことです。
25周年を機に、さらに精進され、いつまでも愛される歌手として君臨されることを祈ってやみません。

 

 

 

 

<石川>(作詞家)杉紀彦     山中節考

 

ポピュラーな民謡は数多いが、耳になじみ易いくせに、自分で唄うとなると非常にむずかしい…という唄の最右翼が山中節かもしれない。
そして、その事は不思議に北陸の文化的風土と一致する。
九谷焼、加賀友禅など、素人が決して手を伸ばす事のできない名人芸でありながら、どことなく親しみ易い文化的なフィーリングはまさに「山中節」そのものでもあるようだ。

 

よく民謡が土地の人心の結晶であると言われるが、京風な文化の流入を、雪と風で練り上げたような北陸文化の粋が「山中節」であるといったらほめすぎだろか。一つの文化が手に入ると、掌で守り、いつくしみながら、自分だけの形にこね上げてしまう北陸人気質は「山中節」独特の粋と、その難しさに生きているようにおもわれる。
あたりは柔らかいがそう簡単には陥落しないと言われる北陸女とおなじように「山中節」には、知らぬふりして通り過ぎることのできない魅力がある。

 

 

<福井>(福井新聞社事業部長)山田武雄

 

洋の東西をとわず、昔から人間は、うれしいにつけ,悲しいにつけ、それを歌や踊りに託してきた。しかもそれらは永年、地域地域の風土や方言によって育まれて受け継がれている。民謡もその一つである。だから民謡を口づさむ人は、ふるさとの山河や人情を思い出して、えもいえぬ郷愁≠ノひたることができる。。
これからもいろいろなメロデイが「世につれて@ャ行するだろうが、その栄枯盛衰の中にあって、ひとり民謡≠セけは、いつまでも、たくましく受け継がれていくことだろう。
こうした素晴らしい民謡は、電波メデアの発達で急速に広がり、かつて地域の唄も全国的なものになり、時には海外で披露されるまでに至っている。
こうした民謡ブームの中で、忘れてならないのは、古来の民謡が現代人の感覚にマッチするようアレンジされ、それを絶妙に歌い上げ磨き上げた民謡歌手のの功績である。
その第一人者が三橋美智也氏であることは論をまたない。その彼の集大成といえる全集が完成したことに、心から祝福を贈りたい。

 

 

<静岡>(坂越民謡アカデミー 主宰)坂越達明 三橋美智也さんの「唄心」を想う

 

思い起こせば、三橋美智也さんの「おんな船頭唄」を初めて耳にしたのは、たしか10歳の頃と覚えておりますが、
その時の感動と言ったらたいへんなものでした。
その当時「歌好き」の私は、そうそうレコードを買い集め、夢中で聞きほれておりました。そしてそれが一つの因となり、将来は自分も「歌手になろう」と大きな野望を抱いたのです。
いや、わたしだけでなく、田舎の多くの「歌好き」の青年たちが、どれほど「歌手になりたい」という夢をもったことでしょう。それほど三橋さんの存在は確かなものでありました。
やわらかく、まろやかな声、独特なふしまわし、すべてが歌手を夢見るものの手本だったのです。
民謡においても「江差追分」を初め、全国各地の唄を歌われ、特に「相馬盆唄」「新相馬節」は民謡の世界に新しい分野を誕生させたように思います。
それは聞く人の耳をとらえ、大衆が、難しいと思っていた民謡を聞くことから、みずから唄ってたのしむ方向へと導くがごとく、聞きやすく、歌いやすい作品に仕上げられた様に思え、そのことが現在の民謡愛好家がすさまじいばかりに増え続けてきた、大きな因でもあり、民謡界に与えた影響はかりしれないものがあります。今回LPの中に、わが故郷の唄「ちゃっきり節を収録されることは静岡県人として本当にうれしいことです。
むずかしい理論は抜きにして、そこぬけに明るく、人情もろい、お人よしの静岡県民の「心」を三橋さんは、きっと、気楽にうたいあげてくれることでしょう。
これからもますます民謡歌謡の「良さを」三橋さんの歌にのせて世の中に送り出していただきたく思う次第です。

 

 

 

<愛知>「中日ドラゴンズ監督)中利夫

 

