歌手生活25周年 三橋美智也民謡の世界アルバムによせて
三橋美智也というおのこ            八巻明彦

 

三橋美智也といえば、私は決まって「嬉しがらせて…、という、あの甲高い歌声が耳の中でなりだします。故岡晴夫の「憧れのハワイ航路」をただ一つのレパートリーにしている私ですから、当然高音派で、同郷の親友を自称していながら、間違ってもフランク永井の持ち歌なんぞはうたえそうになく、といって三橋美智也の「おんな船頭唄」がうたえるかーといいますと、これはそうは参りません。などと「書けば、三橋は恐らく「大先輩の岡さんの唄が歌えれ、なんでオレの曲が歌えないんだというにきまっているのですが、そこはそれ、プロ歌手の巧い拙いを一時あげつらったことがある私です。とてもじゃないが「おんな船頭唄」にしろ「酒の苦さよ」にしろ、歌えたものではありません。

 

いえ岡晴夫の歌が上出来でなかったからだーなどという気は毛頭ありません。あれだけのファンの支持を没後7年も経ったというのに取り付けている大歌手ではありますが岡ッ晴には、シロウトのつけいる部分があるのです。「港シャンソン」にしろ「上海の花売り娘」にしろ「啼くな小鳩よ」にしたって、大ヒット大名唱のこの歌に対しては早い話が私の如きドシロウトだって、チャレンジしたくあるところが十分にあります。だからこそ、バカの一つ覚えと罵られながらも、私は敢然と「ハーレタソラー」とやらかすのです。

 

しかし、、とても私には「オボエテイルカイ…」とか「ほーれえーてー」などと歌う勇気はありません。やっぱり、三橋美智也が子供のころかたたたきこんでいた。民謡というものへの、一種のコンプレックスのような意識がそうさせるのでありましょう。その辺に三橋美智也というおのこの持つ、明暗二つの面があるように思われるのです。

 

 同じような歌手として歌はどうしても三波春夫のことを忘れることができないのです。
三橋ー三波と言い慣わしていた時代に、歌謡界の現場を歩いていたからでしょう。昭和30年に世に出た三橋美智也と二年遅れの昭和32年に「チャンチキおけさ」で身をたてた三波春夫。片や民謡、片や浪曲節と、出てきたジャンルは違っていますが、いずれも日本の気候風土に根差した日本人の歌であり、節であるところに原点を持つあたりは、共通しています。
そして、御両人とも、北海道生まれと新潟生まれといずれ劣らず泥臭い体臭の持ち主で、大スター家業を続けて二十数年になるのに、その点は未だに抜けきれないのも共通したところです。

 

 しかし、三橋と三波では、本質的に全く違います。歴史というものは、えてして、本人たちの関係しないところで、ちゃんと辻褄をあわせているものです。
三橋と三波が世に出た昭和30年と32年とを取り上げてみても、それはまことに面白い。

 

昭和30年。一円アルミ貨が登場してテレビの受信契約者数がたった5万台で、やっと帝劇でシネラマという怪物映画映画「これがシネラマだ」が公開された年。一方、32年になりますと、百円硬貨が登場して、テレビの受信契約数ははすでに50万代を突破。デーオの浜村美恵子やメケメケの丸山明宏が話題をまき、やがてロカビリー時代を迎えようとしていたころもはや戦後でない≠ニ言われた時代ではあったも、ちょっとした差で、大きな違いのあった時期だったのです。

 

そうした時代の背景の中で、三橋美智也はスターとして絵に描いたような自己主張をしていきます。スポーツカーを手始めに、モーターボートから外洋ヨット。さればゴルフにボーリング。レジャーの最先端をいっていなくちゃ気が済まない。この春だって、津軽に旅行した時カメラの話になったら例の「黙ってむければピントもとひとりでにあう」という、超ばかちょん。・カメラの話が出たら、青森市内駆け回り、同行者をはらはらさせながら手に入れて大満悦という一幕があったほご、大病をして、酒が飲めなくなったせいかそういうところはスター小僧で全く天衣無縫です。

 

三波の方はーといえばまるでそのよう話のない、」これも絵に描いたような優等生的大スターで離婚などもせず、「紅白歌合戦」なども、昭和33年から20年間でずっぱり。途中何年かお休みした三橋とはまるで違う国民的大歌手です。

 

 しかし、私は、三橋がこうした田舎っぺが嬉しがっているような、山坂こえて波風押し流されるところがそれこそ民謡の心に通じる味であるーと独断と偏見を承知で決め込んでいるのです。一つには軽薄的傾向の強い、オノレ自身の、追ってもできはしない、いわば代替性を三橋に求めいるせいかもしれません。

 

しかし、こうした一連の彼の歩みがいささかも三橋流家元として三橋美智也自身をスポイルしていないことはやはり彼が大器である、民謡というものを自分の身体とのどでしっかりと把握しきっている強みを示すものでありましょう。

 

私はいま、三橋美智也というおのこと同じ25年を生きてきた者の一人として、今後もできるだけ長く彼の唄声をききながらいきていけたらと念じているのです。