はじめに

 

人生とは、人と人の出会いにドラマのあるといわれています。何気ない、出会い、衝撃的出会い、その出会いによって「人生意気に感じる」こともあり、深く人間を知り、強い絆で結ばれることもあります。私はこの出会いに恵まれてきました。
キングレコードからデビューして、ことし(昭和58年)は歌手生活30年です。浮き沈みの激しい歌謡界で、いま、こうしてがんばっていられるのは、その出会いで知り合った方たちのおかげです。
苦しい時も、悲しい時も、私をあたたかくみまもり、激励し、勇気づけ、忠告をいただいて方は多い。
こういう方たちが、私の周囲にいたからこそ、元気いっぱいうたってこれたと深く感謝しています。
この30年で歌謡界も大きく変貌してきています。特にテレビの普及、マスコミの発達により、私のデビュー当時の様なミステリーゾーンがないと思うのです。

 

歌手はみじかなものマスコットてきな感覚でとらえられている反面、偶像をこわし、ホンモノの姿を見ないと納得しない風潮もみられます。
実際多くの歌手が登場し消えていく。
やはりそこには人間性も要求されると思う。だから、私は、この本の執筆に当たっては、ナマの三橋美智也の歌手生活30年の歩みを知っていただくと共に、私の人生哲学は、いったいどんなものかを理解していただこうと考えました。

 

私の恩人、先輩、友人たちのことも書こうと思いました。多くの思い出とともに、その方たちについて触れようとペンをとったのです。
私が北海道から上京してプロ歌手になるまでの間に出会った人たちとの忘れられない出来事、薫陶を受けた先輩たち……。

 

民謡歌手として北海道,東北を旅巡業したときの鮮烈な思い出と共に、お世話になった人たちのことも記憶をたどり筆をすすめる努力もしょう、それで私の生きざまを知ってもらえるだろうと思いました。
プロ歌手としてデビュー後の作詞作曲の先生方から映画、演劇で出会った方たち、スポーツ関係の親しい方たち、さらには芸能界とは違った分野で出会った人たちのことも書いていこうと思いました。

 

私を今日まで育ててくれた方、応援してくれた人たちについて書きながら、私が辿った人生の道、これから果てしない芸への挑戦、そして男としての生き甲斐も知ってもらいたいーこんな願いもありました。
民謡三橋流の愛弟子たちのことにも触れながら、そんな気持ちを素直にかけたらと、ペンを手にすることにしたのですが、少しでも、私の生きてきた半生を知っていただけたなら、これは望外のよろこびです

 

 

 

ミッチーの人生演歌・目次

 

民謡の神童と呼ばれ

動物好きだった幼い日 13

受け継いだ母の血   19 

虚弱児でわんぱく小僧 25

迷惑かけても一等賞  31

初吹き込みは12歳   37

身を助けた三味線   43

貧しさを救うため 49

歌のおかげで苦役をのがれ  55

必死の巡業 九死に一生  61

夢いっぱいの巡業の旅が… 67

挫折を乗り越え再び巡業  73

東北での楽しい想い出   79

映画の一シーンが転機に  89

固い決意の脱出行     91

 

向学心に燃えて

夢にまで見た東京は…  99

運命を決めた鎌倉行き  105

菊地先生の温情に泣く  111

真っ黒になって働いて  117

あこがれの高校入学   123

花のおとっつあん″mZ生 129

学園生活の思いではつきない  135

新しい時代の民謡に意欲    141

サラリーマン志望が…     147

 

決意を新たに

運命の歯車のまわり出した!  155

直立不動の吹き込み      161

焦る気持ちをおさえて     167

待望の初ヒットは裏面だった  173

大学進学か、歌手一本か    179 

大歌手になってやる…     183

やっと芽がでて、春が来る   191

「リンゴ村から」大ヒット   197

「哀愁列車」で故郷へ     203

レコード大賞・歌唱賞受賞   209

 

こころの支え

お世話になった作詞家の先生たち  217

作曲家の先生にもめぐまれて    233

楽しく愉快な歌手仲間       229

映画、演劇の先輩、友人      235

スポーツ界の友人、仲間、兄弟分  241

あの人、あの顔、この付き合い   247

ミッチーブームのおとろき     253

民謡は不滅! 日本人の歌     259

30周年記念曲「越後絶唱」     265

民謡、三橋流を支えるひとたち   271

男と女の愛の顛末…        277

31年目へむかっての私       283

 

美智也の演歌教室

歌好きの貴方へ           291

オーデイションに合格する法     292

 ひらきなおって度胸一番/歌唱のこつ 、

鼻音はどうか/マナーと服装は/

選曲に気をつけよう/ポップスと演歌の歌い方/            

  下手なテクニックはつかうな

カラオケの楽しい歌い方     304

初心者の心得/上級者もめざす人へ

三橋美智也にヒット曲ワンポイント教室 312
 おんな船頭唄/リンゴ村から/哀終列車/母恋吹雪/一本刀土俵入り/古城/あゝ大阪城/達者でナ/星屑の町/越後絶唱

 

原稿を書き終えて           317
三橋美智也シングルレコード発売年表  321

 

動物好きだった幼い日

 

「ふるさとは遠くに在りて思うもの」という言葉があります。
静かな夜、ひとりで部屋にいると、ふと脳裡にふるさとのことがよぎる。
瞼をとじると、ふるさとの山や木々、幼い日の友人たち、遊びまくった草原、学校の校庭などが浮かんでは消え、消えてはうかんでくる。
私のふるさとは北海道・函館市に近い上磯郡上磯峩朗という田舎町。産声を上げたのは昭和5年11月10日、午後5時ごろでした。アサノセメントに勤めていた父、三橋亀蔵と母サツの間に生まれたのでした。社宅の一隅に生まれたことになります。
父は働き者、母はやさしさの中にきびしさのある人でした。
この両親のふところに抱かれて育ったのですが、父の面影はおぼろです。というのは私が満4歳の誕生日を迎える前日に落盤事故で亡くなったのです。若衆も一人亡くなりました。
ひどい土砂崩れで、父はどこに埋まっているかわからない。懸命になって会社の上司や同僚が探し回ったのですが発見できない。
そんなとき、飼い犬のクロが、大きな岩の上で吠えまくったのです。
嗅覚でわかったのでしょう。
父は岩の下敷きになっていたために全身ガチャガチャ、見るも無残だったといいます。その遺体を包帯でグルグルまきにして野辺送りをしたのを覚えています。
若衆を25人ほど使っていた父は、仕事の終わった後、若衆を家に呼んで酒盛りをするのが好きでした。
父は私を膝の上に抱いて、酒盛りを楽しんでいました。
私はチョコンと座って、大人たちのさわぐのをみているだけ。
そんなとき、父はかたいセンベイを自分の口の中に入れ、噛み砕き、ほどよくやわらかくなったころをみはからって私の口にいれてくる。たべやすくしてくれたわけです。幼い子にはかたいセンベイはかめませんから。
父がなくなってから、我が家は急激に貧乏になっていったようです。でも母は、そんな経済的な苦しさをものともせずに働きつづけたようでした。会社の仕事を手伝ったり、いまでいうパートタイムの仕事もしていたと思います。
私は自分で言うのも変ですが、近所のひとたちから「ミッちゃん」「ミッちゃん」と可愛がられていました。
田舎にはエンツッコといった、ワラでつくった丸い大きな籠みたいな保育器、いささか保育器は大袈裟ですが、赤ん坊はその中にいれられて育っていきます。
ところが私の場合、その保育器が必要なかったくらい、誰かの手の中にいたのです。
赤ん坊の時から人気者だったわけです。
そういった子を抱えて、母は夫を失った悲しみから立ち上がり、当別に会った川田男爵のお邸に住み込みで働くことになりました。川田男爵は男爵イモ≠開発した殿様です。
日本で初めて蒸気機関車とか消防車を輸入した新取の気性に富んだひとでした。とても優しい人で、上京して帰郷するときは、必ずおみやげを買ってきてくれるのですが、それも珍しいものばかり。
特に思い出に残っているのは装甲列車。
これは機関砲がついていて、アズキを砲弾がわりに飛ばせる仕掛けもついている。これで、あきもせず遊んでいた記憶もあります。
川田男爵の所有する大きな牧場も私の遊び場でした。裸馬にのって遊んだのは小学校へ入学する前です。
キカン坊だったと思う。ただ馬ほど人をみる動物はいません。子供だと思うと、馬体500キロの巨体はテコでも動かなくなる。その日のご機嫌によるらしい。
文字通り道草を食っている。仕方なく馬からおりてそのあたりで遊んでいると、突然トコトコと走り出し勝手に厩舎に帰ってしまう。
でも、馬はすきでした。
後年、競走馬を持つようになるのも、こういった幼児体験が遠因かもしれません。
またこんな事件もありました。牛小屋で寝込んでしまったことがあるのです。昼間から行方不明みたいになり、夜になっても帰ってこないので、近所の人たちは「ミッちゃんがひとさらいに連れていかれてしまった」「いや、これは神隠しにちがいない」いやはや大変なさわぎ。
馬も好きだったけど牛も好きでした。こわいという気がしない。
その日、牛小屋をのぞくと子牛がいたのです。まだ生まれて間もない子牛で実に可愛らしい。その子牛とじゃれていたのです。
子牛は牛舎の奥深いところにいて、そこにいくのには、大きな種牛が頑張っていて、大のおとなもこわくて通れない。
子供だから、怖いもの知らずで、スルスルと種牛のそばを通り抜けたのでしょう。
しばらく遊んでいると、子牛が横になったので、一緒に寝ころんだらウトウトと眠くなってきた、ついにグッスリ。子牛というのはポカポカと暖かく寝心地がいい。
その時分、歌は『東京音頭』が流行していました。石油の空き缶をガンガン叩いてその歌をうたうのが日課の様な毎日でした。
得意になって一日に何回もうたっていたのですが、
「そういえば、今日はミッちゃんの唄声をきかなかった」
ますます大ごとです。やっと発見されましたが、母には大目玉を食らいました。
「ひとさまに迷惑をかけるものではない」といわれました。
この言葉は子供心にも強く耳にひびきました。
そして脳裡に刻み込まれたのです。
私が育っていき、やがて歌手になり、今日にいたる人生の中で座右の銘のように、いつまでもその言葉が生きているからです。
幼い日々は遊びに明け暮れたけれど、これは大切なことではないでしょうか。天衣無縫に遊ぶのが子供だとおもっています。北海道の大自然の中で育った私は本当にしあわせ者といえましょう。家は貧しくとも、心は豊かに育ちましたから…。
幼い時の思いでの一つにビスケットがあります。近頃の子供はビスケットなどは見向きもしないようですが、私の幼いころはビスケットといったら大変なお菓子でした。
またバナナもそうでした。あの香りと甘さ、初めて口にした時の感激は、昭和ヒトケタ生まれのひとでないとわからないでしょう。
さて、そのビスケット、バターミルクのたっぷりと入ったもので、これは近くにある男性トラプスに遊びに行くと「良く遊びに来ましたね」こういわれ、もらえたのです これがとてもおいしかった。
ある日、母がトラピストに用事があり一緒に出掛けました。そのトラピストには、東京から多くの学生がやってくる。その中のひとりが私の顔をつくづくと眺め、
「お母さん、この子はいまにえらくなるからね、大事に育てなさいよ」こう言い残して帰っていったのです。
「この子が天下をねえ」
母親は冷やかし半分にとりながらも、そのときに印象が深かったのでしょうか、折に触れて私のこの日のことをいうのでした。さいはての地になにかが胎動したのでしょうか。

 

受け継いだ母の血

 

アメリカにカントリー・ウエスタン、フランスにシャンソン、イタリアにカンツオーネがあるように、我が国には民謡があります。
民謡こそ日本民族の歌だと信じています。
昔から伝わる祖先の残した文化遺産を継承して、後の世に伝えることは実に意義のあることだと思っています。
民謡は日本人の血の中に生きているとも信じています。
こういうことをいうと、まるで民謡のかたまりのようにおもうでしょうが、子守唄替わりに民謡を聞いて育ったのですから、これはいたしかたない私の人生です。
民謡は、山の歌、海の歌、労働の歌とさまざまです。
私達の祖先は、よろこびにつけ悲しみにつけ、うたったにちがいありません。
ご多分に洩れす北海道には郷土色豊かな民謡が多い。このため、土地の人々はなにかにつけてうたい合います。
会合ともなればきまってノド競べ、得意の民謡が次々に飛び交い、人々は陽気に手拍子を打ち興趣は盛り上がる。
娯楽の少ない時代でした。昨今のようにテレビに娯楽を求めるわけにもいなかい。けれど生の交流で人々の心は自然に打ち解けたものになります。歌をうたうということは精神衛生にもよい。
だからいまカラオケブームなのでしょう。
私がスクスクと育っていた当別の街にも民謡を楽しむ会がありました。一日の仕事を終わった後民謡をうたうのは非常は解放感を味わえたにちがいありません。
「当別民謡会」ともいうべき民謡をうたう会は毎夜のように場所を変えて行われていました。
土地の人達は、時によると自宅の一間を開放して民謡会を開きました。集会場だけでは物足らない考えたときです。
少々お酒がはいると、からだ中から(うたいたい)というワクワクした気持ちが湧きてくるのでしょうか。
実に楽しそうにうたいだす。私の母は毎晩のようにその民謡会に出席しては得意の喉を披露していました。
美声の上に、節回しのうまさは抜群。土地のスターです。
もちろん、私も毎夜のように母と一緒に会合に加わり、人々のうたう民謡に耳を傾けていました。
私の母はなぜ民謡が得意だったのでしょうか。おそらく血筋でしょう。母方の叔父に民謡歌手の三浦為七郎がいました。
北海道では「追分」の名手として名がうれていて、母は多分にその地を受けていたと思います。
だから、母や民謡歌手として、若いころには、海外まで得意のノドで慰問旅行にでかけたと聞いています。
こういった血を私は母から継いだともいえます。民謡が盛んな環境、そして自分も民謡が好きです。
「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるとおり、幼いながらも民謡にとりつかれていきました。
これはごく自然の成り行きだったわけで、抵抗もありませんでした。
いろいろな会合にでるたびに、おとなたちのうたう民謡を次第におぼえていったのです。
いわば、門前の小僧習わぬ経を読む」といった格好でした。
本能的に民謡を求める情熱があったかもしれません。
五歳になったころには私は民謡のレパートリーがふえました。そうなると、土地の人達は、口々に
「みっちゃんは天才だ」
「民謡を歌う神童」
こうほめるのです。くすぐったいやら、うれしいやら、ますます民謡にとりつかれていったといっても不思議ではないでしょう。
幼いころは邪心がありません。それにひたむきさもあります。探求心も旺盛です。
それが長所にむすびつく場合、子供はほめられるたびに成長していくようです。おとなとちがいテングにならないからで、ひとつの目標に向かって情熱を燃えさせる環境作りをしてやれば才能はドンドンのびると思います。
現今の教育は、こういった個性づくりに欠けているのではないでしょうか。
いささか、脱線したかの感がありますが、私が幼年時代をおもいだしたときの体験談として勘弁してください。
さて、民謡好きのミッちゃんは村のお祭りともなると大変です。出演依頼が殺到してくる。もう、いそいそと出かけてゆくのですからスター気取り。
公会堂の特設ステージの上で太鼓を叩きながら「津軽おはら節」をうたったときは、いまでも血が騒ぎます。
なにしろ、無我夢中でうたい終わったとき、なんとおひねり、紙にお金を包んだものですが、このおひねりやアメやセンベイを包んだ紙が舞台に投げ込まれたのです。
旅回りの役者が、お芝居をしたり、舞踊のときに投げ込まれる花(お祝いの品)のようでした。舞台はまるで白い花が一面咲き乱れたおもむきです。
(こんなによろこんでもらえるのか、もっとうたおう)という気になったくらいでした。
このことがあってから、母は何事かを考え始めたようでした。
私の民謡が子供お遊びでなくホンモノに近づいてきたのを知ったからでしょう。
(世間で立派に通用する民謡歌手に育ててみよう)と決意したにちがいありません。
というのも、私は民謡は得意でしたけれどからだは大変に弱かった。虚弱体質だったのでしょう。将来を心配したのだとおもいます。
しかも父親が死んでしまっている。
(将来は芸事で身を立てた方がいいだろう。こんなに体が弱くては労働者にはむかないし…)と母親の慈しみあふれる心づかいだったにちがいありません。
そうなると、真剣に母は私に民謡を仕込みだしたのです。
ひまさえあれば、母の前に座ってうたっていたのですから、熱心だったけど、つらい夜もありました。
北海道の冬の夜はシンシンと寒さがつのります。底冷えもひどい。しばれる夜に、母の声が私の耳に沁みとおってくる。
寒いのをがまんして、母のうたったとおりにうたう。うまくいかない。すると母は何回も同じところをうたい。、おぼえさせようとする。母の熱意に負けまいと頑張るが、なにせ幼いから睡魔も襲ってくる。
口もうまく開かなくなる。瞼は自然に閉じてくる。母の鋭い言葉が飛ぶ。ハッとしてふたたびうたう。
我が子の将来のことを思う親こころだが幼い身にはつらい。
やっと母親が
「今夜はこのくらいでいいよ。早く寝床にいきなさい」
ニコッと笑いかけながらいってくれると、(ああよかった、やっと眠れる)というのが実感でした。
なぜこんなにしてまで民謡を学ばなければならないのかなあー、というのが幼ごころの偽りない気持ちでした。
母の熱情にムチ打たれて、歯を食いしばりながらの毎日の稽古。幼い身には苦痛でした。
けれど、私は一種懸命に取り組み、なんとか母の熱意に応えたが、この母がいなかったら、現在の私はなかったでしょう。ただ民謡に好きの男で北海道に埋もれていたにちがいありません。

 

虚弱児で腕白小僧

 

いまの私からはとても信じてもらえないでしょうが、小学校入学前から小学校時代は大変からだの弱い子でした。
母はいつも、私の体のことを心配していて食事も滋養分のあるものを作っては食べさせようとする。
「どうして、うちの子は色が細いのだろうか。一家だんらんがないからかしら…」
こんな心配もしたらしい。
父親のいない家庭には、ぬくもりがなく、それが、小さな子供には淋しさをつのらせ、食欲まで奪ってしまう。
やはり父親を必要とするのではないか。母はこの考えをますますひろげたようです。
私が5歳になったかならないころです。時折男性が家に出入りしはじめた。えらくなれなれしい。
しかも、私には優しく接してくる。なんとなくおかしい。
「うちのお母ちゃんにへんなことをするな」
警戒心を露骨におこしておこったこともありました。
その男性は、家にくるたぶに、おみやげを買ってくる。
「ほらこの絵本はおもしろいよ」
「ミッちゃん、このお菓子はおいしいよ」
うまくてなずけようとするわけです。そこには子供ごころ、おみやげの誘惑に負けてしまう。
家にくるのを歓迎するようになる。
「お母ちゃん、あの人いいひとだね」
「そう思うかい?いっしょに暮したらどうなるかね」
母や母なりに子供ごころを刺激しないように気を使ったらしい。
「将を射んと欲さば馬を射よ」でせがれは瞬く間に、いい子、いい子≠ノなってしまった。
こうなればしめたもの、母はいった。
「結婚することにするよ」
まだ5歳ごろの子供に、結婚という言葉はピンときません。
ただ、おぼろげに、あの男性と一緒に暮らすのだな、ということが判断できたていどでした。
母子二人の生活にピリオドが打たれたわけです。
新しい父の名は金谷五郎、母は子連れ再婚したことになります。この夫婦、仲が良かったけれど時折夫婦ゲンカも派手にやりました。
怒った父が母を叱る場面もありましたが、父は絶対に私をぶったことはない。
それは、ハレ物に触るような態度でもありません。
虚弱児だった私を大事に育てようとする父性愛からでしょう。
夫婦ゲンカをしているときに泣きながら、
「なんで、母ちゃんを叱るんだぁー」
父の胸元へくらいついて叫ぶと
「ああ、よしよし、悪かった、悪かった、思う怒らないから…」
こういってケンカのおさまることもありました。
たえず、側にはいないけれど、遠くから心配げに見守るタイプだったと思います。
たとえば、学校へ通うこともそうでした。
国鉄へ勤めている父の仕事の都合で、一家は函館に移りました。函館には巴座という劇場があり、ここへの浪曲家たちが講演にくる。
其の巴座で民謡大会が行われた時に、私は特別ゲストで出演しました。
民謡の神童≠ニして堂々の初舞台です。
このときの人気に感心し、関心を寄せたのでしょうか。女浪曲家の富士月子さんが巴座の支配人を通じて、
「ぜひ、私の内弟子に欲しい」
といった申し出もありました。
私の家に来るわけにはいかず、支配人室へ日参したというのです。
当然のように父の耳にも入る。近所の人の中には
「これは素晴らしいことだ。ミッちゃんのためにもなる」
本心からか野次馬根性からか、しきりの進める人もいる。
ところが父はガンとして受け入れない。
「これからは学問がなきゃいかん、学校だけはすまさなきゃいかん」
何をいっても「いかん」の言葉だけ。
ありがたいことだと思っています。今考えると…。おかげで私は巴小学校へ入学することになりました。
こういうエピソードも、父の愛情から出たものでしょう。
父と母の間には、その後三人の弟と一人の妹がうまれています。一人っ子だった私は、一挙に5人兄弟の長男になったわけです。
母は再婚したからといって、民謡の稽古はやすみません。
ふだんは優しいけど稽古はますますきびしくなる。
ゲンコの飛ぶこともある。それにじっと耐えていました。
母は、再婚したことで、私に大変気を使っていたようです。
新しい父になじまなければ困る。性格がねじ曲がってしまってはいけない、と気配りをしたと思います。
子供ごころには、そういう母のこまかい神経がわかるのです、人一倍感受性が強かったからでしょうか。
(母を心配させる子にはなるまい)と幼心にこれだけは固く誓っていました。この母のおかげで、グレず育っていったと思います。
でも体のほうはスクスク育ったとはいえません。
病弱のせいで発育にブレーキがかかったのでしょうか、小柄な小学生でした。
チビでひ弱なくせに、これがとんでもない腕白小僧だったのです。
茶目っ気もありました。いたずら坊主のヤンチャです。
小学校の5年生までは男女共学でしたからクラスの女の子をからかったり泣かしたりの小事件は数知れません。
そうすると、担任の先生からこっぴどく叱られます。
担任は岩淵先生という女性でした。
その先生の神経を逆なでするようないたずらをするのですから教室を追われ、
「廊下にたってらっしゃい」
ただ立っているだけならば我慢もできる。
水のいっぱい入ったバケツを両手で高く持ち上げてたたされるのです。
きちんと立っていても両腕はしびれてくる。うっかりすると頭から水をあびなければならない。
大変な体罰を受けたわけですが、これもジッと耐える。
いささか強情っぱりなところがあるとみえます。
先生はことあいを見計らって、
「さあ、教室に入って勉強しなさい」
ホッとして、頭がボワーッとなったことは数知れません。
いたずら常習犯のような存在でしたが、小学校時代には私に似たような腕白小僧がいるのではないでしょうか。
それにしても雪の降る日に廊下で立たされるのはつらいものでした。
そんないたずらっこだからでしょうか、クラスの人気者でした。
だが、正直言って、勉強はあまり身が入りません。むしろ勉強ぎらいでした。
ただ、音楽だけは大好きで、この時間がくると心がウキウキしたものです。
先生の弾くオルガンをバックにうたいまくるわけで、このときばかりは日ごろの腕白小僧はどこかへ影をひそめ、歌好きの少年になるのですから、先生も内心はあきれていたにちがいありません。

 


迷惑かけても一等賞

 

 

 

いまの都会の子供は、私の幼いころととはちがい大自然を相手に遊ぶことはあまりない。
私の場合は草っ原があり、樹木があり。馬や牛もいました。
都会に公園はあっても空地はありません。
だから、パソコンとか、ウオークマンといった自分だけ楽しむ方に傾斜していくのではないでしょうか。
子供たちがワイワイ、ガヤガヤと言い合いながら遊ぶ。ビー玉、ケン玉、ベーゴマといった幼稚園並みの遊びは、いまの子供たちにはバカバカしい遊びと写ることでしょう。
でも、私の小さいころは、それがごく当たり前の遊びでした。
草ッ原をかけめぐり、高い木に登って遊ぶ。
どいうわけか、子供というものは高いところが好きなようです。
高い所に上って、四方を見渡すと壮大な気分になる。
なんだか、天下をへいげいしている気分になるのでしょうか。
私も、ちいさいころは木登りが大好きで、高い所にのぼり、下を見下しながら、
(いまに、大きくなったら、一流の民謡歌手になるぞ)
などと不敵なことを考えたり、あちこち眺め渡しながら、(あの町のむこうには何があるだろう)と子供たらしい想像をしていたものです。
木登りで、失敗した事件もあります。
小学校四年ぐらいのときだったと思います。
すでに、そのことは、民謡小僧として名は近隣に知れ渡っており、お祭りがあると出演依頼?がありました。
その日も、お祭りのアトラクションに出演するために、特別ステージの脇の楽屋にいましたが、退屈していて、何かやりたくてうずうずしていたのです。
ここらあたり腕白小僧ですから、落ち着いていない、ふとみると、特別ステージの上のほうは観客を見下ろすのにちょうどよい角材が交差している。
(うん、これだこれだ)
ムクムクと高所征服症がもちあがってきました。
高所征服症というのはおかしいですが、高い所が好きなのですからしかたありません。
欲望はたかまり、ステージ衣装の紋付き袴のまま舞台の裏に直角にたてられたハシゴをのぼり、ハリのところへたどりつき下の舞台を高見の見物をしゃれこんだのです。
そこまではよかったのですが、やはりこども。すっかり自分の出番のきたのを忘れてしまって楽しいんでいたのです。そのうち、どうも下の様子がおかしい。
祭りの主催者があわてふためいている。誰かを探しているらしい。
やっと気が付いたのだから、いたずら坊主です。
あわててハシゴを伝わり、楽屋の側にきたときは顔中ごみだらけ。
時間がないので、そのままステージに立ち、得意の「江差追分」うたったものでした。
体が小さく、身軽だったせいもあるのでしょうが、いたずらばかりして小学校時代をすごしたみたいです。
こんなこともありました。あるとき、学校で全校生徒に回虫駆除のために「むしくだし」をのませることになりましたが、これは身体検査とおなじように、学校で行う定期的なものです。
いまと違い、生野菜などの、小さな虫の卵などがついていて、それをお腹のなかから駆除するために強制的にのまされる。
この「むしくだし」は子供の口になんともいえないくさい匂いと味がある。だから「口に入れてから水をのめばいい」といったんです。
ところが早ガッテンの友達がいて
「ミッちゃんが水の中に入れればいいといっているよ」
こういいながら、教室の片隅にあった水の入ったバケツの中にバサッといれてしまったのです。
それを見ていたクラスの級友たちは、
「そうか、それでいいのか」
とばかり、われもわれもと水の中に「ムシクダシ」を投げ入れてしまったのです。
これを知った担任の岩淵先生の怒りは大変なもの。
「またとんでもないことをやって…」
えらい剣幕で怒り出し、例によってわるさの首謀者ということで
「外に出ていなさい」
一日中校庭に立たされる破目になりました。
その岩淵先生にゲンコを一発食らったもともあります。
昭和ヒトケタ世代ならが、誰でも苦闘したと思うのですが、「教育勅語」の暗記ー。勉強嫌いの私の事ですから、この「朕おもうに…」という難しい言葉の全文暗記などとてもできません。
宿題として、クラス全員が暗記を命じられました。(こんな難しいものおぼえらえるわけがない)というので、はじめからギブアップ。宿題のことなど、ケロッと忘れて遊びに出かけてしまいました。
さて、その翌日、教室では一人一人が先生に名指しされて暗誦。友達はみなよく暗誦してきました。
順番はめぐり、いよいよ先生が私を指名。
「朕おもうに…」と最初のころはわりとスラスラでたのですが、あとはモゴモゴ。
「なんですか、宿題もやらずに」
先生は思いもかけずにゲンコを私の頭に。
ゲンコ先生だけではありません。
母のゲンコもありました。
こちらのゲンコは民謡の稽古のときに飛んでくる。
学校の勉強はおろそか、その分を民謡にの稽古にエネルギーを傾注するのが日課でした。
母の指導はますますきびしくなってくる。
以前にように甘えてはいられない。
ゲンコをうけながらの修行の成果は日一日とあがっていきました。
その成果のあらわれが、九歳のときに出場した「全道民謡コンクール」です。
もちろん得意の「江差追分」をうたい、人気投票、審査員投票ともに一位で優勝しました。
腕白で勉強はできなくても一等賞は栄冠です。
当時の新聞には、
「民謡の天才出現!」
「民謡の為にうまれてきた少年」
といった見出しと一緒に私の写真がデカデカと掲載されました。
この「江差追分」は私達祖先が長い間、荒海に生きてきた、たくましい叫びだ、と思います。
まだ、九歳やそこらの少年には、そのあたりの解釈は理解できなかったけれど、おぼろげながら、民謡の成り立ちと、継承されている意義を子供こころに漠然とかんがえていたようです。
「江差追分」は土地の民謡だけに、多くの人がうたっています。
それだけに歌い方も難しく。個性をださなければならないからです。
私は「江差追分」をたくましく生きていく、働いているおとなたち、という考えで歌いました。
この一等賞で、民謡歌手になれそうだと自信がついたもの事実です。

 

初吹き込みは12歳

 

母のゲンコで育てられ、民謡はスクスクとのびたものの、体のほうはいっこうに丈夫にならない健康不良児≠ナした。
年に一回は病気にとりつかれて寝込んでしまい、母を心配させたものです。
その母が涙を流してよろこんだのは「全道民謡コンクール」で優勝したときです。
恐らく(苦労の甲斐があった、よく頑張ったね。ここまで育ったんだわ)
といった感情がうれし涙につながったと思います。
病弱なむすこで、なんとか将来、「腕に職をつけて」の親心からの民謡の稽古だっただけによろこびもひとしおだったにちがいありません。
その母を心配させる事件がおきたのも小学5年生のころです。
どうも、私は慢性盲腸炎ではないか、と心配されていたのです。
いまだと、盲腸炎は病気のうちにはいらないほど手術も簡単。
からだの頑強なひとだと、手術で入院、2日後に退院という人もいます。
其の同時 盲腸炎の手術となると大変。下手をすると腹膜炎を併発して死ぬこともあります。
一か月の入院はザラでした。
右の下腹部が痛くなることがしばしばで、その年の冬、とうとう入院することになりました。
母は心配顔で付き添って、
「手術は痛くないよ、すぐにすむからね」
こういって元気づけてくれます。子供ごころに恐怖に近いものがありましたが、気強くニコッと笑い
「大丈夫だよ、僕は男だもの」
自分を納得させるようにいったものです。母はオロオロしています。
函館病院で診断の結果は盲腸炎ではない。
なんと膀胱肥大。はげしい寒さのときについついオシッコをがまんする。そうすると膀胱が大きくなる。
そんな悪循環がつづき肥大してしまい、それがお腹を圧迫するのだということがわかりました。
ほっとして母子は病院をでましたが、母の顔をみるのがつらかったおもいでがあります。
高熱を発して、人事不省、母は三日三晩不眠不休で看病してくれたこともありました。
体が弱い子は親不孝です。
けれど、この病弱な子供が、後年頑強になったのですから世の中わかりません。
太平洋戦争の終結で、日本国中が飢えと貧しさに泣いていたとき、自らが食うためには働かなければならない逆境にたたされ、それがかえってタフは精神力をうみ、丈夫な体を作り上げたともいえます。
戦後、たべるためにやってきた数々の肉体労働のおかげで今日のようにタフなからだにもなったわけです。
その情弱な少年の小学校5年生、昭和16年12月8日、ラジオから流れてきた臨時ニュースで、日本がアメリカ、イギリスに対して宣戦布告したことを知りました。
すでに、中国大陸で戦争がおこなわれていることは知っていましたが、いよいよアメリカ、イギリスとも戦争が…というニュースは、子供心に実感として、「大変だ」との気持ちは湧き上げりません。
電撃的な真珠湾攻撃、マニラ、シンガポールへの破竹の進撃といった新聞記事を読んで(日本は強いんだなあ)といった感じでした。ちまたでは
?我が大君に召されたる 生命はえる朝ぼらけ…とうたう 「出征兵士を送る唄」がうたわれていました。
駅頭では、在郷軍人会、国防婦人会の人達が、留守家族と一緒にこの歌をうたいお国のためにご奉仕する兵士を送る光景が見られます。
私は学業と民謡の稽古をつづける小学生です。
戦争のことよりも、日々生活の方が大事でした。
そのわたしが六年生のとき、思いもかけず、レコードのふきこみ話が舞い込んだのです。
函館の東西蓄音機店を経営しておられた渡辺さんが
「北海道にとても民謡の上手な少年がいるからレコードを出してみては…」
と、コロンビア・レコードの関係者に話をもちかけてくれたようです。
そのころ、私は少年民謡歌手として北海道では相当名が売れていたらしい。
自分ではそれほどにも思っていなかったのです。
ただ民謡が好きでうたっていただけなのに…。
(まさか、自分が)という気持ちと、実現出来たらうれしいな、といった感情がいりまじっていた春三月。
東京のコロンビア本社から、
「民謡のレコードをふきこみませんか、上京出来ますか」
こういった内容の手紙が届きました。このときのうれしさ、筆舌につくしきれません。
手紙をもちながら、部屋の中を飛び跳ねていました。
東京というのは、地方にすむ人間にとってあこがれの都です。
その東京にいけるのだ、と思うと、身内から、ゾクソクとしたうれしさがこみあげてくる。
東京に行くだけではない。
レコードに自分の歌が吹き込める。
もう天にも昇る気持ちというのはこのときのことをいうのでしょうか。
上京の朝は大変でした。
学校のクラスメイトは歓呼の声で送るのです。まるで出征兵士を送るほどの賑わいでした。
級友たちの盛大な見送りをあとに私は海を渡り東京へ。
北海道から一歩もでたことのない少年にとって、本土の景色は珍しいものばかりで汽車で長時間ゆられて上野駅に着くまでの間、窓外の景色をくいいるように眺めていました。
コロムビアレコードには多くの伴奏者が待っていてくれ、その中に、のちに師事する鎌田蓮道さんもいて、三味線と尺八を受け持ってくれたのです。
鎌田さんは北海道きっての三味線の名手と言われた人です。
この名人までも、わざわざ、12歳の少年のために伴奏をつとめてくれるのだから、いかにコロムビアレコードも、この民謡少年に力をいれたかがわかるでしょう。
スタジオで、吹き込んだのは「江差追分」「じょんがら節」「新よされ節」「たんと節」「米山甚句」「博多節」でした。
12歳の少年は真剣にうたいましたが、コロムビア関係者はびくりしたようです。
というのも「江差追分」は前唄、本唄、後唄とあります。
これを鎌田さんの尺八にのってうたいつづけたので、
(これは聞きしにまさる唱年歌手だ)
あとで聞いたらそんな会話が出たそうです。
ひたむきさと純粋さが入り混じっての吹き込みだったと思います。
レコーデイングの結果は上々でした。
私もこれでますます自信をつけたものの、世相は暗くなるばかりです。あこがれの東京もなんとなく華やかでない。
防空頭巾、もんぺ、ゲートルといった服装が主流です。これは非常時服≠ニいうそうですが、なんとなく、東京にがっかりしながら北海道への汽車にのりました。戦雲はかぎりなく黒くなっていく時期でした。

 

身を助けた三味線

 

戦雲ますます暗くなる時代ー。ちまたでいわれるスローガンは「八紘一宇」。当時の第二次近衛内閣が決めた「基本的国策要綱」で世界をひとつの家にする≠ニいった意味でした。
米英蘭を相手に戦争をしているのは、アジアをはじめとする国々を米英蘭国から解放して、世界をひとつにしよう、というスローガンだったのでしょうけど、私にはあまりピンときませんでした。
物資はだんだん不足してきており、食糧難の時代の到来。その食糧を得るためにはお金が必要。
けれど、我が家は貧乏。父も一所懸命働いています。少しでもその手助けをしてお金を手にしたい、というのが私の偽りのないきもちでした。
だから、民謡をうたう仕事があれば、学業を放り出してもでかけ。いくらかのご祝儀で家計をうるおすことを心がけたほどです。
昭和18年4月、私は小学校を卒業して、函館市的場高等小学校へ入学しました。
「高等小学校」という呼び名に不審を抱く人もいるでしょう。
いまの学校制度にない小学校ですから。
小学校まで義務教育です。
その上の進学と言えば中学校。
現在の学校制度は、太平洋戦争に日本が敗れ、占領軍の命令によってできたもので、ご存知のように小学校6年、中学校三年、高等学校3年、大学四年になっています。
その当時、中学は5年制でした。
よほどその家に資力がないと進学できません。小学校卒業と同時に、丁稚奉公に行ったり、左官屋、大工に弟子入りしたり、すぐに働く人も多かった。
昭和40年代初めに中卒者の集団就職がモテはやされたように、私が小学生のころは小学校卒業と同時に働くのは別に奇異な目では見られていなかったのです。
小学校をでて、中学への進学はできない。
だがもうすこし実社会へ出るまでの勉強をしたい、という人たちのために高等小学校があったようです。
ちなみに、この時分、高等学校は三年、大学は予科が二年、学部は学科によってちがいますが四年という制度だったと思います。
いまとかなりちがうのは、中学へ進学するとき、頭脳優秀な人は小学5年生で受験できたことです。
同じように、大学の予科、あるい高等学校への受験はできのいい人ならば中学4年生でドンドンすすめたのです。
こういう学校への道は、私の場合望んでもダメでした。
向学心はあっても、家庭の事情がゆるさない。
高等小学校へ通うのがやっとです。
戦後これらの高等小学校は、新しい学制で、新制中学として昇格したものも数多いですが、その時分、ただ在籍したといっていいでしょう。
なにしろ、日本全国が、教育より日々の生活に追われていた時代です。
その高等小学校のときの音楽の担当は渡辺先生という方で、校歌を作曲する程音楽的な素養の深い方でした。
私の声のよさに関心をもってくれたらしく、ある日の放課後
「君は大変いい声をしている。本格的に君を声をきいてみよう」
音楽室に私を呼び、ピアノの前にすわり、テストのつもりだったのでしょう。
「海行かば」をうたわせるのです。
最初の?海行かば…のところは合格なのですが、?草生す屍になると、どうしても語呂を入れて節回しが民謡になってしまい、何回やっても先生は納得しない。
「君は声はいいんだけど、まあ、歌手とはむいてないね」
不合格のレッテルをはられたことがありました。
でも、不思議と、がっかりしたり、不愉快にはなりません。
恐らく、先生の人柄もあったのでしょうが、後年、歌手になってから函館で再開した時
「いやぁ、あの時はごめんよ。歌手はだめだといったけど、わしの見込み違いだったね。本当によかった。よかった。」
こういって頭をかいておられました。
これも少年時代の思い出の一つです。
そのころからです。私が鎌田蓮道さんのところへ通い三味線の手ほどきをうけるようになったのは…。
多分コロムビア・レコードでの初の民謡レコードを出すときに伴奏してくれたのが、ご縁になったのだと思っています。
私は津軽三味線のあのなんともいえない音色がわすれられなかったからでしょう。
それ以前と言えば、母から口三味線≠ナいろいろと三味線のことは教わっていましたが、実際に三味線を手にして糸を触ったときの感触、そしてバチで打った時にでる音色を耳にするとでは大変な差があります。
三味線のむずかしさ、すばらしさというものが実感として身内に響いてくる。
鎌田さんに弟子入りする前から、三味線には興味を持っていました。
あるお祭りの時、民謡をうたう前の楽屋で出番前の時間つぶしに、三味線弾きの人に、
「ミッちゃん、弾いてみるかい」
といわれて、三味線を渡されたのです。
いたずら半分に弾いたらちゃんとメロデイも出来ました。
「これは面白いや」
こうなると熱中する性質のもち主ですから、そういう機会があるたびに三味線と親しむようになりました。
「好きこそ物の上手なれ」という言葉がありますが、短期間に三味線を弾くコツを自分で会得したようです。
三味線には「二上がり」「三下り」とかいろいろあります。
糸を合わせる、調子を整えるのも見よう見まねで出来るようになりました。
「それじゃ 本格的に勉強しよう」
こう決意して鎌田さんの門をたたいたわけです。
最初の稽古は「ひとつとや」からです。
ついでに「金毘羅船」そして「津軽おはら節」で、ここまで教わりますと、後は習うものがなくなってしまいます。
というのも、そのほか数多い民謡の三味線は、私が口三味線≠ナ知っているものばかりだったからです。
いささか特異な弟子だったといえるでしょう。
でも稽古は大変に熱心な取り組みようでした。
やがて戦争もたけなわとなり。、鎌田さんは応召。三味線を自習するしかありません。
その頃の日課は民謡を歌うのと、三味線だけ。ひたむきなのです。
その努力があって、津軽三味線が弾けるようになりました。
私が三味線をひけるということは、そのときは自分の芸に民謡の他、なにかひとつプラスになれば…と考えてのことでしたが、のちになって私の運を切り開くおおきな源泉になったといえます。
私がキング・レコードにみとめられ、今日の三橋美智也の誕生につながったのもとといえば三味線のおかげ。
当時はその三味線のおかげで、空腹を満足させるだけの食料をえたこともあるのですから…。