歌手生活25周年を心よりお祝い申し上げます。同時に四半世紀にわたって、常に歌謡界の第一線にて活躍し、数多くの後輩の範となって、たゆまぬご精進を続けられる姿勢に感服致しております。私も中日ドラゴンズのユニフォームを身に着け今年で24年目を迎えましたが、選手時代はもとより今日に到るまで、常に心身共にベストな状態を保ち、ファンの皆様のご期待に応えるべく努力してまいりました。たとえ世界は違っても、その道一筋に情熱を傾け、そして経験するつらく困難な過程は同じであると思います。三橋さんの歌の中で昭和32年に流行った「夕焼けとんび」という曲は特に印象に残っています。この年は私がドラゴンズに入団して三年目であり、また私の背番号が現在の3番になった年でもありました。以来21年の歳月が流れましたが、三橋さんにはこの25周年を期に今後共益々歌謡界、民謡界発展に寄与されその歌が広く愛され、親しまれますようお祈り申し上げます。

 

 

<岐阜>(作曲家)山口俊郎  今日の民謡について

 

民謡が今日、老いも若きも子供までも唄うようになったことは、何といっても三橋美智也君の民謡が今の隆盛をもたらした事と思います。
今までは、和楽器だけで歌っていたものが、三橋君が歌うようになってからは、古来の和楽器のみの伴奏に
洋楽器をとりいれ、それに流行歌的にリズムを付けた事が第一の原因でありましょう。洋楽器がメロデイーを奏することによって大衆の耳には流行歌と同じように、はっきりとその曲の旋律が覚えやすくなったことであります。

 

次に、岐阜県の民謡はまず、郡上節、岐阜音頭、ほッチセなどは代表民謡として皆さんがご存知の唄でしょうが、他にもたくさんあります。三橋君が「郡上節」を歌ってレコードを発売して、一二年のうちいたいへんうたわれるようになって、今日では阿波踊りと同じように八月には三日三晩朝かが夜通しで歌い踊られるようになり、全国から見物人んがどっと押し寄せる様になった。お婆どきやるホッチセもいちおうは歌われますが、郡上節ほどではありません。
とにかく三橋君の唄った曲は高音は出るし、民謡独特の小節もよく回るし、日本の民謡歌手の第一人者と言ってもも過言ではないとおもいます。
この度の25周年を大きな土台として、今後50周年に向けて更に大飛躍されることを期待してやみません。

 

 

<三重>(鳥羽水族館長)中村幸昭

 

昔からお祝いごとや、縁起物としてあつかわれているものの一つに伊勢エビがありますが、とくにこの伊勢エビは、大変寿命が長く、長寿のシンボルとして、また、威勢のよいエビとして めでたいものとされております。
甲殻類の代表であるその甲羅は、あたかも鎧兜を身に着けた古武士のようにりりしさがあり、ピンと張ったひげや腰回りなどは、他のエビ類と異なり、大変立派なものであります。
三橋先生もこの度、歌手生活25年をお迎えになり、ますますその円熟された芸やのどはちょうど伊勢エビのような風格をかんじさせます。なかでも私にとって一番印象深いのは昭和34年ごろの「古城」という曲で、当時31歳になったばかりの私に、数々の思い出を残してくれた歌でした。光陰矢の如しと申しますが、25年間歌ひとすじにひたすら研鑽を積まれ、そのご努力とご才能に敬意を表します。
どうぞこの上とも伊勢海老のごとくより長く、ご精進あそばされ、芸一筋にお力をつくされますよう。お祈り申し上げます。

 

 

<近畿・四国・中国>

 

<滋賀>(郷土史家)渡辺守順  琵琶湖の国
さざなみの近江の国の美しい琵琶湖を、万葉歌人の柿本人麻呂は、「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのにいにしえへ思ほゆ」と天智天皇の大津宮の廃都をしのんで詠んだ。近江は淡水の海の意味からつけられた国名だが、西に比叡比良の山々が続き、東に伊吹鈴鹿の山脈がつらなる。湖東の豊かな平野に、近江米がみのり、そこから近江商人が全国にでかけて活躍した。

 

むかしは近江八景の景勝を誇り、いまは琵琶湖八景に観光客があつまる。比叡山の延暦寺や、湖北の古戦場、そして、そして子文化財の多い近江は日本の歴史のふるさとである。
わたしは歴史と風土にめぐまれた、水とみどりの近江をこよなく愛して、山野を歩き、遺跡をたずねて往古をしのんだ。
その結果「滋賀県の歴史」「近江路琵琶湖」「近江の伝説」などの近江の本をつぎつぎに出版した。そんな近江の湖畔町堅田に、「滋賀家淡海誕生の地」の碑がひっそり立っている。
この度の三橋美智也さんの歌手生活25周年の記念盤である「三橋美智也の民謡の世界」に、わが故郷の歌「淡海節」が収録されているが、いつきいてもすばらしい歌である。

 

 

<京都>(三橋美智也後援会) 岩崎加代子

 

