石塚義一郎 民謡解説

曲目解説    石塚義一郎

 

北海道 

 

ソーラン節 (北海道)

 

元気な(ソーランソーラン)というかけ声によって手元にたぐりよせられる網の中の鰊。春の到来を告げる魚というので(告げ魚)とも書く鰊漁は、昆布とともに北海道の代表的な海の産業の一つです。
建網にはいった鰊を枠網にあつめ、それをタモに組み上げて輸送船に移し替える沖揚げ作業の唄が(ソーラン節)です。
(江差の5月は 江戸にもないと 誇る鰊の 春の海)(追分節)にもうたわれているように、春の遅い北海道は5月にはいると、長い冬をいっぺんにはね返すごとく、この鰊の到来とともに大いに活気づき、臨時雇いの漁夫(ヤン衆)も加わり、大漁にいさみたったものでした。

 

ソーラン節)は下北半島の海べに伝わった(ナニヤドヤラ)系統の(南部節)がいつか豪快な(海唄)に変化したものと(考えられ、歌詞も明るく男の心意気がこもっております。鰊漁の唄は(船漕ぎの作業唄)からはじまり、敷設した網をおこす(網起こし唄)、それにこの(沖揚げ音頭)(ソーラン節)、さらに腹の中の子を落とす(子たたき音頭)など、作業にしたがって別の唄が唄われております。

 

つ津軽じょんがら節(青森県)

 

津軽民謡中(じょんがら)(よされ)(小原節)を津軽の(三つもの)といい、独特の津軽三味線に乗せて息もつかせずうたいまくるのはまことに壮観です。津軽のことばはよくわかりませんが、ひとたび唄ともなれば母音を巧みに使てこころよいリズムをきかせてくれます。唄の盛んなことは隣の秋田県と双璧ですが、さらに数の多いことが今日の盛況をもたらしたのかもしれません。

 

(じょんがら節)は江戸時代の末頃うたわれた(越後口説)が伝えられて次第に今日の形となったものです。その変化の過程を(旧節)(中節)(新節)と区別し、現在は(新節)が歌われております。

 

三橋美智也は少年のころ、鎌田蓮道というひとから津軽三味線を習い、やがて名人白川軍八郎によってその奥義をきわめたのですが、伴奏者の木田松栄さんもまた数少ない津軽三味線の名手のひとりです。津軽民謡に欠かすことができない津軽三味線の味も堪能してほしいものです。

 

そ相馬草刈り唄(なんだこらよ

 

福島県相馬地方の労作唄です。家畜の飼料にする草刈り仕事にともなう明るくのどかな民謡です。一般に東北の民謡は暗いといわれておりますが、同じ草刈り唄の(刈干切唄)(宮崎県)と比較してみれば、その明るさユーモラスな節回しは正に逆で、素朴ながら土に親しむ東北の人情がほのぼのと浮かんでくるような民謡です。

 

草刈り仕事は、男女ともに行うため、恋愛感情とか、夫婦生活をうたった文句も多く、時には直接性に関するうたもかなりあったのですが、明るさとユーモラスな軽い調子が、よく調和してうまく全体をまとめております。(なんだこらよ)のみごとな締めくくり方は他に類をみません。戦後、相馬の堀内秀之進という人が(石投甚句)と合わせて(新相馬節)をつくられたといわれています

 

ま松前荷方節

 

(荷方)は新潟のことで、うたい出しの文句から(新潟節)と呼ばれたものが、やがて改作されて(荷方)となったのです。江差町の(お座敷唄)でヤン衆相手にうたわれた騒ぎ唄ふうの味を持つ民謡です。
同じ名の(秋田荷方節)はさらにこの唄の移入ともいわれますが。三味線のあしらいに独特の北海道的な工夫があり、越後の瞽女三味線を思わせる手法に面白さがうかがえます。

 

新潟県の祝い唄の(松坂)を改良した唄とは考えられない北海道ナイズされた民謡です。
(松坂)とよばれる新潟県下の(祝唄)は婚礼、正月若水汲みなどの祝い事に、威儀を整えて歌われたもので、津軽の(謙良節)ともなり、各地に運ばれてしだいに座敷の余興にうたわれるようになったと考えられております。

 

 

あ姉こもさ

 

