座談会 三橋美智也を語る

座談会 三橋美智也を語る

 

日時 昭和53年4月26日 会場 キングレコード本社 社長室
出席者  平井賢 (音楽評論家)伊奈一男(音楽評論家)佐藤泉(音楽評論家)小倉智昭(音楽評論家)
     本吉常浩(キングレコードプロデユーサー)

 

本吉 
今日はお忙しいところご足労願いまして恐縮です。実はわが社の三橋美智也が、今年歌手生活25年を迎えますので、これを記念したLPそ企画制作中でございますが、そのジャケットを、先生方の座談会で飾っていただきたいと存じまして……。ひとつよろしくお願いいたします。

 

小倉
一応、僕が進行役ということになっておりますので、これから話を進めてまいりたいと思います。
只今も本吉さんからお話がありましたように三橋君が長い歌手生活を経て現在に至ったということで、そこで彼の流行り歌……といっても民謡じゃない流行歌のヒットソング、それと全集を作る、ということで諸先生の、彼についてのコメントを集大成したものをいただきたいというのが趣旨です。
 まずそれでは、民謡の歌い手が流行歌を歌ってスターになった、それもたった一人、しかもこの三橋美智也がさらにそのスターの座を長い間占めてきた… ということについて、時代背景なり、歌手としての位置づけから話していただいましょうか…。
伊奈
 時代背景は、私がいいましょう。
平井
 キングレコードのどういう歌手がいてどうなって、なんてのは僕が言う…。
小倉
 それでは佐藤さんには三橋美智也の人間、そして歌という観点からお話ください。
伊奈
 当時の文芸部長だった清水滝治さんの書かれた「レコード会社」という本のなかに「……「おんな船頭唄」が出たのは昭和30年の3月である。照菊の歌がA面で、そのB面として出たわけだが、発売から4か月たった7月30日にはまだ八千枚でしかない。ところが8月になったらとたんに2万枚になり、31年に入ったらすでに10数万枚になった…」とかいてあるんですよ。ということはね。7月までは「おんな船頭唄」はヒットしなかったんですよ。
小倉
 厳密に言ってね
伊奈
 だから時代背景を考えるとき、昭和30年の夏というふうに考えるのが一番正しいのではないかと思う……。
平井
 そうそう、それはね、あの時の背景があると思う。あのときにはね。「船頭さん」が二つでたんだよ。もう一つがひばりの「娘船頭さん」これと拮抗したわけで、これにつられて三橋君の歌がグンと伸びた。いわゆる相乗作用というやつでね。
伊奈
 それはあるでしょう。
平井
 ひばりのうたのうまさと、三橋の美声がからんだ相乗作用で、ぐんぐん伸びたんだよ。
伊奈
 歌は世につれ≠ニいうことばかり拘って、時代背景ばかり考えていると、今平井さんがおしゃっていたようなことを見落としてしまい勝ちなのでまさにその通りだと思います。ただ昭和30年7月を中心に、その時代がどんな背景があったかも考えてみなくてはならないと思うんですよ。
小倉
 ということはね、その時代背景にあって、船頭というものが、さほどその時代にあって、人気商売というわけではない。船頭自体にも何等価値がなかった。
平井
 それは郷愁じゃないの
小倉 
 郷愁はあるでしょう。その郷愁がいま伊奈さんの言った時代背景にからんでくるだろう……というふうに思いますよ。
平井
 やっぱり田園カラーというものが、時代背景でなくあるんじゃないの…。春日君の歌にもあるし…
あれから以後だものね。都会派の演歌というのが出てくるのは…
小倉
 そこまで広げると今度は高音とか、低音とかいろいろなものがでてきますからね。
平井
 出てくる出てくる。
小倉
 一応そこを限度にしまして、時代背景を……。
伊奈
 経済的にいえば、30年の上期から飛び越して32年に上期までは、いわゆる俗称でいう神武景気≠ニいう時代ですね。年表で調べてみましたら、30年の1月に初めて、春闘≠ニいうのが始まったんですよ。