 

貧しさを救うために

 

昭和18年から19年にかけて、ますます我が家の経済はひっぱくしてきました。
太平洋戦争の戦局はますますわが国に不利。
物資不足、食糧難はひどくなる一方で、私達の世代は、暗い谷間をうろうろしているようでした。
ちまたでは「ラバウル海軍航空隊」「若鷲の歌」「加藤隼戦闘隊」といった歌が流行していましたが、景気よく歌いながら、その内心では(果たして日本はどうなるのだろうか)
こういった気持ちがどんどん強くなっていくのです。
それよりも、日々の生活をどう切り抜けるかが大問題でした。
「食うためには働かなければならない」
といったことはごく当たり前なのですが、私は人一倍働きました。
三味線を手に、今日は東、明日は西といったぐあいに、せまい、にわか作りの舞台で、
「江差追分」「津軽じょんがら節」などをうたっては、お米を一升、二升ともらい受け、家に持ち帰るのもしばしばでした。
思えば、13歳、14歳、遊びたい盛りの年頃です。
(みんないまごろ遊んでいるだろうな)
とおもうだけで涙が出てくることが何回あったかわかりません。
みんなが楽しく遊んでいるときに、どうして自分だけが働かなければならないのか。
それも、働いても働いても我が家の暮らしは少しもよくならない。
貧乏人の子沢山、たえずわが家は貧しさに追われ、言い知れぬ孤独感に身をさいなまれることもありました。
淋しさ、辛さを追い払うようにして私は一人舞台に立つ。
娯楽の少ない寒村の人達は、私の歌に耳をかたむけ、拍手を送ってくれる。
そして、帰りには、心ばかりの野菜、じゃがいも、お新香、さらには塩づけの魚…。
これらをリュックサックにつめこみ、三味線を抱えてトボトボ帰る田舎道は、14歳の少年にとり、希望のない国に通じる暗黒の道にも思えました。
ともすれば、くじけがちになる私をしっかりと支えたのは、持って生まれた負けず嫌いの性格だったと思います。
北海道の冬の寒さは、体験した人でないとわかりません。
酷寒の厳しさは想像以上です。
しばれる≠ニいう言葉がぴったりときます。
手足が冷え、こごえ、血行が悪くなり腫れあがるので。しばれる≠ニいうのでしょうけれど、その寒さの中での舞台は年端のいかない少年には苦痛です。
冷たい吹雪が、すきま風と共に吹き込んでくるステージ、うすよごれてせまい舞台の上にで熱唱する私…。
うたっているときだけはすべてを忘れました。ハッとなるのは、ひびの入った手に三味線の糸が食い込んでくるときです。
痛烈な痛みが指から背筋にまで走る。そしてみるみる指から血が流れてくる。それに耐えて、ステージを無事に終わらせるのでした。
楽屋に帰ると、土地の人が、労をねぎらうように待っていてくれます。
指の間から血の流れるのを見て
「さぞや痛かろうに、ひび割れの薬があったはずだぞ」
親切に、ひび割れに効果のあるという膏薬をもってきてくれたりします。かとみれば、黒い泥みたいな薬もある。それを少量、けずりとる。
やや固めの粘土みたいな薬をアカ切れの傷口に塗り込む。
塗りこむといっても軟膏ではないので、火箸のようなものを熱くして、それで傷口へジュッとあてるのです。
パックリと開いたアカ切れの傷が、その薬がとけてうまく埋まるといったぐあいです。
そのアカ切れを見ながら涙がボロボロとこぼれ落ちたこともありました。
一生懸命に働きながらも、芸に対する執着心は旺盛でした。
三味線に励む、一方、小唄も習い始めたのです。
函館におられる花柳三千枝さんという日本舞踊の先生のお母さんについて習いましたが、一日に二曲を仕上げるといったスピードです。
やはり民謡をやり、三味線をやっていたのが上達につながったのではないでしょうか。
三味線を弾くようになって、最初の大きなステージは函館のニチロ漁業の公会堂でした。
このときは、弾き終わってみると、両手が汗でいっぱい。
やはり興奮したのでしょう。
体は相変わらず小さく、大きなステージにチョコンを座って、思い切りよく弾く津軽三味線の音。
はじめは(あんなチビ、たいしたことはあるまい)
いささか冷やかし半分で聴きに来たお客さんも、ダイナミックに三味線を弾き、少年とは思えなぬ節回しでうたう民謡の数々に、たいていは度肝を向かれていたようです。
こうした体験を重ね、学業と巡業を半分ずつの生活でしたが、そのころには、私は民謡歌手としてはセミ・プロに成長していました。
当時、函館に女流民謡歌手で山本麗子という方がいて、一緒に樺太まで巡業したこともあります。
確か、そのころ彼女は17、8歳だったと思いますが、戦雲急を告げるころなのによく樺太まででかけたと、いまでは自分自身びっくりしています。
やはり、若さ、熱気というものがすぐ行動にでるのでしょう。
いまではサハリンも遠くなりました。
苦しい少年期の思いでのいページです。
民謡で目覚め、三味線を弾いて眠るといった日々の中で、津軽三味線の名人と云われる白川軍八郎さんと木田林松栄さんの三味線を聞いたときは感激しました。
太平洋戦争が末期に近づいたころだったでしょうか、函館の京極座ではじめてこの二人の三味線の音色に接したのです。
実にすばらしいものでした。
(うーん、やっぱり違う。これほどになれるだろうか。いや、ならなくては…)
とひとり興奮し、感服し。自らに言い聞かせたものです。
連音符が多く、実にテンポの早い、高度のテクニックを使った独特の三味線の弾き方。
私はすかっかり聞き惚れ、トリコになってしまいました。
そのころ、私は相当に三味線の稽古をしていたので、二人の三味線の違いを明確にとらえることもできたのです。
だから、なおさら ひきこまれたといっていいでしょう。
興奮をおさえならが帰宅した私は、その夜の模様を母に伝えました。
そして二人の音の違いを、母に口三味線≠ナ語ったところ、さすがの母も
「ほほうそうかい。それほどまで、ミッちゃんに三味線がわかるようになったのかねえ、たいしたもんだよ」
びっくりして、私をほめてくれてました。
あのきびしい母が表情をくずした顔はいまも忘れられない思い出の一つです。
日、一日と三味線は上達していったのですが、それだけに、学業はおろそかになります。
もっとも、その時分、日本国中の学生や生徒は、学業を放り投げてどこかで働いていたのですが…。

 

歌のおかげで 苦役をのがれ

 

昭和19年ごろになると、いよいよ国情は騒然となってきました。
(神州不滅、なんて言っているけれど、日本は負けるのじゃないか。いや、そんなことは絶対にない)
小国民である私はそんなふうに考えたりしていましたが、戦局はますます不利。
サイパン島で我が国の精鋭が全員玉砕とか、敵兵グアム島に上陸、そしてテニアンにも、といったニュースが断片的に流されてきます。
東京は連日のように空襲されているというし、北海道の上空も怪しくなってきました。
大学生は、身体障害者以外は全部、お国のために戦地へ出征とか、神風特攻隊の誕生といったニュースも伝わってくる。
中学や小学生まで「お国のため」を合言葉に動員され、農家の手伝いはもちろん、近くの軍需工場で働き、一億総動員といったありさまです。
ご多分にもれず私の場合も同じ。
北海道上空にアメリカの飛行機がとんでくるのをさけるように、クラスの友人たちと一緒に勤労動員にかり出されていました。
学業を捨て、バルブ工場、造船所、ドラム缶製造所、製縄所といったところへでかけるのです。
工場や家では夜になると灯りが外に洩れないように気を使いました。
少しでも灯りが洩れると、来襲する敵機の餌食になり爆撃されるというのです。
これを灯火管制といいました。
一部屋にひとつ、薄暗い電灯の下で、夜遅くまで残業。
毎夜、毎夜残業の連続でした。
われわれを引率していくのは隅田興一郎先生で、そういった工場や製造所へいくたびに、
「ミッちゃん、ちょっと慰安をしなさい。働いている人がよろこぶよ」
先生のいいつけもありますが、歌をうたうのが何よりも好きな私ですから、
「ハイ、頑張ります」
ふたつ返事で特設ステージ、といっても食堂とか、工場の隅に作られたにわか仕立ての粗末な舞台で力いっぱい民謡をうたったものでした。
そうなると、へんなもので、そこの工場長や。所長が大喜びした結果、
「慰安してくれたのだから、軽い仕事につかせよう」
ということになるのです。
民謡慰安の効果なのでしょうが、重労働から解放される。
バルプ工場へいくと、太い丸太棒を熱湯で似ている。
その丸太棒を引き上げ、クレーンにのせて吊り上げる。
みんな、こんなはげしい労働をしているのに、慰安をすると、急に、ブナとカバの木の枝を選びわける仕事に変わる。
こっちのほうが仕事そしてラクです。
造船所でもそうでした。
ものすごい重労働をしていたものが、民謡慰安のあとは、楊枝けずりになってしまう。
楊枝と言っても家庭で使うようなものではない。
船が木造船なので、節穴など穴があいている部分もあります。
その穴に差し込む楊枝削りなのですから楽な軽作業といえます。
ドラム缶を押したり、運んだりしている仲間がいる。汗みどろで働いています。
それがやさしいペンキ塗りに交換したりするのですから「芸は身を助ける」という言葉が
実感でした。
このころ、一家の働き手を軍隊にとられ、全国的に農業がピンチに立たされました。
農耕もままらならい農村に、食糧増産を旗印にして学徒動員した中学生は500万人といわれています。
いまから思うと、なんと健気な十代の少年たちでしょう。
こういった戦況、戦時下で流行した歌に、「ラバウル小唄」「同期の桜」「勝利の日まで」がありました。
工場へ働きに行き、慰問を重ね、作業に取り組んでいた昭和20年3月、私は高等卒業しました。
終戦(8月15日)の5か月前です。
その時分、函館の町も敵機の来襲で危なくなり、一家は疎開を決意しました。
東京の小学生の間では親類、縁者を頼って縁故疎開、あるいは小学校の5,6年生が集団で地方へ疎開する集団疎開がさかんに行われたと聞いています。
一家は母の実家のある泉沢村に疎開しましたが、いわばヨソ者。村の人達ともなじみません。食糧難は相変わらずです。
日本は一歩一歩、敗戦に近づいていたようですが、「本土決戦」の呼び声も勇ましく、軍部の人は、軍需工場での生産に躍気となっていました。
高等小学校を卒業したからといって家でブラブラしているわけにはいきません。
こんどは学業がなくなったのだから、民謡巡業一本でいけばよさそうですが、これとて、交通事情が悪く思うようにいきませんでした。
なにしろ、汽車の切符さえ、目的地までなかなか変えないのですから…。
汽車に乗れるのは軍部関係者が優先、それに出征兵士、特別に証明書がある人で、一般の人は徹夜で行列して切符を買うほどのひどさ。
そして汽車は鈴なりの超満員。
ダイヤ通りに走らないのです。
燃料にする石炭はお国ために供出するので、その分だけ運休列車が多くなる。
せっかく切符を入手しても、こんどはいつ列車にのれるかわからないという状況でした。
こういった状態だから、巡業だけの仕事ができるわけがありません。
家でウロウロしていれば、憲兵から非国民≠つかいされないともかぎらない。
また、徴用≠ニいって、ウムをいわさずにそこかの軍需工場に送られてしまう。
そこで、私は泉沢村で、国鉄のひやとい人夫になりました。
よくみかけたのではないでしょうか。線路に従ってッルハシを振るい、
「ヨイコラ、ヨイコラ」
石ころと格闘している姿が、私のかつてのものです。
初夏の太陽が輝き、戦争もしらぬげに小鳥たちは大空を飛び交いながら、さえずっている。
その下で汗みどろになりながら、なれないツルハシを振るうもの悲しさ。
(いつになったら、思い切り民謡をうたえるようになるだろう)
こんな思いも胸の中に走りました。
一見のどかな田園の中に線路工夫にみえますが、それもアメリカの戦闘機の来襲でいっぺんに阿鼻叫喚の地獄になる。
バリバリと機銃掃射を浴びせかけてくる。
必死でひげまどったこともありました。
傷ついて倒れた同僚もいます。
(日本の高射砲はどうしたんだろう。友軍機はないのか。
いったい日本はどうなっているんだ。こんな戦争なんて早く終わればいい。)
こんな気持ちに襲われたとしても不思議はないでしょう。
まだ14、5歳の少年です。
前途も暗い影ばかりでは虚無的になったとしても誰が責めることができるでしょうか。
私の場合は民謡がありました。
三味線もありました。
心の支え、生きていく決意、根性、戦い、すべて民謡と三味線があったからです。
戦時下、それも終戦間ぎわ、少年たちの夢は、たらふくたべることばかりでした。

 

必死の巡業 九死に一生

 

思えば昭和16年12月8日の第二次世界大戦の勃発から20年8月15日の敗戦までの足掛け5年という歳月は残酷な悪夢≠フような時代でした。
戦争という名のもとに、多くの人々が苦しく悲しい体験を余儀なくされたわけです。
夫を、兄弟を戦地で失った人たち、飢餓に悩まされ、食物もロクロク食べられず栄養失調になった人、学業も放り投げて、軍需工場で働かされた青少年…。
そんな時代を生きてくると、強靭な精神の持ち主になるようです。
(どんなことがあってもくじけないぞ)
といった強さが培われるのかもしれません。私の場合もそうでした。
終戦末期、日雇い人夫をやりながら、それでも歌をわすれませんでした。
むしろ人夫仕事の辛さを歌うことで忘れようとしたのかも知れないのです。
夜、私は海辺にでるのが日課になっていました。
海岸に出る。波音が高い。
その海に向かって、波音に負けない声を作ろうとしたのです。
声をかぎりに民謡をうたいまくりました。
暗い海から押し寄せてくる波濤に向かって、
(負けはしないぞ、負けるもんか)
とうたう。ともすれば私の声は波音にかき消されてしまう。波音ばかりが大きい。
それが、何回となく波濤に挑戦するうちに、私の声がはっきりと聞こえるようになりました。
自信を深めたことはいうまでもありません。かぎりなきチャレンジです。
この波濤に挑戦する発声訓練は、私の声を本格的な民謡歌手にしあげる役割を十二分に果たしたと思っています。
なまじっかの声では、波濤に立ち向かえない。高く通らなければならないからです。
波濤に負けまいと声をふりしぼる私の姿を、母は何回も見に来たそうです。
せがれの熱心さにびっくりしたと同時に
(思い切り、多くの聴衆のいる舞台でうたわせたい)
何度も思い、いじらしさに涙を流したものだ、と後年になって語ってくれました。
何かに憑かれたような私です。
暗黒の海から押し寄せる波濤は、
(このチビ助、なにをこしゃくな)
いっぺんに押し流そうと襲い掛かりますが、
一歩も退かず声を出していたのです。
その時分の様子はいまも鮮烈な思い出になっています。
波濤で鍛えたおかげで、私の声はますます会長になっていきました。
おれは、時折でかける民謡の巡業で確信していくのです。
聴衆の拍手が以前にも増して熱っぽくなっていくのでした。
そのころ、私は日雇い人夫なので、毎日仕事場へいく必要はありません。
休日を利用して民謡巡業の旅に出かけました。
だが、その巡業の旅は決して安心したものではありません。
時によると、死と隣合わせなのですから。
アメリカの飛行機の襲来は日を追って激しくなる一方でした。
何度か死地を脱しています。
今思うと恐怖体験です。
一番怖かったのは、幌別の小屋で民謡一行の興行をしていたときでした。
いきなりグラマン機の襲撃を受けたのです。
低空飛行で機銃掃射。
バリバリという音と黒煙。白川軍八郎先生は目の不自由な方、だからオロオロしてしまう。
「先生ッ、こっちのほうが安全です」
と手をひっぱって山の方へ逃げだす。
逃げ惑う人たちに情け容赦もなく機関銃の弾が飛んでくる。
山の木の多いところまできて、木陰に身を隠したときはほっとするどころか、恐怖におののき、全身が震えていました。
かろうじて敵機の弾から身を逃れたと思った瞬間、腰が抜けたようになったくらいです。
今思い出しても、ぞーッと背筋のあたりが冷たくなるのは鷲別で興行していたときでした。
なにしろ、米艦の艦砲射撃で室蘭市がすっかり灰塵に帰したほどの襲撃です。
室蘭のうしろにある山が原形をとどめないほどすっかり変わったくらいの砲撃だったので、家族のものは、
「これで生きていたら奇跡だ」
と言い合ったそうですが、幸いにもわたしは傷ひとつうけずにすみました。帰ったときはびっくりするやらうれしいがるやら大変な騒ぎでした。
これが最期だ、と思ったこともあります。
鷲別と幌別間で、私たちの乗っている汽車がグラマン機の餌食にさらされました。
汽車は満員、ギュウギュウ詰め。
一発食らえば何百人という死傷者が出る。
汽車は必死に走り、トンネル内に逃げ込みました。
そこで、炎上すれば、全員焼死になったでしょう。
このときお幸い命拾い。よくよく強運の持ち主のようです。
私という人間は…。
(これが最期か)
何度もあきらめた結果は敵機の退去。やっと函館までたどりつき、ホットしたときは、生きているのが信じられませんでした。
函館では家族のものが、今か今かと首を長くして待っていて、私の無事な顔をみたときは涙を流して奇跡の生還≠よろこんでくれました。
その函館から泉沢の家まで帰るのがまた大変。
敵機の爆発で線路がズタズタに寸断されていたのです。
このため、汽車は線路の修復待ち。いつ発車になるかわからない。
人は汽車で、貨物は貨物線をチャーターして泉沢へ、という時代です。
幸いにも私達は、父が国鉄に勤めていたおかげで、なんとか泉沢へ帰る便にのることができました。
その暗黒の時代もやがて幕が降りました。
昭和20年8月15日ー。日本の敗戦。
私はなんとなくホットしましたが、精神的にはグッタリしてしまいました。
張りつめていた糸がプツンときれたような感じで、虚無感にとりつかれたことも事実ですが、私の父母たちは戦争に負けたというショックは大変なものだったようです。
(この先、どうやって家族がいきていけばいいのか、日本はいったいどうなってしまうのだろうか)
こういった思いにとらわれたにちがいありません。
この気持ち、当時の日本人の多くが抱いた感情でしょう、偽りのない…。
ポツダム宣言の受諾、それ以前の広島、長崎への原爆投下。この残酷劇を耳にしていて、その上に「鬼畜米英!」のスローガンに生きていた大人にすれば、占領軍が日本で、どんな行為に出るかわからない。
前途に対する不安はつのるばかりです。
生活は、苦しさが増す一方で、夢も希望でもない現実。昭和20年の秋は、日本が敗戦の痛手に完全に打ちひしがれていたといっても言い過ぎではないでしょう。
連合軍最高司令官マッカーサー元帥の厚木基地到着、東京湾のアメリカ戦艦ミズリー号上で全権を委任された重光葵外装と梅津美治郎参謀総長の降伏文書に調印といったニュースも伝わってきました。
食べるもの、着るものもなく、うつろに光る眼をした人が町に多く見かけられるようなった秋、私は徐々に精神的な立ち直りを見せ始めました。
心で叫んだのです
(俺には民謡と三味線がある!)

 

 

夢いっぱいの巡業の旅が

 

敗戦後の混乱ー。
これは体験したものでないとわかりません。
と同時に、あのいまわしい敗戦を憎み、二度と戦争はするな、といった気持ちになるでしょう。
日本は焼土と化し、焼け跡から復興した訳ですが、国民は塗炭の苦しみから立ち直ったのです。
物資、食糧不足は敗戦前と変わりません。
物がないからインフレになる。そのため生活はますます苦しくなる一方でした。
我が家の生活も極貧の状態、生活をささえるために私はまた働きだしたのでした。
ただ、どういう伝手をもとめて働けばいいかわかりません。私にできることは民謡を歌うことだけですから…。
幸運にも民謡歌手としては北海道一という評判の高い浜田喜一さんの知遇を得て、そのご紹介で民謡の巡業に出るようになり、糊口をしのげる道が開けました。
そのころ、自分で言うのもおこがましいけれど、三味線の腕も相当に上達していたので勇躍、一行にくわわったのです。三味線が上達したのは熱中度のたまものですが、これにはワケがありました。
丁度変声期にぶつかり、声が思うようにでない。
これをカバーするために、三味線に身を入れたのです。だから半年くらいでメキメキと腕をあげました。
家で稽古していても、母はもちろん、隣近所のひとも
「やかましい、いい加減にしろ」といった声もなくなり、耳をかたむけるようになったのですから、巡業に加わっても、そんあに恥ずかしい腕前ではないと自負していたくらいです。
民謡歌手、郷土色豊かな踊りの出来る人々といっしょでした。
旅の一行は、函館出発、江差海岸や小樽の方に足を向け地方巡業をつづけたのですが、夢いっぱいの巡業も現実はきびしいドサまわりになったのも戦後の混乱期のせいです。
私の歌を好きで聴きにきてくれた多くのお客が少しも足をはこんでくれません。民謡はどころの話ではないのです。
インフレ生活に追いまくられ、苦しい生活を余儀なくされ、今日生きていくんが精いっぱいの状態。
なんで、私の民謡を楽しむ余裕がありましょうか。
何処へ行ってもお客はパラパラ。
あの、民謡少年が、巡業のたびに小屋を満員にしたという話は、まぼろし、伝説のかなた、といったほどの不入り。
この巡業は完全に失敗の巻でした。
村から町へ、さらに山村へと、私たちは生活の重荷を背負い、明日の食料を求めて歌って歩いたのですが、やりきれない気持ちばかりつのりました。
ある町をおえ、次の村へ行くために乗り物を利用する。
そのバス代にも事欠く始末。
食べるものにもありつけません。
空腹をかかえながら六里(約24キロ)の山道を荷物を背きながら歩きつづけたこともあります。
われわれ一行が、山道をあるいたとき、空には残月とおぼしき三日月がかかっていました。
あられさ、寂しさが身にしみる。
戦国の武将、山中鹿之助が主家の再興を三日月に祈り、
「われに七難八苦を与えたまえ」
といったといいます。
その故事をチラッと思い出しながら、
「われわれは、いま七難八苦の中にいる」
この胸の中でつぶやいたほどでした。
雨の日、風の日、そんなものを気にしてはいられません。
巡業には休日ががないのです。
もしも、
「今日は風がひどいから休もう」
「雨が土砂降りだ、お客はこないだろう。」
などと休めば、それだけ私達の収入はなくなる。とぼしい収入でもあったほうがいい。
それで、おかゆをすすることもできるのだから。旅はつづけられます。
来る日も来るにも芋の入ったごはん、芋の合間にチラリと米粒のみえるごはんがドンブリに半分、それさえも食べるのがやっとでした。
いまの巡業のように、ホテルとか、旅館などには泊まりません。
たいていは巡業先の楽屋へ泊る。
壁の隙間から、あるいは板の間の隙間から冷たい風が無常に向き込んでくるのだから泣きだしたくなります。
ふとんは薄汚れていて、いつ太陽に干したかわからない、しめりっけのある不衛生なしろもの。
このうすよごれたふとんを頭からかぶり、実をちぢませ、うつらうつらするとき、きまって夢見るのはごはんの夢ー。
恥ずかしい話ですが、ヨダレをたらして寝ていたのでしょう、きっと…。純白のまじりけのないごはん、俗にギンシャリ、これが夢の中でいっぱい出てくるのです。
思えば、14、5歳といえば、食い気の盛りです。
無理のない夢でした。
歌手にとって、食事はエネルギー源です。
腹にごはんがはいっていないと、力もはいりません。
当然のように腹からも声もでない。
でも頑張りました。
たとえば少ない人数でも私の歌を聴きに来てくれるお客さんがいる。
その人たちを満足させなければ、というので出ない声をふりしぼって民謡をうたいつづけました。
長い歌手生活の中で、こんなみじめで苦しい体験をしたことはありません。
秋が過ぎ、木枯しが吹き、粉雪の舞い交う季節がきても巡業の旅は続きました。
ある日、ものすごく吹雪に見舞われたのです。
真っ白なカーテンといえば少しはロマンチックですが、道は雪のカーテンでさえぐられたようにみえない。
峠道を歩く一行は困難、難渋をきわめて、胸まである雪をかきわけかきわけ次の興行地をめざしていました。
空腹と疲労に悩まされながら強行軍。
ここで、一人でも落伍者がでたら、同行者すべてが雪の中でへたばり、凍死するかもしれないという状態です。
(もう少しだ、もうちょっとの辛抱だ)
自分の気持ちを引き立てようと、心のハッパをかけて、前後の人とは声を高くして話しかけながら歩く。
やがて私は先頭にたちました。
荷物の重みが小柄なからだにはこたえる。
全身が寒さのためにしぶれてくる。
感覚がマヒしてきて、睡魔も襲うようになる。
ここで眠ったらおしまいなのです。
永遠に眠るように、再び目は開かれない。
元気づけようと私は「江差追分」をうたいながら峠道を一歩一歩重い足どりで歩いていくと、白い雪のカーテンのむこうに人影を感じました。
私の前で立ち止まった人影の主は、
「ミッちゃんじゃないか」
偶然にも函館の知り合いの人です。
かいつまんで、地方の巡業にでてからの話をすると大変に同情してくれた上に、
「こんな雪道歩いてお腹もへったろう」
包み紙を開くのです。出てきたのはおおきなギンシャリのにぎりめし。私たちはそのふたつのにぎりめしでわずかに生色を取り戻したのです。
吹雪の峠のオニギリ、私には一生わすれられない思い出です。

 

挫折を乗り越え再び巡業

 

若さというものは、何も増して貴重な宝だと思います。
若いがゆえに、踏んばれる。
明日に希望をつなげる。苦労にたえられる。
あのころ、そうです、
敗戦の昭和20年秋からの私は、若さがあったからこそ、無我夢中で生きてきたといえます。
当時、私の生きる道は民謡をうたい、わずかばかりのお金や、お米、野菜、干魚といった糊口をしのぐものを得るのに必死でした。
日本全国虚脱状態、日本全国餓鬼地獄といった世相です。
そんなとき民謡の巡業つづけても客はいりません。
金ナシ、米ナシ、職もナシといった人口が日本中にあふれていました。
ある資料によると、そのころ闇市、青空マーケットといわれる不法な流通市場で売られていたお米一升が70円。
一般家庭に配給されるお米は53銭でした。
いかに法外な高値で取引されたかわかるはずです。
それでも、配給米は、遅配つづきで大衆は、芋を主食していたほど米はありません。
食糧危機は深まり、闇米、金のあるものだけが買えた、といった時代です。
明日日の米にもこと欠く生活を余儀なくされている人達の多い地帯を巡業していては不入りは当然。
さんざんな目に会い、ほうほうのていで私は家にたどりつきました。
また生活は、日雇い人夫、お座敷がかかれば民謡をうたいにいくといったものに逆戻り。
されでも、民謡はすれきれません。
(きっといつか、民謡を心から楽しむ時代がくる)
ともすれば、くじけそうになる心にいいきかせ、精進を重ねることを命じたのです。
人間にはたえず山と谷があります。
幸福の絶頂にいたと思ったら奈落の谷に落ちているー といった人生が多い。
だから、いつも心に太陽を持っていよう、というのがわたしの偽りのない真情です。
太陽は明るく、万物の成長をうながし、明日に生きる希望を与えてくれるシンボルだと信じて、その時代を生きてきました。
「禍福はあざなえる縄のごとし」といった言葉があるように、運、不運、幸福、不幸は表裏一体でしょう。
野球にもあるように、ピンチのあとにチャンス到来。
これなんです、人生は…。
私の場合、東北地方で地方で有名な民謡の人気歌手、三浦為七郎さんが奥さんと一緒に北海道はでてこられたことでチャンスがめぐってきたようです。
「一緒に巡業に旅に出ませんか」
あたたかい誘いをうけたのです。
前年の長期巡業でにがい思いをしているので一瞬ためらいました。
だが、すぐに、(挫折してはいけない、俺には若さがある。七転び八起だ)
と自分の胸にいいきかせ、巡業への同行をお願いしたのです。
快諾した三浦さんは、二枚看板の巡業の旅にしよう、と言い出してくれました。
普通 「三浦為七郎一行」でいいのです。
これが一枚看板、それを「三浦為七郎、金谷美智也一行」としたのです。
私はうれしかった。もりもりとやる気を出し、各地で歌いまくりました。
そのころ、昭和22年の春は、まだまだ日本は、衣食住がラクではありません。
インフレはますますひどくなったいく。
アブレ・ゲールといわれる若者たちは、アロハシャツにラバソールの靴、ヘヤースタイルはリーゼントといった格好で町をノシ歩いていたようです。
ちまたでは、「りんごの唄」(並木路子)が大流行していたし、「かえり船」(田端義夫)も
大勢の人々に愛唱されました。
外地から復員軍人の数は日増し多くなり、それらのひとたちに「かえり船」は心にしみたのでしょう。
私は春草の萌える函館を振り出しに道内を巡業してまわりました。
この民謡巡業は、春草が新緑に変わり、目のさめるような農緑となり、やがて黄ばみ、落葉の季節となって木枯しのおとずれ、そして粉雪の到来という長期のもので、この時期に、私は、精神的にずいぶんとおとなになったと思っています。
この興行は、前年のときよりも成功したという実感がいっぱいでした。
それは舞台に立つと、ひしひしとわかるのです。
日本の敗戦で占領軍が各地に進駐してきました。
北海道にも米兵の姿が多かったので、あっちまち、米兵の好きなジャズが、基地周辺に流れ、それが当時のヤングの
耳にも伝わりチューインガムを噛みながら、イントネーションのおかしい英語でジャズをうたう人もみられるようになったのです。
いつの時代でも、流行の最先端に飛びつく人はいます。でも、これはごく一部だと思います。
大衆はなかなか新しい物のは飛びつきません。
慎重なのです。
だから、大衆にとっては舶来のリズムは緑の遠いものでした。
明日の糧を求め、それが、得られ、ホッとしたときに精神の疲れをいやすのは、外国からはいってきた歌ではないのです。
やはり、自分たちが生まれ育った土地の歌、日本人の血に流れているメロデイーでした。
民謡は私達の祖先が残してくれた大衆の歌です。
祖先から子孫への血のつながりがあるはず。それを求めるのでした。
一日の生活に疲れた人々は、その疲れをいやそうと、私たちの出演している小さな集会所、公会堂、小学校の講堂に集まって来てくれるのです。
お客さんの求める熱気がこちらにも伝わってくる。そうすると、私の方も、
(ありがとう、遠くのほうからも聴きにきてくれる。体当たり、めいっぱいやろう)
自然にファイトが湧いてくるのです。
私は小さな体からありったけのエネルギーをふりしぼって、うたいまくりました。
私の歌にあわせて手拍子をとってくれる。
これがまたうれしい。
舞台と客席が一体になるからです。
コミュニケーションが成り立つわけでしょう。
思わず眼がしらがジーンと熱くなったこともしばしばでした。
なにしろ、そのことはインフレが急テンポなのです。
2月に七円だったビールが四月には20円、八月には23円といった急激な値上がり。
国鉄運賃はもちろん、電気、新聞、酒、タバコがアレヨ、アレヨの値上げでした。
タバコはぜいたく品という感じです。
昭和22年の秋、ピース50円、現在はなくなりましたが光も50円、金鵄(のちのゴールデンバット)が二円50銭、ほまれ七銭、その秋に姿を消しましたが鵬翼は45銭という値段。
ピースは最高級のたばこで、これを吸っているのは闇成金ではないか、とまで思われたといっています。
こんな世の中に、なけなしの金を手に握ってくれるお客さんです。
それを知っているからこそ、歌にも力が入りました。
熱唱につづく熱唱で、お客さんは満足して家路についてくれたのです。このとき思いました。
(日本一の民謡歌手になろう)と。

 

東北での楽しい想い出

 

地方巡業に辛さはつきものです。
現今ならば、交通網が発達しているので、旅もスムーズに進みます。
けれど、その当時は違う。
時間の不定期な列車に乗り込み、オンボロバスにゆられ、田舎道をテクテク歩く、といった道程はごく普通のものでした。
両手に荷物を持ち、灼熱の太陽にあぶられながら、ほこりっぽい道を汗をかきかき次の目的地まで歩くときのせつなさ。寒風に急き立てられるように、前かがみになって歩く頬に小雪でも降ってきたら、泣きたくなります。
すでに人通りもとだえ、ガラーンとした駅のホームで夜行列車の到着を待つ間のせつなさ。
宿泊費を節約するため夜行列車にのり車内で仮眠をとり、翌日は公演場所の楽屋に入る。
旅巡業のわびしさがつのります。
けれど、その、ともすれば崩れ落ちそうになる気持ちを支えてくれるものが聴衆の熱狂的な拍手でした。
私はこの巡業のおかげで、北海道ではかなり知られるようになり、希望の夢はふくらむばかりです。
昭和23年2月、私は三浦さんとの巡業をおえてひとまず故郷に家にかえりました。
17歳の時です。
(次は北海道を出て、東北地方に行ってみよう)
小さな野心が頭を持ち上げてきたのです。
将来のことを思えば、北海道だけでは一人前にはなれない。
(東北地方は民謡の宝庫だ。ここで勉強をしながら、名をあげ、最終目標は花の東京だ)という大きな野望もあったといえます。
東北地方は、いまでこそ東北新幹線が走り、だいぶ近代的な様相をみせるようになりましたが、その時分は農家ばかり。そして漁村。
だが 農作物にはめぐまれています。
暖流と寒流のおかげで、漁獲は全国で指折りの土地柄
海と山とがすぐ近くにある地形のせいか、人々はよく働きました。
不毛の土地を耕し、荒海に出て漁労に精を出すのがあたり前だと考えて、父から子、子から孫へと働きつづけてきただけに、その労働歌ともいえる民謡も多い。
四季で変わる天候と戦い、荒い波風に耐えて日々の生活の糧を得ているわけです。
だから、田植えの歌、秋祭りの歌、あるいは大漁の歌、さらに結婚の歌といったように豊富なのです。
もちろん、中には、これら、海、山の労働歌や祝い歌とちがってレジスタンスの歌もあります。
江戸時代の殿さまが苛政で領民からうらまれる。
年貢米を厳しく取り立てられ、領民たちは苦しい生活を送らねばならない。
その殿さまの圧制を批判し、政治に反抗することは出来ないので、領民たちは、自分たちの願い、恨み、苦しみを歌に託してうたってまぎらわした。こういう民謡もあるのです。
私はこういった民謡を育てた東北の人達に限りない親しみをおぼえたことと、それほど民謡を愛している人たちのなかへはいったとき私をどのくらい評価してくれるだろうか、といった気持ちもありました。
東北巡業の辛いこともあり、冷たくされることもありましたが、おおむね何処へ行っても好評で、私も気をよくして、うたいながら、土地の民謡を熱心に研究し、自分のものにする努力をかさねたのです。
私がのちにプロ歌手となり。キング・レコードで一番最初に吹き込んだ「酒の苦さよ」の原曲はこういった風土に生まれた民謡「新相馬ぶし」が土台になっています。
二作目の「瞼のふるさと」は南部牛追唄」という民謡ががベースです。
東北地方を代表する「斎太郎節」は現在、私が民謡を主にしたステージは欠かすことができない重要なレパートリーになっています。
昭和23年の東北巡業は、その意味でも、私の生涯に大きな関りをもったともいえるでしょう。
私は民謡を勉強するのに熱心でしたけれど、世相は決して明るい材料ばかりではありません。インフレはますます激しくなり、お金の価値は下落し、国民は苦しい生活にあえいでいました。
そうした苦しさを娯楽に求めたのでしょうか。民謡巡業はいたるところで歓迎され、
「苦あれば楽ありだ」
と、楽屋で仲間たちと語り合ったこともありました。
この時分、歌謡曲も一気に花が咲いたように多くのヒット曲が生まれています。
「東京の花売り娘」(岡晴夫)「夢淡き東京」(藤山一郎)「東京ブギウギ」(笠置シズ子)「湯の町エレジー」(近江俊郎)そして「異国の丘」といった歌が多くのファンにうたわれていました。
まだ、あります。
「三百六十五夜」(霧島昇)「あこがれのハワイ航路」(岡晴夫)「懐かしのブルース」(高峰三枝子)といったぐあいですが、これらの歌を歌った先輩たちの中には、物故したり、引退した方もおられます。
歳月人を待たず、でしょうか。
徐々にではありますが、歌での人々の心も明るくなっていったころ、私はいまも忘れぬ思い出を体験しました。
津軽の弘前の巡業のときです。
公演のない日でした。子守り山に工藤昇君という友人がいたので尋ねて行ったのです。
「よくきたなあ、当分ゆっくりしていけばいい」
心よくむかえてくれたのに気をよくして、旅のない日はここに何日もくらしていました。
いわば下宿がわりです。そのかわり、ただメシを食うわけにはいかないから、リンゴの木を植えたり、竹の子採りを手伝ったしていました。
工藤君のヨメさんは大変な美人で、とてもうらやましかった。
なにしろ、十八歳で女房がいるわけですから…。
後年、「リンゴ村から」という歌をだしましたが、その歌の情景はここが舞台ともいえます。
その工藤君のおばあさんが、大変に私を気に入ってくれました。
裏山へ竹の子を採りに行くという朝は、ご飯をたっぷりと食べさせてくれたうえに、お弁当、といってオニギリですが、赤ん坊の頭ぐらいの大きさのオニギリを三つも作ってくれたのです。
当時は食糧難の時代です。
お米のごはんはろくろく口にできません。
それが、大きなオニギリですから、張り切ってでかける。
工藤君のところへは、ギンシャリをたべたくて、公演のないときは、せっせと手伝いに行ったものでした。
あばあさんは、とても親切ですし、私もよく働きました。
私はナットウとイワジの丸干しが大好き。
これだけで馬車馬みたいに働くものだから、おばあさんは
「どうかのう? うちの養子になって、むすこにならないかのう」
大変にありがたい言葉でしたが、もし、ムコになっていたら…。

 

映画の一シーンが転機に

 

