歌手生活25周年三橋美智也民謡の世界アルバムによせて
民族遺産継承 三橋美智也の方向

 

 文化庁が、1979年=昭和54年=から民謡の調査に乗り出すことになった。これは生活環境や産業構造の変化で、民謡やわらべ歌がどんどん姿を消している現状、また、生き残っている民謡でも、一部分は、歌謡曲に流れて、伝承されてきた昔からの正調が影を潜めようとしている実情を配慮してのもので、まず、六か年計画で、民謡わらべうたをテープに保存する一方、統一的な音符の開発も行おうという計画になっている。

 

民族の遺産としての民謡、わらべ歌は、それ自体で非常に価値のあるものだ。だが、それでいながら系統った保存、継承というものは公的には行われていなかった。
 それがどのような形であれ、行われるようになったのは、大きな前進といってもいいだろう。本来ならもっと大切に保存、継承されてしかるべき遺産%刳ユ視されていたのは、大げさに言えば日本の文化の損失であった。それだけに、この文化庁の方針はもっと高く評価されてしかるべきだ。

 

 それにしても、「文化庁として系統だった民謡わらべ歌の保存に踏み切らたのは民謡・わらべ歌。、とくに民謡の愛好者が多くなった。という背景をわす10月てはなるまい。民族のなりわいに密接につながっている民謡愛好者が、ここ5,6年加速的に増えているのは、生活環境の変化にもかかわらず、民謡の持っている生命力にひかれた人々が多い、といっても差し支えないだろう。あるいは、民謡の中に息づいている民族の血の流れを再認識した人々が多いと思ってもいい。
 民謡は、実は、民族の生きざまをそのまま表現したものなのである。

 

ぼくはいまここで、青森の里の十三湖畔で聞いた老婆の歌う「十三の子守唄」のさびた響きを思い出している。霙が軒を打ち、湖は強い北風に波立っていた。鉛色の空場いまにもおちてきそうな暗い2月の黄昏だった。老婆は三橋美智也の懇請に、頬を紅らめながら稚い声で歌った。事実その声は、驚くほど稚く澄んでいた。顔に刻んだ年輪と、手に刻んだ生活とは全く違ったその声の響きに、恐れにも似た感動を覚えたものだった。

 

 三橋も同じような感動を受けたようだった。
「ひなびた味わいと、微妙な節のアヤに驚きました。民謡でなければ、こういった感じはうけられないでしょうね」

 

 三橋にとって、民謡は生涯を賭けたいわばライフワークである。彼にとって、日本の民謡は血肉と同様なものである。だからこそ、彼は私財を投じて、三橋流≠創始し、民謡の継承、新民謡の製作、そして民謡歌手の育成に乗り出した。

 

 そんな彼が老婆の身体の中に生き続け、声の中に息づいている「十三の子守唄」に感心したのである。彼にとって、この遭遇は、大衆の中に生き続けている民謡のありようへの再確認だたろう。

 

 吹雪の中で車を走らせた帰路の車中で、彼は「民謡というものは、奥野深いものです」とポツンとつぶやいたものだった。

 

 こんな話をあらためて持ち出したのはほかでもない、文化庁が正調≠フ保存を目的に六か年計画で乗り出した方針と、三橋が在野でたえまなく続けてきた行為とは、結局は、同じものだった、ということを再認識したかったからである。文化庁は民謡の完全な形での保存を志し、三橋は、民謡の正当な継承をねがって歌い続けてきたというわけである。

 

 三橋は民謡歌いを起点に、歌謡歌手として大成した。幼時から民謡の中で育ち、民謡を歌うことによって成長をはかってきた彼にとって、生業の中にいきづく民謡を自分の中にいかすことは、彼自身の賦活行為でもあった。
そこにある民謡の生命力を呼吸することは歌手として自己の確認にもなった筈である。

 

いま、日本の民謡は分岐点にさしかかっている。民謡の大衆化が一方では「秩父音頭」「伊奈節」「最上川音頭」などにみる正調の衰退につながってきている。

 

文化庁が1979年から六か年計画で、民謡の保存を行うことを決めたのは、現時点で、現在の傾向に歯止めをかけなければ、日本民謡の正当な継承は困難になると考えたからに他ならない、

 

三橋いまの時点で、彼の生涯を賭けた民謡の集大成を、この全集で作り上げたのも歌手の側から民謡の保全をはからなければならないと考えたからだろう。

 

三橋は民謡の拡散が、角度をかえてみれば民謡の純粋性の希薄化になりかねない、という恐れを抱いているに違いない。

 

彼はだからこの全集をつくるにあたって、僻地まで足をのばし、古老の中に生き続けている民謡の採集を志した。この成果は、この全集をふくめて、彼の歌う民謡の中にいきづくに違いない。