それから7月に経済企画庁が出来た。その暮れに保守合同が成り、翌年31年7月に経済白書が出て、有名な「最早、戦後ではない…」という言葉がその中にあった。だから「最早、戦後ではない」といわせた経済的な条件とか、人々の意識とか、そういうものが丁度スタートをした年……、といってもいいんじゃないでしょうか。また三種の神器≠ニいうのがこの時…。その頃の三種の神器というのは…
佐藤
 つまり3Cでしょう。
伊奈
 いや3cの前だよ。白黒テレビ、電気洗濯機。
佐藤
 そうかさうか。それから冷蔵庫…
伊奈
 これを備えなければ人に非ず…みたいなことをいえるような時代まで経済が回復して、いわゆる高度成長への向う足がかりの一歩だった……。
平井
 生活に落ち着きが出てきた、ということも言える。
伊奈
 そしてもっと面白いのはね。ちょどこの三橋さんの歌が大ヒットを始める時に、日本の住宅公団が出来て、団地が始まるんですよ。
小倉
 だからそこで平井さんのいわれたノスタルジアにつながる。
平井
 それと若い連中のロックンロールさん…。
伊奈
 当然マンボもあり太陽族もありましたけどね。
小倉
 音的にいえばそうなんだけれども、また牽強付会な言い方なんですけど、団地にすめば住むほど、そういう種類の郷愁みたいなものに惹かれる……。
平井
 そうそう。
小倉
 佐藤さんどうですか。
佐藤
 マンボ・スタイルだとかマンボ族だとか、ま、つまり当時の若い人たちはそういうものに抵抗なくはいっていけた。然しながら、中年というか、少なくとも戦争というものを知っている世代にとっては、何かそういうものに抵抗を感じていた。だからそうした人たちは、日本の古来のものというか、郷愁というかそいういうもののの方へ走った……。それが三橋君の歌につながったといえる…。
これはほかの会社になるけども、島倉千代子が「りんどう峠」などと民謡じゃないものまでも、同じような出てくるものにもうかがえる。
小倉
 と、思いますね。
伊奈
 それでね、団地をつくらなければならなかったということは、日本の戦後の復興の、衣・食・住の中で、住が一番遅れていたことへの対策なのですが。それだけではなく、それをやらないとどうにもならないくらい、人口の都会集中が始まっていた。
小倉
 だからそれは先程伊奈さんがおっしゃっていた高度成長のはしりが現れて、しかも今、佐藤さんの言葉にあったように、片いっぽうでマンボとかロックンロールのハシリみたいな現象も出ていて、ここへ両極端が出てきたということですね。
佐藤
 そうですね。
小倉
 それで、そこで三橋君が民謡から出てきた。非常にピッチの高い音ですよね。三橋君の声は…。
平井
 昔からね、日本の流行歌を歌っている中の、いわゆるハイ・トーンの連中はね、もうその声だけで二枚目なんですね。だからオペラだってそうですけど、テナーは全部二枚目、いい声きれいな声でなければいけない。
つまり少しくらいフィーリングがなくてもハイトーンの美しい声だと二枚目なんですよ。
だから低音歌手というのは、バリトンでもバス歌手でもフィーリングがないと、二枚目とは認められない。だから忽然とあらわれた三橋君の美声というのはね、声を聴いただけで二枚目なんだよ。
小倉
 素材そのものがスターであった……というわけですね。
平井
 スター…、そうそう。
しかもね三橋君が入ったころのキングはね、スターが随分といたんですよ。そこへポットと来て、パッと出れたのは、彼がハイトーンの美声であったからですよ。それでなければ出られない…。
 彼がデビューした頃にはね。岡晴夫で所、」津村謙、春日八郎、近江敏郎、東海林太郎、高英男、林伊佐緒、竹山逸郎、若原一郎…とこういたんですよ。
この中へ一人ぽんと入って出られですから…。津村謙、春日八郎なんて、全盛期でしたからね。
伊奈