東北地方で巡業は日を追って盛況の度合いを深めていきました。
人々は娯楽に飢えていたのでしょう。
どこへ行っても大歓迎されました。
そうなると、こちらもなおさら舞台に力が入る。
(こんなに喜んでくれている。もっとサービスしよう)
この気持ちが聴衆に伝わる。
熱気が客席に充満。
私はありったけのエネルギーをぶつけてうたいつづけたのです。
岩手県、青森県、秋田県へと旅はつづき、私達興行の成功に気を良くしました。
実に多くの人が集まってくる。
(みんな私の歌を聴くためにきてくれる。本当にありがたいことだ)
感謝の気持ちでいっぱいです。幸せをかみしめました。
だが心の片隅には、何かしら違和感があるのです。
(いったいなんなのだろう。毎日多くのお客さんがつめかけてきてくれる。私の歌に満足してくれる。どこに不満があるのか)
自問自答することが多くなっていったのでした。
夜、宿屋の部屋で眠ろうとするのですが、なぜか頭のシンが冴えて眠れない。
そのうち、モヤモヤそたものが、はっきりした自分の声になって心の底から湧き出てきました。何日も何日も、
「なぜかなのか、いまの生活のどこに不満があるのか)
考えに考えた末のことでした。
その声はきつい言葉でいうのです。
「もっと勉強するのだ」
「一人前の人間になるために、他にやることがあるはずだ」
この声をきいたとき、何か別に道があるような気もしました。
こういう考えが頭を持ち上げてくると、いままでのように、仲間たちと一緒に夜の宴会にうつつをむかすのもいやになり、
「散歩にいってくる」
といって、仲間たちから一人離れて、夜空にまたたく星に向かって語り掛ける夜が多くなっていったのです。
仲間のことを悪くいうにはいやですが、昔ながらの芸人気質が肌に合わなかった。
「明日は明日の風の吹く」
「お天とうさまとコメメシはどこへ行ってもついてまわるさ」
といった生活態度になじめません。
「飲む打つ買うのは芸のコヤシだ」
こういってのける人も多い。
飲むのは酒席、打つはバクチです。
買うのは女郎買い、のことでしょう。
興行が成功するつれて、金まわりもよくなる。
そうなると、芸の奥義をきわめようとする努力はしない。
気の向くままに快楽ばかり追う。遊びに身をおぼれさせてしまっては、大成しません。
私は歌が好きでした。
だから民謡歌手として、巡業に加わり、腕とノドを磨いているつもりでした。
一生を歌に賭けるつもりでやってきたのです。
軽薄で、刹那主義の芸人気質に反発も感じました。
多感な19歳、ようやく仲間入りの年頃です。
前途に対する不安もありました。
(もっと別世界があるかもしれない。
平凡でもいい、誠実な人間として生きていきたい)
そう思っても仲間たちは、
「ミッちゃんは学ばなければ一人前にならない」
誘惑し、遊びの仲間に引き入れようとする。
「今度、終演のあと飲みに行こう」
無理に、強引に連れていかれて行かれたのが女郎屋で、ホウホウのていで逃げ出したこともありました。
巡業を重ねるうちに、ますます芸人の世界にイヤ気がさしてきたのです。
(こういう生活では安定性もない。東京へ出て、大学を卒業して、堅気のサラリーマンになろう。
いや、将来は実業家をめざそう)
こういった考えが腹の中で固まってきました。
好きな歌は捨てることはできません。
だから、歌は自分の趣味としてうたっていけばいい。
そういう生活もあるはずだ。−といった考えが心の大半を占めるようになっていく。
そんな心理の状態のとき、秋田市で、小さな映画に入りました。
夜の公演の前の時間つぶしです。
そこで、大きな刺激を受けました。
映画のタイトルは忘れましたが、あるシーンが私の心にハッパをかけたのです。
東京の街々の風景が実にイキイキと撮影されていたのでした。
そこには人間が活動的に生きている。
いまの生活とは別の世界の様なシーン。映画の中のこととはいえ、
「東京には夢と希望がいっぱいある」
と語りかけているようでした。私はそのシーンをみながら、
(草深い田舎の生活の中で、惰性で生きていてなんになる。東京には、一生賭けても悔いのない別天地があるはずだ)
深く心にいいきかせていました。
映画の一シーンが私に転機をもたらしたともいえます。
人生は、ひょんなことから、別世界に足を踏み込ませることがある、といわれますが、
私の場合もそうでした。
もしも、その日、汚い場末の映画館をのぞかなかったら、固い決心が生まれなかったかも知れません。
そのころ、日本映画でヒットしていたのは「酔いどれ天使」(三船敏郎、小暮美千代)、「夜の女たち」(田中絹代、高杉早苗)「わが生涯のかがやける日」(森雅之、山口淑子)、「第二の人生」(山村聡、岸旗江)などでした。
場末の映画館ですから、多分、これらの評判映画の中の一本でしょう。
(よし、どうしても東京へ出よう。一座を脱出しても…)
こう決意を固くした翌日、白川軍八郎と楽屋でふたりきりになりました。
このとき、白川さんは、静かな口調で私に語りっけてきたのです。
「君に、他人の持っていない素晴らしい才能がある。
しかも熱心だ。勉強家だし、いつまでも巡業をしていては芸もサビつく。
君は腕は磨けば磨くほど光る。
歌も、もっとうまくなるはずだ。
東京へ行くべきだな。
芸の達者なものがそろっているのも東京だ。やっぱり東京だよ。
東京へいくべきだ。
芸の達者なものがそろっているのも東京だ。
やっぱり東京だよ。
東京へいきなさい。
君は東京へ出て民謡を教えて生活ができる
食うには困らないだろう。
あるていど生活のメドがついたら上の学校へ行きなさい。
これからの日本は学校をでていなければ一人前のあつかいをうけなくなる。
芸人だから学校はいらない、といったことにはならないよ。
私は、もう年寄りだから、向学心にも欠ける。
君は若い。東京へいくならいまだよ。若いうちだ」
偶然にも白川さんが東京行きをすすめてくれたのです。
東京へ行くことは、一言もしゃべっていません。
何気なくいったのでしょうが、私は、これですっかり勇気が湧いてきました。
白川さんは東北巡業の誘いを受けたご恩がある。
後ろ足で砂にかけて出てゆくようなことはしたくなかった。
それだけに、胸の内はよろこびでいっぱいになりました。

 

 

固い決意の脱出行

 

東京ーそれは若者にとって、あこがれの都といっていいでしょう。地方にいる者には…。
いまでも、その若者心理は衰えていないと思います。
それが、時代は敗戦の混乱期がやや落ち着いてきたころですからなおさらのこと。
「東京へ行けば、独立の道は開ける」
多くの若者がそう考え、行動に移していました。
ただ当時は隘路があったので、そんなに簡単には移動できません。
どこへ行くにも、役所から給付された「移動証明」という紙切れが必要なのです。
いまは、そんなもの必要ありませんが、当時はこれがないとごはんが食べられない。
お米は配給制度でした。
一か月に何升と決められ、配給されている。
移動する場合にはその証明書をお米屋さんに登録しないと、お米をもらえない。
お米をもらえなければ、餓死してしまう。

 

現今のように「大衆食堂はもちろん、ラーメン屋、ソバ屋、スシ屋と、自分のフトコロと相談して、たらふく食べるといった時代ではありません。
その「移動証明」のない場合は、マーケットといっても、そのころですから闇市へ行き高いお金を出して、コッペパンや雑炊を買うしかないのです。
たった一枚の紙片ですが、これがないことには上京できない。
闇成金ならいざ知らず、こちらはしがない民謡歌手。余裕のある生活はしていません。
(どうしたらいいだろう、何かうまい手はないものか)
考えに考えた末に思いついたのは、貯金をおろすときに身分証明書に準ずづものが必要だというきまり。
今とちがい、その頃は貯金、しれも自分の金を引き出すにしても、こちらのままならないシステム・
まして旅回りの芸人ともなれば。うさんくさそうにみられるのでした。
だが、私はこの思いつきにひとりニンマリとしてものです。
「実は…」
と切り出し、フトコロ具合が淋しいので貯金を下ろして、のセリフに、一行の事務の人は
「いいねえ、ミッちやんは、貯金があるんだから。こちとらカラッけつで…」
いかにもうらやましそうにいう。
そして、私の顔を見ながら、
「いったい何に使うんだい?」
いぶかるようにいったのです。
とっさのことで、返事が出来ず、しどろもどろ。それでもやっと
「遊びに行く金にこまりましたので」
もじもじしながらいったのです。
私の方は嘘がバレたのかと内心ギクリとしてのですが、
事務の人はかえって、私のうろたえぶりに納得したように
「そうだよ、若いうちはうんと遊んでおかなければダメだよ」
したり顔でいうのでした。
(冗談じゃない、鉄はあついうちにたたけ、というじゃないか。
若いうちこそ勉強しなければ、きっと後で後悔する。
オレにはいまがそのチャンスなんだ。遊んでなんかいられない)
と胸の内で反発しながらも、素知らぬ態度で、
「どうもありがとう」
元気よくお礼をいって、移動証明をもらったのです。
その夜、公演が終わった後、ひそかに荷造りをしました。
例によって、仲間たちは夜遊びに出かけて行っていません。それはそれでいいのです。
人それぞれの生き方があります。
自分の生き方を強制したり強制さらたりすることはできなはずです。
私には私の生きる道がある。それが東京行きなのだと決意を再認識しました。
身の回りの物をリュックサックにつめこみ、太棹の三味線を手にした時
(うん、これが俺の友達だ、頼もしい友になるだろう)
ふと、こんな感慨が胸のよぎりました。
12歳の時、民謡を吹き込むためにコロムビア・レコードに出かけた時に知った東京と、いま、これから行こうとする東京はずいぶん変わっているはずだ。
その東京でひとりぼっちで生きていくときには、心強い友人が必要になるだろう。
そのとき、この三味線が心強い友人になるにちがいない。しみじみと三味線を手にし、眺めたものでした。
荷物をまとめるとソッと宿舎を出ましたが、なんとなくうしろ髪をひかれる思いです。
「白川さん、大変のお世話になりました。御親切は生涯忘れません。きっと、ひとかどの人間になって故郷へ錦をかざりますから…」
口の中でそっとつぶやき、駅への道を急いだのです。
東京まで切符を買ったら、財布の中には2500円しか残っていませんでした。心細かったことはいうまでもありません。
(東京で何をして食べていけばいいのだろうか、大丈夫かな)
不安は心の中に黒雲のようにモクモクとひろがる。その反対に、
(いよいよ東京だ。俺は若いんだ、何をやっても食っていける)
希望の明るい空がひろがるようでした。
夜行列車は超満員ー。
座席はもちろん、通路、デッキにまでも人、人、人。
いまもこういう光景がみられます。
それは、故郷への帰省客だったり、スキー客での混雑です。
日本が平和で、生活をエンジョイしている姿をあらわしています。
だが、そのころはちがっていました。
大混雑は、カツギ屋の群れでした。
東北は米どころとして知られている。
だから米を仕入れ東京で闇米として高く売りつけるのです。
とても配給だけのお米では、その日その日の生活が維持できなかったからでした。
カツギ屋が車内の大半を占領していて、私は立つ場所もない、やっと最後尾の列車のデッキに立つことができました。乗れるだけでよかったのです。
私はデッキに立ち、走りすぎ、消えてゆくレールをジッとみつめていました。
青白い月光をあびた二本のレールは、私の夢を乗せているのか、それとも挫折がまちうけているのか、ただ黙ってきえていく。
ゴトンゴトンという車輪の音が響く。そのたびに故郷遠くなってしまう。
寂しい気持ちがこみあげてくる。
このときの心情が、後年のヒット作「哀愁列車」にこめられているのです。
私の夢と不安を乗せた汽車は走り続ける。
(どんなことがあってもくじけないぞ)
そう心に誓ったとたん、ポロリと涙がこぼれました。
いささか感傷的になっていたと思い、きっと前方を向くと、グイと涙をぬぐい、
「させば成る、なさねば成らぬ成るわざを、成らぬ捨つるひとのはなかさ」
と口にだしていました。
戦国の武将・武田信玄の言葉です。

 

向学心に燃えて

 

夢にまで見た東京は
昭和25年5月5日ーこの日を私は永久に忘れられません。
新しい出発の日です。
故郷を離れ、志を立て、東京の土地を踏んだ日ですから、青春の熱気いっぱいでした。
夜行列車にゆられ一睡もせずにたどりついた上野駅…。
かしましいくらいの人声がいっぺんに眠気を吹き飛ばしました。
列車は上野駅に到着したのです。
「ああ、これが上野駅なのか」
思わずつぶやいたほど駅もその周辺も変わっていました。
初めて上京したのは12歳のとき。
あのときは、民謡の天才少年≠ニしてコロムビア・レコードでの初吹き込みで上京したものです。
七年ぶり上京では、町並みの変わるのも無理はありません。
しかも、戦争の被害もある。
焼け跡はいたるところにみられ、薄汚れた感じの街々
焼け野原に急造のバラック群。
うごめいているだけといった感じに人もいる。
ホームから眺めた上野駅周辺の町並み、映画の一シーンで見たものと違っていて、
(東京出てきたのはまちがいだったか)
ふと、後悔の念に襲われました。
(いや、それはちがう。これからが新しい門出なのだ)
自分の心にいいきかせホームから改札口に向かいましたが、その時のスタイル、いま思っても珍妙です。
くたびれ果てた背広。背中には身の回りの品を詰め込んだ大きなリックサック、そして腕には太ザオの三味線…。
三味線は東京でどうしても食えなくなった場合、三味線流しをやって食つなぐために持ってきた大事なしろもの。
大きなリックサックを背負っているために、しかも人相や身なりから田舎者とわかる。
てっきりカツギ屋と思った闇商人たちがわたしのまわりに群がり、
「シャリか、シャリだろう、高く買うぜ」
声高く呼びかけるのです。
シャリはお米の隠語なのでしょう。しきりと闇屋たちはいう。
私はなめられていけないと思い、
「ノー、ノー、ちがう」
にわか仕込みの英語でこたえるとにげるように駅の外に出ました。
空はよく晴れた五月の青空、その地上にうごめく老若男女、さまざまな人たちが歩いている、
復員兵、浮浪者、外人兵と手を組んで歩くパンパンと呼ばれている売春婦、やせこけ目ばかり光らせる老人といったように、地方出の青年はオロオロ、ウロウロするばかり。
後年、占いの先生と知り合い、その方の話を聞きましたら、年齢とか、方位が大変によい年回りだったというのです。
やはり、人間には運があるのでしょうけど、それは後の話。その時分は西も東もわからない東京です。
心細いかぎりの上野駅周辺でした。
この時分、上野駅付近にいた浮浪者は千人をくだらないそうです。
それが彷徨しているのだから風紀がよくない。
これらの浮浪者はのちに上野・葵の町、浅草の蟻の町などに集団で住むようになったのですが、当時は上野駅の地下道を占拠して大変な騒ぎだったそうです。
そういった状況の中で、着いたすぐにその日から仕事を見つけなければ食っていけないのだから途方にくれました。
そのころ、芸能界では喜劇俳優のエノケンさんとロッパさんが人気を競っていたので、このふたりのうちにどちらかに弟子いりしょうと決意したのです。
弟子入りでなくても、自分のノドと三味線の腕を買ってもらえれば、という気持ちがありました。
上野駅の正面の左側に「手荷物一時預かり」があり、ひとまず荷物をそにに預け、エノケンさんの家を訪ねて浅草へ向かいましたが、所在地もわからず、道行く人に聞きながら汗びっしょりで家までたどりつきました。
エノケンさんは不在。奥さんがでてきました。私の顔をみながら
「あんたにはこの商売むかないよ。もっと別のところで頑張りなさいよ」
丁寧にことわられました。
正直いって、北海道からポットでの青年、しかも、一通りの紹介状もなければ、身元も確認できないし、断る方が当たり前です。
後日、私が少しは東京でしられるようになったとき、エノケンさんが奥さんから、
「あの子はうちへ弟子入り志願できたんだよ」
家に訪ねてきたことを知り、
「惜しいことをしたじゃないか」
といわれたそうです。
エノケン先生らしい思いやりです。
ロッパさんの門も叩きました。
剣もホロロで断られる。
これも当然。薄汚れた青年はうさんくさく感じられたのでしょう。
「また弟子入り志願のおノボリさんがきたようだ」
といったおもむきです。
多分、そういう人たちが多かったに違いありません。
悪く言えば、人気者の弟子になればその日の食事にありつけるから…といった人間のさもしさも働いていないといえません。
私はどうしていいかわからなくなりました。
夢と現実の間のギャップはかなりはげしい。
東京で頼る人がいない。
空腹がひどくなる。
焼け跡に立っている水道管の蛇口から流れる水をガブガブと飲み、飢えをしのぎました。
その蛇口から流れる水をたらふく詰め込み、ホッとした瞬間、
(あつ、そうだ、コロンビア・レコードに行けば、私を知っている人がいるかもしれない。)
田舎者の気がよさです。
一緒に仕事をすれば仲良くなれると思っています。
よくも悪くも連帯感で結ばれている。
ところが、東京に暮らしている人は、
「他人のことなんか、かまっていられないよ」
つまり、個人個人の生活を大事にする習慣が身についています。
だからお人よしの私が、コロムビアを尋ねても誰も相手にしてくれません。
七年前に上京して、レコードを吹き込んだだけの少年が、19歳の青年になって訪ねてきたからといって、相手にすれば用のない人間です。
文芸部の部屋をウロウロしていたが誰も声をかけてくれません・
(ここでもオレは歓迎されない人間なんだ)
いささかひがみっぽくなっていく。そして考えた。コロムビアには用がないけれど、他に頼るひとがあるはずだ。
廊下の片隅の古ぼけた椅子に腰かけながら思案しているとき、ふっと浮かんだのが、当時全国的に人気を博していた民謡の大家・菊池淡水先生を尋ねてみよう)
やっと住所を教えてもらいました。
それがなんと鎌倉市山ノ内。東京へ着いたばかりの青年に、鎌倉という町は大仏様と八幡宮ぐらいしか知らない。
それを本で読んだだけの知識である。気持ちはくじけそうになる。

 

運命をきめた鎌倉行き

 

運命は神が与えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構である」と文豪・夏目漱石はいっています。
私の場合、菊池淡水先生に、なにか当座のしごとをお願いしようと、住まいをたずねたのが、神与えてくださった運命かもしれません。
菊地先生のお住まいは、鎌倉市山ノ内と聞き、
「横須賀線にのっていけばいい」
といわれ車中の人となりましたが、東京に着いたばかりですから、かいもくわからない。
「鎌倉」の二文字を頼りに鎌倉駅に降り立ちました。地理不案内のためです。
鎌倉駅のひとつ手前の北鎌倉駅で降りるのが正解だったのですが、そんなこと田舎出の青年にはわかりません。
駅前で通行人に聴くと、そんはバスでいなかければダメだよ」
冷たい言葉でいわれ、一瞬ガックリときました。
それはそうでしょう。軽い財布の中からなけなしの金をはたいて鎌倉駅までたどりついた。
その上にまたバスにのらなければならない。ますます財布は軽くなる。寂しい気持ちはつのる一方です。
でも仕方ありません。歩いていくのはかなしの道程と時間がかかる、といわれて、バスの乗客に…。
ところが、わたしは大変な失敗に気が付きました。
北鎌倉の駅についてハッとしたのです。
菊地先生の住所は聞いたのですがはっきりした番地までは聞いていなかった。
ここらあたりも田舎育ちのせいでしょう。
都会と違い番地まで必要ないのが田舎の住所です。
(どうしたらいいだろう)
途方にくれましたが、気をとりなおし、一軒ずつ「菊地」という門票を探す事にしたのです。
これは困難な作業でした。
門標のない家もある。
勇気を奮い起こして、その家の玄関に立ち
「あのう、ここは菊池さんのお宅でございますが」
うさんくさそうな青年の訪問に、冷たい視線と答えが帰ってくる。
「ちがいますよ。他を探してください」
押し売りとまちがえる家もありました。
ずいぶん歩き続け、80軒ぐらいは玄関の戸を叩いたと思います。
やっと「菊地」の門標を探し当てたときは足は棒のようになっていてヘトヘトでした。
(ああ やっとついた)
ホッとしながら、玄関口から声をかけるとその家の人が出てきて、私を上から下までジロジロとみる。
其の挙句が、なんと同姓でも菊地先生の家ではなかったのです。
涙が出そうになる。泣きたい気持ちをおさえ、やっと声が出る、
「あのう、菊地先生のお宅はご存じないでしょうね」
「知るわけがないでしょう。親類でもあるまいし」
冷たく追っ払われました。
泣くに泣けない気持ちでスゴスゴと足をひきずりながらまた歩き出すのです。
半分夢遊病者のような足取りです
けれど、どうしても菊地先生の家を探しださねばならない。もう故郷には故郷にはかえれない身の上。
私はまた根気を出し、足をひきずり探し回りました。
幸運にも郵便局の前にでたのです。
ここで菊池先生の住所をしっかりとおしえてもらいました。初めから、住所がわからないならば郵便局か交番を教えてもらい、そこで案内図でもかいてもらえば、無駄な時間の浪費と体力の消耗をしないですんでのでしょうけれど、そこまでの世智はありません。
重い足が軽くなったように菊池先生のお宅にむかいました。このときのよろこびはなんともいえません。
やっとこれで、私もなんとかなる、といった気持ちでしたが、これは数分後に無残にも打ち砕かれてしまう。
お宅を伺うと、奥さんは、
「それはそれは残念でしたね、はるばるおいでになったのに…。いま、主人は九州ののほうへ、赤坂小梅さんと興行ででかけているんです。」
ひととおり、私が、東京で民謡を勉強したくて、北海道からでてきた身の上を説明したあとにこういわれたのです。
「東京には知人がいません。
先生には大変ご迷惑でしょうが、頼るのは先生だけなんです。なんとかなりませんか…。」
必死の面持ちだったと思います。ここで取り出されたら、野宿の末に、明日から上野山で浮浪者の仲間入りかもわからない。
奥さんは、大変に同情してくれました。きっと、私の顔色から、
(もしも、このまま帰したならば、この青年はあやまった道にはいるかもしれない。)
と判断したのでしょう。
心の中にはいささか自暴自棄になっていたのも事実です。
「明日の朝帰ってきますから、そのときはもう一度だけ尋ねてきてみなさい」
やさしくいってくれました。
地獄に仏の声を聞いた思いです。
「今夜、お泊りのところに困るでしょう。
私の知っている旅館がありますからそこでお泊りなさい」
親切にも旅館を紹介してくれました。
木賃宿みたいな旅館の五右衛門風呂にはったとき疲れがドッと出てきて、一瞬、貧血したように目の前がボンヤリしてきたのです。
空腹のためでした。
飲まず食わずの家さがしです。
極限状態に近い体調でした。
菊池先生を尋ねるというので三味線をかかえ、何十軒歩いたことだろう。
その夜、寝床に入りましたがなかなか眠れません。
(先生はあってくれるだろうか。門前払いをくらったらどうしょう。大丈夫かなあ)
不安はつのる一方です。そしてまた思いは故郷に飛んでいく。
(巡業先からドロンをきめこんだオレのことをどう思っているだろう。
悪口でいっぱいかもしれない。そんなところにオメオメと帰れない)
考えはそれからそれへとひろがる。
いくら眠ろうとして頭が冴えるばかり。
ウトウトとしても、また目がさめる。窓を開けると夜明けの明星が輝いている。
その星に向かって語り掛けました。
(いったいオレはどうなるのだろう。もしも、おまえに将来を見通す目があるのならば教えてくれ。
オレの未来は明るいのか、希望を以て生きて行けるのか。オレの運命明るいほうにむいているならば、おまえの輝きで示してくれ)
このとき、明けの明星はいちだんと光彩をましたようにキラキラと光ったのです。
それはまるで、打ちひしがれた青年を励ますような、運命の光明にもみえました。
あの安堵感が胸に宿り、ようやく平常心を取り戻すことができました。
私は蒲団からたちあがり、洗面用具を持って洗面所へ向い、身仕度をととのえたのです。
薄っすら、夜明けが近づいてくる時刻でした。

 

菊池先生の温情に泣く

 

夜のとばりが消え、薄っすらとあたりがしらみかける午前三時、私は宿屋を出ました。
めざずは菊池淡水先生の家…。
不安と期待の入り混じる中、玄関口で案内を乞いました。
初夏の空はようやく朝ぼらけ抑えている
だが、私の心は晴れ晴れしくない。
胸はドキドキしている。
玄関は払いも気になる。
でも、あの奥さんの親切さからすると、むげに玄関払いもあるまい。
そんな心配も杞憂でした。
菊池先生は、旅興行から帰り寝付いたばかりでしたが、心よく迎えてくれたのです。
ひととおりの身の上話と上京の動機を語りおえた私の顔をみて、
「君も冒険だね。こわいもの知らずともいえる。
東京は、生き馬の目を抜くというほどの大変なところだよ。やっていけるかな、君の様な素朴な青年に…」
こういいながら、
「まあまあ、歌を聞いてみましょう」
私は人生最大の試練にぶつかったと思いました。
このテストに失敗すれば故郷に帰らなければならない。
故郷に錦どころでなく、故郷にボロ着でたどりつく羽目になる。
大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせ、一心に三味線を弾き、うたいました。
「うーん」
と菊池先生はうなり、ニコッとして、
「まあまあだね。だがね、東京へ出てきてすぐに歌手になれるわけじゃない。
自分で働きながら歌を勉強するということでなければ東京では無理だよ。明日から就職先をさがしてあげよう。」
なんと心のやさしい人だろう、と思うと眼頭がジーンと熱くなりました。
見ず知らずアカの他人、北海道から上京した一青年、それに紹介状もない。
私は温情にに泣きました。
その日から菊池先生は、早速横浜にでかけたり、浦田、大森といった町々へ知人を尋ねて私の就職運動です。
仏壇屋、八百屋、鉄工所の下請け、とほうぼう頼んでくれるのですが、どこも人手があまっている。
「気をおとしちゃいけないよ」
菊池先生は一緒に歩きながら力づけてくれます。
私はただ黙ってうなずくだけでした。
何軒か歩いた末に、横浜の雪見橋にあった雪見湯(現在は焼失)に就職が決まったのです。
ここの経営者の門勝二さんは、大変に民謡の好きな方で、その民謡を通じて菊池先生とはごくじっこんの間柄だったわけで、わたしはホッとしました。
菊池先生は大恩人です。
その大恩人の顔にドロを塗ってはもうしわけがありません。
「いい人を紹介してもらった」
といわれるように熱心に働きました。
上京して初の仕事がお風呂屋さん。
いつも清潔でいられていい、などとも思って、仕事を取り組んでいました。
仕事になれてくると、多少心に余裕がでたのでしょうか、ラジオから流れてくる歌謡曲に耳に傾けるようになりました。
「買物ブギ」(笠置シズ子)「赤い靴のタンゴ」(奈良光枝)「東京キッド」(美空ひばり)といった歌が流行していたのです。
風呂屋の手伝いをしているうちに、私が民謡の勉強のために働いているというのがわかったお客さんの中から
「それじゃあ、教えてもらおう」
いつしか、そんな声がでてきたのです。
もちろん、門勝二さんの推薦もありました。
菊池先生から私のことを聞いていたわけですから…。故門勝二さんにはいまも感謝しています。
私はよろこびました。
好きな民謡を力いっぱいうたえる。全力投球です。
夜になると、近所の民謡好きが集まってきました。いわば民謡温泉ともいうべきお風呂屋さんだったのです。
ここに民謡を教わりに来る人はお年寄りが多かったと思います
そんな中に亀谷うめというおばあさんがいたのです。
私に民謡を教わりながらも、昼間の仕事をみていたようでした。
年齢も19歳と聞き、
「若いのに感心だ。まじめに働くし、人間もよさそうだ」
仲間たちに話していたそうです。
その亀谷が、ある日、私に、
「網島温泉の東京園という民謡温泉でまじめな青年を欲しがっているんだけど、よかったら紹介するよ」
親切にいってくれたのです。
多少ためらいはありましたが、門勝二さんにそのことをいうと、
「いいじゃないか、むこうのほうがうちよりも大きいし、民謡を習いにくる人も多いと思うよ」
心よく綱島行きを許してくれました。やさしい人間性を感じたことはいうまでもありません。
亀谷さんと一緒に東京園へ出かけ、そこの支配人をしていた北沢とし子さん(のちにわたしの養母)と会い、無事に就職することになりました。
思えば、私はラッキーです。
東京に着いて一か月もしないうちに、東京園で住み込みで働くようになったのですから。
その東京園はいろいろな意味で、私の生きざまにかかわりを持っていくのです。こればかりは運命の神様しかしらない人生航路です。
知人も頼る人もいない、右も左もわからない東京で、ただ学校に入って勉強したい、民謡も上手になりたい、この一心で飛び出してきた故郷ー。
もしも、菊池先生に会えなかったら、門勝二さんのところで働けなかったら、亀谷さんと知り合い、北沢の母に出会うことがなかったら、今日の三橋美智也はあったでしょうか。
この方たちがあたたかい思いやり親切、私にとっても生涯わすれることはできません。
人間には、一生の間に運≠ニいうものが、むいてきたり、さっていたりする、といわれます。
私にはその運≠ェうまくツイていたのでしょう。
それと、社会的な背景も、私にはうまく味方したお思います。
暗い世相、申告なインフレ、生活苦というものが、どんどん悪く方向にいくならば、民謡をうたい楽しむという余裕もありません。
世の中、敗戦の傷の痛みから立ち直り、活気を呈してきたのです。
その上に、この年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争の勃発
戦争は昭和28年7月27日の休戦協定まで三年間つづくわけですが、日本の産業界は特需景気にわいたのです。
ある重工業の社長は
「朝鮮戦争開始と同時に、われわれはアメリカ軍の命令で24時間、ぶっとおしの作業を強制された」
というほど、資本家にとっては、特需ブームだったそうです。
特に鉄鋼、繊維関係関係の産業は景気がよく、「金へん、糸へん」と呼び、その産業に従事する人たちは金回りがよく、うらやましがられたといいます。
そんな中で私は汗みどろで働いていました。

 

真っ黒になって働いて…

 

自分でいうのもおかしいですが、東京園で住み込みになって働いた私は、実に一生懸命でした。
ロシアの文学者トルストイの名言にある、
「なんじはなんじの額に汗して、なんじのパンを得ざるべからず」
これがいつも頭にあったといえます。
東京園での仕事は、ナンデモ屋≠ナした。
ボイラー・マン、喫茶部のボーイ、チケット売り場、部屋のふき掃除、便所掃除、そして庭掃除…。どんな仕事もいといません。
私は負けん気の強い男です。これが私の人生のバックボーンになっています。
「なんだ、あいつは口だけの男か」
といわれるのが大きらい。
むしろ不言実行型かもしれません。黙々と仕事に取り組む。
おせじいえないタチでもあります。
これが、ときによると誤解を招くこともあります。
オベンチャラをいえず、口ベタなところもあり、ときによってはソンをする。
だが、人間は誠意をもって生きていけば、必ず認めてもらえるーというのが、いまの変わらぬ私の人生訓です。
だから、早朝から起き出し、精いっぱい仕事に体当たりにしました。絶対に寝坊をしたこともないし。たたき起こされた体験もない。
ボイラー焚きの仕事は、経験者でないとわからないでしょうが、大変につらい。
そのことは、現今のカマとちがい、満タンにするのにはかなり長時間かかる。午前9時に風呂をオープンするとすれば、冬のシーズンだと午前3時半の起床。
北風がピューピュー、手はかじかむ。
その手に息を吹きかけながら、ボイラー室にむかう。
夜、寝床につくのは午後11時半ごろ。
そして三時の起床はハードワークです。私は歯をくいしばって頑張りました。
ボイラーと取り組んだ三年。からだの弱かった私は見違えるように頑強になったのです。
毎日毎日の気の張りよう、精神力、これがおおきく作用したと思います。
(人間。不屈の精神さえもてば、どんなことでもできる)
三年間のボイラーマン生活でこう会得しました。多分、北海道、東北を民謡巡業していた時代の私しか知らない人だと、びっくりするくらいからだは太り、筋肉もついたのです。
腕の力は人一倍になりました。
私が右の親指と人差し指でビールのセンを苦も無く二つに折ってしまう怪力を持っているのも、そのボイラー・マン生活で得た特技です。
昼の仕事をめいっぱいやったあと、夜は大広間で毎晩民謡を教えるようになりました。
もともと民謡温泉だったし、北沢の母が私に弟子をとるようにすすめたからです。
はじめてみると、私の声を聞いて、たちまり50人ぐらいの弟子入りでした。
これはうれしかった。
東京園のボイラー・マンの給料は四千円。この中から食費として1500円をひかれる。
そうすると手元に残すのはわかずかに2500円です。
どうしても生活は苦しくなる。
そこは50人からの弟子入りです。
お弟子さんの月謝は300円、月に15000円の収入になります。
(これは助かる。これで念願の学校に行けそうだ)
向学心はいっこうにさめていませんでした。
私の大きな希望ではあったからです。
一日一日が楽しくなりました。
昼と夜。汗みどろで働けば、どんどん収入がふえるんですから張り切るのは当然でしょう。
この年の11月、横浜外語に入学しました。
現在YWCAです。
「ジス・イズ・ア・ペン」から初等英語の勉強。これがなんともいえず楽しい。けれど勉強はなかなかはかどりません。
わたしは、必死でリーダーと取り込みました。
小学校、高等小学校時代の勉強ぎらいの腕白小僧はどこかへいってしまい、クラスでは模範生になったのですからおかしなものです。
(早く高校へ進学して、サラリーマンになる足がかりを得たい)
といった考えもあったとおもいます。
私は夢に向かって、前進しました。
夜学の横浜外語から帰ってくると,眠気をさますたやめに、冬だというのに頭から冷水をかぶり、それから明け方近くまで
机に向い復習に励んだのも、いまはなつかしい想い出です。
(努力を重ねれば、必ず成功への道につながる。)
こうも信じていた毎日ですが、運がついていたことも事実でしょう。
前に述べたと思いますが網島方面で私が働きだしたということは方位学からいうと大変よかったそうです。
とにかく、ぴたりと当たるのです。
話は飛びますが私は家を三軒建てています。
そのいずれも方位学がおおいに影響しています。
東京の代々木に建てた時は、作曲家、中野忠晴さんが方位学の先生を連れて見えられて、
「ここに住むと、奥さんが2,3年で死んでしまう。三橋さんもしぬ。」
それは困る、まだ死ぬには若すぎる、というので、現在の世田谷区南烏山に建てたのです。
ところが、これがどうやらよくないらしい、というので立て直した。
何がよくないかというと、台所とか、リビングルームの位置、つまり東北南北のどの方面に、どんな部屋があればいいかという方位にそぐわなかったらしい。
そこで、今度は私自身の手ですべて設計したのです。
方位学を考えながら自分の手で設計したのが一番よかったと思う。
建て直したら、ミッチーブームが起きて、それにつれて、人生が好転です。
だから方位学の価値は認めるべきでしょう。絶対にあると思います。
それを駆使して天下をとったのが徳川家康だといわれているほど、昔からのもので、当時、天下分け目の関ケ原の戦いは、四分、六分で豊臣方が優勢でした。
その豊臣勢を向こうにまわして戦うとき徳川方の布陣が方位学にのっとってのものだと聞いています。
結局は方位学の力で勝利をおさめた、といえばおおげさですが、遠因にはなるでしょう。
だから、わたしの今日あるのも、努力の積み重ねと運だとおもうのです。
実力もさることながらやっぱりどんな人でも運がある、なしで、成功、不成功につながるをしみじみかんがえたこともあります。
私の場合、周囲に心の暖かい人が大勢いたこともめぐまれていると、いつでも感謝しています。
でも、私はそれに甘えてばかりいませんでした。
(災難はいつくるかわからない。前途に保障はなにもない)
いつでも自分自身で食っていけるための準備もかんがえました。
慎重で用心深いところが私にはあったのです。
だから、横浜外語に通うかたわら、文字どおち寸暇をさいて、小型四輪とオートバイ(三輪車)の運転免許をその年の12月に取得しています。
いつ、首になってもいいようにという配慮でした。

 

 

あこがれ高校入学

 

いまでは、苦しかったこと、いや思い出が過去のものになり、なつかしい想い出ばかりのボイラー・マン民謡の先生の時代ー。
思えば、多くの人から暖かい恩恵をうけました。
特に北沢の母。
私に小型四輪とオートバイの運転免許をとるように勧めてくれたのも北沢の母です。
「これから先、あなたの生活に変化が起こるかもしれません。
クビになることだってあるんですよ。
そのとき困らないように運転免許をとっておくほうがいい」
そのころ、進駐軍のジープの運転手の給料は三万円ぐらいでした。
もしも、首にでもなった場合、運転手になりながら、学校にかよえる、という安堵感を持ったのも事実です。
民謡のほうは趣味で…というわけにはいきません。
それなりに一生懸命やり、お弟子さんも増えていきました。
この年、昭和25年、当時の読売ホールで日本民謡協会の発会式があり、私も出席したのです。
当日は土砂降りの雨でした。
その大雨にも関わらず。全国各地から有名な民謡歌手や民謡研究家が集まってきて大変な盛況。
私は、この日、浅黄の着物を着て三味線を弾きながら「相馬盆唄」を力いっぱいうたいました。
自分でもかなりの出来ばえだと思ったのですが、これが私の東京での初デビュー。
民謡の諸先輩にまけじと頑張ったものです。
この日のことを大変によろこんでくれたのは、ほかならぬ北沢の母と、おばあちゃん≠ナした。
私がおばあちゃん≠ニ呼ぶのは中村かつさんです。
北沢の母のお姉さん、東京園の社長に母に当たる方で、私を大変可愛がってくれました。
母とおばあちゃん、この二人は終生忘れることができない大恩人です。
私が世に出るまで、どのくらい物質面でも精神面でもお世話になったことでしょう。
おばあちゃんは
「民謡の先生なんだから、着物もしっかりしたものを着ていなけりゃおかしいよ」
よくこういい、私の着物を惜しみなく買ってくれたものです。
北沢の母は、私のかげになり、ひなたになりかばい。はげましてくれました。
当時、私は北沢の母のことを「おばさん」と呼んで慕っていて、実の母以上になっていたのです。
その北沢のおばさんと叔父さんには子供がありません。
「私たち夫婦の子供になってくれないか」
といわれたときは本当ににびっくりしました。
多少、民謡は上手でもボイラー・マンです
とっさに言葉は出ません。
「私たちはね、あなたの向学心とまじめで素朴な人柄にいつも好感を持っていたんですよ。真剣に考えておくれ」
こういわれ、すぐに返事が出来ませんでした。
「しばらく考えてみます」
ありがたい話です。けれど、もう少し自分自身の進むみちが確定しないことには迷惑と面倒かけっぱなしになる。
北沢の母もそのあたりを察したのでしょうか。私は顔をジッとみながら、
「いますぐでなくてもいいのよ、私たちは待っているからね」実にやさしい言葉でした。
私は、この日からなおさら、元気が出てきました。
やる気満々の日々。さらに勉学に拍車がかかってきました。
そして、念願の高校入学ー。
昭和27年4月、明治大学付属中野高校の門をくぐったときは感激で胸がふるえました。
やっとは春がめぐってきたという感じです。
それも年齢21歳の春。
入学式のあとはクラスの編成で教室へ入る。
部屋の中で、私はいささかとまどいました。
なにしろ、前後左右をみまわすとクラス・メイトは15歳か16歳の少年ばかり。
私は立派な青年。
小学校、中学校を順調に進み、高校へ入ってくれば、その年齢で当たり前。私がフケているだけなのです。
だから、入学当時は、新入生たちから、新任の若い教師とまちがわれることがしばしばでした。
だが、クラス・メイトたちは、この年上の男に対して、たちまち「おとっつあん」というミックネームをつけたものの、
「僕たちの仲間だ」
という意識で接してくれました。
これが実にありがたかった。
クラス・メイトにすれば、21歳の青年はおとなです。
でも、友人扱いしてくれる
学園生活は快適でした。
想像以上の楽しさです。
すっかり私の気も若くなりました。
(やっぱり、昼間の高校へ来てよかった。)
実感でした。
というのも、働きながら学校へ行くことをすすめてくれた人もいます。
「働きながらならば、定時制がいい」
もっとものな理屈なのです。
働く勤労青少年には定時制のほうが通学しやすい。
でも、私はそう思わなかったのです。
高校入学が21歳。定時制は四年制だから、昼間よりも一年多く通学しなければならない。
その一年間がもったいないし、無事に卒業しても25歳になってしまう。
(夜学に通うと、きっと挫折する。そうなると学校は卒業できない)
こういう考えにもとらわれました。私の高校行きが始まっても、周囲の人の中には、
「そのうちに、絶対に学校をサボるようになるか、学業を放棄するさ」
聞こえよがしにいった人もいます。
結局は昼間部の三年間を通学し、高校を卒業することが出来ました。
これは、なんといっても、高校の学校長のはじめ担任の才木利夫先生やクラス・メイトのあたたかい励ましと理解があったればこそと、いまでも感謝しています。
さて、念願の高校生活がはじまったものの難問が生じました。
高校生活なので朝早く起きて学校にでかけます。
北沢の母やおばあちゃんは
「行ってらっしゃい、頑張ってくるんですよ。しっかりね」
激励して送り出してくれます。
もちろん、この方たちのおかげで、高校入学もできました。
けれど、仕事は仕事です。
授業が終われば、すっ飛んで東京園に帰って、ヨロズ屋≠フ仕事が待っている。働いていえう以上は気がぬけません。
入学当時のしばらくは、この重労働もなんとかこなしました。
が日時の経つうつに、
(こんなことをしていると、絶対にからだがもたない。どちらかを選ばなければ、とてもダメだ)
こういった思いをとらわれ、ついに決心したのです。
当然のように私は学校を選びました。
さいわいなことに、このころ、私の民謡歌手として名は相当にひろまっていて、お弟子さんたちの月謝で、なんとか食べて、学校に行けるくらいの収入があったからです。
東京園には事情を話し承諾をえました。昼は学生、夜は学生、夜は民謡の先生という生活のはじまりです。

