民謡生活25周年記念アルバムに寄せて演奏家からみた三橋美智也

民謡生活25周年記念アルバムに寄せて
演奏家から見た三橋美智也     藤本e丈

 

三橋美智也というのが北海道から来たらしいね。こんな話が放送局のスタジオで仕事の合間に又、民謡会の楽屋などで聞かれるようになった。
 それは昭和28年と記憶している。そうこうしているうちに彼はよく弟さんといっしょに当時の拙宅文京の大塚に遊びに来るようになった。さらったりお互いに歌ってあわせたり、一つの曲をめたりで、私は当時はお陰様で各レコード会社、放送局からたくさん仕事がいただけるようになり体が二つほしいななどと生意気にも人並みな口を利くようになったころであった。が、何かこの人に惹かれるものがあり、ついつい腰を上げるまで地つき合ったものである。

 

 そうこうしているうちに、はっきりした日時は定かでないが、仙台の赤間森永さんがキングで吹き込みすることになりましたが、私は丁度故二三吉姐さんとNHKの放送がかさなりその吹き込みの三味線に加わることができないのでいつも遊びに来ていた彼を、三橋さんなら仙台の民謡は弾けるからと推薦したのが、三橋美智也のれレコード界での第一歩であった。それから彼の歌を一曲二曲と吹き込みしてゆきました。SP版時代のころです。始めての彼の吹き込みは、新相馬節といやさか音頭です。はっきり記憶していますし私は今でもそのレコードは大切に保管しています。

 

 彼が拙宅に遊びに来て、初めて唄や三味線を聞かせてもらった時、まず私はリズム感のいいのに驚かされました。よく伴奏が歌を引っ張っていくと申しますが、彼の唄は唄が伴奏を引っ張ってくれる人です。前記の吹き込みの時は彼は一つもあがらず実に堂々と歌い上げ旧スタジオでありましたが、それに携わる関係者は、皆が一様にかれが将来大スターになることを予想したでしょう。

 

 彼の芸を語るに忘れてならないものに津軽三味線がある。その昔は大道芸だった津軽三味線が今日老若男女何千という観客を動員するまでになった、その功労者の一人に三橋さんを挙げることができる。この津軽三味線によって培われたものです。演奏家の立場としてこのように歌も三味線もという人が数多く出てくれることを望みます。

 

 話を前にもどしましょう。そして彼は「将来はきっと民謡や歌謡曲で日劇に出る歌い手になるからその時は三味線を弾いてくださいよ」とよくいっていたが、私は、この人ならこの話が実現して当然とさえおもていました。予想たがわず「おんな船頭唄」の大ヒットして、日劇国際など大劇場で一緒に良い仕事をしました。春のNHKテレビなど明け方までかかったこと再三ありました。こうして歌うために生まれてきた三橋美智也のなまえが急ピッチで全国は制覇したことは私も本当に胸もすく思いでした。

 

 思うに民謡独特のゴロ、東北民謡で鍛え洗練されたあの小節を歌謡曲に取り入れたのは三橋さんが先駆者である、民謡界からもスターになれると全国の若い民謡愛好家が刺激されました。これが今日の民謡ブームとまでいわれる基となったといっても過言ではないと思います。

 

 彼は天才といわれるほどの才能を持ちながら仕事に関しては私の意見も素直に聞き入れてくれます。
彼は常に謙虚に自分をそして自分の芸を反省しうる心に余裕のある人です。最近、私に話したことがあります。「僕は東北や北海道民謡なら自信をもっていますが、西の民謡はもうひと踏ん張り勉強が必要だと思っています」と。一流といわれる三橋さんが自分の芸の不足を、自分の口から他人に話すというのはよほど勇気のいることで、これはたんなる話だけでなく、彼の西の民謡にかける意欲、闘志ともおもえるかれの意欲をくみとることが出来ました。この「三橋美智也の世界」全5枚組でうち三枚には各都道府県の代表的な民謡が各一曲づつ収録されているのがこの話を証拠づけるものです。彼の芸に対する努力を伺うことができます。

 

 又昭和49年に五線譜による民謡本を「三橋美智也民謡選集」と歌詞本「民謡選集」を出されたとき、私にも贈呈され、しかもその出版記念に、ご招待いただき少々遅れて出席した私を一番上座にすわらされたという思い出があります。

 

 とにかく、キングレコードに入って25年キングとともに生きているという三橋さん、そして私も彼と付き合ってきた25年を振り返ってみると義理堅い人だな、これが私の見た彼の人となりです。

 

 演奏家から三橋美智也というにはいささかははずれてしまい、藤本e丈からみた三橋美智也になってしまったが、彼は三橋流の家元として一流派の頭目にとどまることなく、広く門戸をひらき多の人に正しい歌唱法を指導してもらいたいのものです。これが演奏家としての本音です。