宮津、丹後半島の南の方に宮津市ある青い海と宮津節が、浮かんでくる。
昔の本荘氏七万石の城下町を偲ばす、落ち着いた、屋並みの向こうに、ゆったりした海が、静かに語り掛けてくれる。
裏日本の、海上交通の要港として、繁栄した江戸時代に当時大流行した、縞の財布を手に、男達が船着場近くの、花街でたのしんだ名残の唄であろうか宮津節。
三橋さんの唄う、宮津節にも、そんなお色気が出ているように思う。
丹後の宮津でピンと出した≠ニあるのも、宮津のお殿様の一寸した話があるとか…
三橋さんの美声が粋で、なまめかしい絃歌さんざめく昔の宮津を想像させる。
民謡は、大好きだが京都には、わらべ唄とかいろいろ昔のものが沢山あるのに、民謡というと宮津節よりほかにあまりないようだが何故少ないのかなどと考えながら、レコードの針をはじめにもどした。

 

 

 

<奈良> (薬師寺館長>高田好胤

 

民謡は人の心のふるさとへの響きです。民謡は人の心にふるさとを奏でてくれます。
大和には
山とは国のまぼろば たたなづく 青垣 山籠れる 大和しうるはし
と詠まれた歌があります。これは古事記、日本書紀にでてくる民謡であります。

 

日本書紀には、景行天皇が九州日向国におられた時、東は大和の彼方から湧きでてくる雲に、
「愛しきよし 我が家の方ゆ 雲居立ち来も」の片歌をつけて、この[大和は国のまほろば≠フ歌をお詠みになったとあります。
又古事記には、長い東国の旅を続けられた倭建命が漸く大和の空が見える伊勢の国までたどり着かれて、なつかしいふるさとのあたりから立ち込めてくる雲に心誘われつ、大和はまほろば」と歌曰い給たとあります。
まほろばというのは美しいところ、なつかしいところ、素晴らしいところ等の意味をもつ、私達の先祖がふるさとへの限りない喜びと誇りの気持ちをあらわした言葉です。

 

 私共のふるさと大和は青々とした山に囲まれた緑あやなす美しい国であると、景行天皇は倭建命のみならず、すべての人々が思い、なつかしく歌い続けてきた、最古の民謡がこの歌であります。
このまほろば≠ニいう美しい大和言葉がより多くの人々の気持ちを潤してくれるためにも、この歌に節がつけられ、多くの人々のよろこびの民謡として歌われたいものだ、これがかねてからの私の願いであります。

 

 

<和歌山>(毎日新聞記者) 矢倉芳男  串本節について

 

本州南端の串本の秋祭りに歌い継がれて来た串本節が大正末期の民謡ブームに乗って、全国にひろがり、今や日本民謡の一つに数えられている。江戸時代末期にはすでに歌われていたようだが、その起源の正確な所はさだかでなはない。日本の太平洋岸を黒潮にのって往来する人たちが口伝えにひろげ、そろぞれの土地で独特の民謡に成長してものではないかー串本節の研究家であり、自身も「ここは串本迎えは大島仲をとりもつ巡航船」と「一つ二つと橋杭立てて心とどけよ串本へ」を作詞した故矢倉広治の推論である。
なるほど、土佐のよさこい節、紀州の串本節、伊勢の尾鷲節、伊豆の大島節…とならべてみると、節回しや歌詞に共通しているものが散見される。長い歴史の間にそれぞれが独特の味わいを育てていったのだろう。
昔は秋祭りにしか歌わなかった串本節ではあるが、今では男性的な風光と並んで串本の人々にとっては偉大なお国自慢となっている。
三橋さんにはこの「串本節」を味のある歌い方でうまく表現され、さすが!と感心させられます。
この価値のある記念盤を契機に更に其界での大活躍を祈ってやみません。

 

<大阪>三隅治雄  天王寺の蓮池で…

 

