歌謡生活25周年三橋美智也津軽の風土 佐藤泉

三橋美智也と津軽の風土

 

ことし(昭和53年)3月上旬、三橋美智也は津軽地方(日本海に近い地域)へ取材旅行を行った。津軽民謡の原点を探らんがためである。私もそれに同行したわけだが、三月といっても津軽の冬の終わりは厳しく、山越えの車が雪でしばしば立ち往生する始末だった。毛皮のコートに長靴といういでたちの三橋は、かなり強行スケジュールにも拘わらず、精力的に土地の古老の話や歌を録音し、カメラのシャッターを押しまくった。それはまぎれもなく民謡と取り組むおとこの執念の姿である。

 

「十三の砂山」でしられる十三港(潟)の岬には家並みこそみられたが、そのいずれもがまるで死んだような灰色に埋まっていた。聞こえるのは冬の期間中に吹き荒ぶ寒風のすすり泣き、もしくは怒りの声だけであった。寡黙の老婆から、この民謡にまつわる話を聞きだし歌を録音する作業は、なまやさしくはない。

 

三橋は真剣に、しかし笑顔を絶やさずに根気よく努め、ねばったことである。「弥三郎節」の取材で西津軽郡森田村を訪ねた時も同様であった。

 

「津軽山唄」に由縁の深い岩木川沿いの一本道でわれわれを待ち伏せていたのもまた荒漠たる灰色の世界だった。吹きつけつる強風と吹雪で視界は遮られ、車は川への転落の危機を何度となく迎えた。それは見渡す限りの銀世界、なっどいった華やいだ風景とは程遠い、灰色の淵にかこまれた地獄の通路のようにすら思えたことである。

 

 もとより現実には、家々の窓はアルミサッシュで固定され、またモータリゼーションの影響下にあることも津軽とて例外ではないのだか、かつて天候や自然の猛威と闘いながら黙々と自分たちの生活をつくりあげていったであろうこの地方の原風景(?)の一端をかいまみたことで、かれらにとっても歌は生活の一部であり、あるいは彼ら自身が手をよごして働いた労働歌だったのだ…ということを実感としてあらためて得たことだった。

 

 津軽地方に残る瞽女唄もそして津軽三味線もともに過酷ともいえる労働であった。さらに両者の共通点としては、北陸、英語から日本海沿いの東北死闘を経由北上して、日本の行きどまりである津軽で育ち定着したことだ。
表日本に比して恵まれているとはいえない風土に根差した地道な芸術であることだ。きびしい条件下できぎしい労働だからこそ、それれは何ともいえない物悲しさやるいは逞しさすらを聴く側に伝えてやまない。
思うに、あの津軽三味線のハイテンポの弾き方は、角付けして流れ歩く人たちが寒い時はがむしゃらに弾きまくって金をいう切羽詰まったところからしゅぱるちたものではなかったか。のんびり弾いていたんでは柚木がおこえてしまうか¥ではなかったのか。
東南アジアから琉球を経て、一つは太平洋岸を、一つは日本海岸を、二手に分かれて共に日本列島北上していった三味線という楽器の発達の歴史を振り替える時、都会芸術としての座敷芸術として定着していった前者に対して後者のそれはさすらいの芸術としての野の芸術として常に日陰に根ざしてきたことである。

 

津軽三味線は、いいかえれば野に山に海に働く大衆のための大衆自身の手で育てた音楽ということ、。都会を中心とした一部の限られた人々に奉仕する普通の三味線とはまさに陰≠ニ陽≠フ差異がみられることである。
三橋美智也は津軽の海一つ距てた道南に生まれ育った。幼少の時、すでになぜか津軽三味線の持つ不思議な閉音色、音楽に魅かれていったという。

 

「いつまでも夜のつれづれに津軽三味線を弾いながらかつて津軽の農民や漁民が集まっては津軽三味線に合わせて一日の仕事のあと、この地方の民謡をうたって疲れを癒していた光景を頭にうかべます」と三橋は語っている

 

 津軽と言えば津軽三味線であり、そして三橋美智也と津軽三味線とは切っても切れない。十三歳で、三味線を手にし、のちに白川軍八郎、木田林松栄という津軽三味線の名手にめぐりあことで、それが持つ奥行きの深さを知り、いよいよ魅入られていく。後年歌手としてキングレコードんむかられる端緒となったものは津軽三味線ゆえであった。
いまでも「自分いとって、一番自信のもてるものは、それは津軽三味線です」といわしめる由縁のものは、津軽のもち烈苛酷の風土で大成した津軽三味線というものと三橋自身とのすさまじいばかりの闘争の明け暮れにあるのではないか
「この埋もれた野の芸術を$「間の人々にぜひ紹介したい強い念願を持ちつ告げてきた。いや私に背負わされた義務とさえいえるだとうと語っている。津軽三味線を、おそらく東京のつステージと呼べるところで最初に紹介したのも、ほかならぬ三橋美智也だった。