 話がとびますけどね。さっき地方農村への郷愁の唄といったものが必要になるような時代だったから、この人が突然に浮上した、という見方も確かにあるんですけど、見田宗介氏は「近代日本の心情の歴史」の中で、こんなふうに言っています。
当時は都会志向の時代である。それで都会に出たものはある種の優越感をもっていた。だから郷愁とか、そういうものの内容が、村に残した自分の家族であるとか、恋人であるとかそいうった人たちに対する心の痛みに近いものがあったのではいか≠ニいうのです。
平井
 僕はね、都会集中で来た人でゃなく、前から都会に住んでいた連中で来た人ではなく、前から都会に住んでいた連中の郷愁ではないか…と思うんだ。
小倉
 捨ててきた…という罪悪感というもんでしょ
伊奈
 そうそう。
平井
 だから前から都会に住んでいる人の郷愁だ…。
伊奈
そうじゃなくて、ついこの間離れて、華やかな神武景気の中に入ってきた人間がね、故郷のやつに悪かったな…というその気持ちがね。こういう歌になったのじゃないか…そいうのが見田氏の説なんですよ。
平井
 一理あるね。
伊奈
 それで、どういう理屈であれ、いわゆるあの都会とふるさとの交流の歌が出来たわけですよ。
小倉
 そうそう
伊奈
 「東京へ来ようよ…」「東京から田舎へもどろうよ…」
平井 
 「おさらば東京」…ね。
佐藤
 そいうことは確かだ
小倉
 そうすると例えば最初にいえることは、三橋美智也が「おんな船頭唄」ででてきたには、でてきたありの背景が厳然としてあった…と。そして素材そのものが美声歌手で、素材そのもににスターとしての価値があった。ということがそれはそれでまとめられる訳ですね。
佐藤 
 もうひとつは、平井さんがさっき声楽的に、専門的にいわれたんですけど、私がもっと俗っぽくいわせて貰いますとね。例えば伊奈さんも先刻いわれていましたが、当時春闘≠ェハシリであったとか、或いは原水禁の世界大会第一回があったとか「最早戦後ではない…」といういった動き、社会的にオクターブが高くなって転換の時期であったですよね。
小倉
 はいはい…。
佐藤
 だからね、僕は社会的にオクターブが高い時期と高音とが結びつくのではないかと思う。
小倉
 はい、なるほどね」
伊奈
 僕もね、さっきいいわすれていたんだけれど、砂川の基地闘争も始まった。こういうやっぱり高揚した時期であったことは確かですね。
民族意識というか
小倉
 民族意識ですよ。だから片一方で舶来というものに対して傾斜してゆくのにアンチテーゼが出てきた。だから両方のもみ合いのなかから「おんな船頭唄」もでてきた…。
平井
 企業同士の切磋琢磨とかね。
佐藤 
 なるほどね。
小倉
 それでデビューの位置づけが出来ましたね。これがB面で出てきたというのは?
平井
 それはありえるんじゃないの。
伊奈
 いや期待していなかった…
平井
 期待しなかったんだ。
小倉
 期待していなかった…という答えを引き出しておいて、僕は大衆の感覚として、もうひとつ期待していなかったものがこれだけ受けた…という部分での大衆の嗅覚の強さみたいなものがなにかあるんじゃないかと思う。
伊奈
 期待していなかった…そいうことをもう少し補足していうならば、これも清水さんの本のなかだけども「デビュー盤の「酒の苦さよ」を28年の暮れに吹き込ませたときに「ダメだったらやめるんだぜ」といったと書いてある。
佐藤
 ほほう
伊奈
 デビュー盤までにいろいろと試みていたんでしょ民謡的なことを
平井
 そうそう。
本吉
そもそも民謡の三味線を弾いていた人ですから…。それでテストをしたら声がよい…っていうんで歌手になったんです。
伊奈
 いくつも作って駄目で、勿論レコードはだしていないんですけど、それで「酒の苦さよ」に至った。「新相馬…」ですか、あれは…。
平井
 「新相馬…」だからあれはヒットしなかった。
ぼくはね、あれはデビュー盤も2枚目も民謡ラインを出したことに三橋が足ぶみをしていた原因があると思う…。