16歳まで大阪にいたが、あまり歌の記憶はない。大阪の夏祭りのハシリといわれる生国魂神社の祭りを、時々見に行って、苗、太鼓の囃子に乗って、「生国魂祭りはエエ祭り、おたやんこけても鼻うたん」といった歌を、よその子供たちと唱和したことくらいか。
また幼いころ、仰向けになった父が私の体を手足でささえて、「天王寺の蓮池で亀が甲羅干す〇〇〇〇、引導鐘がドンときやドドンガドン」と歌ってのはおぼえているが、〇〇〇の個所の文句が何だったか思い出せない。
そのことをある雑誌にかいたら「大阪生まれの長谷川幸延氏が電話をくださって、それは「ハゼたべる」で下の句は「引導鐘ゴンとつきやホホラノホイ」が正しいのだと教えてくださった。
そして自書の「大阪歳時記」にくわしく書いてあるからと、その本を贈ってくださったが、読むと、四天王寺の境内の放生池で、亀売りのおばはんが亀を竹筒の上にのせ、もがく亀を横目でみながら「さあさ、亀を放してやっとくなはれ、放性の功徳によって亡者はんが極楽へ浮かばれまっせ」と群衆によびかける風習がかつてあったとある。
父が、私を宙にあげて「天王寺の蓮池で」と歌ったのは、その亀売りのものまねであったかと初めて悟ったが、この歌も、もう大阪では遠い昔のものになったらしい。
歌ってくれた父もいまもなく、教えてくださった長谷川氏もさきごろ鬼籍にはいられた。

 

<兵庫>(将棋九段)内藤國雄

 

歌手生活25周年本当におめでとうございます。「おんな船頭唄」以来、熱烈なファンとなり、会いたい会いたいと思い続けてきた三橋美智也さんについにあえた。
それは私が「おゆき」を出して間もない、51年の秋だった。
「日本古来からの将棋をやっておられる方が、日本の民謡、演歌を歌われるのは、私は非常に良いことだと思いますよ」想像していたより太い声で、三橋さんはさりげなく私をはげましてくれました。
ああ、やっぱり温かい人だなと、私は思った。
そして、なんと、その夜、私は民謡三橋流名誉5段の免状を直々に頂いたのです。晴れて私は三橋美智也の門下生!
最高に感激の一日だった。苦しい時悲しい時私はいつも一人三橋さんのレコードを聴いて生きた。
厳しい勝負の世界で、私は順調に昇段してきたのも、三橋さんの歌に何度となく助けられたからだ。
全部そろえた三橋さんのレコードの何枚かは紛失したり、いためてしまったものもある。そんなときに「三橋美智也民謡の世界」の記念盤はありがたいかな。

 

<岡山>(NHK岡山放送局) 梶興二

 

18年前、私は長崎局に勤める新人アナでした。郷里を離れた淋しさが襲いますと、「リンゴ村から」を口づさんでは自らは元気づけたものです。三橋さんにお会いしたのはちょうどその頃、私に強烈でさわやかな憶い出を残してくれました。長崎公演の夜、川崎で同じ町内の玉置宏さんを訪ねて行き、宿舎で三橋さんに紹介されました。
「スターは街で痛飲」という先入感を持っていた私にはスターが外出もせず宿にいたことが驚ろきでした。
そこに、少しでも身体を休め、明日の仕事にかけるプロとしての執念を感じました。
僅か一度のしかも短い出会いでしたが、まじめで気取りのない人柄にもひかれました。
三橋ファンは、握手をしたり、サインをもとめるファン気質とはひと味違うのではないでしょうか。しかもその多くは年代的にも今では社会の第一線で働いているバイタリテイのある中年です。一人ひとりが三橋さんヒット曲に自分の人生の一コマを焼き付けてるのです。三橋さん、25年間ご苦労様でした。これからも日本の歌、日本人の心の歌をうたい続けてください。

 

<鳥取>(鳥取県文化財保護審議会委員、作詞家) 三橋美智也歌手生活25年に

 

今年は三橋美智也さんが歌手生活に入ってから25周年になるというまことにおめでたく先以て心から祝福を捧げたい。
三橋さんといえばかって昭和30年、彼が最初のヒット曲「おんな船頭唄」をひっさげて登場、民謡歌手として「三橋時代」を現出して以来、秋もファンのひとりとなってその後に相ついだ「リンゴ村から」や「哀愁列車」など、よく真似したものである。
振り返って彼が活躍したこの25年の業績をみるとき、それは実に大きく素晴らしいものといってよい。
特に民謡を研究している私にとって、謂うならば生まれながらの民謡歌手としての天分を持つ三橋さんを高く評価したいと思う
かれはいかなる民謡にせよ上手にこなすことが出来る人であり、あの美しくて豊かな声量と、民謡がが持つしみじみとした哀感、そして、彼独特のメロデイには誰しも胸を撃たれずにはおられない。私も縁あって若い時に作詞した海の民謡「貝殻節」をレコードにより歌っていただき普及してもらった関係もあり、いつも感謝しつつ忘れえぬ人となっているのである。

 

 

<広島>(雑誌「酒」編集長)佐々木久子

 

