よく言われているのが、初期の声はよかったが、だんだんわるくなったというものだ
「晩年の歌はUPするな」というファンもいる。
例えば、三橋さんの生涯を支えられた二條弘子さんの本にはこんな記述がある。

 

「例えば昭和31年に吹き込んだ「リンゴ村から」と四十一年のそれを聴き比べればその違いは歴然としていますよ。どっちがうまいかと聞かれれば四十一年のほうなんです。歌の解釈も細かいテクニックも断然進歩していますからね。でも、そんなものを根こそぎ吹き飛ばしてしまう美声が、31年にはあった。輝きが違うんです。インパクトが違う。それを一番痛切に感じていたのが、ほかならぬ三橋さん自身だったと思います。つらかったでしょうね」ある専門家はこう分析しています。

 

とあります。
しかし、これは分析した人の言葉であって、三橋さん自身のどうかんじていたかではありません。

 

31年のリンゴ村から
リンゴ村から

40年代の究極版(ステレオ版)りんご村から

 

並べて聞いてみても、私には違いがわからないのです。

 

そこで
30年代の「酒の苦さよ」をきいてみてほしい。
酒の苦さよ
これは素晴らしいと思う。
たしかに、三橋美智也さんはは若い頃はよく声がでたということだとおもうが
ここに音楽評論家の小倉友昭さんの書いた文章がある。
これは歌手生活25周年の祝賀のためにかかれた文章です。

 

引用はじめ
「たとえば昨年、1977年のことである。久方ぶりに会った三橋美智也は、よく飲みよく語り、そしてよく食べた。
『最近、非常によく声が出るんです。高いところは勿論、低いところまでよく響いて、デビュー時代とほどんと同じように疲れもまったく感じないんです。』
その夜、同席していた著名なジャーナリストYさんが、途中から帰宅した三橋と同行して、三橋の私宅で夜を徹して飲み、民謡、軍歌などを放吟して、これも同行したデレクターの0さんと夜明けに帰ったという話があったほどだから、三橋の健康および声などは、確かに若いころと同じ状態にあったのだろう。ところが、旬日を出ないうちに、キングレコードの責任者の一人Mさんから、三橋が入院した、という報せを聞いた。糖尿の疑いがある、ということだった。」
引用終わり

 

本文
1977年といえば、昭和52年、 三橋美智也46歳のころである。
この話は、三橋さんが52年ころ、昔の声をとりもどしたという証明だと思う。
ご本人の言葉であるからなおさらである。

 

それから
同じ25周年のアルバムにある船村徹さんのメッセージをみてほしい

 

ふるさとの民謡 日光和楽踊り%ネ木 作曲家 船村徹

 

全国の中でも、私の故郷・栃木県の民謡として知られているのは数少ない。私が子供のころ、盆踊りのときに踊られたのは日光和楽踊りが主で、所によっては同じメロデイで郡や町によって地方毎に別な歌詞で歌われていたのを記憶しています。このような民謡は歌も踊りもいつの時代になっても、聞く人の心に故郷への郷愁を与え、幼い日々の限りない想い出に導いてくれるものです。

 

こうした民謡も、この偉大なる歌手、三橋美智也氏の唄によって、昭和30年を前後して一大ブームを巻き起こし、ここに偉大なる実績を残しているのも、この人を置いて他にない。

 

 私と三橋美智也しとは、歌謡曲の方ではいろいろお付き合いがあるものの、民謡の上では残念ながらご縁がうすい、この度歌手の生活25周年に当たっては、歌謡曲の方でその記念盤として「さすらい船」(シングル盤)の作曲を受け持ったが、その歌唱力は25年前を思わせるすばらしいものであり、これを機会に再び大輪の花が開くことを期待し、ともに願う一人であります。

 

引用終わり

 

本文
52年というのは紅白で「風の街」をすごい声量でうたっているし、53年になると、横井弘さんと船村徹さんのコンビで高音の「さすらい船」「ど根性船歌」歌っている。
だから若い時の声はたしかにすばらしいが、三橋さんに関しては、若い時だけが良いと決めつけない方がいいと思っている。