 

花のおとっつぁん″mZ生

 

東京園のボイラー・マン生活に終止符を打ち、昼は高校生、夜は民謡の先生という生活にはじまり、下宿生活を経て、正式に北沢家の養子に入り、北沢姓を名乗った昭和27年は私にとって激動の年でした。
日本にとっても、社会が揺れ動いた時期だと思います。
いろいろな事件がありました。
(いったい日本はどうなるのだろう)
こんな思いにもとらわれました。
社会の動きに敏感なところがあるのです。
学校で時事問題について、クラス・メイトと話し合う機会も多かったからかもしれません。
札幌市南六条通り白鳥一雄札幌市警本部警備課長が射殺された白鳥事件。青梅線の小作駅で貨車の四両が爆走した青梅事件。
皇居前広場でデモ隊六千人と警官隊5千人が乱闘となり、デモ隊は石を投げ、プラカードをふりかざし、路上に駐車中の外車に火をつけて燃やす。
一方の警官隊はピストルを発射、催涙ガス弾を撃ちパニックの様相を呈した、メーデー事件もこの年でした。
警官隊との衝突を起こした事件の多かった年だと記憶しています。
東京・板橋で交番が襲われ、新宿駅前では千人の群衆と警官隊の衝突。
大分県菅生で交番が爆発された菅生事件、大阪・吹田市で行われ朝鮮動乱二周年記念後におこった吹田事件というように、悪い連鎖反応≠ネのでしょうか、暗い世相も感じ取りました。
だが、高校生活に励む私は、ひたすら勉強に明け暮れたのです。毎日学校へ通うのが楽しかった。
だから、一年生のときの出席日数は自分でも驚くほど素晴らしい出席率でした。
希望の芽がどんどん大きく育っていく感じで、ノビノビとやっていました。
以前のように、学生からあわてて帰り、ボイラー・マンの生活に戻らなくていい。
そうなるとクラス・メイトともとけ合える。
一緒に勉強し、たまにサボリ、映画を見にいったりしたものです。
その時分、やはり、日本の社会状況を反映したのか、内容的にはコクはあっても暗い感じの映画がヒットしていたように思えます。
「生きる」(志村喬)、「稲妻」(高峰秀子)、「現代人」(池辺良)、「真空地帯」(木村功)、「おかあさん」(田中絹代)「やまびこ学校」(岡田英次)といった、良心作とか問題提起の作品をファンは熱心に見ていました。
勉強の合間に、クラス・メイトとおしゃべりすると、私は年の差を忘れて、同じ年の少年に戻ってしまいます。
クラス・メイトたちも何のこだわりもなく付き合ってくれました。
本当にいい友達ばかりです。
夏のクラブ活動の旅行をワイワイガヤガヤと騒ぎながら過ごしたことなど、私の心の中にアルバムに永遠に飾られている思い出であり、なつかしい記念です。
このころ、高校通学のかたわらしきりとラジオを聞くようになりました。まだテレビのない時代です。
ラジオは一般大衆に娯楽を与えてくれました。
NHKの「君の名は」の放送は大変な人気。
なにしろ、これが放送になると、お風呂屋の女湯はガラガラになるといわれるほど女性に人気ある番組でした。
「君の名は」はのちに松竹で映画化され、佐田啓二、岸恵子主演で、多くの女性の紅涙をしぼり、映画のファッションとなった真知子巻きが流行したものです。
私は民謡の放送というと、熱心に耳を傾けました。流行歌も同じです。そのころのヒット曲というと、「ゲイシャ・ワルツ」神楽坂はん子)、「こんな私じゃなかったのに」8(同)「りんご追分」(美空ひばり)、「テネシーワルツ」(江利チエミ)があったように記憶しています。
高校一年生の秋ごろから、知人の紹介で、NHK「民謡をたずねて」に出演するようになりました。ようやく、私の実力が認められてきたでしょう。
すこしずつですが努力のかいがあって前進です。私の声が出る日の朝刊に目を通すのがひそかな楽しみでした。
ラジオ欄に私の名が出ている。ジッとその活字を見る。なんともいえないくすぐったさが身内にこみあげてくる。
(ようやく世間に認められるようになってきた。やったぜベイビー)
といった気持ちです。恐らく何百万人という人々という人々が私の名を知るようになったにちがいない。
東京へ出てきてまだニ年半、それが幸運にもNHKの放送に出られるようになり、ラジオ欄には私の名がでている。
私のよろこびは天にも昇るようでした。
NHKといえば「NHk素人のど自慢」全国的に人気があり、私は弟子で親友の平野繁松君にコンクール出場をすすめました。
平野君は、私が東京園で民謡教授をやっていたころの最初のお弟子さんです。
初めて会った時は同様やせて小さな男でした。
それが、うたわせてみると、声の張りもあり、すこぶるよいのです。
ただ節回し少々研究がいる。
私は平野君にいいました。
「いい素質を持っている。私に任せて一生懸命習いますか?」
一にも二もなく平野君には私の言葉にうなずき。以後の私の手ほどきを受けていたのです。
その平野君を神奈川大会に出場させました。
もちろん、私が三味線を弾きました。
健闘したのですが、鐘は無情にも「カーン、カーン」とふたつだけ。全部歌い終わらないうちに失格。
私は平野君のすぐれた素質に確信をもっていたので、
「来年もあるよ、いっそう精進をしよう」
乞う励まし、翌28年にも出場させたのです。
このときは関東甲信越大会の第一位。
そして29年には全国大会「民謡の部」で見事に第一位の栄冠ー。
「人間は辛抱とねばりだよ」
と三年間の努力をねぐらいました。
努力は実を結び、全国大会の入賞者は、その日の夜、ふたたびラジオでノドを披露することになっています。
平野君は、元気いっぱい、余裕たっぷりにうたいました。
司会の宮田輝さんは、
「この人の伴奏でうたったんだから、全国第一位も当然ですね」
平野君にインタビューしながらこういっていました。すでに三味線の腕もそのころには高く買われていたようです。
こういった活動が活発になるしたがって、私はどきどき学校を休むようになりました。
放送やステージの仕事に時間をさかなければならないのは勉強好きの私には辛い事でした。
その私の苦悩を救ってくれたのは松尾秀一君です。私の高校時代を通じて第一の親友でした。
三年間一緒に机を並べて仲です。
「君は代返の名人だね」
と私が感謝するくらい私の声色で代返してくれました。
代返、宿題、ノート写し、みんな手を貸してくれ、試験のときは徹夜で一緒に勉強してくれるほどの義侠心の持ち主です。

 

学園生活の思い出はつきない

 

明治大学付属中野高校時代、学園生活が辛いと思ったことは一度もありません。
でも、学校を休みがたになった高二のころから、困ることがたびたび起こるようになりました。
なにしろ、ステージ、放送で忙しくなると授業にはでられません。そうなると、出席日数が不足してくる。
高校は単位制です。
きめられた科目の授業を受け、きちんと出席しなければ、卒業できなくなってしまう。
いくら、試験の点がよく、合格点に達したといっても、出席日数が不足してくると卒業にさしさわる。
これでずいぶん苦労し、友達の手助けをもらい、親友・松尾君には「代返」で点をかせいでもらいました。
まったくありがたいことです。
クラスの担任は才木利夫先生。
東京は芝の生まれで、芝の育ちというのですから、もうこれはチャッキチャキの江戸っ子。
「火事と喧嘩は江戸の華」
という言葉があり、勇み肌で、気性の荒い性格の持ち主が江戸っ子に多いそうですが、才木先生も大変に短気。
すぐにカーッとなりますが、あとはケロリとしておられる。
怒っても根にもたないかたです。
それだけ、直情型、情熱のひとなのでしょう。
この才木先生には、ずいぶんお世話になり面倒をみてもらいました。
私が、一方では勉強好き、向学心に燃えているのを知っており、地方では民謡に情熱を傾けているのをよく理解してくださっていたようです。
高校の三年間、多くの薫陶をうけました。
実に素晴らしい恩師です。
二年生の時、学校で文化祭で行われました。
この時初めて参加して、大いに民謡をうたいまくったのです。
「常磐炭坑節」「真室川音頭」「草刈唄」「相馬盆唄」と、いずれも東北民謡ばかり四曲うたい、最後のしめくくりはお得意の津軽三味線の曲弾きー。
会場は超満員でした。
その超満員のおどろきと興奮の声が怒涛のように、
「ウオーツ」
クラスの友人や才木先生は、私のことを知っていましたが、他の学級の生徒や先生方は知らない。
「三橋には、あんなことができるか?」
けげんな顔つきでびっくりして、やがて熱心、というふうでした。
私はあくまでも学生として、勉強するために学生にはいったのです。民謡は第二でした。
ステージでうたったり、ラジオに出演するのは勉強をつづけるための手段にすぎない。
学校内で、私のクラス・メイトにもそうでしたが、
「私は民謡歌手だ」
といったことはありません。
あくまでも勉強の姿勢だったのです。
でも、この日以来、私を見る目に少しずつ変化が起きてきたのは事実でした。
それは、別にひやかしの目でなく、
「一生懸命にやっているんだな、頑張ってくれよ」
あたたかなまなざしでした。
私は一種の安堵感を持つことができました。
もし、私を見る目がちがって、
「あいつは、趣味で、肩書が欲しいから、学生気分が欲しいから、学校にきているんじゃないか」
といった視線でみられたはたまったものではありません。
そうでなく、私を応援してくれるようになったのですからうれしくなりました。
思いやりといたわり、こういった雰囲気に包まれ私は本当に、ここの学校に学んでよかったと。いまさらながらの感慨です。
私が民謡歌手もやっている学生だと知った先生方は、高校二年生のときに、生まれて初めてできた「三橋美智也後援会」に、
「僕らも後援会に入会するよ」
率先して入会してくれました。教頭の大先生、理科の東海林先生、英語の田島先生、体育の名和先生、そして担任才木先生の5人です。
このことがどんなに私には力強く感じられたことでしょう。
人文地理の石塚先生にも、私は大変お世話になりました。この石塚先生という方は、民謡がとても好きなのです。
もともと深い興味を持っていたといいますが、全国に旅するのも好きで、春休み、夏休みともなると旅行に出かけられる。
出かけた先で、珍しい民謡を耳にすると持参のテープレコーダーで、その土地の民謡を収録してくるほどのマニアなのです。
帰京してくると、早速、私のところに連絡が入り、
「三橋君、ちょっときたまえ。珍しい民謡を収録してきたよ。聴きにいらっしゃい。」
親切なのです。私の民謡についても率直な意見をいってくださいました。
専門家の批評とは違う意見、これは一人よがりものにはうれしいアドバイスなのです。
なぜならば、ファンの側から意見なのですから…。
別に専門家筋を悪く言うわけではありませんが、中には昔ながらのうたい方をしないと、気に入らない人もいます。
ところが、時代は流れている。一般ファンの受け入れるような民謡をうたっていくことも大事だと思うのです。
私のこういった考え方を石塚先生は知ってか知らずか、アドバイスや激励をしてくれました。
いろいろと指導もしてくれる親切な先生です。
この石塚先生と一緒に人文地理の調査で江ノ島へクラス全員で出かけたことがあります。
このとき、石塚先生が、話のついでのように語ったことが実に印象に残っています。
「地理学上からいうと映画はあまりにもウソが多すぎるね。
たとえば「青い山脈」だけど、ラスト近くになると水泳のシーンがある。ロケ地は岩石海岸、次のシーンはケンカになるが、なんとそこは大砂丘。
日本中どこをさがしても岩石海岸、大砂丘の連なったところはない。
東北地方のある小都市を舞台にした物語だが、ラストの自転車行進のシーンで、あれッと思ったのは蘭の花がさいていたこと、これがおかしい。
ランの花は東北地方ではみられないのだからね」
我々クラスのものは、全員、先生の課外講義に耳を傾けました。
私も大変興味深く記録したことはいうまでもありません。
のちに、私はキング・レコードから流行歌手としてデビューし、30年12月に「あの娘が泣いている波止場」をヒットさせました。
そのヒット曲の映画化で、撮影所のスタッフと打ち合わせのとき、この石塚先生の受け売りの話をしたのです。
「舞台設定や、物語の中で、あまりウソはいけませんからね」
と言葉を結んだとき、スタッフたちは一様に「ウーン」といった顔になり、
「三橋さんは民謡だけでなく、地理学にはずいぶんくわしいんですね。」
感心されて、くすぐったい思いをしました。
教室の中だけの学問でない、生きた教育も、学園生活のたまものです。

 

新しい時代の民謡に意欲

 

高校性三年生になったと、私はつね日ごろから不満を感じていたことを、角田正孝、中沢銀二、平野繁松君らの話しかけました。
「どうも日本民謡協会の行き方はおかしい気がする。古来の民謡はこうあるべきだ≠ニきめつけすぎると思う。
歌い方の枝葉末節ばかりこだわり、一つのワクにはめこもうとするのはいけないのではないか」
疑問を提示したのでした。
新宿の南口にあった焼き鳥屋での会合だったと記憶しています。
初夏のころでした。
日本民謡はわれわれの祖先が残してくれたものです。いわば文化遺産で大衆のうたともいえるでしょう。
民謡は大衆の中からうまれ、大衆と共に育ってきました。
そして歩いてきている。
その日本民謡は、いまも大衆と共になければならない。それなのに、日本民謡協会は大衆が自由にうたえるような努力を怠っている。
「このままでは日本の民謡がすたれる。ガチガチの石頭、骨董趣味的な日本民謡協会とは決別しよう。現代にいきる民謡をうたう会をつくろう」
私は、身内から激しい勢いでわきあがってくる熱情を披歴したのです。
現代の大衆がみんなでうたえる新しい感覚をもりこみ、一緒に歩きたいと思いました。
ともすれば、わすれかけられる民謡のよさを一人でも多くの人に再認識してもらいたいという悲願もあったのです。
さいわいにも、相談をもちかけた同士は心よく賛同してくれました。
会は発足、その名を「日本民謡青年新志会」とし、時代にマッチした感覚の民謡の発表も心がけ、その研究も大いにやろう、と意気に燃えてのスタートです。
その第一回の発表会は、その年に東京・新宿伊勢丹ホールでひらきました。
発表会の当日まで、
「どうかなあーお客さんはきてくれるだろうか」
心配でたまりませんが、いざ幕を上げてみると、立ち見客がでるほどの大盛況。終演後、
「よかった、本当によかった」
同志達は涙をうかべ、抱き合って第一回の発表会の成功をよろこび合ったものです。
これで、私たちは、この新時代に向けて民謡活動に自信を深めました。
月一度、合評会もやることになり、私は自分の家をこの研究会に開放し、熱心に取り組みだしたのです。
いままでの民謡は、お師匠さんについて、口うつしで習うのがつねでした。
だから、教わり方にも多少の差がでてくる。
そうなると、ごく限られた地方だけの実力者になり、全国的には通用しない。
「口うつしで民謡を覚えるだけの時代は終わった。しっかりした音譜で、民謡を教えなければダメだ」
ということで、音譜の勉強しも身を入れ出したのですから、いかに熱心に取り組んだかお分かりいただけるでしょう。
こういった「日本民謡青年新志会」の活動に身をいれ、学校にも通うという姿から想像すると、私は優等生であり、模範生であり、模範生のようで失敗や落胆はないといった生き方にみられがちですが、失敗もあれば、大きな壁にぶつかったこともあります。
その極端な例を紹介するとー。その当時、私は歯並びが悪かった。矯正しようと思ったいたのですが、なかなかひまがない。歯医者に行くのを一日一日と延ばし、仕方なく、歯の隙間からスースー洩れる息を防ぐためにチューイインガムを詰め込んでおきました。
結果はこれが大失敗。
NHKの「民謡をたずねて」の出演のときでした。
最初の曲は私の十八番とする「江差追分」ハリのある高音が出て、
「うん、今日も調子よくうたえる」
これはイケるぞ、と内心おもわずニンマリしたとたん、詰め込んでおいたチューインガムが口内にポロリと落ちたのです。
(これはいけない、なんとかしなくては)
と思っても吐き出すわけにいかない。
こちらの気も知らずチューイングガムはノドの方角に遠慮もなく進み、ついに前唄のサワリの部分で「ゴクリ」。
顔色が蒼白になるほどの失敗です。
取りかえしがつかない。
次の唄の「木曽節」「白頭山節」うたうと、関係者が
「おつかれさまー」
と口々に交わすあいさつもそこそこに家に帰ると、蒲団を頭からかぶり寝込んでしまいました。
失敗の口悔しさ、悲しさで涙はあとからあとからとめどなく出てくる。
(もう、これで民謡はうたってはいけない)
まるで、人生で取り返しのつかない失敗をしたような気分に襲われました。
それでも、翌日は気をとり直して外出したのです。
(失敗は成功のもと、人間クヨクヨしたってはじまらない)
心にいいきかせ、家を出ました。私の顔を見た近所のおばさんが、
「ミッちゃん、あんたの長唄、なかなかの出来栄えだよ」
いくらなんでも、民謡を長唄だなんて、これで出鼻をくじかれました。
(ああ、もうダメだ。大失敗だ)
こうなると意気消沈、ガッカリし、私はまたまた悲しみの底へ…。これが原因で発熱し一か月も寝込んでしまいました。
人間は、いかに心の持ちようが大切か、という一例ですが、私はスーパーマンでなないし、繊細なところもあるのです。
一か月も休んだことでクラス・メイトたちも心配しました、親切にクダモノを買って届けてくれた級友もいます。
「あの、おとっつあん、熱を出して寝込んでいる。よっぽどのショックを受けたにちがいないよ。ことによると失恋かな」
「いやオニの攪乱というやつじゃないのかな」
「そうじゃないよ、忙しすぎて、休暇がなく、からだがヘバッたんだろう」
冗談と噂と心配が入り乱れたというのです。
ショックでいささか気落ちしている私を立ち直らせてくれたのは、久しぶりに届いた北海道の母からの便りです。
「ラジオで聞いた「江差追分」がよかったよ。これからも頑張っておくれ」
といった意味の内容です。
手紙など、ほとんどくれたことない母、一回もほめた言葉を書き送ってことのない母、その母からの手紙ー。
私にとっては、何ものにもかえがたい、激励のプレゼントです。
母には巡業から上京とめまぐるしい生活の連続のために、6年間もあっていません。
(髪には白いものもまじっているだろうなあ。一日中弟妹の世話ばかりしているのにちがいない。
友人の便りで、東京へ出た私の為に毎朝、神前に手を合わせ、民謡歌手としての成功を祈てくれている母。
何一つ親孝行らしいことをしてやれなかった。)
こんな思い胸の中に走り、母の便りにボロボロと涙がこばれました、。
その夜、故郷の母に久しぶりに近況を知らせる手紙を書き、再び、人生をきびしく生きることを誓ったのです。
母の手紙がこなかったら…。

 

サラーリーマン志望が…

 

同志とともに活動を続けているうちにキング・レコードの音楽課長の掛川尚雄さんと急速に親しくなっていきました。
掛川さんとは、日本民謡協会に在籍していた時からの顔見知りです。
「日本民謡青年新志会」にも理解をしめしてくれていました。大変に面倒見のいいひとで、
「君の三味線の腕前はなかなかのものだ。たまにはレコーデイングを付き合ってくれないものかね」
人柄に惹かれていたので、流行小唄の吹き込みのときには、三味線をかかえて東京・文京区にある音羽のスタジオに出向くようになりました。
いまのキング・コードはビルの中にあり、ビルのうしろには高速道路が連なり、ピュンピュン走っています。
その時分はといえば、山の上のキング≠ニよばれていたように、うっそうとした樹木に囲まれ、その間に石段がありました。
緑に囲まれた建物をめざして石段を上るのだが、夏でもひんやりとした空気が流れていて汗もひく。
夏は蝉時雨ー。このために
「蝉の鳴きやむのを待とう」
あまりかしましさに、スタジオの中にまで声が入る。このため吹き込み中断といった笑い話さえあります。
私より、何年も先輩の方の中には、
「草むらの中には蛇がいたよ」
冗談めかしていっている人もいるくらいです。いわば草深いところに、レコードを創り出す本拠地があったともいえるわけです。
それだけに、人間的にキングレコードの人達はあたたかいものを持っています。
家族的な雰囲気をかもし出していて、これがいまでも伝統になっているようで、専属歌手が、あまり他社に移籍せず、何十年と在籍しているのもうなずけるでしょう。
私は掛川さんに頼まれると学校の授業に午前中だけ出席して、すぐその足で音羽のスタジオへ向かいました。
私が石段を上り、まるで、剣術道場のような古ぼけた玄関から、右手にあるスタジオへ入っていくと、
「あれッ、ここは学生さんに用はない所だよ」
私の知らないスタジオマンは不審な顔をして言うのです。なにしろツメエリの学生服ですから無理もありません。
手にした三味線をみて、
「どこのお弟子さんなの?」
怪訝な面持ちでいう人もいる。
それがデイレクターに紹介され、スタジオで三味線を弾き出すと、
「うーん、たいしたものだね」
私はあまりうれしい顔をしません。
褒められたといっていい気持ちになれないのです。
別にテングになっているわけでありません。
(僕は三味線で一生暮らしていくわけじゃないんだ。あくまでもアルバイト。学校へ行くための手段。
次は大学をめざすのだ。実直なサラリーマンが目的なんだから…)
こんな気持ちがありました。
あくまでもサラリーマン、チャンスをつかんで実業家に転身、これが夢です。
だが、これは心の中にしまっておき、スタジオに入ったときは別。めいっぱいの演奏をしました。
これが結果的には、私にちがった将来への道をひらかせたのです。
それは幸運ともいえると思います。
人間は、なかなか自分の思った道に進めないといわれています。
サラリーマンでも同じ。大学を出て就職するにしても、百人中95人は目的の職種につけず、半ばあきらめて、大学を卒業して就職するそうです。
まして流行歌手への道、あるいはレコード会社に入るということは、よほどの幸運にめぐまれないと実現しません。
いまは、テレビのオーディション番組、あるいはプロダクションやレコード会社の行うタレント・スカウト・キャラバンで、歌手のタマゴがレコード会社の門をくぐる。
ところが、新人歌手というのは、一年間に四百人ぐらいデビューする。
そして、一年経って残るのは、その中の5人くらいという歌謡界です。
一枚のレコードの出しただけで消えてしまう歌手も多い。
それぞれに運を持ち、ツキを持ちながらタイミングを逃したために人気歌手にならないで終わってしまう。
歌手になりたくて、なりたくてたまらずに歌手になっても、その結果がみじめなものになるものも多くいるのです。
私の場合は、流行歌手になりたくなかったし、レコードの吹き込みもあまり関心がなかったのですから人生とは面白いし、運命のいたずらもあるのでしょうか。
それはちょうど昭和28年の夏の暑い日でした。
例によって蝉しぐれ…。私はいつもように午後から授業をサボってキング・レコードのスタジオで三味線の糸を合わせて本番を持っていました。
その日は親友で、綱島・東京園で民謡を教えていたころの最初の弟子・平野繁松君の晴れのレコーデイングなのです。
NHKの全国ののど自慢コンクール第一位になったノドを見込まれ、キングで民謡の吹き込みを行う日でした。
平野君は美声です。「江差追分」をつたったのですが、あまり暑さのためか声の調子がややおかしい。
誰もいいませんが、平野君はテンポ音痴な部分があるのです。
それを食い止めるのが私の三味線です。
うまくごまかして平野君を助けようとするが、テストを重ねれば重ねほど平野君は乱れてくるのです。
どうも音が外れていく。私は三味線弾きとして来ているのだけれど、見るに見かねてアドバイスをしてしまいました。
「こういうふうにリズムをとり、こううたったらいい音がちゃんと、でるんじゃないかな」
といいながら、「江差追分」の離行している一節をうたったのです。
さて、再び、レコーデイングというときにデイレクターが
「今日はこの辺で…」
吹き込みの中断を告げました。
結局、平野君はキングでのレコーデイングが行われませんでした。
不採用になってしまったのです。
のちに、平野君はコロムビア・レコードに行きレコードを出しましたが、オーケストラでうたうときは苦労していたようで、
「ミッちゃんがいないと、どうもダメだ」
よく、こうこぼしていました。
私はといえば、スタジオ内で一節「江差追分」をうたったことが掛川さんの耳にはいり、
「君、素晴らしいよ、もう一度うたってくれないかね」
平野君の吹き込み中断の2時間後にこういわれて当惑しました。
「江差追分」は子供のころからうたっていた故郷の歌です。
私の体の中にしみ込んでいる。だから少しでも、平野君の手助けになればとうたったものが、逆に私を引き立たせるとは…。運命の皮肉なのでしょうか。掛川さんの顔を見続けました。

 

運命の歯車がまわりだした!

 

いろいろなことが私の身の上に起こり始めた昭和28年ー。目を世界に転じると、ここにも激しい動きがありました。
ソ連のスターリン首相の死もこの年です。
北朝鮮と南朝鮮との間で激戦ののつづいたあの「朝鮮戦争」も板門店で休戦協定の成立。
国内では、吉田内閣の解散。これはいまでも語り草になっている「バカヤロー解散」です。
吉田首相が社会党の西村栄一代議士のしつような質問に対し、「無礼だ」といったあとの暴言でした。
20万人の島民の住む奄美群島が日本に返還されたのも確かにこの年と記憶しています。
世の中にもだいぶ落着いてきていました。
その証拠が、「八頭身」という言葉が美人の代名詞になったことでもうかがえます。
7月17日、世界の「ミス・ユニバース・コンテスト」で日本代表の伊藤絹子さんが第三位に入賞し、多くの国民は、
「これで世界の仲間入り」
と大よろこびしたものでした。
東京地区だけですが、NHKが初のテレビの本放送を開始したり、町に赤電話が設置されたり、
「さいざんす」「バッカじゃなかろうか」
トニー谷さんの使った言葉が流行したり、日本の町々は平和でした。
この時分、学校の帰りに、クラス・メイトと一緒によくラーメンを食べましたが、他かに30円だったと思います。
私の方は、といえば、掛川さんにくろかれて、「江差追分」をこんどはじっくりととうたい、「前唄」「本唄」「後唄」の全部を披露し、
「たいしたもんだよ、新民謡のレコ―ディングを本気でやってみないか」
毎日のように本気≠求められていたのです。私はなかなか「ウン」とはいいません。
というのも、レコード会社と専属契約をむずぶと学校に行けなくなるのではないか、それが心配で、不安だったからです。
それを察したかのよに掛川さんは、
「大丈夫、学校もちゃんと行けるようにしてあげるよ」
その言葉にほだされて、ついにキング・レコードと専属契約を結ぶことになったのです。
北沢の父母は、この話を聞き、
「よかったねえ、いままでにずいぶん苦労したけど、辛抱した甲斐があった。やっと努力が実をむすぶときがきた」
大変によろこんでくれましたが、私の方は心中複雑。
「とんでもありません。僕は歌手で身を立てようとは思ってませんよ。どこまでもアルバイトなんです」
いまもかわらぬ強情な一面です。
あまりハッキリと宣言してものですから、北沢の父母は顔を見合わせて、しばらくは言葉も出なかったほどです。
普通ならば、レコード会社と専属契約を結んだとなれば、喜色満面、躍り上がってよろこぶはずなのに…。
専属契約が決まってから、デビュー曲の決まるまで学校へ行きながらキング・レコードにも通いました。
キングの音楽学院に入りましたが、毎日、教則本のレッスンなので三か月ぐらいでやめてしまい、いつも文芸部の部屋に出入りしていたのです。
(文芸部にいるほうが、早くオレの顔をおぼえてもらえる。
といった考えもありました。
デイレクターのほかに、作詞、作曲の先生方もくる。
そするれば、自然と気心も知れる仲になれる。
早くとけこむことが必要だと思ったのです。
文芸部の隣にレッスン室がありました。
私はこの部屋でピアノを弾きながら、春日(八郎)先輩、津村(謙)先輩、若原(一郎)さんたちの歌をどんどんうたいました。
(確か認めてくれないかな)
自分で一生懸命に売り込んでいるんです。
いまならプロダクションに入り、それからレコード会社に、という手順が多いのですが、そのころはちがいます。
金があるわけではないし、自分から売り込みですから大変。
仕事熱心な掛川さんは、あれこれを私に会いそうな曲を物色してくれていました。
そしてある日、私は呼ばれ曲を渡されたのです。
「君の魅力をいかし、この曲を用意したんだよ。」
手渡されたのは、「新相馬節」をベースにした「酒の苦さよ」です。
心がワクワクしたのはいうまでにありません。
(やるからには、全力を尽くして…。)
全身からメラメラとファイトが燃え立ちました。
デビュー曲に失敗したら、いくらサラリーマン志望、歌はアルバイトのつもり、といっても男の意地がたちません。
作詞は山崎正先生、作曲は山口俊郎先生です。
巷間では、私が山口先生の弟子のようにいわれています。
それは少々違う。
キングから曲をもらったので、吹き込みに必要なレッスンを受けに行っただけのことです。
その時分、私の歌はズブの素人とちがい、あるていど出来上がっていたわけですから…。
しかも、この歌は最初からおぼえなければならない歌ではありませんでした。
「最初は歌謡曲はムリだから民謡を基礎にしたものがいいんじゃないか。流行小唄といったものでいこう」
掛川さんはこういってデビュー曲を私に渡してくれたくらいです。
ことさら、レッスンはいらなかったけれど、山口先生は私の長所と短所、それをじっくりとみきわめたかったようでした。
それが「おんな船頭唄」の作曲につながったのでしょう。
この曲は、私が現在のような地位を築く一番の大ヒット曲となったのです。
それをプレゼントしてくださった山口先生はきびしい中にも優しさのあるかたでした。
思えば、山口先生と私とは不思議なご縁によって結ばれたといっていいでしょう。
その縁結びの神≠ヘ掛川さんです。
私はここまでくるうちに、いかに多くのあたたかい人たちの恩恵をこうむっていることか。
いま静かな部屋で、このペンを走らせていて、あらためて感慨を新たにし、感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、吹き込みが近づくにつれて私は落ち着かなくなってきました。
学校へ行くと、親しいクラス・メイトにレコーデイングの話を伝えました。
「いやあ、素晴らしい、おとっつあん、チャンスだぜ、頑張れよ」
クラス中が私の為に激励してくれる。
中には
「おいっ、キング・レコードっていうのはあの「雪の降る町を」(高英男)を発売した会社だろう。そこからレコードを出すの?たいしたもんじゃないか」
いやはや、クラス中に大変な話題を投じたものといえます。こうなると責任はますます重大、だんだん心は重くなってくる。
(当日になったら逃げだすんじゃないか)
朝から晩まで自問自答のありさま。
まだ純情そのものの私でした。

 

直立不動の吹き込み

 

昭和28年9月25日、この日は私にとって生涯忘れることができない記念の日です。
キング・レコードで初の吹き込みをした日なのです。
実際には、12歳の時、コロムビア・レコードで初の吹き込んでいますから初めてではないのですが。
そのときは、リーガル盤といって赤いレーベルで5枚、10曲吹き込んでいます。
けれど、それから10年の歳月が流れています。
初吹き込みといっていいほどの緊張感が身内にみなぎりました。
吹き込み前日、クラス・メイトたちはさかんに私を激励して、
「しっかりやってこいよ、おとっつあん」
「アガるんじゃないよ」
口々に声援を惜しみません
「大丈夫だよ、まかしとけよ。そんなにむずかしいもんじゃないから。学校の期末試験のほうが、よっほどむずかしいよ」
私は冗談にまぎらわして 級友たちと別れたものです。
キング・レコードはうっとうとした樹木に囲まれた小高いところにある。
木々の間から流れる風に初秋の訪れるを感じる。
一歩、一歩、石段をのぼる。ひんやりとした風が首筋をなでていく。
(落着かなければ、落着かなければ…)
心にいいきかせながら石段の上に向う。
風のささやきは心なしか私を励ましてくれているように感じました。
スタジオには、オーケストラの人達がレコーデイングの準備におわらわです。
どの人も私より先輩なので、あいさつしながら指定のマイクの前に立っても落ち着かない。
その時分は、バックバンドの演奏と共に歌を吹き込むのです。
いまは、オーケストラだけ、スタジオで録音して、バックの音を完成させる。
技術が長足に進歩したために、仮に、ギター音がよくなければ、そのパート(部分)だけ、他のギターリストを起用して演奏させ、完璧ななものにするという録音技術もみられます。
其の出来上がったオーケストラ演奏をカラオケといって、その録音テープをスタジオに流し、歌手にうたわせるダビングというのが通常のやりかたです。
ところが、その時分は、そんな技術はありません。
「一発勝負」を要求されるわけです。
新人だからといって甘やかしてくれません。
バックの演奏者たちが一生懸命やってくれているのに、こちらがトチれば、またはじめからやりなおしになる。
現今だと、ワンコーラスが上手に上がり、二コーラス目をとちっても、最初の部分をそのままいかし、二コーラス目からうたってもうまくテープをつなぎ吹き込み完了といったテクニックが使えます。
今昔の感にたえませんが、当日の吹き込みは真剣勝負の気持ちでした。
スタジオのプレイヤーたちはトチとうものなら露骨にイヤな顔をする。
「なんだ、この若僧め」
といった表情さえ浮かべるのです。
リハーサルの終わった後、いよいよ本番ー。ブザーがスタジオに鳴る。
ブザーの音は、乾いた音で、緊張感はいやが上でも高まっていく。
二死満塁でバッターボックスに向かう選手の心境は、きっと同じようなものでないでしょうか。
どうしても一発ヒットを放ち、三塁のランナーを本塁を迎え入れなければならないという責任感と緊張感がみなぎると思う。
マイクの前に直立不動で立っているのは、バッターボックスで適チームの投手をにらみ合っている気持ちに似ています。
(俺は5歳のときから民謡をうたっているんだ。そんじょそこらのポッと出とわけがちがう)
自分にいいきかせ、度胸満々の表情でしたが、いざ、うたいはじめるとノドはカラカラ、すっかり声もうわずっている。
二度ほどトチりましたが、三度目は、
(これでトチったら、オレは吹き込みを辞退しよう)
度胸をすえました。全身全霊をかけての勝負です。三度目の正直でした。
「ハイッ、本番OK」
スタジオにミキサールームから声がかかりました。直立不動でうたっていたために、からだの筋肉はまるで硬直したようにぎこちなくなっている。
「OK!」の声に思わずヘナヘナとその場に座り込みそうになるからだを気力で支えていましたが、全身あせびっしょり。
こういった条件の中で、「おんな船頭唄」をレコーデイングしたのは後日ですが、やはり勝負にかけていたのです。
自分でいうのもヘンですが、
「よくぞ、ここまでうたいあげたな」
といって感慨をおぼえたものでした。その「おんな船頭唄」がなければ、いまの私もないし、それ以後のヒット曲もないわけです。
ともかく、当時の吹き込みは、いまではか考えられない苦労と気合と緊張をともなったものでした。
新人のデビューだというので、わざわざ立ち会ってくれたのが清水滝治文芸部長です。
「いやあ、よくやったねえ、いい声だよ。こりゃあ、掘り出し物かもしれない。次は、「船頭小唄」をモダンにしたような歌でも歌わせたらどうかね」
とわきにいる関係者の一人のいっているのを聞いて、全身がカーツとなるのを覚えました。
(文芸部長というエライ人が、ボクに注目している)
こう思うと、知れず知らずのうちに興奮してきたのでしょう。
顔もまっ赤になっていましたから…。
レコーデイングに立ち会った山口先生もしきりにうなずいていました。
そして、私にいったのです。
「この次は、もっと頑張ろうね」
合格点はあげるけど、これは、ご祝儀の部分があるよ、といった感じでした。
(よし、まずデビュー曲はこれで発売になるのだな)
ボツにならないでホッとした反面、なんとか、この一枚で世に認めてもらいたい、というささやかな願いが胸に湧いてきたものも正直な気持ちです。
このレコードは、残念ながら、あまりに売れませんでした。
名古屋方面では評判がよく一万五千枚ぐらい売ったそうです。
いまの新人歌手、特に演歌畑や民謡畑の新人でしたら、この発売枚数は合格点をもらえるでしょう。
デビュー曲で、一万枚売れれば、レコード会社にしてみると、「うん、将来楽しみな歌手になりそうだ」
こういった期待をもたれるようですから。
「酒の苦さよ」が発売になったのは昭和29年1月でした。
どうもパッとしない。
(オレは、どうせ歌は趣味だし、将来はサラリーマン生活なんだから…)と、
心の中でつぶやいてみたものの、やはり、レコーデイングして、レコードが発売になると気にかかります。
そんなとき、町のレコード店から流れてきた歌は高英男さんの「雪の降る町を」でした。
?思い出だけが、通り過ぎてゆく…の部分に北海道の故郷の雪景色が浮かび、言い知れぬ寂しさに襲われました。

 

焦る気持ちをおさえて

 