私が故郷広島から逃げ出し、上京したのが昭和30年だった。もちろんお金もなく職もなく、暗い絶望の淵をさまようような不安な毎日を送っていたのだが、ふとラジオを通して嬉しがらせて、泣かせて消えた…≠ニいう唄がきこえ、その歌声が私の耳と心をうった。なんという憎い文句だろう。それに歌っている男性のハリのある艶っぽい声が胸をぎゅっとしめつけ、私はドキドキしてしまった。
その男性が三橋さんだということを知るまで六か月もかかった。以来、武田節、古城など、三橋さんでなければ…という歌が続々とヒットし私の心を促えるのだが、そのかげには、民謡という地に足のついたしっかりした基礎があるからこそ、三橋さんの歌は素晴らしいのだと私は思う。

 

私の古里には、いい民謡がない。それだけに雪国の民謡には深い憧れをもつ私である。
三橋さんの民謡と三味線を聞いていると、根強く生き抜くエネルギーがふつふつと湧いてくる。世あげて地酒ブーム、民謡ブーム、手作り工芸ブームといわれている。三橋さんの民謡の世界は、全国三千軒の醸造元のうち、三百ぐらいしか残らないだろうと思う、日本民族伝統の酒のもつ、手作りのおいしさがこめられているような極めつきの極上の味なのである。大切に大切にしたいものだ。

 

 

 

<島根>(関の五本松節名誉家元)二代目 出雲愛之助

 

三橋美智也師、先生は北海道出身である意味においても、今までのレコードを聴いていも、東北の歌が主である。このたび山陰の民謡の中から関の五本松節が出るとのことで、全国に沢山のファンのある先生のことで山陰の民謡界にとっても非常に良い結果が生まれると思う。
関の五本松節、国ゆずりの神話で名高い島根半島の東端にある、恵美春様をお祭りした美保神社のある美保関町の民謡で、昔殿様が街道の端にあった五本松の一本を、通行の邪魔になると切って仕舞ったところが、この松は土地の漁師の舟の出入りの目標になる大切な目印の松で、之を切られては大変と、直接抗議出来ないレジスタンスとして唄いだした歌が「関の五本松一本きりゃ四本後は切らぬ夫婦松」と言い伝えられている。地元美保関町には、正調関之五本松節保存会があり、鷦鷯修一氏が会長で、家元は保存会であり、名誉家元が、地元の瀬戸田アキさんと私の二人である。三橋先生のレコードの発売を楽しみにしています。

 

 

 

 

<山口>作曲家 林伊佐緒  民謡はいいもんだ      

 

想えば早いもので三橋君がキングレコードへ入社してから今年で25年になるという。
私は彼が入社して来た当時のことをよく覚えている。右肩から左へ水筒を。左肩から右へ小さなカバンのようなものを、胸に十文字にかけて会社に現れたものだが、この大東京では一寸目立ったスタイルであった。
ある日私は旅先の街でふと耳にした歌があった。その時私はその声といい節回しといい今までに聞いたことのない何ともすばらしい歌手があらわれたもんだとびっくりする程のものであった。そこで私はその歌声の聞こえてくる方を尋ねてレコードをみせてもらってそれがキングレコードの新人三橋美智也の「おんな船頭唄」だったことを知って二度びっくりであった。今度「三橋美智也民謡の世界」という民謡のLPが出ましたが、彼は民謡をうまく流行歌にした第一人者であるが、然し民謡のよさは何処までも守ってもらいたいと思っている。

 

私も民謡が大好きである。だから旅行先でも機械ある毎にその土地の民謡をきかせてもらうことにしているが、日本の民謡はどうも東北とか北海道とか寒い国の方に沢山残っているようである。
やはし半年も雪にうもれているところでは、飲んで歌うことが唯一の楽しみであっただろうというものの、暖かい国の九州にも民謡が多いのはどうした訳であろうか。
 私は山口県の下関の産であるが、山口県、広島県それに岡山県といった瀬戸内海に面したところに民謡が大変少ないのも不思議なものである。
兎に角民謡はいい、私がどうしても作り出すことが出来ないいいメロデイがある。またその詞がたいへんよくできているものが多い。
三橋君この様ないい民謡を沢山残しておいてください

 

 

<香川>(金刀比羅宮宮司)琴陵光重

 

金比羅船々追手に帆かけて シュラ シュ シュ シュ 廻れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 一度廻れば

 

