偉大な民謡歌手・三橋美智也  音楽文化研究家 長田暁二

 

天才少年民謡歌手の出現

 

三橋美智也は、昭和5年11月10日、北海道は函館の近くの上磯町で生まれた。幼児期に父亀蔵を落盤事故で失い、再婚したサツは虚弱体質だった美智也の将来を心配して、何か芸を見つけさせたいと5歳から厳しく民謡を教え込んだ。実は母は美声の上に、節回しのうまさは抜群で土地のスターだった。息子は母の懸命な稽古に応えて習得し、将来民謡手になる出発点になったのである。

 

更に母方の叔父に追分の名人三浦為次郎がいて、その影響で小学校入学と同時に本格的に追分を勉強、母譲りの美声は聞く者を驚かせた。9歳で全道民謡コンクールに、1位入賞し、これで民謡歌手になれそうだと自信がついたという。12歳で早くも「江差追分」「津軽じょんがら節」「新よされ節」「たんと節」「米山甚句」「博多節」の六曲をコロムビアでレコード録音し、北海道に天才少年民謡歌手現るとさわがれた。

 

小学校卒業の頃には、前記レコードデイングの折に伴奏してくれた北海道きっての三味線の名手鎌田蓮道に、三味線の手ほどきを受けた。民謡のほかに自分の芸に、何かひとつプラスしなければと考えた三味線が、後年キングレコードに認められてビックアーテイストの誕生につながるのだ。丁度変声期にぶつかり声が思うように出ない時、津軽三味線では日本一といわれた白川軍八郎の舞台を聞いて感動!師事し、とりこになった。

 

終戦直後は、白川軍八郎一座と共に東北地方を巡業、人気スター歌手として名が次第に上がってきた。この巡業中に多くの東北民謡を覚え、民謡生活に大きな係りを持つこととなった。単なる地方回りの民謡スターでは物足りず、東京で民謡と学問を究める志を立て、昭和25年、得意の三味線を片手に上京した。三味線は、もしもの時、三味線流しをしてでも食いつながげると思って持参したのである。

 

デビューまで

 

尺八の菊池淡水の紹介で、綱島の東京園という民謡温泉のボイラーマンになった。昼間はめいっぱい働いて、夜は民謡教室を開いて教えた。21歳で、明大付属中野高校に入学、卒業している。この学校の人文地理の先生が石塚義一郎、全国を旅するのが好きで出かけた先で珍しい民謡を耳にすると、持参のテープレコーダーで土地の民謡を収録してくるマニアで、それを三橋にきかせた。三橋の民謡に深い理解を示し、三橋も尊敬した。

 

正調がどうの∞節まわしがおかしい≠ニ民謡を理屈で論じたり、末梢的な技術論に終始する旧態依然の日本の民謡界に、これで本当にいいのだろうかと疑問をなげかけた。
そして「現代の大衆が歌える新しい感覚の民謡の研究と発展を」旗印に、角田正孝、中沢銀次、平野繁松ら若手の同志と「日本民謡青年新志会」を結成。時代は流れている。懐古趣味で関心をひくだけでは次代に民謡は残らないから、楽譜で全国的に通用する民謡を歌っていくことも大切と考えた。

 

同志と発表会もひらいた。月に一度の合評会もした。このころ、日本民謡青年新志会の理解者の一人だったキングレコードの掛川尚雄音楽課長は、三橋の三味線の腕を信頼、時折レコーデイングを依頼した
28年四月最初の弟子の平野繁松(故人)がNHK全国ノド自慢民謡の部で日本一になったのを見込まれ、八月、晴れの吹き込みをするとき、三橋も三味線奏者としてスタジオにはいったのである。

 

「江差追分」に平野が風邪でうまく唄えない一節があり、音の取り方をこうやったら小声で歌ってアドバイスした。ソフトで甘いハイトーンは相当年季の入ったものでもなかなか出せないのに、何の苦も無く軽々とうたった。
調整室でこれを耳にした掛川は職業的な第六感でこいつはただものではないぞ≠ニピーンときた。

 

結局平野のレコーデイングは中断、不採用になった。その二時間後、三橋は改めて「江差追分」の前唄、本唄、後唄をオーディションさせられ、専属歌手として正式契約をかわすことになった。

 

標準語の発音、余計な節(ゴロ)をいれない

 

29年1月、「酒の苦さよ」でデビューしたが、旋律は民謡「新相馬節」をそのまま使い、歌詞は歌唱曲風はものを新作した。『流行小唄』である。第二作の「瞼のふるさと」も「南部牛追い唄」がベースだった。三橋の歌い方は訛りをとり、ィ∞エ≠はっきり使い分ける標準語の発音を心掛け、余計な節(ゴロ)をいれなかった。
「おんな船頭唄」「リンゴ村から」「哀終列車」などの連続大ヒットで、当代のNO1のスターになっても、掛川と三橋は毎月一枚平均の民謡のレコードを地道に発売し続けた。

 

そんな中にオーケストラ伴奏の「北海盆唄」「相馬盆唄」「武田節」など、それぞれロングセラーで百万枚を超すものも含まれた。セールス面では前人未到の大記録を次々に樹立、大衆が支持したのだ。現代人の感覚にフィットさせ、アピールするように工夫し続けた結果、ごく限られた人が口ずさんでいた民謡を、レコード、テレビ、大舞台のショーなどで披露して一大民謡ブームを興し、民謡を再び大衆の手にもどしたのである。

 

東京キューバンボーイズとの競演で、津軽三味線の素晴らしいテクニックを聞かせて、多くの若者を引き付けた。
あの大女優山田五十鈴も三橋に三味線を習っており、野の芸術といわれた津軽三味線を世間の人々に紹介した一大功労者で、自身「これは自分にとって神からあたえられた使命である」と述べている。
<三橋少年民謡隊>を作って後進の育成もした。48年には民謡の社会的音楽的地位向上をめざして<民謡三橋流>を興し、多くの弟子をそだてた。

 

三橋美智也は、多くの価値ある民謡を消えさせず現代につなぎとめた。かたまりのひとつがこ三橋美智也民謡大全集である。
平成八年1月16日