(姉こもさ、誇らば誇れ若いうち)の文句から呼ばれた哀調ある民謡です。よく聞くと、どこかで聞いたことがある節だと、お気づきのことでしょう。
宮城県の(気仙坂)、岩手県の(御祝)などと同じ(銭吹唄)系統の作業唄なのです。
銭吹というのは、昔銭つくりの職人が製錬のためにふいごを吹きながら火勢を強めて作業したもので、その職人はたたら師ともよばれました。

 

昔石巻の銀座で働いていた斎太郎という職人が、事件があって島流しとなり、この唄を艪漕ぎ唄ふうに漁師唄に改作したと伝える(斎太郎節)と同じ節ですが、これは海唄らしい勇ましさがあるのに比して、いかにも山間の暗さを漂わせる美しい節であることが対象的です。秋田県仙北地方の民謡です。

 

 

ほ北海盆唄

 

渡島半島の北端、日本海の厳しい風波に洗われて突き出した積丹半島。その昔、鰊漁場として北海道一の漁獲高を誇った半島の漁村も、今は海を背にした平凡な生活を展開していますが、その東海岸にある高島町(小樽市)の(盆踊り唄)が(北海盆唄)です。入江に富んだ美しい海岸を背景に盆踊りを楽しむ人々、実は新潟から集団移住して住み着いた開拓者たちの故郷をしのぶ歌なのです。

 

北海道の大自然は、冬は零下数十度の厳寒もおとづれ、春も遅く、夏も短く、土地は広大であっても作物は豊かではありません。ただ海に生きる道南の人々は、海の資源を唯一の生きがいとして生活をささえてきたわけで、民謡に海辺の町の空気が漂っているのは無理もないことでしょう。
高島町一帯は昔、鰊の豊漁に恵まれたなごりをとどめて水産設備もよく、この町の北西余市町には北国の風情が美しく、りんご畑が展開し、またウィスキー工場もあって、札幌市の海の玄関口として栄えたところです。

 

 

いやさか音頭

 

北海道民謡の代表ともいえる鰊漁の唄です。鰊漁の作業唄は(船漕ぎ)(網起し)(切声)(沖揚げ)(子たたき)などの順序があり、中でも(沖揚げ)は(ソーラン節)として有名。
(子たたき)は、網についている鰊の子、つまり数の子を竹の棒でたたいて落とす仕事から生まれた名で、子たたき音頭、はやし言葉から(いやさか)(いやさかさっさ)などと呼ばれた(労作唄)なのです。唄い方も地域差があって二通りみられますが、明るく海の唄らしくおおらかさが漂っております。青森県の(鯵ヶ沢甚句)と同系の民謡です。

 

 

え江差追分

 

日本列島最北の北海道を代表する民謡(江差追分)は北海道を(松前)と呼んだ江戸時代からすでにうたわれていたといわれます。この唄は、前唄、本唄、後唄の三つに分かれていますが、以前は本唄だけが唄われていました。
前唄というのは北九州の平戸付近の海唄が変化したもの、また本唄・後唄は新潟県(越後)から移入した(馬子唄)といわれ、この三つをあわせた三部作で、故郷を離れて開拓や出稼ぎに来た人々の内地への郷愁をさそう哀調切々とした素朴な唄です。

 

北海道の玄関でもある渡島半島を(道南)と呼びますが、道南は特に民謡のさかんなところで、北海道民謡のほとんどが集中しております。中でも昔、福山といった城下町松前とアイヌ語で(昆布)の意味といわれる港町江差の二つの町は(追分節)の道場も開かれ、正調をつぐ熱心な後継者の育成が行われています。

 

三橋美智也は(江差追分)の名人といわれた三浦為七郎を叔父に持ち、9歳のとき(追分)を
うたって 全道民謡コンクール第一位となり、はなやかな民謡歌手としての第一歩を踏み出したのです。

 

外が浜音頭

 

津軽の民謡家成田雲竹氏の作詞、作曲による(新民謡)です。外が浜は青森県津軽半島の最北端で、卒土ノ浜という辺土を意味した呼び名です。歌の文句にもあるように、津軽海峡を北にし、下北半島を東に臨む本州の西北端竜飛岬の、冬のきびしい自然をもつ地域で、北海道への出入り口として重要な場所であったところです。現在は青函トンネルの開堀作業がつづけられており、やがて北海道への開通とともにさらに重要な地理的役割を果たす場所になることでしょう。