という、何の変哲もないこの歌詞は、文芸作品としての価値はむしろ稚拙ともいえるかも知れないが、それでいて全国津々浦々に流布されているこの民謡の生命は、職業詩人によって作られたものでなく、民衆の信仰の中から自然に湧き出た谷間の清水のような素直さを持っているところにあるのであろう。
作歌は慶長以後のものであろうと思われるが、その頃金刀比羅詣りをするには、大阪を初めとし西國九州遠くは関東北陸地方の港より、特種の和船即ち「金毘羅船」と称する船を賓客を満載して参詣した当時の光景を謡ったもので当時丸亀港に出入りした「金毘羅船」が最も殷盛を極めた天保年間に謡い始められたというこの民謡は、金刀比羅宮に海上安全を祈る参詣の人々の口から口に流行して、遂に日本的なものになっただけに、単なる詩情を超えた異色ある人民の唄ともいえるであろう。

 

歌詞は「金毘羅船」が舳艪相衝んで海上に浮かび出た有様であって、神のご加護に依り、安穏に海上をシュラシュシュシュと航海し得たことを賞揚したものである。作詞 作曲者とともに不明であるが、西国あたりの船頭衆が酒席で即興に謡ったのが基で、巷間に広く流布宣伝されたものであるとも伝えられ「こんぴら信仰」から生まれた特殊な、そして地方色豊かな民謡として今なお愛誦されているのである。
この度三橋美智也さんには歌手生活25周年記念LPにこの「金毘羅船々」を加えてもらいましたが、今後共この歌の発展・普及に大いにお力沿添え頂きたいと念願しております。

 

 

<徳島>(福島新聞文化部長)片山隆三 ふるさとの心 

 

レコード棚を整理していたら「三橋美智也民謡史という二枚組LPが出てきた。キングレコードから昭和37年に発売されたものである。
久し振りに針を通して聴く。
一曲、一曲三橋民謡に酔ったが、気がついてみると、四国の民謡が一つも入っていない。
こんどの全集では、阿波踊りのよしこの≠燻録されているのがうれしい。早いテンポの三味線の伴奏に乗って、スローな調子で歌が歌われるのがよしこの≠フ特徴だ。この曲の名盤は、やはりキングから徳島の名妓・お鯉さんのレコード≠ェでているが、三橋さんの美声に乗せて歌うよしこの≠烽ィ鯉さんのと比べて勝るとも劣らない。
こんどの「三橋美智也民謡の世界」は聴く人それぞれの心にふるさと≠フよさを再認識させてくれるだろう。日本の心を見事に歌い上げることのできる稀有の存在が三橋さんだからだ。

 

 

<高知>(作曲家)武政英策

 

三橋さんと直接のお付き合いはありませんが、デビュー曲「おんな船頭唄」のあの強力な印象は、ひときわあざやかでした。それまで歌謡曲はどちらかtごいえば浪曲調の作品が多かっただけに、民謡調で朗々とうたいあげた三橋さんはそれは特に素晴らしいものでした。当時は私は民謡やわらべ唄の収集にも関心をもち、研究にも余念がなかっただけに興味をもって見守っていました。その後またたく間に歌謡界の王座につかれると同時に、民謡津軽三味線にも非凡な才能をいかんなく発揮され、界のリーダーとして活躍されています。こうした三人前の働きは40余年間培われた三橋さんの魅力のすべてであり、今後共その傾向は更に強まるだろうと考えます。25周年を一つの契機に、更に前進されんことを高知の空より祈念しております。

 

 

<愛媛>(NHK西国本部元プロデユーサー)真鍋光子

 

三橋美智也さんといえば民謡・歌謡曲 いずれも長年に亘って王座を保つ大べテランである。特に三味線であの歯切れのよい撥さばきが見る人聞く者にこの上ない深い感動を与えてくれる。三橋さんと私の出会いは昭和28年ごろ松山市選定「おいでや小唄」がキングレコードで制作されると共にその発表会が市主催で愛媛県民館で開かれ、その時NHKが音楽番組に収録した際、それから数十年経て最近では一昨年松山市民会館での公開収録番組に御来松願ってお会いできたが、全く変わりなくむしろ以前にまして艶のかかったのどを聞かせて頂いてさすがにと敬服「おいでや小唄」裏面「神輿音頭」二曲とも三橋さんのこの唄声は今も街々流れ、皆んな楽しく唄われかつ踊れられている。今回キング専属25周年を記念して四国民謡も出ることはこの上なくおめでたいことであり、特に南予の「宇和島さんさ」がとり入れられたことは風光明媚な明るい南の地方に加えて、三橋さんの美しい唄声がみかんのダンダン畑を越え、はるかな海の果てまでいついつまでも響き渡るであろうことは私たちにとって本当にうれしい限りである。

 

 

<九州・沖縄>

 

 

三橋君の黒田節 (キングレコード専属作曲家)  細川潤一

 

