三橋美智也の世界日本的なあまりに日本的な 小倉友昭

昨年、1977年のことである。久方ぶりに会った三橋美智也は、よく飲みよく語り、そしてよく食べた。
「最近、非常によく声が出るんです。高いところは勿論、低いところまでよく響いて、デビュー時代とほどんと同じように疲れもまったく感じないんです。」
その夜、同席していた著名なジャーナリストYさんが、途中から帰宅した三橋と同行して、三橋の私宅で夜を徹して飲み、民謡、軍歌などを放吟して、これも同行したデレクターの0さんと夜明けに帰ったという話があったほどだから、三橋の健康および声などは、確かに若いころと同じ状態にあったのだろう。ところが、旬日を出ないうちに、キングレコードの責任者の一人Mさんから、三橋が入院した、という報せを聞いた。糖尿の疑いがある、ということだった。
「声がよく出て、どんな歌でも軽々と歌える」と言い放った三橋と、入院を必要とするほどの症状となったという三橋とどちらが本当なのだろうと、考えてしまったものだった。
 年があけた。三橋が、民謡コンサートのツアーで北海道から青森、秋田と雪深い北国を巡って、その合間に、民謡の原点を取材するスケジュールが決まった。もし事情がゆるすなら同行しないかという申し出があって、三橋のツアーの終着点である青森で合流することになった。
 三橋は深夜、秋田地方から青森へ、車で入ってきた、
約一年ぶりにあった彼は入院騒ぎが嘘のように元気だった。体が締まって精力的な風貌に見えた。
同行のジャーナリストのSさんやYさんが「元気そうだね」といった通りに、一年前以上に逞しくみえたものだった。
翌日は吹雪の中を車を馳って雪深い里に民謡の原点を探った。
老婆に話しかけ、歌わせ、テープにとるという作業を、彼は丹念にやっていた。ハードなスケジュールにいささかも疲れを見せないで、積極的に取材対象の中に入っていった。当然のことながら、取材される老婆たちは彼に色紙を依頼し、サインをせがんだ。ある時は20枚以上の色紙に彼は何の苦もなくサインしていた。
 彼は三橋美智也と書き、ヒット歌謡のタイトルをサインした。「哀愁列車」であり「おんな船頭唄」であり、「センチメンタル・トーキョー」であった。
自ら三橋流を創始し、しかも、原点まで取材を重ねた民謡のタイトルは一切筆にしなかった。老婆たちは、そんな色紙を丹念にみつめ、サインされたタイトルに深くうなずいていた。
 民謡の原点を探しに行き、民謡の中で育って来た人々が、三橋から欲していたものは、「おんな船頭唄」であり、「哀愁列車」であったというのは、大衆が、彼に何を望んでいるかをはっきりわからせたものだったろう。
同行のSさんのYさんも、三橋の書いた色紙を老婆たちが嬉々として受け取るのをみて「ヒット曲は強いな。怖いな」と異口同音にいったものだ。
歌手にとって、「たとえ民謡派であろうとポップス派であろうと、大衆との接点という観点からはヒット曲がすべてである、といってもさしつかえあるまい。
とすると、いかに大きなヒット曲をもちうるかが、大衆歌謡歌手の存在価値ではないか、という言い方が成立するいいかえると」、大ヒットを歌うか否かが大衆歌謡歌手の価値を左右する、というわけである。

 

 ここで改めて三橋美智也という歌手を考えてみよう。そして、彼の世界に思いを馳せてみよう。
彼が歌手としての価値を最も強く認識させたのは「おんな船頭唄」だった。発売後、約半年たってからヒットした。しかもこの曲はB面に付いていた。発売後半年の経過といい、B面のいわば付加物といった程度の扱いだったことといい、彼のこの曲でのヒットを予想した関係者は多く居なかった筈である。それが大ヒットになったというのは、結局は大衆が彼の価値を認めた、ということに他ならない。さらにいえば、大衆が当時の主流であった歌以上に、この曲の価値を知っていた、といえる。いいかえると彼、三橋美智也は、まぎれもなく大衆がつくりあげたスター歌手であった、ということである。
 多くのヒット曲が、何らかの形で、たとえば強い宣伝力を背景に作られる中で、彼のこの歌は全く何の作為もなく、ヒット曲に成長していったのである。かれの生成の歴史は、だから大衆によって育てられたものといっても過言ではあるまい。
これは稀有なことである。歌手としての代わりようを考える場合に、もっとも重要なことは大衆が彼を支え、彼の歌を支持してきた、ということだ。他の多くの歌手が作為的な作られ方で、兎に角スター歌手として成長していくのに対して、彼は全く何の作為もなしに、スター歌手になっていった。いわば彼の歌の資質によってのみ、かれは価値づけられて、というわけである。本来人気歌手がそうでなくてはならない過程を彼は踏んだ、というわけである。これほど強い力はある筈がない。
 これは雪深い東北で、民謡の原点を訪ね歩いた先で、目の不自由な老婆たちが懸命に彼の歌に対して様々感想を述べていたいた際にも痛感したものだったが、大衆にとって、彼の声は必要だったのである。恐らく戦後の歌謡界、否、戦前の歌謡界もふくめて、このような形で受容された歌手はそう多くない。
 彼の声に人生を感じ、生活の匂いをかぎ取ったから、彼の声を欲したのである。単なるエンターテイメントとしての声ではない何かが彼の声にあった、といっても言い過ぎではないだろう。大衆にとって、彼の声、そして歌は、生活の中で必要であったといってもいい。三橋美智也の世界は、宝はただエンターテイメントそしての大衆が欲していたものだけではないものを持っている世界なのである。
 いま、彼の世界を子細に聴くと、彼の歌がどんな形で大衆と接していたかが、よくわかる。ただのエンターテイメントとして聞き流すには、この世界はあまりに哀しすぎるし、あまりにも素朴すぎる。しかもそれらの情は、あまりにも日本的であり過ぎる。三橋美智也がある時期民謡に没入していった理由も、この中に痛いほど感じないわけにはいかない。
 彼にとって、歌は、日本人の心を歌わなければならなかったのだろう。全てが、日本に帰一するものでなければ納得できなかったのだろう。感情も、生活も、そして生き方まで日本でなければ虚しかったtに違いない。
 彼の声が北国でつくられ、彼の演奏技法(三味線)が雪深い中で育てられた帰結が、結局は、彼に日本的なものへの回帰を命じたのではなかったか。
 「声がでるようになった」「健康になった」という言葉の一つ一つは日本的なものの飽くなき表現への希求にうながされてのものだろう。
日本的な、あまりにも日本的な歌手が、この全集の中で、日本への愛着を訴えている。

 

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