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1930年 昭和5年11月10日     0歳 誕生 メモ 出典など
昭和6年               1歳
昭和7年               2歳 父は私が二歳の時落盤事故で死亡 自著「歌ひとすじに」の記述
昭和8年               3歳
昭和9年11月9日    満4歳の誕生日の前日 父の亀蔵がアサノセメントの落盤事故で死亡 自著「ミッチーの人生演歌」の記述
年代不明 母は私が四歳の時、当別にいた金谷五郎と結婚、その後三男一女がもうけられる。父は国鉄勤め。当別の民謡会で、民謡を憶える。 歌ひとすじに
昭和10年              満5歳

5歳のころは、もうだいぶ民謡がうたえるようになっていました。「天才」とか「神童」といわれる。村のお祭りのときには、公会堂で「津軽おはら節を歌った。母は、将来芸事で身を立てるようにとひまさえあれば一生懸命民謡を教えてくれました。底冷えのする夜など、眠さをがまんしてくりかえしくりかえし同じところを歌わせられるのは、まだ5歳の私にとっては何事にも変えられぬ苦痛でした。
しかし母の熱意に動かされて私は歯をくいしばって努力しました。この母の熱意がなかったら、私は一生、北海道のどこかでしがないドサ回りとして埋もれていたことでしょう。 

歌ひとすじに
昭和11年              満六歳 六歳のとき金谷の父が函館の保線区にうつったので、私達一家も函館に移り巴小学校へ入学 「歌ひとすじに」より
昭和12年              満7歳
昭和13年              満8歳
昭和14年              満9歳 全道民謡コンクール 人気投票、審査員投票とも1位。新聞には、「民謡の天才児」とか「民謡の為に生まれてきた少年」とかデカデカと私のことが写真入りで掲載されました。私はこういった大衆の間に伝えられた民謡をずっと歌い続けたいという強い決心をもつようになりました。 「歌ひとすじに」より
昭和15年              満10歳
昭和16年12月8日 5年生      満11歳  日本は真珠湾に奇襲攻撃、太平洋戦争に突入
昭和17年  6年生         満12歳    
昭和18年3月            満13歳 東京のコロムビア・レコードで民謡を吹き込む

「江差追分」「博多節」「米山甚句」「たんと節」「新よされ節」「じょんがら節」
三味線、尺八伴奏 鎌田蓮道

昭和18年4月            満13歳 函館市的場高等学校入学
昭和19年              満14歳

鎌田蓮道氏に三味線の手ほどきをうける。
鎌田さんが、戦争に応召され、自分で三味線をひきながら、民謡を歌って工場を慰問して歩く。家計を助けるためににわか舞台で歌う。

年代不明

函館の花柳三千枝という日舞の先生のお母さんから小唄を習う。
戦争末期、函館の京極座ではじめて津軽三味線の名人、白川軍八郎さんと木田林松栄さんの三味線をきいて感激、母に口三味線でその素晴らしさをつたえる。
民謡歌手としてはセミプロ。樺太まで巡業する。(江差追分の浜田喜一一座の一員として)

昭和20年3月

高等小学校卒業 このころ泉沢村に疎開。国鉄の日雇い人夫として働く
夜になると海岸にでて、海に向かって声を限りに民謡を歌って、発声訓練。

昭和32年1月1日 自伝 歌ひとすじに出版
昭和53年3月上旬 津軽地方に津軽民謡の原点をさぐる
昭和53年4月 ラジオ日本「電撃ワイド・ウルトラ放送局」DJ ミッチーブーム萌芽
昭和54年 枝雀対談
昭和55年
昭和56年
昭和57年
昭和58年 TV番組スター誕生 審査員 司会者はやすきよ 最末期での担当。