伊奈
 だから「酒の苦さよ」を出してから「おんな船頭唄」までの間に、ほぼ一年半という歳月がかかっているんです。その間にいくつか出していますね、やはりそれは当たっていません。だから当然「おんな船頭唄」だってB面に行くわけですよ。
小倉
 そうか…。
平井
 あれは民謡歌いだからって、民謡路線をふませたってことば、足踏みをさせた最大の原因だよ。
小倉 
 今だってそれはいえますね。あれはロックだからロック、演歌だから演歌やらせりゃいいってのはそうじゃないってことか…。
平井
 そうそう…。
佐藤
 現在でもいえる。
伊奈
 だからこのB面扱いをつきやぶったのは歌の持っている或いは本人の歌い手としてエネルギー、資質というもの、それを大衆の方がひろい上げたということですよ。
小倉
 大衆が拾いあげたということは、やっぱり時代のヒーローだよね
そうするとヒーローとしてのその後の変遷、例えばその時代に大鵬がウケたり、長嶋が受けてますよね。その部分をちょっと話し願いたい。
平井
 僕はね、あの声を聴いたらね、ヒーローというよりも僕らでもアイドルとしてその声に参る…。
小倉 
 平井さんは声楽をやっているから余計に…。
平井
 つまりあの澄んだ高音の美声をきいたら参るんですよ。自分には出せない声、そりゃ憧れなんだ。だから大衆は自分では歌えない、あの声はだせないけど聞く快さに惹かれた。
佐藤 
 いやね、だから今今井さんがおっしゃっていたことにつけくわえるようですけど、誰にも歌ってだせない声…といえば、ふりかえってみますと、その時代NHKののど自慢で「おんな船頭唄」は殆どでてこなかったですね。
あれだけヒットし、人気をよびながら、歌われることが少なかった…ということは、今、平井さんがおっしゃっていたことに関係があるんじゃないでしょうかね。
平井
 それはね、かつて東海林太郎の歌った「赤城の子守歌」あれば未だにのど自慢の連中ではうたえない。音域が広く、高い声が必要だからね。しかし「赤城の子守歌」は大ヒットしている。つまり、憧れですよ。
小倉
 ということは、聞き唄としてスタートしたというわけですね
平井
 それはいえるね。はっきりと…。
小倉 
 なるほどね、それで聞き唄としてスタートした歌ということは、寿命が長くなる唄…ということも言える…。
平井
 当然ですよ。
小倉
 そこで先程その民謡歌手が、スターになりえない…今までたった一人の存在でありということについて伺いたいんですけど、平井さんはなぜ民謡歌手がスターになれない、と言われるんですか
平井
 あのね、民謡というものはね。今の民謡は大衆から遊離しているわけですよね。それと同時にローカル色が強すぎるから日本全国に敷衍は出来ない。
小倉
 極めてローカルだけのもの。
平井 
 だから三橋が民謡を捨てて歌謡曲の世界に入ったということは、全国的に大衆の支持が得られるというわけで、民謡の歌い手なら、東北民謡の歌い手なら東北だけしかウケない。九州の歌い手は九州だけしか売れない。
これのはっきりしていることは、外国に行ってみればわかりますよ。
ハワイへったら中国地方とか、静岡、和歌山当たりの民謡じゃないとウケない。ところがブラジルあたりへいけば、東北の人間が多いから、東北の民謡じゃないとウケない。
 地域的な狭い所しかウケないから、全国的な大スタ〜が絶対でないので、それと民謡歌いにはインテリジェンスがないということ、ただ小節でころがしているだけでね。
三橋の歌は、民謡といってもどことなく違うんだね。そこが大スターになった要因で、鈴木正夫という民謡歌手が、スターではあったけれど大スターにはなれなかった原因もそのあたりにある。
小倉
 佐藤さんどうですか。
佐藤 
 まったく同感ですね。
いわゆる民謡歌手がUHFなら三橋美智也はVHFいうところですね。
小倉
 伊奈さんは?
