三橋美智也とともに25年 矢野亮 1978年昭和53年

三橋美智也とともに25年 キングレコード専属作曲家 矢野亮

 

 三橋美智也が歌手生活25年を迎えた。彼が「酒の苦さよ」でデビューしたのが昭和29年だったが、当時キングレコードの吹き込み所は、音羽の山といわれた講談社の裏山にあり、村役場みたいな古めかしい日本家屋だった。ゴチャゴチャしていて腰を下している場所もなく、行儀の悪いわれわれは机の角になんか平気で腰を掛けたものだ。
ある日事務所へ入って行くと、小柄な若者が学生服の上に、たぶんジャンパーをひっかけていたと思う。ちょこなんとテーブルの上に腰を掛けていた。そこへ既に大スターだった林伊佐緒が入って来て、例のごとく片手を挙げて「オース」と挨拶した。ところがそれにつられたように、その若者も片手を挙げて「オース」といったものだ。さすがの林も予期せぬ応答にびっくりして、私のところに来て、「矢野さん、あの男は何者ですかね」というわけだ。
 早速デイレクターの掛川尚雄に紹介されたが、何とその若者が25年前の三橋美智也だったのだ。
明治大学だということだった。林伊佐緒も明大である。「イヤー大変な後輩がやってきたぞ」なんて話し合って、最初から変な親しみを持ったものである。
 例の「おんな船頭唄」が発売されて間もない頃、彼と一緒に興業で東北地方に行ったことがあった。たぶん八戸だったか、会場は町のはずれの小学校の講堂で、お客は前の方にパラパラと10数名がいるばかりの、がらんとした後ろの方では子供たちが鬼ごっごをやっている有様だった。彼は自分で三味線を弾きながら「相馬盆唄」をうたったのだが、いや全くすばらしいものだった。私は彼のすぐそばのステージの上にいたのだが、あまりの美声にじーんとしびれるようで、お客の分まで夢中で拍手を送ったものである。
 帰りの汽車の中で、すぐ前の座席にいた彼が「先生、私に詩を書いてください。先生の歌を歌ってみたいです」「いいでしょう、早速かいてあげますよ、しっかりがんばってください」てなことで、昭和30年、渡久地政信作曲で「島の船唄」が私と彼との第一作となった。
 私と三橋美智也との交際もあのころから25年たったことになる。その間ずいぶんたくさんの歌を彼のために書いてきたし、彼もまた私の期待に応えて数多くのヒットを送りだしてくれたものである。
 作詞家という変な稼業の者には、勿論直接のパートナーである作曲家に恵まれることは大事なことであるが、その上に出来上がった歌を歌ってくれる素材、つまり歌手にめぐまれたということはさらに重大なことである。
 三橋美智也はその意味で、私にとって大変な宝で逢ったということがいえると思う。
 彼が民謡一家に生まれ、天稟の素質を持っており、しかも民謡の宝庫である東北地方で血のにじむような修業をつんでそれに磨きをかけたことはご存じの通りである。
そして、その結果完成された彼の民謡はいわゆるティピカ・スタイルの民謡から脱却して、非常にやわらなかふくらみと艶を持っている。そのため単なる一地方の民謡歌手としではなく、日本民謡全体を表現できるスケールの大きさを勝ち得ることができた。さらに大衆歌謡を組み合わさった民謡調歌謡や民謡調演歌を歌い得たところに25年の長い年月を費やし第一線の歌手として生き続けてきた大きな原因があるのだと思う
 私が三橋美智也と出会った時、彼は民謡歌手として既に一家をなしていた。その後歌謡歌手として別の声と歌を加えていった。その二つのものは相一致するものもあったが、ある場合相反するものものがあった筈である。彼はそれに次から次へと挑戦して自分の可能性を広げて行った。彼の25年の作品をふりかえるとき、今日の彼、三橋美智也がそんなに簡単にできあがったのではないことに気づき、今さらのように頭の下がる思いがする。
「リンゴ村から」でお得意の高音を逃げて見せたり、「お花ちゃん」で二枚目から三枚目を演じさせたり、「夕焼けとんび」で動画歌謡などという不思議な分野を開拓させたり、「母恋吹雪」でドラマチックな完全演歌を要求したり、「ギター鴎」で流しギターを演じさせたり等々、拾い上げればあれもこれも、私の作品は皮肉な意地の悪い作品ばかりだった気がする。しかもそれをどれもすばらしい歌として大ヒットさせ、その一つ一つをステップとして、さらにおおきく高く伸びたって行った彼に対し、私は25周年をむかえた今、お祝いとして大きな感謝と感嘆とを送りたいと思う
 しかし三橋美智也はまだ現業第一線の歌手である。願わくばこの歌手生活25周年記念も、より高く、より大きくなる一つの飛躍への段階であってほしいものだと思っている。