「酒の苦さよ」を発売したもののパッとせず、その後、「瞼のふるさと」「宇目の唄げんか」「中国地方の子守唄」「かっぱ踊り」と、いわゆる流行小唄をつぎつぎと吹き込みました。
だが、いっこうにうれません。
(やっぱり、オレはレコード歌手にはむいていないのかな)
いささか寂しくなる。なんとなくいらだち、焦る気持ちもこうじてくる。自信もなえてくるといった日々です。
その寂しさを吹き飛ばしてくれるのが学校でした。やはりクラス・メイトはいいものです。邪心がない。
私はキング・レコードに、
「あくまでも学業が第一ですから」
といっていたので、吹き込み打合せはなるべく授業やテストにさしうtかえのない土曜日を当ててもらいました。
だから、土曜日は、クラス・メイトにめったに会えません。
一年のうち、土曜日に出席したのは三分の1ぐらいでしょう。
レコ―デング前日に、
「おとっさん、明日は頑張れよ」
級友は励ましてくれるし・
「レコードがバンバンうれたらさ、どこかへ行こうよ。旅行の軍事金をかぜぐために一生懸命うたってこいよ」
冗談めかしていう。
そんな会話のやりとりが、私の寂しさをどのくらいまぎらしてくれたことか。
それが、家でポツンと一人でいるときは、
(みんなが応援してくれている。それなのにレコードが売れない。これは俺が悪いんだ)
気持ちが落ち込んでしまうのです。
ある日、キング・レコードに行くと、作詞の高橋掬太郎先生が文芸部の部屋にいました。
「かっぱ踊り」「はてなき涙」などの詞を私のために書いてくれた先生です。
「なんだ、近頃元気がないんじゃないか。くよくよするな。人生は七転び八起だよ。そのうち、きっと芽が出るから…。」
ニコニコしながら元気づけてくれるのです。
この言葉に言い知れぬやさしさがある。
何かホッと救われた気持ちでした。
(そうだ、人生は七転び八起、北海道巡業時代の苦しさを思えば、なんのこれしき)
徐々に腹の底から勇気が出てきたのです。
高橋掬太郎先生は同じ北海道函館の出身で、同郷のよしみで、私のことが気になったのでしょう。
作詞家になる前は、郷里の街で新聞社の部長までつとめた方です。
後年、私のために「男涙の子守唄」「あゝ田原坂」「あゝ想夫恋」といったヒット曲の詞を書いてくださっています。
コカ・コーラの大好きな先生でした。
マージャンも好き。面白い癖がありました。
ツカないとすぐトイレに立つ。
だから、立つ回数が多ければ多いほど手の内が悪い証拠。トイレに行くうしろ姿をみながら
「高橋先生、今夜はついてないようだ」
あとの三人は、卓を囲みながらニンマリしたものです。
それと、タバコの灰を所かまわず落とされる。
だから、先生のお帰りになったあと掃除をしないとダメでした。
さて、デビュー曲を発売して半年たってまだパッとしないわたしのために渡久地政信先生が、
「角帽老人」という歌の作曲をしてくれたのです。
昭和29年の夏も終わろうというころです。
その当時の世相の一断面をユニークにとらえた歌です。
渡久地先生は、ミリオンセラーとなったあの「お富さん」(春日八郎)をはじめ「上海帰りのリル」(津村謙)「東京アンナ」(大津美子)「東京チャキチャキ娘」(中村メイコ)「夜霧に消えたチャコ」(フランク永井)、「島のブルース」(三沢あけみ)、「わかれ酒」(同)「長崎ブルース」(青江三奈)「池袋の夜」(同)といったヒットを飛ばしている方です。
沖縄に生まれ、六歳のときに両親に連れられて奄美大島に移住し、そこで音楽の情操教育受けたといいます。
戦前の昭和15年日本大学芸術科を卒業したあと広告社の外交員をしながら歌手になる夢を抱いてチャンス到来、NHKの「ラジオ放送に役立つ新人歌手」に応募して見事合格。
日中戦争の最中、北支、中支へと慰問の旅へもしばしば出かけたそうです。
昭和18年夏、ビクター・レコードから貴島正一の名前で歌手としてデビュー、前途を嘱望されながらも、いまひとつ運にめぐまれずキング・レコードに移ってきて、のちに作曲家になった方です。
だから、歌手の心を十二分に理解してくださる。
その「角帽浪人」を作曲されたときも、「三橋君は有望な新人だ、素質も充分ある。
いま、ここでクサらせてはいけない。
流行小唄をうたっているのもいいが、違うジャンルのものをうたわせるのも歌の幅を広げるはずだ。」
キング・レコードの上層部にこういってくれたそうです。
もちろん、そのころ、私自身も、
(流行小唄もいいけれど、別の分野にも挑戦してみたい)
ふつふつとチャレンジ精神が噴出してきていました。
渡久地先生から、この曲をいただくと、毎日毎日、
(どんなふうにうたえばいいのか)
考えることはそればかりです。
私にとっては、初めて流行歌、なんとかうまくうたいたい。
そう思うのも無理はありません。
そのあたりの心境を、渡久地先生はくみ取ってくれたのでしょう。私に、
「よかったら家にきなさい。君の悪い癖を直してあげるよ」
親切にもそういってくださったのです。やはり元歌手の先生ですから、私の気にしている点を見抜かれたのでした。
私の悪いクセは発音にあったのです。
民謡をうたっているときは、あるていど許されていたけれど、流行歌では徹底的に直さなければいけない点でした。
それは北海道や東北の人の発音が、方言の常として、「イ」と「エ」の区別ができにくい。
「エンピツ」を「インピツ」というようなものです。
このための矯正法。それと、歌をサラリとうたえず重い。方言を気にするあまり、どうも、言葉の区切りがきちっとしない。歯切れがよくないのです。
この三点が私の研究課題でした。鏡に向かって、口の開け方からはじめたのです。
「ア・イ・ウ・エ・オ」と大きな声をだしながら口の開け方の勉強。
渡久地先生の家の日参するようにして通い、歌の重さのとれるレッスンも重ねました。
親切に情熱をもって教えていただき、いまでもそのころのことは忘れません。
渡久地先生は大変にボウリングの好きな方です。
ボウリング・ブームの昭和40年代のはじめごろ、よくボウリング場に通っておられ、かなりの腕前の持ち主。
静かなファイトでプレイをたのしんでいました。私もかなり腕前でしたが…。

 

待望の初ヒットは裏面だった

 

角帽浪人」のレコーデイングまでに私が取り組んだことは、渡久地先生からのレッスンもありましたが、先輩歌手たちの巧唱ぶりを学び、取り入れることもありました。
先輩たちの残したヒット曲のレコードを手当たり次第集め、その曲を自分でうたってみる。なっとくのいくまでレコードを聴く。そしてまたうたうという繰り返し。
なかでも、先輩の春日八郎さんのレコードは繰り返し、繰り返し聞きました。
歌唱力は抜群です。
春日さんの功唱ぶりを丹念に分析し、その抜群のテクニックを支えている要素を取り入れ、自分なりに消化し、「角帽浪人」をヒットさせようと努力したのです。
だが、同時期に相前後して発売された「お富さん」の大ヒットのかげにかくれて、私の歌は、残念ながら目立ちませんでした。駆け出し新人歌手にあたたかい手をさしのべてくれた渡久地先生に大変申し訳なかったと思っています。
とはいえ、この歌のおかげで、私は流行歌に進む決意を固めました。きっかけを渡久地先生が与えてくださったと、いまでも感謝し、「角帽浪人」は忘れられない歌のひとつになっています。
この曲のおしまいに、?へのへのへーという文句があり、仲のいいくせに口のわるいクラス・メートは
「おとっあん、しゃれているじゃないか、これはおもしろいよ。?みこしの松がでたら角帽浪人ふられてへのへのへーだ。ムキにならずにへのへのへーと頑張ればいいんだ」
半分冗談、からかいながらも私を励ましてくれたものでした。
なかなか芽のでない私に、山口俊郎先生が「おんな船頭唄」を書いてくれたのは、昭和30年の1月ごろです。
作詞は藤間哲郎さんでした。お酒に強い人です。向う気も強い。酒に強いと評判の新聞記者と昼間からのみはじめ、深夜まで飲み続け、その新聞記者をノックアウトしたほどのサムライ。
私はこの曲をいただいてから、どの部分を聞かせどころにしようか、研究に研究を重ねました。「角帽浪人」以来、日夜流行歌の研究に没頭していたので、その成果をみせたいという小さな野望もあったのです。
いよいよ吹き込みの日がきました。ノドの調子はその日のために調節していたのでべストコンディション。思い切って歌にアクセントをつけてうたってみたところ、かなりの仕上がりです。
「どうです、いい調子でしょう?」
スタジオで吹き込みに立ち合いに来ていた藤間さんにいったものです。
その時分、作曲家、作詞家は、自分の作品がどう仕上がるか、というのでたいていはスタジオにきて、吹き込みに立ち会いました。
自分が精魂込めて作ったものが、どうなるか、といった心配と愛情なのです。
ちかごろのレコーデイングでは作家たちの立ち合いはほとんどなくなりました。
それだけ、自分の作品に対して愛情をだかなくなったのでしょうか。
自分がかいたから吹き込みが気になる。其の歌手に自分のイメージどおりにうたってもらいたい。
そんなきもちがある。だから上出来のふきこみ、と私が思ったにもかからず、藤間さんは、「なんだ、そのうたいかた、ダメだ」私の言葉をハネ返すようにいったのです。
デイレクターが私に文句をいうのならばわかる。注文も当然でしょう。いいものを作りたいのだから。
だけど、作詞の先生に文句をいわれる筋合いはない。私は掛川課長に
「なんで作詞家の先生に文句いわれなければならないんですか。」
頭に血が上ったのでしょう。カッとなり頭を真っ赤にして食ってかかりました。
「ボクは、僕流にうたったんです。わかってくれるでしょう。いいと思ってうたったんだから…」
正しいと思ってやったことを否定されてムキになったようです。
やはり、そのあたりは高校生気分がぬけていなかったとみえ、一本気だったのです。
「うん、うん、それでいいんだよ。キミの歌い方でいい」
やんわりと掛川課長はうなずきました。
藤間さんも私の負けん気に目を見張り、あっけにとられていたくらいです。
その後、この歌がヒットし、藤間さんに会う機会が何度もありました。そういうとき、藤間さんは
「いやぁ、あの時の見幕ったらなかった。大変な迫力だったよ」
大笑いしながらいうのです。
私の負けん気の一端を物語るエピソードですが、私の場合は時によるとむき出しになる。
いまではそんなこともなくなりましたが、若さの特権でしょうか、相手かまわず噛みついてしまうこともありましたから…。
この曲を吹き込んだのは高校の卒業式も間近の頃でした。
担任の才木先生は、教え子のことが気になっていたようです。
なにしろ
「またレコードを吹き込みました」
こういった報告をうけるものの、サッパリ評判にならないからです。
その才木先生が、放課後、教室を出かかる私に、
「おいっ、三橋、今度の新曲はどんなものをだすんだ?」
そこで私は先生の前に立ち、うたい出したのです。
「?嬉しがらせて 泣かせて消えた 憎いあの夜の旅の風」
ぎょっとしたような先生の顔。私の顔を大きな目をむいてみながら
「なんだそりゃあ おまえ。おまえは高校生なんだぞ…」
高校の教師としては、当たり前でしょう。高校生のうたう歌ではありません。
しかし、私は24歳の青年です。
こういう歌をうたっておかしい年齢ではありません。
先生は、黙って教室から出ていかれました。
 この歌、売れない新人歌手なので売れっ子の照菊さんの「逢初ブルース」のb面(裏面)として発売されたのです。
当時はそいうことがよくありました。
人気歌手にオンブした格好で新人歌手をうる手段なのです。
けれど、B面からのヒット曲はかなりの売れ行きを示す時があります。
中曽根美樹さんの「川は流れる」は「雨の花園」がA面でした。
ペギー葉山さんの「爪」は「忘れ得ぬ今宵」の、また「ドレミの歌は「大人と子供」、「学生時代」は「鏡」のそれぞれB面です。
カラオケ・スナックでデュエットの代表的なナンバーといわれる 「東京ナイトクラブ」と「銀座の恋の物語」もB面からヒット。
このほかにも「粋な別れ」。「おもいで酒」といったヒット曲もB面でした。
私の「おんな船頭唄」は町のレコード屋さんに店頭に飾られているポスターでやっとちいさな文字で見ることのできるていどのもので、「逢初ブルース」の文字がデカデカとおどっているポスターの端にのっていました。

 

大学進学か、歌手一本か
(また今度のレコードもうれないだろう)
いささか自信そう失気味になっていたところジワリジワリと「おんな船頭唄」は売れだしました。
やっと、待望の初ヒットです。
プロ野球の選手でいえば、期待をかけられたルーキーが
「今度こそ、快打飛ばそう」
とバッター・ボックスに立ち、あえなく凡打を繰り返す。
これと同じような状況での初のクリーン・ヒットなのですから、私の嬉しさはたいへんなものでした。
話は前後しますが、「おんな船頭唄」の吹き込みのあと、私は猛烈に学校の勉強に取り組みだしたのです。
卒業試験が間近だったからでした。
レコードの吹き込みや、キング・レコードの人達との打ち合わせも延期してもらったほどです。
徹夜、徹夜の連続で机に向かいました。歌手活動のために遅れた学習を取り戻し、卒業試験を無事にパスしなければなりません。
クラス・メイトたちは、ノートを貸してくれたり、試験問題のヤマ≠教えてくれたりする。
本当に気のいい、親切な仲間が多かったのです。
一生懸命にやった甲斐があって、卒業試験も無事にパス。
いよいよ卒業式です。
でも胸中は複雑でした。
このころ、といっても、「おんな船頭唄」を吹き込む時点で、おおいに悩んでいたからです。
私が上京してきたのは、まともな生活、つまりサラリーマンにあこがれ、それに勉強して、会社に入り、職業に精通したあかつきには実業家になる、というのが夢でした。
歌は好きです。
けれど、これは生活の手段として 金をかせぐために唄をうたう。
そう考えていたので、歌手の部分はアルバイトだ、といった気持ちがまだ強かったのです。
だから、大学進学は夢でした。けれど、現実はなかなか、自分の思うとおりにことは進みません。
(一年、浪人生活をして、それから、大学へ進もうか)思い悩む日々だったのです。
そんな胸中は誰もしりません。
大学か歌手かと思い悩むうちに時間はどんどん経過してしまいました。
「おんな船頭唄」がレコード店の店頭に並べられる一週間前、私は、明大付属中野高校の卒業式に出席ー。
数々の思いでの残る高校生活。
いま思っても学校へ行ったことはよかった。楽しかったという気でいっぱいです。
あの三年間は実に意義がありました。
尊く貴重な体験です。
学園生活の楽しさ、勉強の奥深さ、クラス・メイトとの交流と友情、何にもかえがたい青春の一ページです。
年齢の差など気にせず「あとっつぁん」とよんでわけへだてなく突きあってくれた級友たち。
代返≠してくれた親友の松尾君、理解の深かった才木先生、教頭の大赤先生、理科の東海林先生、英語の田島先生…。
私にとって生涯忘れることのできない学園生活の思い出が、「蛍の光」を歌いながら走馬灯のように胸中によみがえる。
熱いものがこみあげてきました。
(ありがとう、僕を支えてくれた級友たち、そして先生。
卒業してからも付き合ってください)
こんな思いから、頬には熱い涙が自然と流れてきました。
卒業式のあとは謝恩会です。講堂にあるステージで感謝をこめてうたったのは「黒田節」です。
この歌はレコードで吹き込んだ以外は、ステージではめったにうたわないものです。
お世話になった先生たち、クラス・メートに対して、私のできるだけの感謝の気持ちのあらわれでした。
卒業と同時に、私の体は徐々に忙しくなってきて、大学進学の夢はますます遠いものになってきました。
(一年浪人生活をしても…)
この考えがグラグラするほどです。
少しずつ「おんな船頭唄」が売れてくると、ラジオやステージにしばしば引っ張りだされるようになりました。
やっと、流行歌手の仲間入りの足がかりをつかんだ格好です。
(やるからには、人にまけたくない)
学業の専念を願いながら、一方では負けん気がムクムクと持ち上がってくる。
ステージも多くなっていく。
巣レージといっても、大都市ではありません。
地方公演、いわゆるドサ廻りです。
夜行列車で車中一泊、目的地に着いて公演を行い、また夜行列車で、という旅も多い。
まだ、大学進学に未練をもっていた私は旅の間でも、受験必勝のテスト教本に取り組んでいました。
でも、勉強の時間はますますなくなっていく。
ラジオやステージで、そのことばかり考えていると、どうも落ち着きません。
歌に身が入らない。
歌が不安点なのは、体がベストコンデションではないからです。
からだ以上に精神的なものはよくありません。
これではお客さんに対して申し訳ないことで、
「歌か大学かどうしょうか」
楽屋でひとりつぶやいているのですからジレンマは大変なものでした。
大学進学するためにはステージ活動を極端にへらさなければならない。
そうなると経済的な問題もでてくるが、
(いま、本当に欲しいのは勉強の時間だ)
歌と勉学の両立に悩み続け、毎晩考え続けて不眠症気味にもなりました。
その結果、決心がついたのです。
(私の歌を好いてくれる人が多くなった。これは私の歌をみとめてくれたわけだし、一日の仕事の疲れを私の歌で癒すことが出来れば、それが歌手冥利というものだ)
私なりの決断でした。
それまでいろいろな悩みは尽きなかったが、いざ決断すると、今度はもちまえのファイと一本気なところから、
(ようし、日本一の歌手になってやろう)
若さのゆえの血気です。すべてを歌につぎこむことにしました。
「おんな船頭唄」はますます評判を呼んできて、ようやく三橋美智也という名が町の人々の口の端にのぼるようになり、私はやる気倍増です。
歌手生活一本にしぼったからには、いつもベストコンデイションで歌に取り組もう、と決心しました。
それには健康第一です。そのモトは睡眠。
自分をいつもトップコンデイションにもっていくには十分な睡眠をとらないことには成り立ちません。
これはノドを使う商売なのでなおさらです。
睡眠不足や不摂生をすると、テキメンにノドにくる
お客様は高いお金をだして歌を聴きに見える。
だから、最高の唄でおこたえしなければなりません。
それには、よく眠り、いい声で、が当たり前なのです。
私のモットーは「よく学べ、よく遊べ」から、「よく眠れ、よくうたえ」になりました。
歌手一本になったからです。

 

大歌手になってやる…

 

今年(昭和58年)船村徹さんの作曲した「矢切の渡し」が大ヒット、各レコード会社が競作して売っています。
キング・レコードからは春日八郎先輩と藤間とし恵のヂュエット盤、私の民謡の弟子、細川たかし、新人の仁科ともみ、中条きよし、瀬川瑛子といた顔ぶれがうたいまくっていて、いまならながら船村さんの曲のすばらしさにホレボレしています。
私の場合、「おんな船頭唄」のヒットにつづく第二弾目のヒットが船村さんの作曲した「ご機嫌さんよ達者かね」でした。
作詞は高野公男さんです。私と船村さんはともに同じ世代なのでよく気が合いました。
まだ売れない三人がキング・レコードの文芸部の部屋で顔を合わせる。なんとなく雑談して時間をすごす。
ノドがかわいあので私がお茶をいれる。その手元をみていた船村さんが、
「ずいぶん、お茶の入れ方がていねいでうまいね」
感心したようにいうのです。
ダルマ・ストーブの火の加減をうまく調節しているのを見て又いう。
「どうして、そんなに日の燃やし方がうまいんだい?」
そこで私が話す。綱島の東京園でボイラー・マンをやり、喫茶ボーイも手伝っていたという話を聞き、
「へえー、そうだったのか、道理で…」
そんなことがきっかけでいっぺんに仲良しになりました。
売れていない三人はよく新宿の焼き鳥屋にでかけたものです。
高野さんは体が弱くて飲めません。
私たちが、痛飲しているそばでゴロリと横になり、話をジッと聞いていました。
血気盛りなので、グビリグビリと飲む私と船村さん。
船村さんと高野さんは大変に仲のいい二人でした。
あとで船村さんに聞いた話ですが、私がドンドン売り出して、人気歌手の座につくころ、高野さんは私の写真を自分の机の上に貼り付け「クソ、負けるもんか」
いつも口癖のようにいっていたそうです。
同世代だから負けられない、といった気があったのでしょう。
若くして亡くなりましたが、高野さんい対しての船村さんの友情は大変なものでした。
ひとくちにいって立派、大変に素晴らしい、というのが船村さんに対する私の人物評です。
高野さんの詞は、それまでの流行歌の作詞法にのらないもので、まったく新しい発想で書いていました。
古くからの作詞法のセオリーを破ったものなのです。
詞を読んだだけで、胸にひびくものがありました。
船村さんの曲は、都会から離れた、ローカル・カラーのにおいがいっぱい、土の香りがただようといったおもむきのものです。
ふるさと志向といいますが、田園に対してのノスタルジーを感じさせる曲調で、私にはぴったりときました。
気取りのない庶民生活の中で感じられるのどかなローカル風景、これを油絵ではなく、素朴な水彩画タッチで歌っていきたいと思い、船村さんのこのことをいうと
「そうだよ、その通り、都会は汚れているから歌にならない。地方だよ、自然の風と雲と、土の香り、これが庶民のもとめるものなんだよ」
少々、ナマリのある言葉で同意してくれたのです。
そして、太ったからだをゆすりながら船村さんは、
? 母の便りの… という一節をコーチするのでした。
「いいかい、この部分、母の便りのハハノタヨリノで注意するのは、ハハのあとのハ≠強調してね。」
まるで、役者が舞台で思い入れよろしく、セリフをいい、見得を切るようなポーズをとりながら私にうたってくれました。
こんな情熱がひしひしと伝わってくるのです。少々泥臭い歌だったけれど頑張り、それがヒットにつながったのです。
新宿で飲むとみれば大森へでかけ、またあるときはキング・レコードから近い池袋でと、私と船村さんはよく飲みました。
話はたいてい、歌を将来のことです。
「いまに大歌手になってやる」
と私がいえば、船村さんもまけていません。おおきな声で、
「何をいうと、オレは大ヒットを飛ばすからみてろ」
いやはや大言壮語、天下をへいげいするかの勢いでした。
船村さんが「ご機嫌さんよ達者かね」のつぎに作曲してくれたのは「あの娘が泣いている波止場」です。
私には初体験ともいえるテンポの早い、いわゆるマドロスものでした。
それまではどちらかというとテンポのゆるい歌ばかりうたってきただけに、少々とまどいながらも、チェンジ・アップでうたい、全力投球とまではいきませんでしたが、売り出しは好調で、会社のひとたちは、
「こんな歌もうたえるのだな」びっくりしていたようです。

 

この曲を吹き込む前、船村さんと大喧嘩したもの懐かしい思い出のひとコマ。
ちょうど、打ち合わせのあと池袋で船村さんを交えて、キングの関係者と飲んでいました。
酒が入るにつれて、いつものように流行歌はどうあるべきか、の議論です。
若い人ばかりだから、口角泡を飛ばすといった光景になる。いよいよメートルがあがっていく。
そのうち、船村さんは、
「だいたい、うたい手というものは…」
こんな言葉を吐いたのです。
これに私はムカッときました。
なにか、歌手全体を軽蔑するようなひびき。
なんという非礼な、作曲家だと思っていばるな。作曲したってした歌手ががいなかったらその歌は世にでないのじゃないか」
私は食ってかかる。船村さんも負けていない。グッとにらんで、
「いくらいいものを書いても、歌手がダメなら、歌はファンによろこばれない」
もうこうなると議論は並行線。
「何を、うるせえ、表へでろッ!」
「おう、上等だ、いい度胸してるぜ」
売り言葉に買い言葉、騎虎の勢い、酒の勢い、どうにもとまらない。
周囲の人たちがあわてて、
「まあ、まあ、何も喧嘩をしなくても」
止めに入ってその場は一件落着…。
この喧嘩が、「雨降って時固まる」ではないが、船村さんとの付き合いを深くさせる機縁になりました。
お互いに自分の職業に忠実で、愛情を持っていればこそプライドもある。
その道で一生懸命生きていきたいという情熱がぶつかりあったものです。
作詞家、作曲家、それに歌手の三人が個性をぶつけあい、激しい戦いのあとに傑作がうまれると思う。
いまは、そういう点ではるていどイージーになっているようですが…。

 

やっと芽が出て、春が来る

 

昭和30年も押しつまり、12月に発売になった「あの娘がないえいる波止場」も「おんな船頭唄」も同様にB面でした。
「小島の鴎」がA面で売り出されたのでした。
それがB面からのクリーンヒット。
ファンの耳をばかにしてはいけないと思いました。
するどい聴覚をもているのはファンなのです。
ちゃんと歌の本質を見抜くと思いました。
思えば昭和30年という年は、私の人生を大きく決定づけた年といえるでしょう。
「おんな船頭唄」(4月)「ご機嫌さんよ達者かね」(9月)「あゝ新撰組」(同)「君は海鳥渡り鳥」(11月)「島の船唄」(同)「あの娘が泣いている波止場」(12月)といったぐあいに、のちに私の代表曲となる歌が次から次へと発売だれたのです。
もちろんこのほかに民謡のレコードもだしています。
民謡を含めると、毎月一枚のレコードを発売していました。
現今のように、演歌歌手は年2回、アイドル歌手が年四回といったローテーションから考えると信じられない話です。
この中での思いでの歌というと「島の船唄」がある。私の好きな曲のひとつです。
作曲は渡久地先生。
真夏の夕陽が水平線に沈むころ、恋女房のいる島をめざし艪をこぐ若者。
夕やけ雲が明日の幸せを約束しているーといった雄大な歌です。
スケールが大きく、しかも素朴、そして力強い歌。
こんな歌をうたいたいと願っていたら、渡久地先生が私にプレゼントしてくれたものでした。
テクニックを要する歌ですが、私は高音部をいかしてうまくうたえたと思います。
この曲を置き土産のように渡久地先生はキング・レコードを去られました。
私はこれを大事に歌っています。
末長くうたいたいと思っていますし、わたしにとっては第三弾目のヒット。
ベテランの音楽評論家の方の多くが、
「三橋君のうたのなかでは最高傑作だ」と激賞してくれているほどです。

 

このころ忘れららないことと言えば、12月に読売新聞のレコード評の欄に、私が取り上げられたことでした。
その新聞記事は次のように書かれていました。
「三橋美智也の「あの娘が泣いている波止場」(キング)には、なげやりなニヒルなものが素朴な歌い方の中から顔をだす。もう一曲の「君は海鳥渡り鳥」にも素朴な哀調がある。面白い個性の持ち主である」
文末のサインはAでした。いろいろな新聞社の方のインタビューをうけましたが、まだ無名の三橋美智也です
それを天下の読売新聞が取り上げてくれたので興味を覚えました。
A≠ニいう人はどんな新聞記者なのだろう。
会社の宣伝部の人に尋ねました。
「Aさんという人は誰?」
「音楽記者の安倍亮一さんですよ。おっかない人ですよ。
歯に衣着せずズケズケいうし、あまりホメたことのない記者です」これを聞いても別にびっくりしません。
正論を吐く人の方が、純真なんだ、という気もして、新聞社に連れて行ってもらい、いろいろと話しているうちに
すっかり打ちとけ、以来、アドバイスを受けるようになり感謝しています。
「君は海鳥渡り鳥」は、これもどちらかというとB面です。
春日先輩の「別れの一本杉」とカップリングのレコードでした。
「別れの一本杉」は船村さんの作曲です。
私もこの歌が大好き。
春日さんは、私がおよびもつかない歌の巧者です。
このレコードであらためて、歌唱に敬意を払うと共に、仕事の上ではよきライバルになろうと決心したことはいうまでもありません。
「君は海鳥渡り鳥」の作詞は矢野亮先生。
作曲は真木陽さんですが、真木さんは、私をよく理解し、幼いころから私がうたっていて民謡の語呂まわしを実に巧みに流行歌に取り入れてくれました。
こういうように、キング・レコードの専属作家の先生方は、次第に私の個性をどう伸ばし、育てていくかを考え始めてくれたようです。
私の体内に「やるぞ!」の気迫が充実してきたことも事実でした。
ようやく私も認められてきたといえます。
春日八郎さん、高英男さん、照菊さんといったキングレコードの有名歌手の次にランクされる第二線級の歌手になってきました。
たまに私の名前がでると、高校時代の友人たちから電話がかかってくる。
「オイツ、おとっつぁん、人気歌手になったじゃないか」
受話器の向こうからひびいてくる声に言い知れぬうれしさを感じたものです。
(でも人気って、いったい、どんなものなんだろう)
漠然として、つかみどころのないものに手放しでよろこべませんでした。
私はようやく芽が出てきた。
春を迎えようとしているといった感慨はありましたが、まだ人気歌手だ、という実感はありません。
あわただしく毎日を過ごしていました。
この年、第二次鳩山内閣の誕生した年でもあります。
総理に鳩山一郎、外務大臣兼副総理に重光葵、通産大臣・石橋湛山、農林大臣に河野一郎といった顔触れ。
ようやく不景気から脱出しようという時代ですが、大学卒の学生とっては就職難は解消していません。
この時分、ラーメンは確か35円だったと思います。
そして、なぜかギョーザが50円。ギョーザは高価だったのです。
トランジスタラジオ(携帯型五石スーパー)が東京通信工業(現在のソニー)から発売されたものこの年でしょう。
ともかく、急速に各家庭に電化の波が押し寄せてきました。
テレビ、電気洗濯機、ミキサー、電気コタツというように…。
もちろん、現今の製品と比べてると、性能の点では格段の差。それでも、これからの品物を使う家庭はエリートと思われたものです。
私達が流行歌を一生懸命にうたっているのに、ヤングたちはジャズからマンボへ移っていました。
まるでモモヒキのような細いズボンをはいて、盛り場をカッポしているヤングをみて、いつしかマンボスタイル≠ニいう名がつけられたのもこの年です。
いまのヤングがデイスコで踊り狂うように。当時の若者はマンボに狂っていました。
ヤングの好みはマンボからチャチャチャ、ツイストへと変わっていく。そして太陽族の出現です。
石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」から出た言葉で、戦後の一時期アプレ≠ニいわれた若者に代わって、上流階級というか金持ちのドラ息子で、行動派の若者をさしたものでした。
私の「おんな船頭唄」のヒットに対抗するように、「ガード下の靴みがき」(宮城まり子)「赤と黒のブルース」(鶴田浩二)「この世の花」(島倉千代子)といった歌がファンにモテはやされていたのです。
私は、年の瀬を迎えて、心中深く期し、(来年こそは勝負の年だ)
決意を新たにしたのは、いうまでもありません。

 

「リンゴ村から」の大ヒット

 

昭和31年5月、これまた私にとっては生涯わすれることのできないヒット曲の誕生ー。「リンゴ村から」が発売になりました。これには少々エピソードがあります。
その前年の11月末、大阪の北野劇場でキング・レコード歌謡大会がありました。
いまでは、こういった大会がなくなり寂しい思いをするわけですが、当時は一社の歌手がズラリ登場。
それこそ、妍を競ってうたいまくってものでした。
「コロムビア大行進」といったパレードもあったし、ファンは大喜びした催しです。
その北野劇場の公演に出演していらしゃったのが、林伊佐緒先生でした。
林先生といえば昭和9年に歌手としてデビューというから大先輩です。
「若しも月給があがったら」「出征兵士を送る歌」「高原の宿」「ダンスパーテイの夜」といったヒットを飛ばしているベテラン歌手。
戦前、戦後の歌謡界をリードしてきた大先輩です。しかも作曲家としても豊かな才能を持っておられる方。
その林先生が楽屋口から顔をのぞかせ、
「ちょっと、ボクの楽屋へこないか?」
何事か、と思いながら、あとについていく。
(別にステージはトチらないし、おこられるようなチョンボもしていない。いったいなんだろう)
大先輩には対しては絶対服従、プロ野球の先輩、後輩もようなものです。内心びくびく、いぶかりながら林先生の楽屋へ…。
「いやぁ、三橋君、最近ますます好調のようだ。まあ、座りたまえ」
恐る恐る林先生の前に腰をおろす。
「実はね…」
真剣な顔をして私の顔をのぞかれる。
(何といわれるのだろう)
胸の動悸がはげしくなる。叱責される場合だってあるのです。
一拍おいて、林先生はニコッと笑いました。
「三橋君、君にぴったりとくるメロデイが出来上がったんだよ。どうかね」
やれやれ、取り越し苦労とはこのことか。
少しレコードが売れてくると「テングになるな」ゴツン、といったことだってある。
譜面を渡されてホッとすると同時に、いい先輩をもって、しあわせだと思いました。
まだかけ出し歌手なのに、目をかけていただいたと考えるだけでも感激です。
譜面をみながらうたってみると大変素直で素朴。自然に口からでてくるメロデイー。
「どうもありがとうございます」
深々とお辞儀をして、押し頂くように譜面をかかえて楽屋に帰ってきました。
?おぼえているかい。故郷の村を…
出だしから私の気持ちにぴったりとくる。
作詞は矢野亮先生。
「島の船歌」「君は海鳥渡し鳥」、「ご存知赤城山」に続いての作詞だと記憶しています。
多分、リンゴ村の実際の風物はご存知なかったのではないかと思います。
ちょうど、そのころ都会志向の若者が多かった。
それだけに、こういった内容の詞が好まれたのでしょう。
恋人、それも幼馴染の恋人が東京に出て行ってしまった。何年もたよりはこない。
リンゴの出荷時季になると、なおさら思い出す。
別れた夜の上り列車の回想、されらに、故郷の山河を思い出させようとするいじらしさ、これ
が歌のドラマです。
「都会へ、都会へ!」
と向かう男女、当然のように別離がある。
だがそれも一時期のこと、失意、失望のうちに故郷へかえりたくなる。
だが、オメオメとは帰れない。
そのためらいの多い心に、若者に、大きく胸をひろげ、やさしく「帰っておいで」というのですからたまらない心情の熱さとおもいやりです。
やがて、都市から地方へとUターン現象がみられるようになりましたが、矢野先生は先を読んで詞を書くというタイプでななかったでしょうか。
この新曲「リンゴ村から」をいただいて二週間ほど経った12月9、10日の両日、名古屋の公演がありました。
私のレコード吹き込みを担当してくれていた和田寿三デイレクターに
?おぼえているかい、故郷の村を…
とうたってきかせたのです。これも楽屋でした。和田デイレクターは、
「これはいい、ぴったりの歌だよ、ぜひレコーデイングしよう」
一回で気に入ってくれ、東京へ帰るなりすぐにレコ―デングの準備…。
年が明けてのレコーデイングだったと記憶しています。
ちょうど、真っ赤なリンゴが店頭にならんでいました。
スタジオに入り、大きく深呼吸、静かに息をととのえてマイクの前へ。目をつぶりました。気を鎮めるためです。
突然、脳裡に、東北地方へ巡業したときのことが浮かんできました。
津軽の弘前、リンゴの木の植え替えの手伝いをした日々。
大きなおにぎりを弁当にしての竹の子狩りにいった裏山の風景…。
さらに追憶は古いページをめくる。
民謡歌手としてすごした日々。
母の顔、小学校時代の悪童たちの顔、顔、顔…。
故郷の山や河、そして、みじめだった巡業生活、泣きたくなるほどつらかった不入りの客席を後にして雪の中を次の目的地まで歩いた夜の道…。
サラリーマン生活にあこがれ、高校進学を果たすために、三味線を抱えて上京し、ボイラー・マンになった東京園での生活…。
(だが、いまは、どうやら流行歌歌手の仲間入りをした。そして、こうしてスタジオのマイクのまえに立っている)
思いはさまざまな形で胸に迫ってくる。
そして、本番、歌いました。まるで私の生きてきた道を暗示するかのような歌。
私は思いを込めてうたったのです。その思いとは、万感迫るものがありました。
(この歌をヒットさせ、再び故郷の土を踏みたい。母に再会したい)
この一念が天に届いてのでしょうか、発売と同時に多くのファンの共感を得ました。
それよりもなお、うれしかったのは、母からの電話です。
このレコードのテスト版を早々に母に送ったのです。
故郷の母は、このテスト盤を聞き、
「いままでの歌の中で、この歌は、おまえにぴったりだよ。これはきっとヒットするよ」受話器のむこうで、懐かしい年老いた母の声を聞いたとき、目頭がジーンを熱くなりました。たいして、親孝行も出来なかったむすこを、いまも変わらず見守ってくれる母の愛。
私にこの母がいなかたら、現在の三橋美智也はないのです。大いなる母、その母の声をききながら、
(どうもありがとう、おふうろさんのいうとおりになると思うよ)
胸の内では、感謝の言葉をいいながらも、受話器にはそれがいえないもどかしさ、無口で照れ屋な性分がこんなところにも出てくる。
日ごろは、そんな予言めいたことをいわない母でした。やはりなにかピンとくるものがあったのでしょう。
結果はそのとおりになりました。私の生涯の代表曲、それは母が予言したのです。

 

「哀愁列車」で故郷へ

 

わたしのうたってきた歌の流れは「リンゴ村から」までは、どちらかというと民謡の味を取り入れたものが多かった。
その流れを変えて、歌謡曲という分野へ挑戦させたのが「哀愁列車」です。
作詞は横井弘さん、作曲は鎌多俊与さんで昭和31年6月の発売でした。
?惚れて惚れて、惚れていながら行くおれに…といった哀調を帯びた歌詞に男こころのひたむきさ、やさしさがメロデイに流れ、発売と当時に評判を呼んだのです。
このレコードが評判を呼んだのはもうひとつわけがありました。
このレコードもどういうわけかB面だったのです。
私のヒット曲はB面が多いので、不思議な因縁でしょう。
このレコードのA面は中川姿子さんの「ふるさとはいいなあ」でした。
レコード会社が私の歌をB面にして発売したのは、なにか営業政策的なことがあったかもわかりません。
だが、そのころ、私にもだいぶファンがついてきていて、その人たちは、
「なぜ、三橋美智也の歌が裏面のなのか」といった抗議の手紙やら、
「どうして、B面で発売されて会社に文句をいわないのだ」
怒りの手紙が、私宛て、あるいは会社宛てに殺到したくらいです。
私は黙っていました。レコードを買ってくれるのは歌謡曲ファンです。
そのファンが気に入ってくれればA面であろうとB面であろうとどちらでもいい。軍配を上げてくれるのはファンだ、という気持ち強かったからでした。
ファンにかぎらず、新聞記者の方たちも、
「おかしいじゃないか。なぜ三橋美智也の歌をA面にしないんだ」
会社に対して直接、非難する人もいたくらいです。
(わたしのことをいろいろ考えてくれる人が大勢いるのだなあ。この方たちのためにも、こんご頑張らなければ…)
いっそうのやる気と、レコードの売り上げで自信をつけ始めました。
こういった情況の中で、「哀愁列車」はどんどんつっぱしり、売り上げをのばし、私の代表曲のひとつになるのですが、このヒットが歌手、三橋の名を世間に定着させたと思います。
この新曲の発売を機に、故郷での公演が企画されました。5月末から20日にわたる北海道公演です。
思えば8年前に故郷を出た私でした。
「ふるさとは遠くに在りて想うもの」
という言葉がありますが、私の脳裏の奥にたえず故郷が浮かんでいます。
(いまに一人前になって、故郷へ錦をかざりたい)こういった願望は胸の中でふつふつと噴出していました。
一人前の人間とは、私の場合、サラリーマンから実業家になることでした。
でも、人間の運命はわかりません。
自分の欲する道を望見しながら、他の道へドンドンいってしまうこともある。
私の場合がそうでしょう。
民謡歌手から歌謡曲の歌手に転じた格好でした。
でも故郷のひとたちは心やさしく、あたたかく私を迎えてくれたのです。
第一の公演地は函館、そのステージを皮切りに、文字通り、凱旋公演≠ナ、ようやくホッとしたものでした。
何よりも生まれ故郷の函館の町での公演からスタートが、私には大変うれしかったのです。
しかも、新曲の「哀愁列車」をステージでイの一番にうたうのは、私にとっては、晴の舞台といえました。
この歌だけは、故郷のみなさんに、どこの誰よりも聴いてもらいたのです。
「いい歌だねぇ、素晴らしいよ、ミッちゃん」
久しぶりに顔を合わせた旧友たちは口々にいってくれました。
「よかったわ、ミッちゃん、出世したじゃないの」
私の名前を新聞記事でみたり、ラジオの放送で歌を聴いたりしてくれた故郷の人達は、私の成功(自分はまだまだの歌手で、これからももっと勉強して大成したいと願っていましたが)をわがことにようによろこんでくれたのです。
「哀愁列車」はどの会場でもトップにうたいました。どこへ行っても会場は超満員です。
「キング・レコード専属歌手、三橋美智也来る!」
といったポスターが会場前に貼られ、聴衆は私の歌を求めて早朝から並んでいました。その列を垣間見て、
(ああ、なんとうれしいことだ。これに応えるために全力投球でうたう以外にない)
初の故郷公演はめいっばいの熱唱です。
超満員のお客さんは惜しみなく拍手を送ってくれました。
そのときの感激は、生涯忘れることができない素晴らしいもので、いまも目を閉じると、まるで昨日のように瞼の奥にうかんできます。
怒涛のように、嵐のように、ゴーッと高鳴る歓声と拍手の渦、そのひびきまでが耳の奥底から湧いてくるようです。
このときのシーンは、私の半生の中でももっとも興奮度の高いものでしょう。
目頭が熱くなりました。
そして、考えたのです。
こんな体験は二度と出来まい。この感激を胸に、ひたすらうたいつづけ、立派な歌手にならなければ…)
初の故郷公演は大成功におわりました。
この年、「哀愁列車」の前に「男涙の子守唄」、「あゝ田原坂」のヒットがあり、6月以降には、斎藤京子さんとうたった「お花ちゃん」「母恋吹雪」、「あゝ想夫恋」といった歌が多くのファンに支持されたのです。
一方、私の歌以外では、「若いお巡りさん」(曽根史郎)「ここに幸あり」(大津美子)「愛ちゃんはお嫁に」(鈴木三重子)といった歌がファンをよろこばせていました。
世相史ふうに見ると、売春防止法の成立をみたのはこの年。「ドライ」とか「ロマンスグレー」といった言葉が流行しました。
特に私の関心を呼んだのは経済企画庁が発表した経済白書「日本の経済と成長と近代化」です
技術革新にしたがい、我が国の経済は発達し、「もはや戦後ではない」と結論を強調した部分でした。
この「もはや戦後ではない」という言葉は流行語にもなりましたが、私には一種の感慨をもたらしたのです。
戦中、戦後のさまざまな思い出ー。もしも、目が悪くなく、背が高かったら少年航空兵になっていたかもしれない。
函館上空に襲来した米機、終戦、そして飢餓、旅巡業、星雲の志を抱いて上京、闇市、浮浪者、売春婦、戦後の焼け跡から復興した町々と傷のいえた人々。
苦く悲しい時代を体験したものにとって、戦後の思いではにがいものばかり。
その「戦後」は遠く去った。いまは流行歌手として生きている。
この「戦後」大事にして、多くのファンを満足させる娯楽の売り手≠ニなる決意を固めたのが今日までつづいているのです。