伊奈
 僕はもう一回だけ清水滝治さんの本から引用させていただきます。
 その中で清水さんはこう書いていますよ「民謡歌手が容易に流行歌手になりきれないのは一つの歌のなかに、民謡の語呂と流行歌の節とが別々に同居して、別々に維持を張り合ってしまうからである」…とね。
小倉
 まあそうだね。
伊奈
 この語呂という言葉が、平井さんのいった東北の民謡には東北の歌い方、九州の歌い方、この歌い方の問題だと思います
平井
 問題がある
小倉
 ということは民謡歌手に最もかけているのは、それをインターナショナルにする何らかの音楽的な素養というその部分がなかったといえるんじゃないですか。
平井 
 三橋美智也には近代性があったんじゃないかね。
伊奈
 その語呂、民謡の語呂をつっぱらない。抑えることができるという技術、流行歌の節の中に取り込んでしまえる技術こそが技術なんだけど、それが普通の民謡歌手にはありませんね。
平井
 歌唱力だね、歌唱力。
佐藤
 だからそれがごく素人にもわかりやすい歌だったとして「哀愁列車」があったんでなないでしょうか。
平井
 そうそう…。
小倉 
 そうすると、ここで三橋美智也という歌手の発生と、それから歌手としての資質ですね。それが何故うけいれられたかということの一つの形はこれで終わったと思います
平井 
 そうね。
小倉
 そうすると次には歩みの方に参ります。これはざっくばらんに勝手なことをしゃべっていただきたい…。
僕が思うにはですね。例えばこの時代はこうだ、あの時代はこうだということは、三橋君にはないんじゃないかという気がするんです。
ということは、あるパターン、三橋調というのがありまして、ほぼその線から抜けないでいままで持ってきたところに希少価値がある。それがやっぱり彼の声の特質である、なんの特質でもあるとおおうんで、時代そんものを紐解いて考えるにはちょっと難がある…。
伊奈 
 ただね、「りんご村から」で声の使い方を変えたという言い方もありますし、もうひとつ「センチメンタル東京」あたりでちょっと異質な世界に挑戦してみたということもありますね。
小倉
 それは今、伊奈さんかの行った節々のひとつの部分を踏んまえた上で、伊奈さんからひとこと。
伊奈  
 ただ難しですね。
それは基本的には小倉さんの言った通りで、ポイントはあってもそこで大きく歌い手として成長していくとかね。全然異質の世界にはいりこんでいくような節目はないんです。
小倉
 無いんですよね。
だから例えば、他の歌手というのはこの年代があり、またこの年代があり、その部分というのは唱法を変化させるとか何かに取り組んだとか、その一つ一つの型が全部節目になっているんだけれど、彼の場合はあるひとつのパターンを、今、伊奈さんがいったように、この時に見ると「りんご村」でもひとつの型、「センチメンタル東京」でも取り組んだひとつの型であるんだけれども、それがみなつながったひとつのパターンですよね。
それで20何年押し通した…、まったく稀有なことことなんで、これを何かちょっと。
平井
 あのね、三橋君の曲をみると、作曲家が随分ちがうんだな。だから作曲家の数がものすごく多いんだけど、これがみんな三橋さんの美声に合わせて書いている…
小倉
 あ、そうですね。
平井
 そこに「りんご村から」の林伊佐緒で、林君は自分が歌い手だから、自分の声にあわせた、伸ばした声で、小節の利かないような曲を作っている。
それに挑戦した三橋君は、これで何かが吹っ切れたんだよ。ね。伊奈さんそうみていいんじゃないの?
伊奈
 そうですね。
小倉
 なるほどね。うん。
平井
 だから言えることは、三橋君の曲を書いている人たちは、三橋君の、その美声に書いてみたいというものがあったんじゃないか。
小倉
 奏法を抜きにして、やっぱり素材のそのものですね。
平井
 だろうね。
伊奈
 やっぱり野球の原点が速い球ならば、歌の原点は伸びのあるよい声でなけりゃ…。
小倉 
 そうですよ。
平井
 だから僕はね。キングが30年代に、春日・三橋の2つの柱が両方とも伸びのある声で、パ―ッといったということはわかるような気がする。
伊奈
 歌の魅力というものに歌の原点を踏まえている…ということなんだ。
平井
 それに尽きるよ
小倉
 ほんとうにそうですね。
平井
 三橋君が、春日君の三橋君の歌を出し、春日君が三橋君歌をだしたことがあるでしょL・Pで。あれをじっくりきくとわかるよ。どちらに出してもよかったんだ、両方ともきかせるよ、カラーはちがっても…。それに三橋君が春日君がだしてもヒットしたといえるな。どっちも伸びのある声をしているから…。
小倉
 だた春日八郎の場合は、節というものに異常なまでの執着がありますね。
平井 
 あるある…。
小倉
 三橋君の場合は節じゃないとおもうんですよ。声ですよ。
佐藤 
 そう声ですよ声…。
平井 
 どっちにも特色があるんだから、どっちが歌ってもヒットする可能性があったわけだ…。
伊奈
 これは大変比喩的ですけどね。同じ景色を両方とも描いているんですよ。三橋も春日も…。
三橋の場合は写真でね、春日君の場合は絵じゃないの、違う?
