三橋民謡のことなど       石塚義一郎

 

昭和5年、北海道上磯郡に生まれ、5歳の頃から舞台に立って民謡をうたっていた三橋美智也は、母金谷サツさんの上手な民謡を子守唄として育ち、追分の名人といわれた叔父三浦為三郎氏のうたを肌でかんじながら、10歳の時には神童といわれる種の天才ぶりをしましてすでに頭角をあらわしていた。東北北海道には芸能集団が各地を巡業して技をきそい、今日の民謡の素地となるべき各種の唄がうたわれていた。
その上津軽には三味線の名手も輩出しており、恐らくは津軽三味線の黄金時代ともいわれる名手の中で、三橋は、少年時代を過ごしていたのである。
三橋が民謡の基礎を勉強した津軽地方は、三味線の師匠白川軍八郎、鎌田蓮道、木田林松栄、高橋竹山などの名人が輩出し、民謡にも成田雲竹があり、弘前を中心とした津軽平野には哀調切々たる民謡の声が満ちていた。
しかし、この民謡隆盛を裏切る如く芸能集団の人々の生活は決して裕福ではなかった。「東京へ出ねば」と三橋に決意させたのも、こうした津軽の風土と芸能の世界であった。
昭和25年5月、津軽三味線とリュックを持って上京した三橋美智也のむねにはつがるで鍛えられた師匠の詞「文句をはっきりうたえ」という教訓があった。
これは後に日本民商協会の在り方とは別に、民謡発展普及を目的とした「青年新志会」の発足となって三橋美智也独自の民謡は開眼するのである。

 

三橋が民謡新志会を組織したのは、昭和27年であった。そして昭和28年、キングレコード入社、歌謡曲と民謡を思う存分唄って、独特の三橋ぶしといわれる境地をひらいて坤為地に到っている。
民謡の畑から歌謡曲を歌って成功した人は他にいない。いままで三橋の民謡は歌謡曲化した歌で、本来の唄とはいえないといった人々はすくなくない。
しかし皮肉なことに、私が昭和31年に訪れた相馬原町の「野馬追い」行事にも腹の町の街頭から流れてきたのは三橋美智也の「新相馬節」であった。当時鈴木正夫氏の全盛時代であったことを想うと、三橋民謡には人心をとらえる何かがあったのである。
師匠から教えられた「わかりやすくうたえ」という教訓を生かして、全身こめて民謡と歌謡曲にぶつかった青年三橋美智也のたくましい歌唱力の結晶であったと思う
「どんな土臭いうらでも常に新しい感覚で歌っていこう。民謡は自分にとっては対セルは米粒の一つなのだ。声の続く限りうたいつくそう」と決意した心の底に津軽と北海道のきびしい風土が往来していたという。事実歌謡曲にやってきたスランプを救って見事歌手として強い生命力を持続させた根性こそ、民謡と三味線を中心軸として、不屈の精神をきたえあげた民謡ののどであったのだ。そして民謡ブームという渦を巻き起こすきっかけをつくり全国的に民謡酒場、民謡会、民謡研究会というものが続出しるようになったのも、三橋民謡の影響と考えてもよいであろう。

 

私は三橋美智也のこえこそ、民謡をうたうべき天性の素質であると思う。さきにのべたように、生産本来の生業に従事した人々の、たくましくも優れた歌を聞くことが出来なくなった現在、三橋美智也にほんしるてきな民謡の原点に返ってもらってもっとたくさんの各地の民謡を歌ってもらいたいと思っている。
さらに三橋民謡が歌謡曲調だと断言している人々へ、満足のいく「地の民謡」をぜひともうたいつづけてほしい。もしそれが可能であるなら、そういう刺激をもとに、各地でさらに民謡のルネッサンスが展開してほしいと思う。
失われつつある郷土の民謡が、日本人全体で愛唱されれば、それは三橋民謡の一つの成功ともいえる。

 

さて<明日への出発>は、<故郷>つぐ三橋民謡の第二の試みである。ここでは四つの部門に分けて三橋民謡を分析してみよう。まず第一面は「津軽三味線]津軽の厳しい野づらを奏でるような、この三味線の持つ不思議な音色は、なぜか本州最果ての風土に生まれた、ぎりぎりの土俗的な奏法とも考えられる。
三橋は優れた師匠から肌でこの弾き方を教わった。やがて五線譜に表現し、従来師匠が弾かなかった音域まで工夫して独奏しているのが、ここに示される古典の曲弾きである。伝承芸能の一つとして、古典的な味わいばかりでなく、近代的な弾き方で演奏している意欲にもう一度触れてみたい。

 

第二面は新民謡ないし新作の民謡に挑む意欲作である。新民謡というのは作詞作曲者がはっきりしている唄の事である。「ちゃっきり節」のように、すでに完成してから40年もたってみれば「真室川音頭」「大漁唄いこみ」などといった民謡よりずっと古い時代に属する。
したがって年代的に新しい唄ということでなくて、はっきりとした伴奏をもつ唄と解釈していただきたい。ここでは三橋美智也みずから作曲した「剣崎大漁節」という新民謡もあり、民謡に対する意欲的な姿勢というものを是非感じとってほしいと思う。

 

第三面は大学生を中心とした民謡研究会との出合いであって、学生の学問的な民謡研究と三橋美智也の民謡観を比較しながら共に語り、共に歌っていこうという新しい試みである。
大学にはクラブあり、ゼミあり研究会ありで、中には日本大学相撲部出身の輪島関のように、横綱の王座を占めるような本職も輩出したように、将来学生出身の民謡歌手が誕生するかもしれない。後輩の育成の温かい雅差しをむけて民謡発展への努力をおしまない三橋の姿である。

 

第四面では民謡のがもつ種々の相を味わっていただきたい。大らかな野の唄もあれば、孤独なうたもある。島の民謡もあれば、おどけた歌もある。過去の民謡に潜在していた国民生活の感情が表現されていておもしろい。
民謡と言えば、単に唄としか考えない人もおられるようだが、田仕事には斉唱が多く、臼仕事には掛け合いがあり、畑仕事や山仕事は一人といった具合に、仕事によってうたう人数も調子も違ってくる。たいてい複数で唄う場合にははやし言葉がつく。したがってどういう種類のうたであるか、まずはっきり理解してお聞きいただければ、民謡の味もまた変わってくるというものである。第四面の変化に富んだ野手と情緒を堪能してくだされば幸せである。