日本各地にそれぞれ有名な民謡沢山あります。私が生まれ育った福岡県にもたくさんの民謡がありますが、その中で特に有名なのが黒田節です。これは福岡県の民謡というよりむしろ九州の代表民謡と言ってもよいくらい多くの人々に唄われています。私はこの黒田節に正調節というのがあるかどうか知りませんが、歌う各人によって自分の歌かいたが正調だという言葉を耳にします。なるほど歌う各人により多少歌いまわしや表現法に違いはある様には思いますが、この淡々としたメロデイーをそうた易く唄い分けることは無理でしょう。私には皆それぞれの歌が正調であるような気がします。
ここに収録された三橋君の黒田節も九州人ではない彼の解釈により他の人達の歌とは又異なった味がでていて私にはこれもまた正調黒田節だという気がします。朗々と張りのある声で歌われたこの黒田節は、私に改めて心に沁みる感動を与えてくれて彼が本当の黒田武士の様な気がして嬉しい限りです。

 

<佐賀>(重要無形文化財 色鍋島) 十三代 今泉今右衛門

 

三橋美智也さんが歌手生活25年をむかえられ、また民謡への道に至っては40年以上になられるとききおどろいています。私どもの陶芸と三橋さんの民謡には、多くの共通点があるように思います。多くの人々胸をうち、限りなく愛されるものをつくりあげるということは勿論ですが、三橋さんにとっては心の歌を、私には技法の表現という違いがこそあれ、それぞれの立場でみがきあげ創造する楽しみは果てしなく、また苦しみの日々でもあります。只ひとすじの道の厳しさを感じます。

 

三橋さんには、日本の歴史や風土に育まれた、人々の暮らしや心情を伝える民謡があり、私には色鍋島の絵文様を正しく伝承していくという使命がありますが、お互いにたゆみなくがんばりたいと念じます。
どうか、これを御縁に三橋さんの今後のご活躍を祈りますと共に、陶磁の古里にある私の窯にもぜにご来遊ください。

 

<長崎>(医療法人 保善会 田上養生園)小鉢祐則

 

約十五年前長崎来演の際に知り合い、以来三橋さんの故郷を愛され、日本の民謡を大事にしておられる人柄と、その誠実さにうたれ今日まで友人としてお付き合いさせていただいています。
今度、芸能生活25周年を迎えられ誠に喜ばしいことであり、心からお祝い申し上げます。この記念すべき年にキングレコードの企画で民謡集を発売され、その中に長崎の「ぶらぶら節」を選曲頂いたことは、本当に意をえた素晴らしいことと心よりよろこび賛辞を送る次第であります。

 

「ぶらぶら節」は幕末の嘉永の末から安政にかけての百余年前にできたといわれ、「やだちゅう節」が変化したものであり、長崎の風俗・名物・時節を織り込んだ文句が多彩で当時の歴史を鮮やかに物語っているもので、今日長崎の代表的な民謡として、広く唄われているものであります。

 

 

<熊本>(作曲家) 岩代浩一  五木の子守唄

 

永い年月を経た民謡は、大なり小なり年輪と共に様々な変化をもたらしているが、五木の子守唄の旋律変遷は特に大きく素晴らしい。その歌詞も60種を越え、その時に生きて居た人々の季節をそれぞれに物語っている。
最近この歌の発祥地「五箇荘」に旅した折、山また山の深さに驚き平家の落人をしのびながら五木村を訪れた。そこで子守り唄伝承者と云われる二人のお婆さんに会い、やがては湖底に沈むこの村の宿命を聞きながら歌ってもらった五木の子守唄に新たな感動をおぼえた。
嘗て、この歌が蒙った珍説「防人の反戦歌」「戦国時代に於ける韓国人捕虜の望郷歌」等が如何に誤ったものであるかを、旋律自身が明確に語っている。
素直な気品と素朴な哀愁に満ちた五木の子守唄は、些かの混血を疑うべきでない純粋日本民謡の秀歌である。
たくさんの歌詞を創り旋律を磨いてきたこの地方の幾時代の人々に心から敬意を表したい。
三橋さんとは民謡を通して何時の間にか親しい友となった。
三橋さんは永年に亘って、北国のきびしさを、野のさけびを教えてくださった。
私は西国の歌心を釈迦に説法と恥じつつ生意気に申し上げもした。またここに、歌手生活25周年記念LP発売の祝言にかえて、五木の子守唄感を恐々申し上げます。

 

 

<大分>(漫画家)富永一郎  宇目の歌げんか

 