 

レコード大賞・歌唱賞受賞

 

昭和31年以降というと目まぐるしいばかりのスケジュールでした。
夜もろくろく眠れないほどです。
公演に、映画出演にと追いまくられ多忙な歳月を重ねました。
多くのファンの支援を得て
「俺ら炭鉱夫」「一本刀土俵入り」「おさげと花と地蔵さんと」(いづれも昭和32年)、「夕やけとんび」「センチメンタルトーキョー」「岩手の和尚さん」(33年)「古城」(34年)「ああ大阪城」「達者でナ」(35年)「武田節」(36年といったぐあいに代表曲はふえていきました。
そして忘れもしない昭和37年5月、「星屑の町」が発売になったのです。
作詞は東條寿三郎さん、作曲は安倍芳明さん。
安倍さんは「青空のブルース」(39年)や、「俺は淋しいひとり者」(昭和41年)といった曲も作ってくださいました。
もともとジャス、ポピュラーにも強い方です。
だから、この「星屑の町」も、それまでの私のレパートリーの中では異色。アメリカの西部
劇に色を添えるカントリー・ウエスタンのおもむきのある歌でした。
民謡調の色合いのある歌や、演歌っぽい歌を歌ってきた私には、まったくちがった興趣をそそる歌に仕上がり、
(これはひょっとすると、私の代表曲のひとつになるのではないか)
こんな予感もしたのです。
レコ―デイングはスムーズに終わりました。
自分でも意外なくらい、淡々と気負いなくうたうことが出来たのです。スタジオで立ち会った安倍さんは
「上出来だよ、これでヤングのお客さんのもついてくる。ごくろうさん!」
労をねぎらってくれました。実際、この歌は、当時の若者がおおいに口ずさんでくれたものです。
それがレコード大賞の有力候補になるのはそれから数か月経ってからの話。
「よしっ、今夜はご苦労さん会をやろう」
元気な声で、スタッフに声をかける安倍さん。
にぎやかに騒ぐのが好きな方でした。一同これまたノッて、
「じゃあ出かけましょう!」
ドヤドヤ連れだって行ったのが銀座の高級クラブ。
毎夜のように銀座のクラブに出没していたそうです。
だから、何処へ行っても安倍さんはモテる。
美女を左右に侍らして、ニコニコしながら飲む。それも相当な強さ。しかも酔っても乱れない。
大変なユニークな方でした。マージャンも強かった。吉田矢健治さんも強かったが…。いまは青森のほうで、後進の育成に余念がないと聞いています。
さて、この「星屑の町」は発売と同時にジワリジワリと人気を上げていきました。
売れ行きもかなり好調。
秋になるとレコード関係者は
「ことしのレコード大賞の候補になるのではないか」
口々にこういいはじめたのです。
私はそれほど関心を示しませんでした。
「レコード大賞というものは確かに欲しいけれど、それは審査員の先生方の決めることだし、欲張った考えはもっていません」と関係者にはいたものです。冷静でした。
日本レコード大賞は、その年、昭和37年で四回目。第一回目の昭和34年の大賞受賞は「黒い花びら」(水原弘)二回目は「誰よりも君を愛す」(松尾和子・和田弘とマヒナスターズ)、三回目が「君恋し」(フランク永井)でした。
秋も深まるにつれて歌謡ファンの目と耳はだんだんとレコード大賞のほうに向いていったようです。下馬評もしきり…。その当時、候補にのぼったのは、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)「アカシアの雨がやむとき」(西田佐知子)
「王将」(村田英雄)と私の「星屑の町」だったそうです。私はこう思いました。
(大賞は確かに歌手にとって名誉なことかも知れない。だけど、その候補になっただけでもありがたい)
これは正直な気持ちです。
結果は、大賞に「いつでも夢を」特別賞が「王将」と「アカシアの雨がやむとき」。
私は歌手として、もっとも名誉な歌唱賞の受賞…。これほど名誉なことはありません。主としての実力を認めていただいたわけですから。
なお、昭和53円にはレコード大賞20周年記念顕彰をうけました。
この37年、キングレコードの専属歌手はよく検討しました。
倍賞千恵子さんが「下町の太陽」で新人賞受賞。
ポニージャックスは「小さい秋みつけた」で、童謡賞を掌中にしています。
植木等さんがうたい、流行語にもなった。
「わかっちゃいるけど止められない」
「スイスイ」
という文句の入った「スーダラ節」「はいそれまでよ」は企画賞でした。
私はレコード大賞の歌謡賞をいただいたことで、おおいに発憤し、
(この感激を胸に、十年、20年、いや30年とうたいつづける歌手になろう)
この決意を新たにしたのです。歌手の世界ほど激動のすさまじいことろはありません。
いま一年に400人からの新人歌手がデビューするそうです。
そのうち、歌が認められ、翌年まで残るのはせいぜい10人足らずというきびしさで、よほど幸運とツキと、周囲のバックアップがなければ成長できません。
私の場合も多分にラッキーな面がありました。周囲に、心のあたたかい方が大勢いたこともしあわせです。
キング・レコードという会社は、家庭的で大変に人間的な絆を大事にするところで、そこに身を寄せたのも私にはラッキーな星につながったと思います。
キング・レコードの社長だった町尻量光氏(現・副会長、セブンシーズ社長)とは文化部長時代から知遇を得ていますが、大変に心のやさしい方で、温厚の紳士という表現がぴったりときます。
ゴルフと釣りが最近の楽しみだったといっておられますが、ボーリングもだいすきでした。
よくお手合わせ願ったものです。ゲームを楽しむといったタイプ。負けてもカッカときません。
ふだん、お会いした時も始終、ほほえみをたやさない。ソフトムードなのです。
この社長の気風が写真の間に浸透し、社風となっていまも残っているかもしれません。
こういった会社関係の方のほか、作詞、作曲の先生方、あるいはマスコミ関係の方たちのあたたかい声援(ときとしては鋭い叱責もありました)どれほど私の心の支えとなったことでしょうか。
思えば、歌手生活が30年になったのも、私一人の努力ではないのです。ファンの声援もあります。
これに応えるように、いつもめいっぱいうたっていく姿勢こそ大事ではないかと、たえず自戒しています。
歌手に限らず、映画俳優でもテレビタレントでも、人気にささえられ、本人の努力と精進で、一度は頂上に立てると思います。
問題はそこなのです。いつまでも長く頂上にいるか、頂上から降りる時、転げ落ちないように、うしろで支えてくれる人が多いか、少ないか。私の場合は支えてくれる人が大勢います。本当にありがたいことです。

 

心の支え

 

お世話になった作詞家の先生たち

 

ひとつの歌が生まれるには、作詞家、作曲家の労作があり、それをうたう歌手がいて新曲の誕生となります。
デビュー以来、多くの作詞、作曲家とじっこんになりました。
デビューして、5,6年たつと、ものすごく忙しくなりましたが、作家を中心にした旅行会に寸暇をさいて参加、おおいに楽しんだものです。
こちらはまだペーペーですから、そういう先生方の間に入って小さくなっていましたが、とにかく飲んで踊ってケンカして、といったサムライばかりの旅行会です。
豪傑、酒豪、あるいは酒仙という名にふさわしい方が大勢おられました。
「おんな船頭唄」や「美智也さのさ」など私の歌の多くを作詞してくださった藤間哲郎先生もサムライでしょう。
「東京アンナ」(30年、大津美子)「お別れ公衆電話」(34年松山恵子)、「東京の灯よいつまでも」(39年、新川二郎)といったヒット曲の作詞もてがけておられます。
酔うとだんだん顔色が青白くなるようなところがありました。それにしても愉快な方なのです。
いつも進取の気性に富んでいる東條寿三郎先生。
「センチメンタルトーキョー「」、「星屑の町」を作詞していただいた方で、私には忘れられませんが、「雨降る街角」(28年春日八郎)、「吹けば飛ぶよな」(29年、若原一郎)といったヒット曲も作詞しておられます。酒とスキーを愛するひと。
よく可愛がっていただいた高橋掬太郎先生。
太った体で大仏様のような容貌。
豪放磊落、「男涙の子守唄」をはじめ「古城」のような格調の高いものまで、実に幅広い作詞をなさる方です。
「ボクはねえ、作詞をするのはお風呂の中に入っているときなんだよ。湯船につかっていると詞がうかんでくるんだ」
こんな裏話もきかせてくれました。「ここに幸あり」(昭和31年大津美子)も確か高橋掬太郎先生の作品だと記憶しています。
「リンゴ村から」「母恋吹雪」を作詞してくださった矢野亮先生は大変にナイーブな方。しかも先見の明があります。
「港のエトランゼ」(28年岡晴夫)「待ちましょう」(28年 津村謙)といった印象深い歌の作詞を手掛けられています。
「横井弘先生も非常に純情派、ナイーブ派の方でしょう。万年青年みたいに、いつも若々しいのです。お酒もだいぶ強い方です。
「哀愁列車」「俺ら炭鉱夫」「赤い夕陽の故郷」と数えあげたらきりのないほ私の作品リストにのっています。
なかなかのヒットメーカーで、キング・レコードでは貴重な存在でした。
「銀座の蝶」(昭和33年大津美子)「川は流れる」(36年中曽根美樹)
「下町の太陽」(37年倍賞千恵子)「さよならはダンスの後に」(40年倍賞千恵子)「虹色の湖」(42年中村晃子)といったヒット曲も横井弘先生が生んだものです。いつも人当たりがやわらかく、酒を飲んでも乱れず、マスコミ関係者の間でも評判がよかった方です。
「あの娘が泣いている波止場」の高野公男さんは作曲の船村徹さんとのコンビで有名でしたが、体がよわい方でした。
大変な才能の持ち主だったと思います。船村さんともども、三人でよく飲みにでかけたものです。
まださほど売れておらず、作詞、作曲の依頼もあまりこなかったころですから、酒が荒れることもあります。
私と船村さんは、
「レコード会社の偉いさんに、見る目がない」
と大声で悲憤慷慨、高野さんは飲まないから、それを横でジッと聞いていました。
深夜、タクシー代もないから、三人で歩いてネグラにかえる途中、
「いまに天下をとってやるぞ―っ」
わめきにわめいたこともいまは懐かしい思い出です
高野さんは短い生涯を閉じましたが、惜しい人を亡くしたと思っています。
たなかゆきを、木下竜太郎、永井ひろしといった先生方にも作詞の手をわずらわせていただきました。
それぞれハートのある方たちばかりです。
たなか先生には「木枯し子守唄」「てんまり波止場」「雪のだるまさん」などの詞をいただきました。
木下先生には「ノサップの岬」「十和田哀歌」「泣かないでかえろう」といった歌の作詞でおせわになった思い出があります。
永井ひろしさんのお酒の強い方です。新宿をこよなく愛しておられ、私には「哀愁平野」「蝶々とかかし」「さけ うたおんな」といった詞を書いてくださいました。
「東京流れ者」(40年竹越ひろ子)「あの娘たずねて」(41年佐々木新一)といった作詞も永井さんの手によるものです。
気鋭の杉紀彦さんとは、49年の「悲しみ河岸」「恋放浪」で顔があいました。なかなかの才能豊かなかたです。
杉さんの作詞、私の作曲、私の歌で民話を上演したこともあります。
これは芸術祭参加作品としましたが、幸いにも優秀賞を頂きました。こういった若さみなぎる方と一緒に仕事をするのも大変に必要なことなのです。
ともすると30年も歌っていると大ベテランという冠詞≠つけられて、若い作家から遠ざけられてしまいます。
これではいけません。古い殻に閉じこめられて、だんだん視野がせまくなるからです。
われわれ歌手は、過去の財産を大事にするとともに、つねに新しいものを吸収し、咀嚼していかなければなりません。
その意味でも、若い作家との交流は、私に新しい息吹を与え
(まだまだ、若い人たちと一緒になって話もできるし、付き合いもできる)といった自信を植え付けてくれました。
これがのちにミッチーブームとなった一つの底流になっていると思います。」
作詞家の先生方の中で、人間的にお世話なったのは川内康範先生。作詞家というよりも小説家として知られています。
作品としては42年9月に「わがこころ」「あばれ凧」の二曲で可愛がってもらいました。
大変に情の厚い方で、無償の愛≠人生のモットーにされています。同じ函館出身ということもあって、いろいろ目をかけていただきました。
一時期大変ボーリングに熱中されて、しばしばお手合わせ願った懐かしい思い出もあります。
川内先生は芸能界の助っ人≠ニいった存在です。困ったとき、どうにも身動きのならないとき、川内先生に相談に行くとたいていは無事に解決しました。
また、作詞をプレゼントする場合もそうです。なかなかデビューできない新人、どん底に呻吟している歌手、苦境にたたされている歌手たちに救いの手を差し伸べ、詞をプレゼントするのです。
正義の味方、月光仮面のおじさんこそ川内先生なのです。「恍惚のブルース」(青江三奈)、「愛ひとすじ」(矢代亜紀)「君こそわが命」(水原弘)、「おふくろさん」(森進一)などは、それぞれの歌手が窮地におちいっているときにプレゼントされたものでした。私も大変おせわになりましたが、それは章をあらためて…。

 

作曲家の先生にもめぐまれてー。

 

私が新人歌手のころには前章でも触れましたが、親睦を兼ねた作家旅行がよくありました。
先生方はイキがよく、元気いっぱい、そうそうたる方ばかりです。
私は正直なところ、こわいというのが実感でした。
だから、宴会では部屋の隅に小さくなっていました。
山口俊朗先生、細川潤一先生、渡久地政信先生、林伊佐緒先生、吉田矢健治先生、中野忠晴先生、飯田三郎先生、佐伯としを先生、といった豪華メンバーです。
桜田誠一さんもいらっしゃいましたが、当時は私と同じくらいの若手です。
先生方は、それぞれが一国一城の主みたいなものですから、いやはやその宴席の派手なこと派手なこと。
初めは清談、やがて風流談義、さらに酒が回るにつれて、「水滸伝」に出てくる梁山泊さながら。
梁山泊は英雄、豪傑、野心家を集め、天下国家を論じたといわれますが、宴会もさながらそ
の様相を呈してくる。
「あゝ想夫恋」「おさげと花と地蔵さんと」「古城」を作曲なさった細川先生は酒が強い方でした、豪傑です。
九州男児で、ちょっとやそっとでは酔わない。
飲めば飲むほど元気になられる。昔の武将といった感じです。新人歌手などは側にも寄れませんでした。
「リンゴ村から」「母恋吹雪」といった曲をプレゼントしてくださった林伊佐緒先生も豪傑、一方の旗頭です。
林先生は歌手で作曲家、「長崎の女」(38年春日八郎)も作曲しています。シンガーソングライターの草分けです。
ことし(58年)で歌手生活50周年。たいしたものです。私も見習わなければならないと思っています。
50周年記念のシングル盤は「旅路」。まだまだお元気のご様子ですが、われわれ後輩のためにこれからも頑張って頂きたいと願うのは私一人だけではないでしょう。
その林先生との出会いは昭和30年のはじめごろだったと思います。まだ「二人の朝はきっと来る」という新曲をいただくまえでした。
ある日、私はキング・レコードの文芸部に用事があってでかけました。
部屋の中では直立不動です。
新人のくせに部屋の隅の椅子にでもこしかけようものなら、
「お前は誰だ、何様だ」
たちまち叱責されてしまう。そのくらいきびしい世界でした。
つまり、先輩、後輩のけじめがうるさく、礼儀正しくなければいけないのです。
そこへいくと、いまの歌謡界は、なんという変わりようでしょうか。
同じキング・レコードに籍を置きながら、歌謡番組に一緒に出演しても、出演前に、私の楽屋に来て、
「よろしくお願いします」
とあいさつにくるのを忘れている人もいる。
やはり、先輩、後輩,長幼の序というものをわきまえているほうがいいはずです。これは歌謡界だけにかぎらず、サラリーマンの世界でも同じでしょう。
人間的に成長し、幅もでてくると思うのです。礼儀の正しさは、その人から、誠意も感じられます。大切な事だと思うのですが…。
さて、私が文芸部で直立不動のところへ林先生が入ってこれれました。
元気な顔で、ほがらかに
「オッス」と声をかけられたのを受けて、私は思わず大きな声で、
「オーッス」
実は私に向かっていわれたのではありません。矢野先生がいらして、そちらに
「オッス」
いつもの気楽さで声をかけられたのに、私に向けられたものと勘ちがいしたのです。
林先生は、あっけにとられ、とまどわれたらしい。
矢野先生に、ソッと聞いたといいます。
「あれは誰だ、なんという男だ?」
「あっ、あれね、あれは三橋美智也といって、明大付属中野高校に行っている。民謡を歌っている。
明大と言えば君の後輩になるだろう?」
「うん、すげぇのが入ってきたね。」
あとはお二人、大笑いの一幕。私はキョトンとしていましたが、これがきっかけで、林先生に可愛がられるようになりました。
キット、第一印象が、そんな出会いでしたから鮮明だったのでしょう。
ことし7月に亡くなられましたが、佐伯としを先生もユニークな方でした。
「泪と侍」「旅行く一茶」「センチメンタルトーキョ」といった曲を作ってくださいましたが、町のギター流し、演歌師の総元締めをやっておられると聞いて恐れをなしていました。が、お会いしたらそれほどこわい方ではありませんでした。
佐伯先生は、新曲を持参のギターで弾きながらデイレクターに聞いてもらって売り込みをやっておられました。
内弟子をとり、歌手としてこれならばレコーデイングしても大丈夫ということころまで手塩にかけて育て、レコードがでると、それを車に積んで行商して歩いたというほど熱情のあるかたでした。
「鳴門海峡」猪又公章さん「京都が泣いている」の平尾昌晃さん、「悲しみ河岸」の小室等さん、「あんたの背中」の川口真さんといった作曲家とも親しくお付き合いさせてもらっています。
平尾さんは歌手時代から
(将来は作曲家になるだろう)
といった予感はありました。
ピット光るものを感じたからです。いまでは押しもおされもしない作曲家です。
猪又さんは、お酒を飲むと愉快になる人です。それに、話もおもしろい。
「女のためいき」や「君こそわが命」「ひとり酒場で」のヒット・メーカーです。
桜田誠一さんはおとなしくハートのある人。
「望郷酒場」(千昌夫)のクリーン・ヒットを飛ばしています。
こういった諸先生のなかに、ニューミュージック系の方たちとも交流を深めたいとおもってい
ます。
井上陽水、南こうせつといった方たちは私の歌を十四、五曲覚えているそうです。それもフルコーラスで。
私がデビューしたころはまだ小学校へ入学するか、しないかでしょう。子守唄替わりに聴いて育ったというから恐れ入ります。
ですから、型は変わっても、三橋ぶし≠ェどこかニューミュージックに取り入れられていると思っています。
さだまさし君は、私の歌のテープを五巻ほど持っていて、旅に出る時もはなさないそうです。大変うれしいことです。
夜中になると、私のテープを聴くのが楽しみだと、何かの本にかいてありました。
特に好きなのは「哀愁列車」と「夕やけとんび」だということです。
彼らも私の歌に触発される。私も彼らのエネルギーを学ぶ。これでいいのではないでしょうか。
歌手は一生勉強だ、と思っていますので、これからも、若い作曲家達と手を組んで、日本人の心にしみる歌をうたっていきたいと思うのです。

 

楽しく愉快な歌手仲間

 

歌手生活を30年もやっていると、いろいろな歌手の方と知り合い、仲良くなります。先輩に引きたててもらいました。
春日八郎さんー。もちろん先輩。春日さんの公演の前座歌手を務めたこともあります。
その時分、春日さんは外車に乗っておられ、ずいぶんうらやましく思ったものです。
(オレも歌をヒットさせて、車を持ちたい、いや、全体にもつ)
こんな思いにかられました。
付き合いは古いし、いまだに「ミッちゃん、ミッちゃん」と可愛がってもらっています。
春日さんはご存知のように競馬界の馬主の理事です。馬の事を教わったのも、春日さんからです。
私も馬が好きになり、馬主協会にはいったのですが、そのとき保証人になっていただきました。
若原一郎さんの前座歌手もやりましたが、年齢はわたしのほうが一歳上です。けれど歌手では先輩。
このあたりのけじめも大切なのです。芸能界では…。
私の一年ほど後輩になるのが三船浩さんです。しあわせなことは、私が先輩諸氏にめぐまれたということでしょう。
美空ひばりさんとは、義兄妹≠ンたいなものです。家族の一員のようなお付き合いをしてきています。
亡くなられたお母さん(加藤喜美枝さん)が気むずかしい人だといわれていましたが、私にはそうではありませんでした。
東京・浅草国際劇場で競演したのがそもそものはじまりですが、そのときお母さんに気に入っていただいたらしいです。
ひばりさんもお母さんも私のことw「オニ上」と呼んでいました。ふつうは「兄上」なのでしょうけど、どういうわけか「オニ上」なのです。
「なぜオニなの。オニは、あのコワーイ、鬼のことかな」
不審におもったのであるとき聞いたのです。
母娘でケラケラ笑いながら。
「そうなのよ、あなたはオニ、芸の鬼なのね。そのオニの上を行くと思うからオニ上なの。敬意を表しているんだから…」
それにしても愉快な母娘です。
ひばりさんは非常に頭のキレる、素晴らしい理知的な方です。大変にキメの細かい神経の持ち主で、文句のつけようがありません。
女性として採点すれば、満点を差し上げられるし、位をつければ最高位でしょう。
ひばりさんとは映画の仕事も一緒にしました。「おてもやん」というタイトルだったと記憶しています。
高倉健さん、江利チエミさんも出演していました。
渡辺邦男監督のメガホンでしたが、なにしろ、早撮りマックイーン≠ニいわれる人の演出ですから、バババーンと撮ってしまう。私の映画出演は数少ないほうですが、そんな中で、ビックスターと共演できたこの映画は思い出のひとつです。
村田英雄さんとは兄弟分≠フ付き合いをしています。
村田さんが私の歌の信奉者だというのです。
「私は三橋さんの歌で大好きで、浪曲家から歌手に転向した。おおいに触発されたわけですよ」
呵々と大笑いしながら語ってくれたことがありました。
このごろは飲みませんが、以前はよく一緒に豪遊したものです。
九州男児がからめっぽう強い。京都での一か月公演で、ホテルの部屋に36本、洋酒のカラビンを並べたというほどです・
外で飲んで帰ってきて、またホテルで飲んだわけで、一日一本強の計算、いかに強かったかわかるでしょう。
その村田さんは、マージャンが大好きな時期もありました。そういうわけか、私と卓を囲むと勝ったためしがない。
よそでは強いのです。めっぽう強いくせに、わたしには負ける。きっと相性が悪かったのでしょう。
マージャンと言えば、かしまし娘のお姉さんの方も好きな方です。関西に行くと、そのかしまし娘、茶川一郎さんといった方たちが食事をしたり、遊んだりの仲間なのです。
あるとき、大阪でかしまし娘がマージャンで惨敗しました。
「仕返ししてやるわ、覚悟はええか」
不気味な声でいったものです。こちらは気にせず次の興行地の広島へいってしまいました。
広島で、ステージを無事に勤め、楽屋に戻ってきたら、そこにいるのです、かしまし娘が。
もう、びっくりしました。マージャンの復讐に広島まで追いかけてきたのです。
坂本九さんは、わたしのことを、ずいぶん以前から、
「お兄さん、お兄さん」とよび、親しい付き合いをつづけています。
ハートのやさしい男で、庶民的な雰囲気がなんともいえません。
びっくりさせられたのはフランク永井さんです。
昭和32、3ねんごろ
「高音の三橋か、低音のフランクか」
マスコミはこういったキャッチフレーズではやし立てていました。
ある時、二人揃って宴会によばれたのです。
フランクさんは一滴ものめませんん。こちらはグビリグビリ…。
そんなことがあって、しばらくたったある日、京都のクラブ「ベラミ」にフランクさんが出演していたので、かけつけました。
ショーが終わって、テーブルで旧交をあたためる段になってびっくりしました。コニャックをグイグイやるのです。
こりゃあいったいどうなっているのかとたずましたら、
「北海道公演のとき、ナイトクラブで歌舞伎の役者さんと同じ席になったんです。そしたら、ブランデーグラスで雰囲気よくのんでいる。ああ俺もああいうふうになりたいと、コーラをブランデーグラスでのみ、ちょっぴりコニャックを入れて飲みはじめたのがそもそも。だんだコーラの量が減り、ついにはコニャックだけになったんです。それからはコニャック一本槍で…」
その夜、フランクさんはレミーマルタンを一本開けてしまいました。
いまもってお酒がダメなのは北島三郎さん。
同じ函館のよしみでお付き合い願っていますが、この方も?馬キチのほうです。
大津美子さんとは昭和31年に世界一周旅行をしたとき、ハワイへ同行願いましたが、あちらも大モテで、ハンサムな青年に追いまくられていました。それも複数に…。
大先輩の松島詩子さんには
「三橋さん、三橋さん…」
とだいぶ可愛がってもらいましたが、偉い方だったのでいつも直立不動でした。
側によって親しく口をきくなどどいうことはありません。
それくらい大先輩なのです。
ひばりさん、チエミさん、それに雪村いづみさんは当時三人娘≠ニして売れていましたが
いづみさんも芸熱心な人です。
新宿コマ劇場へ出演するのに津軽三味線が必要だというので、ひそかに習いにきました。
コマ劇場に見に行ったところ、見事に弾いていたのにはびっくりしたものです。
「お花ちゃん」を一緒にうたった斎藤京子さんとは、彼女の弟さんと私が民謡の兄弟弟子ということもあって、いまだにお付き合いしています。

 

映画、演劇の先輩、友人

 

映画や演劇、舞台の仕事もずいぶん体験しました。
先輩に教わり、友人もできたのは、私にとって、得難い宝物です。
東宝映画「草笛の丘」で共演したのが藤木悠さん。お互いにラグビー選手の役柄でした。
ヌーボーとした感じの人ですが、大変にスポーツ神経がある。フェンシングの選手だったと聞いています。
この藤木さんとの間には、いままで語ったことのないエピソードがあります。
私を初めて、焼肉屋に連れていってくれたのです。
大阪でした。私はそれまで焼肉屋にいったことがありません。
肉類はきらいだったし、食べようとも思わなかったのです。
いわば、無理やり連れて行かれたといった方が当たっています。
けれど食べてみて
(へえー、こんなにおいしいものがあったのか)
焼き肉のおいしさを味わい。それからは、よく足を運ぶようになりました。
おかげで、それか太りはじめたのです。彼が私を太らせた張本人…。
その時分、加山雄三さんとも親しくなりました。雑誌の対談やグラビア撮影でよくご一緒したものです。
加山さんとは、海の男≠フ友情で結ばれたと思います。ヨット仲間の付き合いです。
彼は大型ボート、私はヨットをもっていました。加山さんはいつまでも若々しい。
若さの秘密はスポーツをやっているからでしょう。
スポーツはたえず大脳を刺激します。
頭と肉体を刺激すれば老化は防げるのではないでしょうか。
ヨット仲間と言えば、森繁久彌先生もその当時、ヨットをもっておられました。
「ふじやま丸」という名だったと記憶しています。
私のヨット「アンニイ号」は43フィートの船型でした。
下田へ向かったら、森繁先生のヨットもそこにいる、という情報が入り、追いかけて行ったのです。
ヨットのセイリングというのは実に楽しいものです。
大海原を快走する気分はたまりません。
私は鳥羽のレースに5回出場しています。だから、三浦半島から以西の海はたいていのコースを知っているので、下田に一泊したあと、さらに森繁先生のヨットをおいかけました。
コースを決め、針路を南下すると、はるか彼方の海原に島影が見えました。
「あれだ、あの大きさからすると、「ふじやま丸」にちがいない」
クルーの指さすほうに目をこらすと、なるほどそれらしい。あちらも、私たちの船をみつけたようです。
お互いに確認し合い、航路の無事を祈ったのですが、スルスルとこちらに森繁先生のヨットが近づいてきたのです。
むこうからポーンとロープがなげられました。
引き上げてみるとブランデーがしっかりと結び付けられている。
「飲め―。気を付けていけよぉ」
とどなる声もきこえました。海の男の友情です。粋なものです。
そのときは本当に楽しく、おいしく洋上で乾杯しました。
映画は松竹系での出演も多く、京都・太秦で撮っていて、北上弥太郎さんとは親しい付き合いをさせていただき、撮影の終了後、京洛のちまたをノシ歩いたものです。
なぜか、北上さんは「リーちゃん」と呼ばれていました。
目玉が大きく、それがマージャンパイのリャンピンに似ているところから、リャンちゃんと呼ばれ、それがリーちゃんになったという説がありますが、さだかではありません。
ふたりで、先斗町を毎晩ハシゴ酒と言った時期もありました。
酒も強かった。だから翌日完全に二日酔い。撮影がつらかった思い出もあります。
舞台のほうでは、由利徹さん、南利明さん、八波むと志さんといった面々と、東京・有楽町の日劇出演の際にマージャンをやったり、公演の中日と千秋楽にはみんなで豪遊してドンチャン騒ぎ。
大変な武勇伝も飛び出したものです。
いまならすぐにテレビのレポーターが飛んでくることでしょう。
桂小金治さんと知り合ったのも日劇出演が縁でした。古くからの親しい方です。心のあったかい人で、涙もろい人情家。立川談志さんと親しくなったのもその時分です。酒が強く、ふたりで一緒になると朝方まで、というパターンです。
歌も好きで、自分でも忘れてしまった私のB面の歌をよく知っているのです。
時折、私の事務所へフラリと寄り、深夜までカラオケでうたって帰っていきます。本当に歌好きなのでしょう。
三ツ矢歌子さんは、私がファンの側です。
音羽美子さんの親類で、一度お目にかかりたいと思って「アフタヌーンショー」(テレビ朝日)でご一緒させていただいたときは、胸がドキドキしたものでした。
偉大なのは山田五十鈴さんです。44歳の夏、私が軽井沢にいたら突然、尋ねて見えました。
「津軽三味線を教えてください」
というのです。天下の大女優がわざわざ頼みにこられたので、私は感動しました。と同時に
芸熱心な役者魂にうたれ、教えてさしあげることにしたのです。「一芸に秀でたものは百芸に通じる」という言葉どおり、たちまち会得されました。
その腕前は翌年帝劇で公園で披露されたのですが、感心するほどの出来栄え。このとき、わたしは端役でした。
それが帝劇で三か月、中日劇場で一か月、大阪・梅田コマ劇場で、一か月と舞台を打ちつづけるうちに、最初の場面で死んでおしまいだった役が、二回目の公演からは全部、山田さんと夫婦役。ずっと舞台を共にさせていただくようになり、芝居というものを教わりました。
山田さんが軽井沢にこられたのは、長谷川一夫さんの東宝歌舞伎「春夏秋冬」で、私が歌でお手伝いをして長谷川さんや山田さん、朝丘雪路さんが踊って、といった仕事を通じてしりあったおかげです。山田さんの情熱には頭が下がりますし、ご一緒した芝居は私の人生の中では最大の思い出です。
たいへんに仕事の好きな方なのでしょう。一年中休みなく仕事をされていましたが、本当にガッツとファイトのかたまりいたいな方だと思います。
三味線をお教えする代わりに演技をおしえていただき、芸能界、特に舞台の裏側の規律とか不文律のようなものを教えていただきました。
人間国宝といわれた片岡仁左衛門先生にもかわいがっていたたのですから、一歌手としてこんな幸せはありません。
ご一緒の舞台の時 楽屋入りすると、まず最初に山田さんのところへ行き、
「おはようございます」
とあいさつして、その足ですぐに片岡先生の楽屋へ。気さくな方で、
「毎日こなくてもいいよ」
こちらに気を使ってくれるのです。
そして時間が空くと、ひょっこり私の楽屋へおみえになるのです。雑談して帰っていかれるのですが、恐縮したものです。
歌舞伎というところは特に厳しい所だと聞いていましたが、礼儀とけじめをしっかりと身につけていれば、それほど迷惑をかけないですむということも体験しました。
それと、仕事に対する情熱のほかに、共演者への思いやりも必要なのだと教わり、その大切さを座右の銘にするようにもなりました。
辛抱と思いやりのなくなった時代ーといわれているだけになおさらその思いを強くしています。

 

スポーツ界の友人、仲間、兄弟分

 

私はスポーツが好きです。体を動かし、汗をかいたあとのシャワー、そしてビール。これほど心身ともに爽快感をおぼえることはありません。
だからスポーツ界の方とのおつきあいも多い。
デビュー当時は横綱・千代の山の全盛時代、そしてプロレスの力道山が大活躍していました。
あるとき、私と千代の山、力道山の三人が一堂に会しました。
たちまち意気投合して、義兄弟の盃を交わしたのです。
千代の山は私と同郷で、「哀愁列車」が大好きでした。
飲んだ時、よくうたうのですが、声が渋くて節回しも上手。
飲むと座興で裸になって、
オレにぶつかってこい」
いくらぶつかっていっても巨岩のようでビクともしません。
力道山は私との酒席ではあまり酒をのみませんでした。ほかの人とはずいぶん飲んだらしいですが…。
私とは、牛乳をのみながら付き合っていたくらいです。
それが酒を飲む場所で刺されて死ぬ(昭和38年12月15日)とは考えてもみませんでした。
その英姿が、つい最近、「ザ・力道山」というタイトルで映画(58年8月)となってよみがえり、感無量の思いにとらわれました。
ボウリングにも一時期、凝りました。大橋巨泉さん、塩月弥栄子さんと知り合いになったのはボウリング負う所が大きいといえます。
多くのプロボウラーとも知り合いになり、ゲームを争ったこともあります。粕谷三郎さん、安武民祐さん、のちに私の事務所にくるようになった浪間昭君、女性では中山律子、石井利枝、須田開代子の諸嬢。
東京・港区麻布台にあるラジオ日本(元ラジオ関東)の下にメンバー制のボウリング場がありました。(いまは録音スタジオになっています。)そこへ通い続けアベレージは182.
安武、石井両プロをスクラッチで破ったこともあります。
チームもっていました。「東京ファイブメンズ」という名でした。
野球も好きです。いまは巨人ファンですが、以前は阪神と西鉄(現西武ライオンズ)をひいきにしていました。
闘魂みなぎらせた阪神の村山実投手、剛腕の稲尾和久投手、豪打の豊田泰光選手、素晴らしい選手たちです。
村山投手とは、雑誌の表紙へ一緒に出て親しくなりました。
その後、横浜の中華街で食事を一緒にして、これまた意気投合、たちまち義兄弟の盃です。
その当時、兄弟分というのが妙に流行していました。
その村山投手がなげる巨人戦が困ったのです。
私は王貞治選手と仲がいい。だから阪神が勝って、王選手がホームランを打つのが理想的でした。
王選手とは、飲み友達でもありますが、きわめて気っぷのよい男です。
世界のホームラン王≠ニいわれるだけの人格者。スポーツマンとしては第一人者です。
その王選手にあるシーズン、
「今季50本以上打ってホームラン王になったらオレがプレゼントするよ、キャデラックか、パテックの時計のどちらかをやる。すきなほうがやるから頑張れよ」
ハッパをかけたら、なんとその年(39年)55本を打った。
(えらいことをいってしまった)
と思ってもあとの祭り。パテイックの時計をもっていかれました。
たいした打者です。
王選手がハンク・アーロンを抜き、ホームランの新記録756本を樹立した日は球場に行きました。
めったに行ったことがないのに、その日(52年9月3日、対ヤクルト戦)は観戦にいったのです。
知った顔に出会うたびに、
「新記録を見に来たんだよ」
「いやいや、出ない出ない」
それが出たんです。バカーンと。うれしかった。
どういうわけか、私が観戦にいくと巨人が勝つ。
その王選手はいま助監督。今季(58年)の巨人は優勝するだろうか、このペンをとりながらも王助監督の顔が浮かんできます。
王助監督の育ての親が、現評論家の荒川博さん。熱血の人といった感じですが,
私とは大の仲良し。ゴルフ仲間でもあります。
荒川さんと私は同じ年齢なのです。だからなおさら気が合うのかもしれません。荒川さん主催のゴルフコンペがあれば、私は仕事をやりくりしても出かけます。
人間的にも大変、魅力のある人で、私の顔をみるたびに
「合気道は、歌手の腹式呼吸にもぴったりくるはずです。教えてあげますよ」
こうすすめられるのですが、なかなか教わる暇がないのが残念です。
張本勲選手には大変お世話になりました。
もともと、わたしのファンだったそうですが、ある人の紹介で知り合い、肝胆相照らす間柄になってわけです。
球界でも有数の巧打者、広角打法≠ナ有名でしたけれど、実生活では侠気のある人で、面倒見のいい方です。
その張本さんのマンションにしばらく身をかくしていたときがありました。
これは初めて私が打ち明ける話です。
今まで誰にもしゃべっていません。
それは昭和41年でした。
離婚騒動の後、週刊誌に追われて身をよせたのです。
張本さんの奥さんも、アネゴ肌で、面倒見がいい。
週刊誌の取材者が押しせてきて来ても、パーンとハネ返し、追い帰してしまう。
本当にありがたかった。
張本さんとは、いまはゴルフでお付き合いが深いといえます。
腕前のほうは、互角といっておいたほうがよさそうです。
書き忘れるところでしたが、プロボウラーの矢島純一さんと試合をしたことがあります。
もちろん矢島プロが有利な展開。だが、テンフレームでポーンと穴が開き、わたしはワンフレームで勝ったのです。
「三橋先生に負けたのはくやしい」という彼と一晩中、酒の付き合いをしたことがありました。
プロレスでの私の大ファンというとキラー・カーン、藤波辰巳がいます。キラー・カーンは家にきて、カラオケで歌をガンガン歌って帰るくらいです。
大鵬親方とも大変親しい間柄で、ある事件が起こったときにピンチを救っています。
ある年、もちろん現役時代ですが、東京・浅草で会合がありました。
関西の大親分の肝いりで行われたものですが、大鵬関はこない。
横綱は若衆の結婚式にでていて、そのことを知らなかったのです。
親分としては。顔に泥を塗られたと誤解したのでしょう。
「オレの席に出ないような奴に、大阪場所には出さない」
怒りだしたのです。その場はなんとかおさまりましたが、親分の若衆たちがおさまらない。
そこで、私が調停役を買って出て、大阪に行き、大鵬関に会って、これこれしかじかと話を伝えたのですが、「まさか」と半信半疑。でも私の話に心を動かした大鵬関は、すぐにその親分のところへ行ったのです。
ちょうど玄関口でバッタリと出会いましたが、これが「まあまあ、上げれ、上がれ」の和気あいあいムード。
結果オーライで、一件落着。一歩間違えて入れば鉄砲玉≠フ襲撃だったのです。
その場所、大鵬関は優勝しました。
話は前後しますが、王助監督は大変に気のやさしい男です。
私がことしの旧盆・八月十五日に東京・浅草の浅草寺本堂で、亡くなられたファンの方たちの冥福を祈って供養をしたときもわざわざ出席してくれました。
後援会のメンバーで、すでに亡くなられた方は百名を越しています。
以前から、この方たちの供養を行いたいと念じていただけに、ホッとしているところです。
これからも定期的に行いたいとおもっていますが、20年来、兄弟付き合いをしてきた王助監督が雨降りの中、足を運んでくれ、合掌してくれたときは、改めてその友情と思いやりに感謝したものです。