小倉 
 うんうん。
平井
 これはね、昔から名曲があるわね。中山晋平さんの「砂山」と、山田耕作先生の「砂山」…。同じだけれどあれも違う…両方とも名曲ですよ。これはね、今伊奈さんのいったように景色は同じなんだよ。写真と絵…。
例えばこういうことも言えるんだな、絵でいえば三橋の場合は日本画で、春日君の場合は油絵…。
伊奈
 ま、そういういい方でもいい。
佐藤
 三橋君の歌は谷内六郎の動画風な感じがする。
小倉
 「おさげと花と地蔵さんと」とか「夕焼とんび」だとか…。
本吉 
 あの頃は、一時、両方とも童画歌謡≠ニいう一連のシリーズをやってたんですよ。
平井
 つまり、あの谷内六郎の絵が出てきたあたりから…。
でも、三橋君の「古城」なんて聞いていると、あれクラシックの歌だよね。完全にクラッシックの歌い手が歌ってるようなもんだ。
伊奈
 だから僕はね「とんびがくるりと輪を書いた…」というところを歌う時の三橋くんの声が自身の中に夕焼けの色を感じたんだ。…
小倉 
 なるほどね、声自体にいろがある…。
佐藤
 それは鮮明に感じた
小倉
 ほんとに、さっきから何回も出るけど、やっぱり声自体に色がある…。
佐藤
 それは鮮明に感じた。
小倉
 本当に、さっきから何回もでるけど、やっぱり声自体になにかあったんだ…。
平井
 それになんといっても美声でね、あのハイトーンの美声は魅力だよ。
佐藤
 聞いているほうも気持ちがいいよね。
小倉
 結局、声自体に意図があり匂いがあるおいうものが、だんだん少なくなってrいるでしょ、はっきりいえば
平井
 最近はいないよね、類型化されていてね。
小倉
 だからやっぱり、ひとつの原点だということで。
平井
 それは昔の唄の中にはハイトーンのきれいな歌い手がいたよ。松平(晃)とか…。
伊奈
 修練があった…。
小倉
 それは音楽学校へ行ったり、民謡をやったり,過程は違うけど、それぞれ伊奈さんがいったように修練があったですよね。修練の中にその声の特性がでてくるわけですから。
平井
 そうきたえられてあるという。
小倉
 では、今度はね。作品的に少しおおざっなに何かいいまして、…。どの辺の、どの作品が、どうのこうのといったことを平井さんからいっていただけますか。例えば、いっとう最初に声をビーツと張って出てくる歌がありますね。「哀愁列車」がそうだろうし、伊奈さんがいっていた「りんご村から」もそうだろうし、それに時代にあわせて出てきた「センチメンタル東京」から「星屑の町」へゆくひとつの流れといったものを。
伊奈
 それから「古城」もやっぱりひとつの道標だよね
小倉
 「古城」はまたひとつの型としてね
平井
 おさらば東京なんかもそうでしょう。
小倉
そうですね
平井
 これは中野忠晴君の曲なんだけどね。あのジャズシンガーの中野君がどういう曲を書いたかというとね。安部武(雄)メロデイの、前の8小節がそのまま…。
小倉
 うんうん、はあはあ
平井 
 それをね。あの三橋君が非常にうまく歌っているんだよ。こいう三橋もあるんじゃないか…と僕は思った。
小倉
 鳴るほど、うん…
平井
そして、その秋に出た「おさげと花と地蔵さんと」で、あれでがわりと変わっているわけだ、それで演歌歌いとしてもたいへんなものになるんじゃないかと思った。
小倉
 佐藤さんいかがですか
佐藤
 やっぱりね僕はね。「哀愁列車で」おもったんでけどね。民謡歌いの三橋美智也という面が、「大衆の中に拭うことができない部分で残っていた時期に、それを払拭したのが、あの「哀愁列車」だったと思うんですよ。それで作家をみると鎌多俊与なんですよ
本吉 
 代表作になりましたね、鎌多俊与さんの…。
平井
 彼も歌手なんだけれど、あれほどの高い声はでなかっんだよね。それでみはし君に夢を託してうたわせたわけ
佐藤
そうでしょうか。だからこの歌い手を使って、ひとつ歌謡曲をやってやろうという感じ
平井
 それはある、あるよ
小倉
 そうすると、差相談はあの「哀愁列車」ので出だしのハイトーンの音が、一番自分の中で三橋美智也というものを考える時、ポイントになるというわけですね。