品のいいような、そうでもないような、とにかくユニークな民謡だ。
宇目という所は昔の鉱山町で、僕の生まれた町佐伯≠ゥら南へ三つ目の駅から三里ほどであろうか。
昭和17年、中学5年の夏休みに一度尋ねたことがある。近くの親戚は大きな炭問屋で宇目の隣に炭山を持っていた。トラックで手伝いにいって夜はランプの山小屋に泊まらされた。ひと晩中せせらぎの音がうるさくて眠れなかったことを覚えている。朝から鮎ばかり食わせられたことも…。
あくる日僕は宇目の街にフラットでてみた。古い石畳の道に情緒がわいていた。やはり電灯がなくてランプだっだ。時代遅れも甚だしいなとその時思った。如何にも古い歌がありそうなうす暗い家並みだった。廃れた鉱山町の典型のようだった。
あくる日、僕はなんともうら悲しくなって小屋を飛び出して、婆さんの待つ家路を急いだ。駅までの遠い道を、高い足駄をひきづりながらヘトヘトになった想い出が今のはっきりと脳裡にある。
宇目のあの古い石垣はまだ残っているのだろうか。ひさしぶりに思い出したから、今夜は夜っぴて「歌げんか」を歌おうか…。
三橋美智也氏が「酒の苦さよ」でデビューして今年で25周年と聞いておどろいた。月日のたつのは早いものである。この記念すべき年を迎え、更に明日に向かって邁進されますことを期待して止まない一人である。

 

 

<宮崎>(法務大臣)瀬戸山三男 三橋君と私

 

三橋美智也君とわたしとの外形的交友は極めて少ない。二度かな、あるいは三度かもしれない。といった程度である。
でも私の方から三橋君に対する心の交友は相当長い間のものだ。人間の交友というものは不思議なもので、一度もあったことのない間柄でも、なんとなくその人柄を想像することによって始まり、つながりをもつものである。
私が三橋君に格別の関心をもつようになってから既に久しいが、それは彼の唄というよりもその素晴らしい津軽じょんがら節≠フ三味線と人柄とであった。
芸能界では特に、がら≠ェらにもなく自分を大きくみせ、売り込もうとする風がみえるのが常であるが、三橋君にはそれを感じない。彼が一流の芸能人になっても極めてまじめな控えめな風が私には心憎いものである。青森で苦労した心を育ててシャミ≠フ道、民謡の道に突き進んだ彼の日本人としてのやさしい心の現れであろう。
民謡はアデヤカではないが草深い庶民の心の奥深く食い込み、温かい社会連帯の人間愛をはぐくみ育てる。民謡が長い生命を保つゆえんはここにある。
三橋君が世田谷南烏山に民謡の根本道場是空庵≠開設したのは昨年12月のことであるが、民謡の研究と普及に全生涯をかけようとする美智也君の成功をねがってやまない。この度の歌手生活25周年を大きな踏み台として更に飛躍することをお祈りする次第である。

 

<鹿児島>(日本民謡協会鹿児島県支部長鹿児島民謡会「本部」会長 前園とみ子 25周年記念によせて

 

歌手生活25周年記念おめでとうございます。今思うかえらざる日々、過ぎ去りし日々云々。一口に25年といえど苦悩、快感そして感謝等々、遍歴放浪の中に有る山河慟哭や空虚遍歴の人生を歩いて来られたでしょう。
この度は、この貴重な体験を基に立派なLPを出されるとのこと心からお祝い申し上げます。今まで先生をお手本のに勉強してきた私たちにとって何よりもまして励みとなるものと信じております。民謡におきましてもその宝庫といわれる北海道、東北地方をはじめ九州、沖縄まで各地の生活、風土性が素朴に表現されており、この新しい感覚内容に日本全国の民謡ファンの方々にも、今まで以上に勉強の質も向上すると確信しております。少しでも広く多くのみなさ様に「謡の心を」知って頂くためにも、このレコードの大ヒットを祈っております。

 

<沖縄>乙女椿   琉球舞踊と民謡

 

私たちの大先輩でいらっしゃいます三橋美智也さんが歌手生活25年とのこと、本当に頭の下がる思いでいっぱいです。その上、沖縄の「阿里屋ユンタ」を吹き込まれたとのこと、さすがと感服しております。一日も早く聞かせて頂くのを楽しみにしております。
私たちもチーム結成以来、お客様に喜んでも頂ける芸をと、日夜努力しておりますが、中々思うにまかせず、苦労の連続です。でも三橋美智也さんの40年以上の芸歴をお聞きしますと、私達乙女椿ももっともっとがんばらなくてはと改めて誓いあうことでした。
これからもレコード・テレビ・ステージにと縦横無尽のご活躍を楽しみにしております。