 

あの人、あの顔、この付き合い

 

歌手をやっているおかげでしょうか。いろいろな分野の方たちと知り合いになり、視野も広くなりました。
古くからお付き合いに願っている方に辻昭二郎さんがいます。大阪市の市会議員で、親子二代にわたって市政に尽くしておられるのだから立派なものです。
25期も市議会議員をつとめている方は全国でもそうザラにいないと思います。
生涯、地方政治に情熱を燃やしいているのです。
私は兄貴分≠ニして尊敬しています。
ハンサムでゴルフも上手。昭和2年生まれなので昭二郎という名前だとか。私の「古城」が大好きなのです。
大阪では、森下泰さんにも親しくいただいています。歌の好きな方で、庶民的な感覚もお持ちの方。
選挙のときには、もちろん応援にいきます。
尊敬している人に東京相互銀行の長田庄一会長もいます。
イースタン観光の高村武人社長のご紹介で知り合いました。
私の歌が大好きとのことで、レコードもほとんどお持ちだそうです
カクシャクとしておられ、いろいろ教えていただいているうえに、公私にわたって面倒をみてもらっています。
人間的に大変すばらしいのは服部一秀先生。
ある人の紹介で知遇を得るようになりましたが、初対面から私に興味をもたれたようで、それ以来、これまた公私にわたってお世話になっています。私よりひとまわり上のウマ年なので、当然、兄貴分です。
民謡・三橋流の憲章と内規も作って下さり、現在は理事長をおねがいしています。千家古流、17代の家元でもあり、
学問的な素養も深い方なので教わることが多いのです。
長田会長に紹介されて七あったのが中尾栄一代議士。山梨のケネデイ≠ニいわれるくらいの人ですが、サッパリした気性で交際を好んでくれています。
瀬戸山三男代議士にも可愛がっていただいています。
瀬戸山先生は九州男児で、熱血の人です。三橋流の道場開きのときは、わざわざ足を運んでくださいました。
私のチャリテイゴルフ(58年で6回目)の発起人にもなってくださいました。
私は北海道出身ですが、九州に友人が多いのも瀬戸山先生の贔屓によるものです。
九州には四五期(シゴキ)会というものがありますが、これも瀬戸山先生が音頭取りをされています。

「三橋美智也チャリテイー・ゴルフ」は交通事故で亡くなった方たちの遺児に少しでも愛の手をさしのべたいというのではじめたもので、毎回百人以上の参加があり、ささやかながら寄付をさせてもらっています。
レギュラーメンバーに坊屋三郎さんがいます。
意外なお付き合いというと、言葉は悪いのですが、寺内大吉和尚ともじっこんの間柄。
キックボクシングの解説などをやっておられるので、さぞかし気の荒い方かと思ったらすごく気持ちのやさしいかたなのです。私は檀家のひとり。養父母のお骨をちゃんと守ってもらい、拝んでいただいています。
競馬界にも知人、友人は多い。
馬にひきこまれたきっかけは春日八郎さんです。
私が初めて持った馬・アンニークインをお世話してもらったのた、調教師の大和田稔さんです。現在、期待をかけている新しい馬は保手浜弘規さんから譲ってもらいました。
保手浜さんは私と同じ年齢なので気があう。馬は120頭くらいもっています。保手浜さんの牧場へ見学にいったとき「へイッ」と大声をだしたら、いっぱい群がっている中からバーツとはしってきたのが其の馬だったのです。
保手浜さんは売る気はなかったようですが、それが縁になったのでしょう。
「五千万円、六千万円出されても売らない」といったいた馬でしたが、結局、安く譲ってもらい、いま千葉県・茂原市の牧場で出番待っています。
騎手の方たちとも交流もあります。鈴木安さん、増沢末夫さん、小島太さん…。
増沢さんは「さらば!ハイセイコー」を歌っています。結句いい声だし、そのお嬢さんも美声の持ち主。
各くレコード会社で目を付けて口説きにかかたけど、実現していません。

 

馬主として知りあった方に原田幸子さんがいます。
タカラテンンリュウを持っていて、この馬が稼ぐ。もう一億円ぐらい苛政でいるのではないでしょうか。

 

実業家の方たちとも懇意にさせていただいています。
長田会長のご紹介で知り合ったローンズワールドの石川富夫会長。一家をあげて私のファン。私の為に若手のバリバリの実業家のみなさんを紹介してくれました。

 

舞台の演出家の方たちに知遇を得たことも私の財産です。
「津軽三味線流れ節」の演出をしていただいた津村健二さん。大原由紀夫さんもその舞台の製作者です。
私のブラジル公演には一役かってくださいました。
国際劇場の演出に欠かすことができなかった中原薫さん。
この方は松竹系です。
日劇では山本紫朗さんに大変お世話になりました。

 

忘れられないのは、塚田茂さん。世界一周の旅も一緒でしたが、旅行中何回となくケンカ。
一種のじゃれあいみたいなものですが、夜になると私と塚田さんの「行きたいところ」が別々。
それで、意見の衝突。
「勝手にしろ」で翌朝になると、ケロリとして顔で、朝食を共にしながら、「昨夜はどうだった?」なんていいあう。
気のおけない友人といった感じなのです。

 

毛色の変わったところでは「三色パンの会」というものがあります。
これは日本テレビ系「スター誕生!」に出演したのがきっかけで結成されました。
58年4月28日に誕生したのですがメンバーは私と同じ審査員をやっていた、かまやつひろし君、司会の横山やすしさんの三人です。
赤坂で一杯飲みながらスタッフのミーテングみたいなものがあった夜に
「これから先も、約束をして、ではなく、ふとあったときにのみにいきましょうや」
軽い気持ちで会合を持とうと、誰からともなくいい出し、結成につながったのです。
かまやつ君はフォーク、ポップス系のj歌手、横山やすしさんは漫才、司会業の方、私は民謡と演歌で、三者三葉の色合い。
会の名前をつけようという段になって、
「三色パンというのがあるねえ、アンコ、ジャム、クリームが小さなパンの中に入ってつながっている。
味がそろぞれ違うけれど独特のパンだ。それにしよう」
衆議一決。これも面白く愉快な仲間でしょう。

 

「三橋先生と一緒にお酒を飲むのがボクの夢でした。」
といってくれたのは将棋の内藤國雄さん。
「おゆき」というレコードをヒットさせて歌謡界にも登場しましたが、それ以前から私の歌の大ファンだったそうです。
「歌謡界にはいれば、三橋先生に会える」
という願いもあったというのですから、こちらが恐縮します。
最初、紹介されて新宿で一緒に飲んだ時の喜びようはなかったです。よほどうれしかったのでしょう。
何回があっているうちに、四谷のスナックに連れて行かれ、ここでカラオケ大会がはじまりましたが、歌をよくおぼえいるのには感心しました。
棋面の最初から最終局まで完全に手を再現できるという記録力のある棋士ですから当然でしょう。
これからも王位≠ノ向かっていってもらいたいです。

 

ミッチーブームのおどろき

 

昭和53年4月、私はラジオ関東(現ラジオ日本)の「電撃ワイド・ウルトラ放送局」でDjを担当しはじめました。
マイクに向かって、元気よく、
「お待たせしました!三橋美智也です」
という言葉が、いつの間にか、
「あなたのミッチーが激しくフィーバーして登場!今夜は軽くいこうぜ!」
の呼びかけになり、アレヨアレヨという間に大変なミッチーブーム。

 

昭和34年4月10日 正田美智子が現代のシンデレラのように皇太子殿下と結婚され、世にミッチーブームが起きたのは記憶に残るところですが、こんどは三橋美智也のミッチーブームなのです。

 

ラジオ日本の三浦宏デイレクターが、12名パーソナリティーの一人に私を選んでくれたのは、
「中年の魅力をなんとか出してもらいたい」
といった考えもあったらしい。
正直いって、その話を受けた時は多少ためらいがありました。
けれど考えたのです。その番組で、民謡を若い人たちに理解してもらいたい、というのが最大公約数的な考えでした。
けれど、昔からのファンは非常にびっくりされたと思います。
実際、気が狂ったのではないか、といった声も聞かれ、ひんしゅくを買い、冷笑もありました。
だが、やってみて成功すると、誰もなにも言わなくなる勝てば官軍≠ンたいなものです。
これは実におかしい。

 

いまの若者は、頼りになる兄貴ぐらいの目で親し気にみる。
大人以上に理解しているところがあります。
このDJと「激めん」のCFで、すっかり若返り、歌手としての寿命が20年延びたと思っています。
巡業で地方へ行く。私の顔を見ると、
「やぁー、ミッチーだ」
中、高校生が寄ってくる。握手ぜめ。カメラでパチパチ撮られる。おかげで記念写真が多くなりました。

 

DJ担当がきまったとき、やるからには徹底してやろうと思い、最後までガンガンやったのです。中途半端なことが嫌いな性分ですから。
ミッチーにつづいてムッチー(村田英雄)ハッチ―(春日八郎)も出現しました。
私のやり方がいやだったら、誰もその愛称を喜んでうけいれないでしょう。

 

いまは親が子供を叱らない時代です。
ラジオへの投書で人生相談みたいなものがくる。
そのときの解答として、よければよいし、悪い時はすごく怒ったのです。
歯に衣をきせないで…。これが共感を呼んだのだと思います。
三浦ディレクターはこういっていました。
「ものわかりがよすぎて、ヤングにおもねるDJが多い中で、三橋さんは、ハッキリときびしく斬りつけた。これがかえて若い聴取者にウケたと思う」

 

実際にそうなのです。例えば、いま恋人のことで悩んでいるという少女からのハガキに
「若いんだからクヨクヨするな。男なんて星のクズほどいっぱいいるんだ。もっといい男が出てくるかわからないぜ。いまから心配するなよ!」
またその少女からハガキがきて、
「グッスリ眠れるようになりました」
ひとつの精神治療法、ワンポイントアドバイスも心掛けたのです。

 

ファンレターもふえ、
「どういう女性がすきですか」
「年齢はいくつなんですか」
そんなハガキがくるとテレました。
若者にとっては、「三橋美智也ってどんな奴だ、年齢は?」というのは当然の疑問だったのでしょう。
ミッチーと三橋美智也が結びつかないのも無理はありません。
この2時間のワイド出演につぎ「激めん」のCFでまた激しいミッチーブームになりました。
ギンギラギンでフィーバーの四十九歳。
ロンドンブーツでデイスコを踊りまくる。
まったく新しいファッション、これが全然、抵抗ない。新しいもの好きなことろがあるのです、私には…。
そのロンドンブーツは兄弟分の寺内タケシ君からのプレゼントでした。寺内君は、お母さんが小唄の家元で、小さい時から耳が鋭い。
小唄の三味線をエレキギターに代えて小学生のころから演奏している素晴らしいテクニシャンです。
洋楽だけでなく、民謡しも深い造詣を持っています。
昭和五十三年には「寺内タケシ日本民謡大百科」で日本レコード大賞の企画賞を受賞しているほどです。
水戸っぽ≠フ熱血漢。
その寺内君と東京・芝の東京プリンスホテルで打ち合せがありました。
現れた寺内君は私より身長が高い。勘のいい彼は、「兄貴、ムッときているね」
といいながらロンドンブーツをみせるのです。合点がいきました。これで身長をのばしたな、と。 
寺内君がすすめるのではいたら、二十四・五センチの大きさでぴったり。
「じゃあ、すぐ届けるよ」
約束どおり、いただいて、これをはいてのコマーシャルですから、目立つわけです。
いわば、ミッチーブームの仕掛け人≠ヘ寺内君といえるわけです。
それに、もうひとり。武田鉄矢君も仕掛け人といえます。最初、「激めん」のCF出演の話は武田君のところへいったんですが、それをどういうわけか
「これは三橋美智也さんがやったほうがいいんじゃないですか?」
いまもって、このあたりの話はベールにつつまれていますが、結局は私にまわってきて、あの大騒ぎ。
ニューヨークにまでCFを撮りにいきましたが、このとき別な感慨にもひたりました。

 

昭和三十年代にアメリカ西海岸、ハワイに行ったときは小さくなっていたと思うのです。
公演場所の公会堂へ集まってくる歌好きなお客さんの車がピカピカひかっていて、コンプレックスを感じたほどです。
その時分、私は米軍払い下げの車に乗っていましたから…。
(これじゃ戦争に負けるのは当たり前だ)と焼け跡派世代らしく考えたものです。
それが、ニューヨーク・ロケのときには30年の歳月の流れからか、肩と胸を張って歩いていました。
三十年前は、まだ敗戦の匂いというか、心に痛手と重みがズシンときていたのでしょう。
そんな思いが「激めん」ロケでめぐってきましたが、同時に、人間はたくましくいきなければ…という気が起きたのも事実です。
そして、あまり年齢を気にしてはいけない、早く老け込んでしまう、とも考えました。
派手な衣装を着て。他人はへんな目でみることもあるでしょう。
けれど、地味なものを着れば、それだけ老けて見えるし、若づくりをすれば気分まで若返るのだと確信もしました。
「もう年齢だから、こんな格好は…」
実際は派手な格好をしたいのに、まわりを意識してやらない。そのうっぷんがゴルフ場です。ケバケバししご老体がいっぱい見受けられます。
私はミッチーブームで学びました。へんに年齢を意識するのをやめよう。
要は自分の気の持ちようだ、と。これからも若々しく頑張っていきたいと思います。

 

民謡は不滅!日本人の歌

 

私が東京に出てきてからお世話になった民謡関係の人たちも多い。もちろん、北海道にいたときにご恩を受けた方もいます。
その方たちのおかげで、今日の三橋美智也があるといえます。心から感謝しています。
上京して一番初めにお世話になったのは、なんといっても菊池淡水先生。この先生に門前払いをくったら、浮浪者の仲間入りをしていたかも知れません。

 

津軽三味線では、高橋佑次郎さん、木田林松栄さんにもお世話になりました。
白川軍八郎先生のことは、さきに書きましたが、歌謡生活十年目に東京・有楽町の日劇に出演した際にはお招きして、たっぷり弾いていただきました。
一緒に曲弾きもしました。白川先生は
「東京の桧舞台を踏めて、こんなうれしいことはない」
大変によろこんでおられましたが、私もうれしかった。師弟共演ですから、…。
豊吉姉さんは三味線の第一人者でした。細棹で弾かれます。
そういう弾き方をひそかに盗んだものです。芸は盗め≠ニいうのが、この世界のならわしです。
一人前になるためには、その道の第一人者の芸を見聞きし、会得し、自分流に解釈し、消化していくことが必要なのです。
こういった名人、達人に接することができたのもしあわせでした。
豊吉姉さんは、私のデビュー当時の「おんな船頭唄」や「ご機嫌さんよ達者かね」といった曲を、ちゃんと五線譜で弾いた方です。
三味線を弾くのに、五線譜は必要のない世界に育ちながら、進取の気性に富んでいたのでしょう。
また同時期、藤本秀丈先生も三味線で新風を吹き込み、民謡人口をひろげていった功労者のおひとりです。
民謡を理解する耳を持ち、正確な三味線伴奏の基礎をこしらえた方です。
だから、藤本先生の三味線伴奏でうたうときは、私は安心してステージに立てました。
尺八の米谷威和男さんの存在も見逃せません。
この人の尺八は民謡のこころをいやがうえにも情念の世界に導いていきます。
太鼓では三波駒三郎先生がいらしゃいました。この先生もなくてはならない存在でした。
民謡に欠かせない掛け声は白瀬春子さん。
大阪での掛け声≠フ米朝梅若さんとは親友の間柄になっています。
こういった方たち活躍や努力が、民謡発展に寄与したことはいうまでもありません。
民謡は、日本人の、日本民族の歌だと思います。
アメリカにカントリー・ウエスタン、フランスにシャンソン、イタリアにカンツォーネ、黒人にブルースといったように、民族の歌は受け継がれています。
日本には祖先から伝わる民謡があります。
民謡は日本人の心のふるさと≠ニいえるのではないでしょうか。私たちの祖先が何代にもわたって、自分たちでつくり上げたもので、これは大きな文化遺産です。
これを受け継ぎ、次代の人のために残していくのは、私達の使命だと思います。
ただ、それが大衆から離れ、「正調がどうの」「節まわしがおかしい」と理屈で民謡を論じたり、懐古趣味で関心をひくのでは前進はありません。
私が新しい民謡づくりのために「日本民謡青年新志会」を結成し、現代に生きる日本民謡の発展を願ったのも理解していただけると思います。
民謡は働く人たちの歌として誕生したと思います。
いわば「労働歌」なのです。各地に聞こえる「田植えの唄」がそれを代表しているといえるでしょう。
また、「海の民謡」「山の民謡」もあります。海の民謡としては「ソーラン節」「斎太郎節」
「ハンヤ節」「大漁節」などの船乗り唄、大漁唄が代表作でしょう。
山の民謡としては「津軽山唄」をはじめ、多くの民謡が歌い続けられています。
そして、民謡につきものなのが三味線です。
私が三味線をひきはじめたのは十三歳のときからで、もっとも自信をもっているのが津軽三味線です。

 

そもそも三味線はどこからきたのでしょうか。これに似た楽器がインドシナに伝わっていると聞きますから、東南アジアから島伝いに日本に渡ってきたと思われます。琉球の三味線がそれを物語っているといえるでしょう。
いずれにしても、日本列島を南から渡ってきた三味線は、ひとつは太平洋沿いに,
いまひとつは日本海沿いのコースをたどって北上したとみられます。
太平洋コースは洗練され、磨かれ、都会芸術のにない手になり、義太夫や浄瑠璃の貴重な脇役として、あるいは主役として脚光をあびることになります。
大名、殿様、豪商といった支配階級のバックアップで、都会芸術の三味線弾きはぜいたくな暮らしもでき、富と名声と栄誉も手中にしたのです。

 

一方、日本海コースは北陸から津軽に入り、津軽三味線として残ったと思う。これを北陸路から津軽まで伝えたのが「瞽女」たちでした。
ゴゼは三味線をひきながら門付けをしてお金をもらう盲目の女のことです。
津軽地方では「ゴゼ唄」あるいは、「コジキ節」ともいいますが、このゴゼが北陸路から越後を通り、津軽にまでたどりつき、ひとつの芸を確立したといえます。
お座敷芸ではない野太い、急速調なアドリブを入れた弾奏法を生んだのは、門付けのもたらした野外の芸といえるでしょう。
日本海の荒波の音に消されまい、冬の寒風に負けまいと、一軒一軒、門付けしてゴゼはうたい、弾いたと思います。
民謡の唄の部分を生かすも殺すも一にかかって三味線にあるのはご存知のとおりです。
この津軽三味線、一度聴いたら耳から離れません。
絶対に忘れられない鮮烈な印象を与えるのです。

 

私の弟分・寺内タケシ君は、私のコーチで津軽三味線の妙味に惹かれ、エレキギターで「津軽じょんがら節」を完成させました。
さらに、ゴゼの生きてきた姿に共鳴し、そのアルバム「寺内タケシ日本民謡大百科」の中で「民謡組曲・三人瞽女流れ唄」という傑作を生んでいます。
こういったように、津軽三味線というものは、日本人の心に、大きく深く浸透してきています。

 

私は、民謡を新民謡≠ニして、多くの人たちに広めると共に、野の芸術≠ニいわれた津軽三味線を世間の人々に紹介したいという強い願望を持ちつづけています。
これは自分にとって、神から与えられた使命でもあるーと。
その津軽三味線を東京の大劇場で披露したのは、多分、私が初めてでしょう。
以来、芸能人をはじめ数多くの人たちの間で、津軽三味線への関心は年ごとに強くなっているようです。
私はこれからも、歌謡曲と民謡と津軽三味線に生命を賭していくつもりです。

 

三十周年記念曲「越後絶唱」

 

歌手生活三十年ー。思えば長くも短い。これが実感です。
「もう三十年か」という感慨よりも、「まだ三十年だ、これからやるぞ」の気持ちのほうが強い。
欧米の一流歌手は、六十代、七十代でも元気はつらつとステージをつとめています。
私も負けられません。昔は「人生五十年」といわれていましたが。いまは「人生七十年」と平均寿命も伸びました。
だから論語にある「三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り…」というのは言葉を置き換えなくてはならないと思います。
「四十にして立ち、五十にして惑わず」です
惑わずに、ひたすら、自分の信じている道を歩き続けたいと思うのです。
また、その信念で歩み続けてきたことも事実です。
デビュー当時の昭和三十年代前半は、ロカビリー時代でした。
その狂乱怒涛の時代にも、私の歌は多くのファンの支持を得たのです。

 

四十年代前半は、エレキブームにのったGS(グループサウンズ)が一大旋風を巻き起こしました。
その時代にも、私の歌は多くの人たちに愛唱されました。
五十年代前半はデイスコ・サウンドの全盛期。
アイドル歌手が輩出し、ヤングは、黄色い声援をふりしぼりながらアイドルのあとを追い廻していました。
私はミッチーとして登場し、そのヤングたちからは、「話のわかる兄貴」として付き合いをもとめられ、私自身も、
ますますやる気を全身にみなぎらせたものです。

 

そして三十周年ー。キング・レコードの関係者の面々は記念曲の制作準備にはいりました。
赤間剛勝第一制作部長、満留紀弘第三制作部長、斎藤幸二チーフデイレクターは、再三再四ミーテングを重ねました。
57年早々のころでした。
作詞、作曲家に人選、テーマの選び方などについて、慎重な打ち合わせを繰り返したのです。
私もミーテングに加わりましたが、余計な注文は出しません。
いらぬ口出しが制作者のの意欲をそぎ、クリエ―テングな部分でけずりとるからです。
直接の担当者、斎藤チーフデイレクターは「三橋さんは民謡から出た流行歌手です。だから民謡の匂いも出したい。それに、身上とする津軽三味線もぜひいれたい。
こういうのです。歌謡曲歌手歌手、民謡歌手、そして津軽三味線の弾き手。この三つが私を形成しているといわれ、その通りだと思いました。
私の集大成、凝縮したものを30周年記念曲にしたいのだと感じました。

 

満留部長、赤間部長も同じ思いだったらしい。
斎藤チーフデレクターは、とくに、
「30周年記念盤は三味線をいかしたものにしたい」
と考えていたそうです。
そして作詞を横井弘先生に、作曲は桜田誠一さんと、鎌多俊与先生に白羽の矢をたてたのです。

 

数年前、私は「津軽三味線流れ節」という芝居に山田五十鈴先生の夫役で出演しました。
このときの芝居を斎藤チーフデイレクターは見てくれていたのです。
楽屋にみえたときに、
「じょんがらとひとりの女の生きざまを描いた芝居だけど見ごたえがあったでしょう。
終幕近く、舞台一面に真っ白に雪が降ってくる。
もう感激だよ。一歌手の私が天下の名女優、山田五十鈴さんと夫婦役で座っている。
なぜか、ジーンと胸が熱くなってね。
これは夢じゃないかとふりつずく雪の中で足をつねっちゃったよ」
こんな話をしたことがあります。

 

これを斎藤チーフデイレクターはおぼえていたらしい。
「だから、津軽三味線、ゴゼ、日本海という情況設定だと思いました。これは横井先生の同意も得ました」
とあとで打ち明けてくれました。
横井先生とは作品を通して多くの付き合いがあります。
「あゝ新撰組」「哀愁列車」「俺ら炭鉱夫」の作詞もして

 

鎌多俊与先生は、戦前は近江八郎といって、しられた歌手でした。戦後、作曲家にてんじられた方ですが、
寡黙の人。律儀で、温厚で、遠慮深いところがある方です。
なんといっても、そのメロデイが素晴らしい。「哀愁列車」「俺ら炭鉱夫」「別れ笛」といった私の歌を作曲していただいています。
いま少し目のご加減が悪いそうで、心配です。

 

桜田誠一さんは、私と同世代ということもあって仲がいいし、「美智也数え唄」、「ソーラン唄だより」「あの人は遠い人」といった歌を作曲してくれています。
しかも、桜田さんは津軽の出身。生まれついてから太棹が身に沁みついているのです。
この他にも、多くの先生方手をわずらわしたようです。

 

そして数曲ができあがりました。
最終候補に残ったのが「冬の花火」と「越後絶唱」です。
「冬の花火」は鎌多俊与先生、一方「越後絶唱」は桜田さんの手によるものです。
カンカンガクガクの討議の末、「越後絶唱」が記念曲に決定。レコーデイングは、57年3月、発売は「三十年をめざす年に…」というので同年十月五日。

 

「越後絶唱」のレコーデイング当日、私はすこぶるコンデイションが快調でした。
ノリまくってうたたくらいです。
これを吹き込み終わった瞬間、
「これがA面だ」
思わず口走り、スタッフが「アレッ」という目で私を見ました。
A面だとか、B面とかいったことは過去にありません。
すでに、このとき、「冬の花火」をA面用として吹き込み終わっていたのです。
「冬の花火」のレコーデイングの日は、恩師、山口俊郎先生がお亡くなりになり、お通夜の日でした。「越後絶唱」はキングレコードの方達もおおいにバックアップしてくれましたが、私も気合を入れて売る決意をしたのです。

 

瞽女が、門付けするのと同じ気持ちで、私はレコードの行商人の心構えでした。
私がもっているワゴン者の腹に「越後絶唱」の文字をデカデカと書き入れたのです。
いままで、ステージからファンのみなさまにレコードの購入を頼み込んだことはありませんでしたが、
「いま、私はこの30年記念盤に燃えています。ぜひ買ってください」
ステージの上から呼びかけました。
レコードをお買い上げいただいた方に、サイン色紙を差し上げるため 楽屋ではせっせと色紙にサインの筆を走らせたのです。
ことし(58年)をぜひとも、私の年にしたいという意気に燃えました。
ファンの方たちもわたしの意気込みを買ってくださいます。本当にありがたいことです。
「あうたびに三橋さんは若返るようだね」
こんな言葉を耳にします。
人間、燃えて、気合をいれると、活気がみなぎるものです。
やる気を出すと、からだの細胞の動きも活発になり、新陳代謝もよくなるそうですから、バリバリやらなければいけません。
私にとって、三十周年はひとつの節目です。その節目に自分のすべてを思いっきりぶつけてたという実感をえて、三十一年目につなげたいと思っています。その意味でことしはあたらしい出発の年だと考えています。
その出発にふさわしい新曲がキング・レコードのスタッフにより用意されたのは、去る八月でした。
なんと、ニューミージックの旗手。小椋佳さんが作詞、作曲したもので、タイトルは「十六夜だより」それと、星野哲郎先生の作詞、小椋さんの作曲による「匠(たくみ)」。おもいがけない新曲です。
演歌とニューミージックがどういうようにドッキングするか、興味深いものがありましたが、出来上がっってきた小椋さんの作品を手に取り、思わず「うーん」とうなったほどです。
三十一年目へ向うわつぃにふさわしい新曲で、新しい分野への挑戦を問いかけているようでした。
聞けば、小椋さんは幼いころから私のファンだったそうです。
私のヒット曲を愛唱し、「どうすれば、三橋美智也のような美声になれるのか」と放課後、黒板に向かって声をはりあげたり、下の歯を突き出してうたう私のクセをまねしたりしていたそうですから、奇妙なご縁といえるでしょう。
この新曲をふくめ、これからも歌謡曲と民謡を、私を支えてくれる多くのひとたちに感謝を込めて、うたいつづけていくのがあWたしの人生だという思いを新たにしています。
たち

 

民謡・三橋流を支える人たち

 

私が民謡・三橋流のお弟子さんを取るようになったのは昭和四十六年春ごろからです。
「民謡を習いたいので、弟子入りさせてください」
入門希望者はあとをたちません。
実のところ、弟子をとるというのは、あまり気がすすまなかったのです。
かつて、上京して東京園で働いているころ、民謡教室をつくり、弟子をとってのは、学校へ行くために学費かせぎで
やむを得ずでした。
けれど、歌謡曲歌手としてスタートしてからは、弟子をとる時間的は余裕はありませんでした。
ところが入門希望者はあとをたたない。 ついに弟子入りを許すことにしました。
名取の第一号は美智一(遠田竹夫さん)です。
名古屋に人ですが、大変熱心に通ってきました。
私の家の庭の草むしりをしたり、家事の手伝いをしたりしていて、芸に対しても熱心、努力家です。
いま名古屋だけで弟子の数は300人以上。謙虚な人で、民謡関係の人だけでなく、マスコミ関係の人からも評判がいい。
将来は三橋流を背負って立つくらいの力量の持ち主です。
三橋流という家の柱の一本でしょう。
名取りになったのは四十六年十二月二十五日です。

 

美智二(栗原勇さん)と美智三(伊藤徳喜さん)は共に四十八年五月二十八日に名取になりました。美智二は気象庁につとめています。
五十七に結婚しましたが、私が媒酌人をつとめました。
父親が太平洋戦争中、フィリッピンで戦死したということもあって、けい古に通ってくるうちに、私の事を父親と思って慕って来るのでした。
私の歌をそっくりにうたう。声質がよく似ています。

 

美智三は宮城県の出身。上京して川崎製鉄に勤めながら、私のところは通っていました。
声がよく、マナーもよくて、美智一と同期。知り合ったのは古く、東京園時代です。
美智三も熱心さでは負けません。支部(千葉)を毎年のように大きくしています。

 

美智若(井上亀男さん)は津山では知られている人です。剣道六段で、警察へ教えにいっているほどですから立派。
「安来節」が得意中の得意です。
津軽三味線にも熱心に取り組んでおり、お弟子さんも多い。
どういうわけか、ロータリークラブの会員の方が多く弟子入りしているのです。
きっと格調高く教えているのでしょう。

 

美智彦(松村克彦さん)は当たりのやわらかい人です。非常に経営手腕があり、三橋流発展のために尽くしています。京都、大阪、神戸、奈良など近畿地方にどんどん教室を広げており、ますます期待できます。

 

美智広(細川泰男さん)は、親子二代の三橋流の一門です。父親をガンで亡くし、その遺業を継いだわけで、まだ若いのに、温厚で熱心に勉強する、時折り、広島から上京して、私に教えを乞う。静かなファイの持ち主といえます。

 

美智英(進房雄さん)は国鉄に勤めています。大分の人で、非常にまじめ。美智一の紹介で入門しました。いま一生懸命、家族ぐるみで勉強しています。
三橋流の「奥様会」の母胎推進支部の素晴らしい責任者でもあります。

 

美智憲(倉本憲明さん)は宝輸運輸という大きな運送会社の社長です。所用で東京にきたとき、知人の紹介で逢いました。私が上京して以来の苦闘話をすると興奮し、感動し、泣いて「ほんとうに良い人とめぐりあえた」とよろこんで帰ってから数日して弟子入り希望で門下生になった人です。
倉敷に住んでいますが、あのあたりは「津軽じょんがら節」をやれる人がすくないので、これからおおいに期待しています。

 

美智賀(渡辺克賀さん)は東京生まれて、築地魚河岸の社長の息子さんです。三味線が巧みで、歌も高音部がすばらしくなり、熱心です。これからさらに芸の深さに挑戦していくでしょう。

 

美智郎(小野寺哲郎さん)も東京生まれ、魚河岸の役員をやっています。この人も熱心な取り組みようです。イキのいい魚が入荷すると、「家元にぜひ…」と細かい気配りもしてくれるハートのある人です。

 

美智信(水間義信さん)は所沢の人で、ピアノの調律師を二十八年ぐらいやっています。
だから音に対して敏感な耳をもっており、鍛え甲斐のある弟子です。支部をどんどん発展させようと熱心です。

 

美智寿(田沼サツ子)さんは三橋流で紅一点の存在です。秋田の人だけに民謡の造詣も深い。民謡一家で、声も素晴らしい。三味線もキッとしています。幼い時から習っていたというだけに本格派です。

 

美智清(江口是清さん)は宮崎県都城の人です。
建設省のお役人。都城に支部をつくって頑張っています。骨身を惜しまず、細かいところにも気がつく。芸に対してもひたむきです。大きくなる人だと確信しています。

 

歌謡界での名取は美智貴(細川たかし)と美智文(石川さゆり)がいます。
強引に名取になったのが美智昌(千昌夫)です。

 

棋士の内藤国雄さんには、六段の免許を与えました。実力があります。

 

日本船舶振興会の笹川良一会長は私の民謡が大好きとのことで、歌ひじり、歌聖という名前を私につけてくださいました。三橋流のよき理解者としてありがたく思っています。

 

三橋流の理事会である服部一秀さんについては、さきにふれましたが、陰になり、日向になり私をバックアップしてくれています。テキパキとした行動力を持つ方で、書の大家でもあります。

 

三橋流の顧問として流派の発展につとめてくれているのが今井保次さんと山元志信さんです。
今井さんはロータリークラブの会員であり、大変に顔≠フ広い方。巨人の王選手を私に紹介してくれたのも今井さんでした。
山元さんは九州の方で、四五期(シゴキ)会のメンバーです。私のチャリテイー・ゴルフの常連でもあります。

 

坂本昭沼弁護士も三橋流になくてはならない人です。公私にわたって面倒をみていただいており、頼り甲斐のある方です。
このほか、後援会の方がたのバックアップも私には心強い存在になっています。
デビュー以来、私を応援してくださっている方たちも少なくありません。
三十年来の後援ですから、家族の一員みたいな親近感もおぼえます。
東京では、竹内きよさん、黛正雄さんがいます。
山梨の秋山栄輝さん、京都の岩崎加代子さん、博多の中村みねさん、別府の片岡康子さん、北海道の鈴木栄文さん、関西で頑張る田中好子さん、そして川崎の小林きみさん…。
もちろん、この他にも大勢の後援会メンバーがいらっしゃいます。いちいち、名前をあげられないのが残念でなりません。
紙面の都合で割愛せざるを得ないご無礼をお許し下さい。
年に一度か二度の後援会の旅行のとき、私は感謝をこめてあいさつします。
「みなさんは、すべて私の家族同様です」
アカの他人の私のために、心身をすりへらずまでに奉仕してくださる。
私がデビューしてから三十年もの長い歳月です。なみたいていのことではありません。
親、兄弟にもできないような気の使い方でしょう。心からありがとう申し上げます。
こういった後援会の方たちがいるからこそ、現在の私があるのです。
旅行会のときにお世話になるのは、東京・目白にある「目白観光」のみなさん。
大変によくやってくださいます。私の親類同様な間柄といっていいでしょう。

 

男と女の愛の顛末…

 

正直いって、この章を書くのはためらいがありました。
けれど、私のたどってきた人生の道で、このくだりに触れないで通り過ぎては、私の生きざまを問われるでしょう。
深夜、原稿用紙に向かいながら、逡巡のくりかえし、出来ることなら、一気に次ぎの章に進みたいところです。
過去の古傷に触れるというよりは、えぐり出すという気持ちに襲われます。
私は禁煙してから久しいのですが、もしタバコを吸っていたら、スパスパと吸い続け、灰皿が吸殻でいっぱいになっているでしょう。それでも、まだペンは先に進まないでいるだろう。
だが、勇気を出して真実のこころをここに披歴しょうーと、大きく深呼吸しながら当時を回想すると共に、原稿用紙にペンを進め出した次第です。

 

昭和三十二年十一月十日、私の二十六回の誕生日に松本喜久子と結婚しました。
私は、芸能人の中によくみられる派手な家庭生活を望みません。
平凡な家庭を青写真を描いていたのです。
ステージにたったときは、歌手、三橋美智也でも、家に帰れば平凡な夫でいたかった。
私は生まれつき派手な生活には縁遠く、派手好みではありません。堅実で地味な生活にあこがれを抱いていました。

 

十代のおわりに、上京したのは、旅巡業の仲間たちの生活に嫌気がさし、高校へ行き、大学に進み、サラリーマンになるのが夢だったのですから…。
芸人とちがい、サラリーマンは堅気です、平凡な人生も送れると思いました。地味な考えをもっていたのです。
一日の勤めを終えが帰宅すれば、「妻が台所で魚を焼いている。その匂いにお腹がキューンと鳴る…そんな生活でいいのです。
「馬には乗ってみろ、人には添ってみろ」
という言葉があります。だが、一緒にひとつ屋根の下に住むようになると、思いがけない顔をみることもある。
赤の他人だったもの同士が夫婦という名で結ばれて生活していると、当然のようにとまどいも出てきます。

 

勝新太郎さんがあるとき、知り合いの親しい新聞記者から結婚三年目ぐらいに、
「結婚とはなんですか」こう質問されて、
「うーん、結婚とはあきらめだよ」
と語ったそうです。新婚早々はいい、バラ色の人生でしょう。けれどニ年、三年とたつうちには相手のアラもみえてくる。気に入らないこともある。
それを、夫婦はお互いに忍耐と努力で家庭を築いていかなければならないでしょう。
私には、その努力が足らなかったと思います。
男の身勝手もありました。結果は破局をむかえたのです。
「恋のない結婚のあることころには、結婚のない恋が生まれるだろう」
と、アメリカの政治家フランクリンはいっています。これは真実を衝いているでしょう。
四十一年に離婚しました。

 

そのあたりの私の心境は苦悩は、大変なものでしたが、私をよく知る人、当時、東京スポーツ新聞社の文化部次長だった本橋栄治さん(のち文化部長、現音楽評論家)の書かれた記事から抜粋させてもらいます。
「三橋美智也の離婚は人気歌手ゆえのスレ違い生活もわざわいしている。
妻との愛の冷却は三橋の責任である。だが、この夫婦の破局は、それぞれの生い立ち、家庭環境も違いもあるはずだ。三橋は逆境に生きてきた男である。妻・喜久子さんは大阪の料亭の娘。
お互いに理解の足りなさもあったとみられる。しかも三橋は無口な男であり、これもわざわいしたにちがいない。心の亀裂の埋まらないままに家庭生活が爆発した。苦悩と懊悩の狭間の彷徨は、ふたりを迷路に追い込んだようだ。だが、三橋は自分に正直に生きる道を選んだ。前途は多難だが…」

 

この記事は私の事をズバリ表現しています。
男と女には、宿命的なことがあるかもしれません。
相性というものもあるようです。肌があうということもいわれる。そして、出会いというか、めぐりあいです。
これは男同士にもいえることだと思う。ふと知り合って、それ以来、刎頸の友になることもあります。
その逆に、付き合っていても、突然去っていくものもいる。男と女の場合、愛がすべてを支配するとはかぎりません。
情熱と相互の信頼もあるでしょう。
私は昭和42年12月1男日午後十一時すぎ、東京世田谷・烏山の六所神社で荒木啓子と再婚の式典を挙げました。

 