佐藤
 ええ流行歌手として大衆の偶像となりえた、というわけで
伊奈
 そこまでの意見は私もまったく同じでね。当然「おんな船頭唄」であり「哀愁列車」であるわけなんですけれども、その後がね、さっき平井さんがおっしゃってた一時期、32年の終わりころから33年にかけての「おさげと花と地蔵さんと」それから「おさらば東京」「ゆうやけとんび」…。僕はこのあたりでね、この人への再評価しましたね、「これはうまい歌手である」と…。
平井
 僕もそうみたんだ。
伊奈
それまでは力ですから…、この辺から…
平井
 33年にはひとつの転機があったね。
小倉
 だから歌い手というは、その転機転機を乗り越えなければ20年も30年もつづかないよ。一本調子では…。
平井 
 続かないね
小倉
野球のピッチャーと同じで一本調子ではだめですよ。
平井
そうそう、だんだん変化球を覚えてくる…。
小倉
 そうすると、そのポイントというのは今平井さん、伊奈さんが言ったような、そのポイントとい乗り越えたということですよね。
平井
 それで血となり、「肉となったわけだよ」歌の中でね。
伊奈
 声がありながらその声だけに溺れない、という歌い方をみつつけた
平井 
 だから一本調子でなくなって、変化きゅをだせるようになった。
小倉
 ふんふんなるほど
平井
 100パーセントもっている力を90パーセントでうたえるようになった。
小倉
 そいうことは この辺では完全なエースピッチャーとなった
平井
 完全なエースピッチャーだね
小倉
 三橋君のことしゃべる場合は、だいたい一等最初の原点と、その後のひとつの部分というものは、この辺で大体かたづいて、何か年々に応じてかわってゆくということがあまりないですよね。
佐藤
 ないんだよ
小倉
 だから僕はそのことは大変貴重はことのように思えるんですよ。変わりない。ということでね。
伊奈
 もうずっと坦々。
佐藤
 まさに同感案ですがね、しからばなぜ坦々なのかというと、そこにはいろんな原因なり理由はあるとおもうんですけど僕はね、彼三橋美智也という人は多分に神経質なんじゃないか、自意識過剰なのではなかと思うんです。でもこれは決して悪いという意味じゃないんですよ
小倉
 はいはい。
佐藤
 だからその自意識過剰で、声が若い頃あのはりのある美声が、一時で亡くなった時に、気持ちが揺らいだ時があったね。
平井
 そう、彼はやはり民謡界でも、スターとしての良い意味で自意識を強すぎるくらいもってるんだよ。だから彼自身民謡もうたえるし、三味線も弾ける、その器用さで少年民謡隊をつくり、あまり手をひろげた、ということなんだ。
伊奈
 これはね、坦々の間に作曲家側にも一つ責任はあったんだよ
佐藤
 それまで三橋君の声にたよりすぎていた。逆に声に魅力があったからさほどのものでなくても作れば売れたんだよ。その次が作曲家の腕のみせどことになるんだけど、その部分でめぐまれなかったことが坦々につながった。
平井
 ある程度のものを書いていれば印税がはいってくるからイージーになっていた。それとスタッフ人も企画性がなかった。彼が大スターでありすぎたために…。また彼自身が過保護になっていたということもあるね。
伊奈
 そういうことなんだ。ちょっときるい言葉だけどね
本吉
 いや少しはきついこともおっしゃってほしいですよ
伊奈
 ま、言えることは彼の前半までの本人があまりに大きすぎたためにそれから容易に脱却できなかった…。
平井
 でもここへきて脱皮したよ。四半世紀を過ぎた現時点ではね。
これからが円熟期、その礎としての、この大全集があるわけだよね
伊奈
 この全集の頭の5曲を語るとねそれで尽きちゃうんですよ。
小倉
 それがある特色と思いますよね。これだけ完全な形をつくっている歌手はいないということがポイントですね。
平井
 これからの課題は、歌手活動をじぶんでやるという気概を持つことが大事だよ。
佐藤
 そうですね。大いに頑張ってほしい
小倉
 そいううことですね。ま、こんなところで大体出尽くした…ということですか。
本吉
 ほんとにどうもありがとうございました。
終わり