ガンバレ!三橋!フレー!フレー!美智也ー(平凡編集長) 斎藤茂

ガンバレ!三橋、フレフレ! 美智也 (平凡編集局)斎藤茂

 

 戦後、岡晴夫ブームから始まったキングレコードの男性歌手路線は、林伊佐緒、小畑実、津村謙、若原一郎、春日八郎を経、29年の三橋美智也のデビューによって完璧な黄金時代を現出しました。これを駅伝マラソンチームにたとえるなら、三橋美智也はまさにそのアンカーといったところでしょう。
 当時、トップ・スターの岡晴夫、畑実がすでに他社に移っていたとはいえ、春日の「お富さん」の大ヒットの最中でもあり、他の先輩歌手がそれぞれの守備範囲をガッチリとおさえていた状況の中で、新人・三橋美智也の売り出しがどんなに至難の業であったか、たとえば、いまの芸能界の事業のあてはめて考えてれば、容易に判ると思います。
しかも、アンカー三橋の出発点ともなった「おんな船頭唄」は照菊のレコードのB面だったのです。ということは会社が売りたかったのは照菊の歌であり、三橋のうたはそのオマケだったわけです。そのオマケがジワジワと売れ出し、私たちの平凡編集部にも、毎日のように「三橋の紹介記事をぜひ載せてほしという」読者の投書が殺到し、私などはそれによって三橋美智也という「スゴい新人」の存在を知らされたようなものでした。
 いまも芸能界の「作られたスター」と違って彼の場合(もちろん曲、詩の良さ別として)あくまでも自分の力で切り拓いたスターへの道であったといえると思います。
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そして25年目をむかえました。4分の一世紀という長い年月、トップ・スターとしての座を維持しつつ、しかもいまなおみずみずしい活動をつづているということは、それだけをとっても偉業というべきですが、さらに三橋美智也の場合、民謡という本業が他にあったということです。いや、あったという表現は適当ではありません。現在も民謡の家元とし、じょんがら三味線の名手として一派を確立して大活躍をしているからです。
 一つの道でもなまやさしいものではないのに、二つの道を両立させ、そしてみごとに成功させたのは、一つには天性の美声のたまものであり、また一つには彼自身の根性と努力の結晶以外のなにものでもないと思います。
 9歳で全北海道民謡コンクールで優勝したこの天才少年は、19歳のとき芸能界入りを決意して上京。古川ロッパやエノケンの家に弟子入り志願で押しかけましたが、門前ばらい。やっとみつけたボイラーマンの仕事をやりながらチャンスを狙っていた若き日の根性物語など、いかにも田舎の純朴青年といったほほえましさを感じさせます。三橋美智也のもってうまれた明るさが、そう感じさせるのでしょう。ほほえましさ明るさ、そして暖かさ、そうした人間味こそ、スターとしての最大の必須条件だと思うのです。
 だから、三橋美智也の歌にはいつも明るい夢があります。
デビュー曲の「酒の苦さよ」も、最初のヒット曲「おんな船頭唄」も、おなじみ「哀愁列車」や「母恋吹雪」なども、みんな悲しい歌です。三橋自身も、情緒れんめんとしたフィーリングで、しみじみと歌っていますが、聞く人の胸にせまってくるのは悲しみよりも、やさしいいたわりや、なんともいえないほのぼのとしてものであるようです。
25年もの長い間、大衆の支持をうけつづけてこられたのは、三橋の歌の中に、こうしたヒューマンな暖かさがいつもあったからではないでしょうか。
 これもみな若い頃からの苦労の数々が、人間形成の上で大きなプラスなったのだと思います。
また昨年は大きな、病気を克服したり、山田五十鈴との共演の「津軽三味線・ながれぶし」でむずかしい役づくり苦労したりしました。
 いろいろな試練をのりこえ、その一つ一つを人間性と芸の上に加えていく三橋美智也の、長い長いマラソンレースはこれからも30周年、50周年をめざしてまだまだ続きます。ガンバレ!三橋、フレー!フレー!美智也。