媒酌人は作家・川内康範先生ご夫妻にお願いしました。同郷の先輩であり、川内先生の作詞による「わがこころ」をレコーデイングしていますので、私の気持ちをよく分かっていてくださっていたからです。
川内先生は、大変な硬骨漢であるとともに、人が困っているときにはあたたかい手を差し伸べてくれる助っ人です。私の再婚記者会見が行われたのは挙式の二日前、十二月八日の夕方でした。
川内先生はその記者会見に同席してくださり、ニラミをきかせてくれたのです。
なにしろ新聞、雑誌に大変顔≠ェある。
「余計なことをいうと承知しないぞ」
鋭い目であたりをへいげいされるので、チクりとくる質問も飛ばず、本当に助かりました。
記者会見のあと、本橋さんは川内先生に聞いたそうです。
「オヤジ、なぜ、昨夜、突然、媒酌人を引き受けたんですか?」

 

本橋さんがオヤジと呼ぶのにはわけがあります。川内先生のファミリーの一員だからでした。
「うん、結婚を急いだのは、三橋のおふくろさん、トシさん(当時81歳)の強い希望なんだな、子供の将来もあるし。
すべて年内にケリをつけ、新年からは新スタートだ。あまえたちも、三橋の再出発にあたたかいバックアップをしろよ」こういってくださったそうですから、ありがたいことです。
私は篤哉と著代、二人の子供の親として、責任重大なのだとつくづく感じました。
当時、悪口、中傷をいう人がいたのは事実です。その反面、励ましてくれた人も多かったのです。

 

「落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。」
という言葉があります。その経験もしました。
でも、これは、私に対する試練だと思いました。
人生は海路を行くようなものだと考えたのです。
のどかな航海日和もあれば、荒れ狂う怒涛にもみくちゃにされるときもあるはず。
雨、風、嵐に負けては人生航路は突き進んでいけません。
(いまに、私の生きざまを理解してもらえる。頑張ろう)
心に強くいいきかせて生きてきました。さいわいにも、私は周囲の人たちにめぐまれ、ここまでこられましたが、
これからも自分に正直に生きていきたいと思っています。

 

三十一年目へ向かっての私…

 

ことし(昭和58年)は「酒の苦さよ」でデビューしてから歌手生活三十周年の記念すべき年になりました。
記念曲の「越後絶唱」のプレスでキング・レコードの埼玉工場に行ったのは四月六日です。
関係者が拍手で、
「これが記念の一億枚プレスだ」
こうお祝いしてくれたときは心からうれしさがこみあげてきたものです。

 

これまでに発売した四百二十種のシングル、百九十種のLPの売り上げを計算すると、この記録に到達したわけで、日本人の歌手では私が初の快挙です。
(今日までこられたのは、なんといってもファンの方のおかげだ。一億枚ということは日本人がひとり一枚ずつ持っている計算になる。これからも頑張ろう)
心に固く誓ったものでした。

 

いまは激動の時代です。
特に歌手にとっては…。
いいかげんな気持ちではすぐにファンからソッポを向かれてしまいます。
ホンモノ志向の時代にきたといえるでしょう。実力を評価される。
耳の肥えたファンを満足させるためには、絶えず努力と精進が必要です。
三十年間、第一線にいたからといって、四十年をだれが保証してくれるでしょうか。本人の心がけ次第なのです。
ベテランだからといって、安穏な生活に落ちついてはいられないはずです。

 

私は三十年をひとつの区切り、節目にしましたが、これは自分自身に気合をいれ、ハッパをかける意味もあります。
(四十年、五十年とうたえる歌手にならなければダメだ)
自分自身にいいきかせています。
昭和59年は三十一年目の新人≠ニして頑張るつもりです。
老け込んではいけないと思います。バリバリとやらなければ…。
前にも書いたと思いますが、欧米の歌手の元気なこと、これは見習わなければいけません。
七十歳をすぎても現役、バリバリ、ノドに衰えもないのですからびっくりします。
スタミナ、パワー、エネルギー、どれをとっても、若い歌手にひけをとりません。
私もこの線でいくつもりです。たえず現役を考える。
ひたすら歌謡曲に取り組み、心にしみる歌をうたっていきたいと。

 

同時に、民謡のほうにも力を入れていきたいと思う。
民謡は日本の文化遺産なのですから…。
古い殻にとじ込まらずに、新しい民謡活動も展開していく。私の周囲には、この主張に賛同してくれる人が数多くいます。
これは本当にありがたいことです。
若い人の中に、民謡好きがドンドンあらわれることを願っています。
また新民謡の制作にも力を入れたいと思っています。
祖先から受け継いだ民謡を、現代の人の感覚にフィットさせ、アピールするように工夫しなければいけないのです。
そうしなければ、多くの価値ある民謡がどこかに消えていってしまうでしょう。
大正時代、作曲家の中山晋平先生が新民謡運動を提唱されました。
つまり新しい時代の要求に応じた民謡づくりです。

 

「三朝小唄」「十日町小唄」が中山先生の手で、「八戸小唄」、「稲揚げ唄」が後藤桃水さん手で生まれました。
「伊那節」は天下にひびいた民謡です。
?天竜下れば飛沫にぬれる…とうたわれますが、これは歌詞を変えてヒットしました。
これも時代の求めに応じて、伊那の飯田市で歌詞だけ懸賞募集したとき、第一位に入選したものです。
こういう努力を重ねなければいけないと思うのです。オーケストラでうたえる民謡をつくりたい。夢は際限なくひろがっていきます。

 

歌手としての活動のほかに、私は事業にも身を入れたいと思っています。
「歌手になるよりも実業家になりたかった」と私はことあるごとにいってきました。
実際、その気持ちは、私の心の奥底にいつもあったのです。
別に歌手稼業を低く見ているわけではありません。
「男なら事情に命を燃やしてみろ」こういう人生哲学も持っています。
人は二足のワラジ≠ニ笑うかもしれませんし、軽蔑もされることでしょう。
けれど、一度しかない男の人生です。周囲に迷惑さえかけなければ、自分の思ったことを行動に移すのは悪いことではないはずです。

 

昭和56年4月、自宅の敷地の一部に、ダイヤモンド店「三菱堂」をオープンしました。
ダイヤの美しさと、国際的な通貨性に魅せられたともいえます。
こんなことがありました。

 

昭和30年頃、浅草の国際劇場に出演した時です。
連日超満員。最高の観客動員記録を樹立しました。
そのとき当時のマネージャーが
「よくやたねえー。何か記念の品をあげなけりゃいけないね、これからも頑張ってもらいたいから…」
公演が終わって1週間ぐらいしたらダイヤの指輪をプレゼントしてくれたのです。

 

猫に小判≠ニいうか、そのときはさしてうれしく感じませんでした。
ところが、次の年に世界一周の旅に出た時、ニューヨークで現金が不足して、ニッチもサッチもいなかくなったのです。
(これは弱った。日本に帰れなくなってしまう。どうしようか)
ハタと思い当たったのです。指輪を売り払えばいい。現地のくらしい人に頼み込み、宝石店に足を運びました。
そうしたら、どうでしょう。当時のお金で25万円にもなったのです。いまのお金にしたら300万円ぐらいの価値です。
そこでダイヤの尊さを最確認し、それ以来ずっと頭にあったわけです。そしてついに開業の運びとなりました。

 

これを事業と言えば笑う方もいるでしょうか、何事によらず初めから経験もないのに手広くやることはないと思うのです。地についた事象、それは小さなものでもいいと思います。
一歩一歩、着実に成功させ、大きくしていけばいいわけでしょう。
やはり私は演歌歌手、ジックリ型なのかもしれません。

 

演歌は瞬発力がありません。
だから、アイドル歌手やポップス歌手のようにパッとレコードがうれるということはない。
だが、マラソンランナーですからジワリジワリと売れ、ゴールに入ったらそれかの歌手より演歌歌手の方がうりあげで勝っていたという例はザラです。

 

人生はマラソンのようなものだと思います。焦って突っ走れば心臓がバンクしてしまう。
事業だって同じでしょう。着実なペースが必要です。
それが軌道に乗り、信用もついたら、その商法を次に活用すればいい。
「株式会社・日本ダイヤモンドシンジケート」を57年3月に設立したのも、そんなレールに上に乗ってのことです。

 

これは日本で初めての、ダイヤモンドバンクともいえる会社です。
お客様にきわめて有利なシステムで、ダイヤの買戻し保証や、ダイヤを担保にした融資なども行っています。
このバンク、いまは多くの人に利用されつつあります。
ダイヤの光沢は、財産にもつながるものだし、不意の金策にも顔を曇らせることのない女神の輝き ≠ネのです。
最後に、31年目には演歌の新人も育てようとおもっています。いままで新人を育成しませんでしたが、ひとつ本腰をいれて、と考えているのです。

 

私の夢は際限なく広がるー男の本当に人生はこれからだーと。

 

 

美智也の演歌教室

 

歌好きの貴方へ

 

日本人総歌手時代ーなどといわれています。
若者はギターを弾きならし、シンガーソングライターをめざし、あるいはオーデイション番組に明日のアイドル歌手をめざして少女が群がる。
かとみれば大人はカラオケ・スナックで、さながら人気歌手になたつもちでマイクを握り、歌う。
近頃では、主婦たちの間でもカラオケ党が急増しています。
これは大変、結構なことです。歌うことは健康にもいいからです。

 

何よりもストレス解消につながる。
お腹の底から声を出すため、内臓にも好影響を与え、食欲不振も吹っ飛びます。
けれど、ただうたうだけではいけません。
新人歌手の登竜門をめざすためには、それだけの心構えとテクニックがいります。
カラオケで上達するにもコツがあります。
そこで、歌好きの貴方へ「美智也の歌謡特別講座」をー。

 

オーデイションに合格する法

 

◎ひらき直って度胸一番

 

プロ歌手をめざす人にとって、手っ取り早い道は、テレビ、ラジオのオーデイション番組に挑戦することです。
けれど、権威あるオーデイション番組は、大変に狭き門。尋常なことでは出場できません。
それだけに応募者もしかりした心がまえでチャレンジする必要があります。
数多くのオーデイション番組がある中で、日本テレビの「スター誕生」は新人歌手の登竜門としてよく知られていました。
この番組に応募し、出場できるならば、他のオーデイション番組に出場するのは容易だといわれたほどです。
それだけの激戦なので、実力、力量ともに優秀な人が出場してきます。
私はこの番組の審査員をつとめましたが、ここで見聞きしたことをオーデイション応募者、あるいは、オーデイション番組に関心のある父兄にアドバイスしたいと思います。
これから数多くのオーデイションに応募したいと思う若者には参考になるはずです。

 

御存知のように、この「スター誕生!」は昭和46年にスタートしました。
当初は世に埋もれた歌のうまい人を発掘したい、というタレントスカウト番組としてスタートしたのです。
そして多くの人気歌手がうまれました。

 

第一回のグランドチャンピオンの森昌子から桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美、新沼謙治、ピンク・レデイ、石野真子、柏原芳恵、小泉今日子、中森明菜といったように、時代の寵児が生まれています。
番組の登場するまでに、まず地区予選があります。
全国31曲ネットなので、ほぼ県単位で応募者が殺到する。
一回の予選の応募者は5百人ぐらい。その中から四、五人が合格する。

 

その地区予選のオーデイションの伴奏をするのは横森良造さん。
「スタートしてから、ことし(昭和58年7月)で約八万人の伴奏をつとめました。
午前10時から午後三時ごろまで、ツメがはがれることもありました。」
というぐらいハードな仕事なのです。

 

だいたい二分で三人ぐらいのわりで合否が決定するといいます。
審査基準は@歌がうまい、A歌の心を持った人、B容姿、C人に好かれる、これが基本です。
これはどのオーデイション番組でも同じだと思います。ただスター誕生の場合は、毎週勝ち抜いていかなければなりません。それだけに実力を重視されるのです。

 

さて、実践編…。
なんといっても、ああいう晴れの舞台へ出るとアガってしまうものです。
私でさえ、歌手生活を30年もやっていますが、アガるときがあります。
まして、年が若く、アマチュアならなおさらでしょう。
そういうときは、早く自分のうたう歌の世界にとけこむか、ひらき直って度胸一番でいくしかありません。

 

ウジウジしていては声も出なくなってしまいます。
そうなると歌の発音がハッキリしません。歌詞が伝わってこなくなる。
声量がなくても、歌に味があって、発音がきちっとしていらば、聴く人の胸をわけです。
私は、この発音を採点基準の第一番にしぼっていました。
日本語というのは、あまりゼスチャアをつけないでも、ひとつの言葉の中に深い意味が含まれているのです。
言葉を大切にしない歌いた方はまず落第です。

 

◎歌唱このコツ、鼻音はどうか

 

歌をうたう場合、特に大切なのは、私の持論としている呼吸法の「鼻音」です。
花から息を吸って、口から吐き出す。ごく普通の呼吸法でうたうのが自然なのです。
歌謡曲の場合、鼻から額に音を共鳴させてうたうのがよい方法です。
息を口から吸ってうたうと声がつづきません。
喉にツバがつまっても鼻音だと解消できます。

 

心臓もドキドキしません。
口から息を吸うと心臓がドキドキして、吐く息も少なくなってしまいます。
鼻から息を吸うと、横隔膜にかなり息が入ってきます。
そうなると、息はゆっくりと長くつづく。これは、「江差追分」の歌方が基本となっています。
あの長い歌を、一息でうたうには、この呼吸法でないとうたえません。
圧力が一定するので、音程もシャープになったり、フラットになったりしません。

 

剣道でも、柔道でも、口で息をしていたらスキが出る。ボクシングでも同じです。
打たれたり投げられたりします。
カメラマンもシャッターを押すときは鼻で息をしろ、といわれるそうですし、ゴルフのバットも同じ。
鼻で息を吸って、軽く止めて打つわけです。
早く自分の呼吸法を見つけ出し、うたうことを心がけるべきです。

 

◎マナーと服装は
ステージマナーにはずいぶん個人差があります。
リハーサルのときから、バックのミュージシャンたちに「よろしくお願いします」といった礼儀正しさ、けじめを持っている人はたいてい本番でも好印象を与えます。
マナーはプロ歌手への第一歩といえるでしょう。
本番のとき、愛嬌笑いをする人がいますが、これは意識してやると大変にソンです。
自分ではニコッと笑っているつもりでも、頬が突っ張ってあまりいい印象をあたえません。
ごく自然に、ゆっくりとセンターに行き、おじぎをするほうがいいのです。

 

そういうマナーを持っていれば、歌も落ち着いてうたえるものです。
それと、服装もあまりケバケバしいのは感心しません。
かといって、Gパンにゾウリばきというのもいただけないのはいうまでもありません。
やはり夢を売る商売をめざすのですから、このあたりはセンスも疑われます。

 

とにかく、ごく普通でいいのです。
特に清潔感が大事なポイントをいえるでしょう。
歌の出来ばえが五分五分のときは、全体の雰囲気とか、スタイル、プロポーションも採点の基準になります。
見た目の印象が大切なのですから、好感を持たれるということがまず先決。またあちらことちらと媚びを売る態度もよくありません。八方美人ではダメなのです。

 

◎選曲に気をつけよう

 

年齢が若いのにおとなっぽい歌を歌う人がいますが、これもソンです。
やはり、年齢に合った歌を歌うべきです。
自分のキャラクターに会った歌を歌うように心がけましょう。
この場合、自分の得意な歌だというので、よく、くずしてうたう人もあります。
この人たちは、たいてい、カラオケ慣れ≠オています。
カラオケで歌いこんでいるので、「自分はかなりものものだ」といった自信過剰がわざわいするのです。

 

それと、器用さ≠セけでうたう人、これも勝ち抜きの場合はボロが出てきます。
基礎となる発声法ができていないからですが、プロ歌手をめざすならば、歌謡学院で、きちんとした歌の勉強をしたほうがよいでしょう。
私も新人歌手のころは、キングの歌謡学院でコーリューブンゲンをみっちりと仕込まれました。

 

いくら声がよくて、テクニックがあっても、基礎ができていなければ、プロ歌手になっても長続きしませんし、
大成することもないでしょう。
基礎がしっかり身についていれば、それほどの選曲ミスはないはずです。少なくとも番組への出場ライセンスを得た人は…。

 

これは、むしろ予選の段階にみられる現象です。
たとえば、「自分の好きな歌」ということで、岩崎宏美の歌で挑戦してくる。
けれど、音質、音域の問題があったり、美しい声でもなく、張りもないといった具合です。
これでは、いくら自分の好きな歌でもうまくうたえません。
このあたりが選曲ミスにつながります。

 

オーデイションに出場して、勝ち抜きの場にでたときに選曲が勝利の分かれ目になるのです。
オーデイション番組の場合、その第一週は、「予選を勝ち抜いてきたので、そのごほうび」という意味もあり、
ご祝儀みたいに合格するのはほとんどです。
あまりひどいのは当然、落ちますが…。だから第二週目は第一週目よりやや出来がよければ合格のメドが立ちます。
それに、一周でたことで落ち着きも出るし、たいへんは大丈夫。本格的に力量が問われるのは第三週目からです。
ここに計算を働かせなければなりません。
「スター誕生ののような番組は録画ですから、二週分撮ります。第二週目に合格しても、日数をおかず、すぐに第三週目の撮影となる。
第四週から、すぐに第五週というケースもあるわけです。
だから、自分の得意な曲ばかりを先にうたってしまうと、勝ち抜いていくたびにだんだん戦いにくくなります。

 

選曲も、第三週、第五週、第七週の歌というものをガッチリ決めておくくらいの実力が欲しいのです。
これは絶対に必要な作戦でしょう。
第六週になると、第七週の優勝が目の前。プロダクションやレコード会社からノミネートされる。
そこで第七週の歌が前の週より下手だと、せっかくのチャンスもフイになったしまいます。
「スター誕生!」はプロ歌手への登竜門でしたからなおさらです。
これは他のオーデイション番組や、レコード会社、プロダクションのタレントスカウトに応募するときも参考になると思います。

 

◎ポップスと演歌のうたい方

 

歌のジャンルは大きく分けてポップスと演歌ですが、どちらの歌で応募、出場するのか、それぞれについてアドバイスしておきましょう。
ポップスの場合、メロデイが非常に簡単な感じのする歌が多いといえます。
ところが、こういう歌をうたいこなすには相当な歌唱力が要求されます。
声がよいだけではダメ。
詞をかみしめてうたわなければなりません。
かといって、長い人生を経てきた人の体験のような歌を若い人がうたってもシラけるだけです。
自分の年齢に合った歌でないと合格点はもらえません。

 

まだ人生経験も少ないのに「マイウエイ」のような歌をうあってもサマにならないということです。
仮に私が「マイ・ウエイ」をうたったとしてもそれほど抵抗感はないでしょう。
やはり若い人はは若い人なりの歌、それもリズムカルな歌で勝負するできでしょう。

 

それから、マイクの前にたったとき、バックのオーケストラの音の中で、何を聞いてうたっているかも歌唱の優劣を決定するポイントになります。これは大切なことだといえます。私はギターとかベースを基本にしていますが、ポップスの場合はドラムに気を付け、それをベースにするのがいいでしょう。
特に、テンポの早い歌をうたうときには、それが曲にノッていくコツになります。

 

演歌の場合は、流行している唄で挑戦してくるケースが多いといえますが、これは一面ではソンです。
審査員が耳慣れているわけですから…。それよりも、いい演歌はたくさんあるわけですから、
その中から自分にあった歌を選び、それを研究して挑戦した方がいいでしょう。

 

うたっているとき、特に注意してほしいのは発音ー。前述したように、私が採点する場合はこの点を重くみました。
具体的にいうろサ、シ、ス、セ、ソのサ行の発音がなっていない。
シの音が「シュ」に聞こえてきたり、「シイ」になったりする。
そのあたりがあいまいだと、歌詞の持つ余韻がつたわらないときもあるのです。また、ア行も同じようにハッキリと発音したいものです。
私も北海道のナマリが多少ありますが、これは日常しゃべっているときだけ。歌をうたうときはキチッととしてアクセントで発音します。
九州ナマリを持っていても大歌手になっている人は多いのです。そのナマリの欠陥を直そうと努力しているからです。

 

◎下手なテクニックは使うな。

 

かなり歌いこんでくると、ヘンな自信をもち、自分で自分の歌に酔う人もいます。
これは危険なことです。ポップス、演歌に限らず、挑戦者がうたう歌は、ヒットしている曲が多い。
だから、その歌を忠実にうたっていれば、それだけでいい得点につながるのです。
それを、自分でテクニック加えては、かえってマイナスになってしまいます。
大先輩の歌が横綱とすれば、挑戦者の歌は幕下のようなものです。
しょせん力量がちがうのです。

 

それぞれ歌にはセオリーがあります。
どの部分で語呂をまわすか、キチッとちてものがあるのですから、それを守り、しっかりした発音にメリハリをつけてうたえば、あとはメロデイが支えてくれます。

 

ポップスの場合は、あるていど振り≠熨蜷リです。うたいながらのアクションも歌の味付けになるでしょう。
が、演歌の場合は余計な振り≠ツけないほうがいいでしょう。
東海林太郎さん私も直立不動でうたっているでしょう。
自己流のバイブレーションのつけ過ぎにも注意しましょう。
「過ぎたるはおよばざるがごとし」という言葉があるとおり、変にバイブレーションをつけると歌自体がおかしくなります。
「ああやってみよう」、「こうやろう」と、歌をいじってはいけません。
既成のヒット曲は忠実にうたうことです。
自分で創ることはない。
それは新人歌手としてデビューし、自分の歌をもったときでよいのです。

 

情感の出し方も研究する必要があります。
少なくともプロをめざすのですから、審査員に歌の情感がつたわらなければなりません。
歌の舞台、背景、状況といったものが、その歌を聴いたとき、各人の脳裡に浮かんでくるぐらいのうたい方をしてもらいたいものです。
これは、歌詞の解釈が十二分にできているかどうかがポイントです。
詞の内容もろくにわからないでうたっているのなら、鼻歌を歌い、そのバックにハモンドオルガンの音が流れているーといったほうがよほど聴く人に不快感を与えないですむといえるでしょう。
少なくともプロの歌手をめざすならば、詞の情感を会得するまで、詞を何百回とよみ、暗記して、
「これは、どういう所の情景であるのか。その主人公の心理は…」
と深く理解しなければ、とうてい情景描写はできないし、うたっていてもその光景が浮かんできません。

 

「歌は三分間のドラマ」とよくいわれますが、聴いている人をそのドラマに引き込むには、情景がでてこなければならないのです。
それができてこそ、初めて、オーデイション番組への挑戦も可能となります。
ただ、歌がうまいというだけでは、プロへの道はけわしいといわざるをえません。

 

以上オーディション番組にチャレンジする、あるいは、これからチャレンジさせたいと願うむきへのアドバイスをいくつかあげてみました。
ワンポイントレッスンのようでしたが、これが、応募者の「イ、ロ・ハ」ともいうべきものです。
この基本を守っていけば、オーデイション番組への出場ライセンスはすぐ手元にくるはずです。
しっかりと勉強してください。
心から大願成就を祈っています。

 

カラオケの楽しい歌い方

 

すっかり、カラオケブームが定着したようです。
カラオケ・スナックでうたうのはごく常識になってきました。
カラオケ列車も走ります。
家庭で、一家団らんのカラオケ合戦も…。
職場のサークルでカラオケを楽しむグループもいます。
かとみれば、デパートの文化事業で、主婦向けのカラオケ教室もあるといったぐあいに、カラオケは日本人を聡歌手時代に仕立て上げているようです。

 

マイク片手にうたいまくることで、不況風を一時的に忘れ、ストレスもふきとばそうとする心理もあるのでしょう。
いま、日本全国の夜のネオン街でカラオケセットを常設している店が約八十万軒あるといわれています。
一般家庭で、その数はおよそ三千万世帯というのですからおどろきです。
またハワイの日系人の家庭でもかなりの数が普及しており、日本の歌謡曲がうたわれています。

 

以前だと、「人前で歌をうたうのは恥ずかしくて、苦手ですよ」といっていた人まで堂々とうたう姿をよくみかけるようになりました。
「日本人はこれほど歌が好きだったのか」
とある大学の社会心理学専攻の教授は、その深層分析に取り組み、大学の講義のテーマにするくらいの社会現象なのです。

 

宴席で、盃のやりとりはなくなり、
「お近づきのしるしに、カラオケで一曲ノドを披露します」
こんな会話もきかれるほどの浸透ぶり。そのうち、宴席では、
「歌の歌えない人は、酒をのむな」
ということにもなりかねません。これでは大変です。
人間関係にヒビが入るようになる。
上司と部下との間がまずくなったり商売上大事なお得意様を失ったりする事態が起こらないともかぎりません。

 

サラリーマン、商店関係者、工場で働く人、漁場の人、農業に従事する人、それぞれ職種に関係なくカラオケに取り組むことでっす。日常のしごとに差し支えるようになったら、これは大変なことです。

 

それから「たかがカラオケ」とか「どうも歌が苦手で」等と逃げ腰になってはいけません。
うたをうたうのが苦痛になっては、精神衛生上もよくないはずです。
うたいましょう!明るく楽しく!
そこで私のカラオケを楽しくうたう秘訣を伝授しましょう。

 

初心者の心得

 

@恥ずかしがるな、テレないで…

 

カラオケ・スナックなどへいって、指名されたらモジモジしてはいけません。
さっさと立って、度胸をきめてうたうこと。
一回うたえば、もうそれで責任のがれみたいなものです。
テレたりは恥ずかしがっていると、座もシラけます。
ホステス嬢がいれば応援を頼めばいい。
「東京ナイトクラブ」「銀座の恋の物語」はデユエット向きだから、歌い易いものです。

 

A自分の声を知る

 

初めのうちは、覚えている唄を歌ってその場のお茶をにごすのが、そのうち「俺だって」の気持ちになるはず。
そのとき、自分の声がどういうタイプの歌手に似ているか、友人に判断してもらうといい。
そのとき、自宅にラジカセがある家が多いので、自分の声を録音して、声質の似ている歌手を探し、自分のレパートリーにつるのも初心者にはいい手段です。

 

B音痴はいないと想え

 

「自分は音痴だから…」と断る人がいます。これはテレか、歌になじんでいない人でしょう。しかし、先天的に音痴の人は少ないのです。歌の訓練に熱心ならば、音痴恐怖症から解放されます。
歌をよいうぼえていないから音程がはずれ、調子はずれの状態になるわけで、心配はいりません。
プロ歌手の中にも「これでも歌手か」という人気アイドルがいるではありませんか。

 

C店の大きさにあわせよう。

 

小さなスナックなのに大声を張り上げてうたうひとがいますが、これは騒音、雑音のたぐいで、カラオケ公害の元凶です。
ハタ迷惑なことおびただしい。酒もまずくなります。店の大小に合わせ、酒のツマミになるような歌声でうたいたいものです。
BGM(バックミュージック)ふうにうたえたら、酒席も盛り上がるし、ノミに来ているお客様にも迷惑がかからないですみます。
あまりおおきな声でうたうのはエチケット違反と言えるでしょう。

 

Dマイクの使い方

 

アマチュアの場合は、スタンドマイクが一番いいといえます。マイクを持った手を自分の口に近づけたり、遠くへやたりするとき声が高くなったりひくくなったりして発音がハッキリと聞こえなくなるからです。
ハンドマイクは慣れてきてから使いたいものです。
アマチュアにはハンドマイクが「俺もプロになった」という一種の錯覚を与え、快感につながるのでしょう。
ただ、いまのマイクは性能もいいので、あまり口元に近づけなくてもいいでしょう。
病原菌がマイクに着いている場合もあります。
カゼをひいている人がうたったあとだと、感染するおそれがあります。
マイクには相当ツバがかかっているので、ご用心、ご用心…。

 

E変に気取るな

 

自分の歌っている声が判断できないようなことがあったら、うたわないほうがいいでしょう。
うたっている声が、自分で判断できないようなことがあったら、歌わない方がいいでしょう。
うたっている声が、自分で納得のいく大きさがいいのです。
自分の耳で、自分の歌を確実につかんでいないと、心地よくきこえません。
ヘンなポーズをとり、気取って歌立っていながらハタ迷惑な大声には注意しましょう。

 

F聴かせようとするな

 

へたなひとになかぎって、自分を注目させようとガナリたてますが。これは逆効果です。
プロでもそうですが。、「俺の歌を聴け!」という態度はいけせん。
「ボクの歌を、よかったら聞いてください。下手ですが精いっぱい歌います」という謙虚な気持ちの方が歌ごころが伝わるものです。

 

Gレパートリーは何曲か。

 

自分の持ち歌は5曲あった方がいいでしょう。
年齢差によってちがうでしょうが軍歌、演歌、抒情歌、青春歌謡、ポップス、そして民謡とあれば5曲はレパートリーを持てますし、自分でうたおうと思った歌を他人に歌われる場合もあります。
あるいは上司のレパートリーとぶつかるケースだってあるかもしれません。
上司の得意曲をうたって、翌日から人間関係がモヤモヤしてはつまりません。

 

H調子笛を持とう

 

自分のキーをしっておくのも手です。自分の高音部はそのあたりかを知っていると、ピアノやギターの弾き語りのいるところでは有利です。そのためにも「調子笛」を持ってあるくことをおすすめします。
たとえばドレミの「ミ」の音をプーとだしてその音にあわせてもらう。デパートの楽器売り場で3000円ほどでうっていますから手ごろです。意外な助っ人≠ノなってくれるでしょう。しかもカッコいいものです。

 

I選曲に気を付けよう

 

これが初心者には大切なこと。「好きな歌」と「歌い易い曲」はちがいます。
いくら「わたしのファンだから」といっても、高音の張った「星屑の町」や「古城」は低音や音域の狭い人にはうたえません。
自分の音域に会った歌をうたうほうが賢明です。

 

J女性ファンの心得

 

あまり外に出る機会のない奥さん方の場合、旦那さんと一緒にうたうのは夫婦円満のひけつになります。
歌は健康にいいのですから。ただ自分の声がどんな歌にむいているか早く研究することです。
とくに、女性が男性の歌を歌う場合、裏声になってしまうことが多いので気を付けましょう。
会社の仲間たちといった場合、指名されたら恥ずかしがらずにうたいましょう.
同業者に助けをもとめ、デユエットするものいいでしょう。

 

K マイクを独占するな

 

酔ってうたっていると、マイクをにぎったきりで放さない人がいます。こういうのはマナーに反しています。一人ひとりにうたうチャンスを与えないとケンカになるときもありますし、へたな独唱会は大迷惑です。

 

L姿勢よくうたおう

 

マイクを持ったら姿勢正しくうたいましょう。
背筋をピンと伸ばし、アゴをあまりあげないこと。
つまりヘッドアップしないことです。
アゴを上げると、声がつまります。自分の目の位置で上にむいているかどうかを、判断するとよいでしょう。
背筋を伸ばす事で腰も安定します。

 

M腰でうたえ、

 

姿勢をよくすることは腰もすわっている証拠です。野球のバッテイング・ゴルフのスイングに共通しますが、歌も腰がしっかりしていなければ、ダメなのです。演歌を歌う場合、腹筋にも関係してきます。腹から声を出すことが必要です。口先だけの声では上達しません。

 

上級者をめざす人へ

 

他人より、もう一段上昇するためには、再三いっているように、歌詞をハッキリうたうことです。歌詞を口の中に飲み込んではいけません。
不明瞭な歌詞ではメリハリもつなかい。歌詞の内容も伝わらなくなります。歌はリズムをとり、メロデイを正確にうたわなければいけないし、歌詞を理解してうたえば、それだけ説得力も出てくるはずです。
リズムが狂い、メロデイをはずすような歌唱ではサマになりません。

 

歌には「おとこ歌」と「おんな歌」があります。
男が主人公の「おとこ歌」は男のやさしさ、男らしさ、思いやりを込めてうたうとよい。素早く、その歌の主人公になることです。
「おんな歌」には、女の執念、哀しさ、よろこびがこめられています。
その情感をだせばいいでしょう。

 

いずれにせよ、その主人公を演じることで情景描写にも余裕がでてきます。
うたっているうちに、聴く人が、胸に、情景を浮かべる雰囲気にもっていければ、あなたはまちがいなく上級者です。
歌詞を理解し、時にはムーデイにときには甘く、切なく歌えば聴く人の耳にしむじみとした余韻も残ります。

 

そして次の事をわすれないように…。

 

「セリフはうたうように、歌は語るように」
これが秘訣です。

 

この意味が理解出来たら、あなたは完全にカラオケの上級者です
さあ実戦でがんばって下さい

 

美智也のヒット曲ワンポイント教室

 

私のヒット曲もカラオケでよくうたわれています。
そこで、私の代表曲について、うたうコツのワンポイント・レッスンをしましょう。
かならず、貴方の実力が、もう一段上がるはずです。

 

おんな船頭唄
いきなり うれし…と高くなり、がらせて…でサビの部分に入り、出だしみたいに戻ってくる。
ここのところが勝負の歌です。
だから体調のいいときでないと難しいかもしれません。
また 泣かせて消えた 憎いあの夜の…の部分は、特にアとイの発音に気を付けてください。
そしてリキまずにうたうこと。
?鳴るなうつとな…の「ろ」はスラー(その音のままのばす)がかかっています。
これを忘れないように。
この歌のヒットの要因はこれなのですから…。さわやなかバイブレーションも必要とします。

 

リンゴ村から

 

これは淡々と歌って下さい。
見るたび辛いよ…の「見るたび」がいっぺんに極まっていくので、ここでグンと上げ、声をひっくりかえさないように注意して下さい。
あとは俺らのな 俺らの胸に…の語呂をきちっとまわして、うたいじまいの?胸に…の「に」をピシッときめること。
「ニィー」というように語尾をにごらせてはいけません。

 

哀愁列車

 

これは私自身でも難しい歌。
音が上にあがったり下がったり、いまにも脱線しそうになります。
それに惑わされると歌えなくなってしまいます。
メロデイに忠実に、こわさずにうたっていくと明るく楽しくなります。
最後の?哀愁列車…これが一番難しいことところです。
「シャーッ」とあまりぶつけて終わらないこと。
聴く人がびくりして飛び上がってしまうでしょう。
急停車せず、余裕をもって…。

 

母恋吹雪

 

これはローカルカラーが充分に滲み通ったうたですから、りきまず淡々と歌うといいでしょう。
お父さんは呑んだ くれ、雪のチラチラ降っている中を酒を買いにいかなければならない。
こんなとき死んだ母親が恋しくなる…といった情景を想像してうたってほしいと思います。
僕らばかりに…というところの語呂が非常にむずかしいので、ここに練習のポイントを置き、
「に」にはいってくるといいでしょう。

 

一本刀土俵入り

 

芝居で有名な演し物からの歌です。
日本調の歌なので、特に主人公になた気持ちで歌って下さい。駒形茂兵衛が主人公です。
横綱を夢見た相撲取りが、やくざに身を落とし、利根川の土手を旅して行く姿を頭の中に思い浮かべてうたうといいでしょう。
人の情を…がくりかえされますが、二番目の人の情けを…は低音にはいりますから、その低音の響かせ方を勉強してください。

 

古城

 

これは名曲ですから、淡々と、メロデイどおりに丁寧に歌ってください。この歌は歌曲、クラッシックな味が充分ともなっていますから、節のわわらない方でも、うたいこなせます。
民謡調の語呂回しはいりません。
あゝ 仰げば侘びし 天守閣…の「あゝ」の部分は息切れしないように息を十二分に蓄えて余裕をもってうたい
天守閣へのぼってください。

 

 

あゝ大阪城

 

これは「古城」と違い、語呂回しがはいっています。それをいかした歌い方がいいでしょう。
おしまいの ああ風悲し… ああ断腸の…の部分は悔しい中に悲壮感を出してください
秀吉が大阪落城の無念さを覆うのと同じ気持ちになればなおいいでしょう。
悔しさは、会社で部長や課長におこられたときを思い出すといい。
これは、あまり上がったり、下ったりのない歌ですから、格調をもって…。

 

 

達者でナ

 

これは牧歌的な歌。全体にゆったりと歌って下さい。
リズムが軽快だから、これにノッて歌うといいでしょう。
牧場で手塩にかけて育てた馬がセリ市にかけられ、売られていく。
もう帰って来ないのじゃないか、といったやるせない気持ちをこめて オーラ オーラと言葉なしで歌う部分に注意して下さい。
 離す手綱が ふるえ ふるえるぜ…の部分は、自分の声まであまりふるわせないこと。

 

 

 

星屑の町

 

これはリズムにのって本当に両手をまわしながらうたう感じがいいでしょう。
ただ、この唱法は多少、いままでの私の歌とはちがいます。
「両手をわまして…の「両手」から「を」の部分はバイブレーションが意識的に大きくなっています。
いわゆるゆすり=i浪曲から出た表現法。全身で高揚させて歌う)を意識してください。
そうするとスケールの大きい歌に聴こえます。
あとは軽快にうたうことです。

 

越後絶唱(歌手生活三十周年記念盤)
メロデイは簡単です。けれど簡単なだけにうたいこんでいかないといけません。
歌詞を十二分にかみしめてください。
越後の瞽女さんがどんな苦労をしたか想像するといいでしょう。
雪きの中を竹杖ついて、一軒一軒まわり、門付けしている情景をとらえればしめたものです。
そして、「越後海鳴り流れ節よ…の部分で歌いあげてほしい、情感込めて、しみじみうたえれば文句なしです。

 

 

 

原稿を書き終えて

 

ことしは歌手生活三十年を迎えて年初めから体調も好調でした。
一月十日、東京・新宿厚生年金会館大ホールでのリサイタルを皮切りに、全国二十五か所の公演に取り組んでいる最中です。このリサイタルにはベスト・コンデイションで取り組んでおり、自分でも納得のいくステージを展開しています。
さて,ことしの春、「我が交遊、わが歌手生活三十年…といった内容で、本を出版してみたらどうでしょう?」という話が持ち込まれました。
歌をうたうのは三十年やってきています。いや民謡をうたいはじめてからだと四十五年以上です。
けれど、物を書くというのは慣れていません。
当初は、いささかとまどいました。
けれど<自分の本当の姿を多くの人に知ってもらいたい>という気になってきたのです。

 

キング・レコードからデビューしてからの三十年は(長くもあり短くもあり)といった感慨です。
いろいろなことがありました。
それだけに、いざ書く段階になると大変な騒ぎです。

 

古いスクラップブックに貼ってある新聞記事や、公演資料を引っ張り出しての執筆でした。
書き始めたのは六月の末、猛暑の中で汗だくの悪戦苦闘です。
仕事終えて帰宅したあとの執筆、それも深夜におよぶことがしばしばでした。
文章に不慣れなために、一部では敬称を略させていただきました。
いい足りないこと、表現不足の個所も多々あります。あしからずお許し願いたいとおもいます。

 

また一部には記憶違いもあるかとおもいます。ご一読のあと、ご指摘下されば幸いです。

 

あの方も、この方もと思いながら、ついつい、締め切りに追われ、失念し、ご登場いただけなかった方もいるとおもうのです。
これも大変に申し訳なかったと、深くお詫びいたすこところであります。

 

この本の執筆については、多くの方のご協力ををいただきました。
キング・レコードの赤間剛勝さん、満留紀弘さん、斎藤幸二さん、石栗俊彦さんたちには、何かとお世話になり感謝しています。
それに、親しい間柄にある音楽評論家の本橋栄治さんには資料を提供していただきました。
編集にあたっては、翼書院の芹川光宏さん、小泉明さんにお世話になりました。
また、当事務所の黒田哲治君、坂本三次君、島田秋男君、浪間章君、吉田聡君らの激励にも助けられました。
この本の出版をひとつの節目として、一生懸命、人生を歩んでいく努力をしてまいりたいと思います。

 

私は「民謡は一粒の米」というのを座右銘として、心の支えにしています。
この本を読んでいただき、私の民謡に対しての姿、歌に対する生き方がどこにあるかをわかっていただければ大変に幸せでございます。
昭和五十八年九月、そろそろ秋の気配…。