 

弥三郎節

 

青森県津軽地方の(数え唄)ふうの嫁いびりを主題とした民謡です。弥三郎は西津軽郡の木造町相野に住む百姓ですが、唄の文句にあるように大開万九郎の娘をようやく嫁にしたところ、弥三郎の親が過酷なまでにいじめつくした。嫁はとうとう耐えきれなくなって暇をとってしまったという意味の内容で、村人が嫁に同情して唄い、一種の社会制裁のために流行させたという珍しい民謡です。この種の話は津軽地方に限られたものではありませんが、民謡の盛んな津軽の風土と、津軽三味線の名手が輩出した同地方であればこそ、唄として巧みにうたわれるようになった背景が偲ばれるのです。

 

 

鯵ヶ沢甚句

 

鰺が沢は、青森県西津軽郡の日本海に面した港町です。旧津軽藩の海の玄関として栄え、昔からも漁業が盛んで、唄の文句の示す如く漁港の人々の(盆踊唄)としてうたわれた民謡です。ただし節は津軽平野一帯の(盆踊唄)と共通し、それぞれの地名をつけて(津軽甚句)(五所川原甚句)などの名前でうたわれております。元は口説調の長い文句でしたが、近年はこのように(甚句)として形、七七七五調がもっぱらうたわれ、はやしことばも(イヤサカサッサ)が(ヤートセヤートセ)といわれるように変わりました

 

八戸小唄

 

青森県南部地方、八戸市で唄われる新民謡。昭和6年、仙台の後藤桃水の作詞です。どこか秋田(生保内節)に似たところがあって、宴席でよくうたわれます。

 

八戸は漁港として有名で、特にイカ漁では各地の漁船が寄港し、港町は船乗りでにぎわいます。この八戸市東端に蕪島があり、春五月から秋へかけて数万羽の海猫が飛来して卵をうみ、ひなを育てます。この海猫がまた八戸の名物で、北洋漁場、三陸漁場で働く漁師をはじめ、市の人々の観光資源ともなり、八戸海岸から南東へのびる美しい種差海岸の景観にいっそうの趣を添えているのです。

 

八戸市は旧南部二万石の城下町です。東北の代表的な臨海工業都市で、商業地区、工業地区の市街地漁業・商業をかねる鮫の港はまさに市の要ともいえましょう。こうした町の風物がよく詠み込まれて愛唱される唄が(八戸小唄)です

 

 

津軽山唄

 

樵夫(きこり)が山の中で労働しながらうたった(仕事唄)が、もっぱらお祝いの座敷でうたられるようになった唄ともいわれます。津軽平野を流れる岩木川の東を(東通り)、西を(西通り)と呼んで二種類の(山唄)がありますが、「これは(西通り)の唄で、古く(十五七節)といわられたものです。
(十五七)というのは成年期の男女の意味か。伝説の親孝行息子重五七の名前であるのかはっきりしませんが、この歌詞では男の子は意味にもとれます。山の労働の苦しさを訴えているのですが、昔は若い男女が(山遊び)と言って山菜採りで一日を楽しく過ごす男女交際の遺風の唄だとも考えられ、節の美しさ、哀しさ、そして上品さが今日多くの愛唱者を持つゆえんなのでしょう。また山の木を神おろしの神聖な(よりしろ)と考えた昔では、ここに働く樵夫に神を迎える特権を与えたことなどから、樵夫の唄が野に下れば(祝い唄)ともなって、めでたい席にまず(山唄)がうたわれる習慣になったともかんがえらます。

 

津軽あいや節

 

青森県は(南部)と(津軽)の二つからなります。青森市の東から十和田湖の西へかけて直線的に一線を引き、東の下北半島側を(南部)、西の津軽半島を(津軽)と呼びます。ともに民謡の豊富なところですが、一般的には津軽は進歩的、南部は保守的といわれるごとく、津軽地方にはさまざまの唄の工夫と改良が、南部地方には古風な民謡が保存されているのも面白いと思います。実際には気候風土、歴史、方言、生活習俗などの違いが、民謡の歌い方、伝承などにも影響してくるのでしょう。

 

(津軽あいや節)は日本海を九州から北上、各港町に伝播した(はいや節)の系統の唄で、その文句に(あいや)とあるところから(あいや節)の名が出たといわれます。
津軽地方は本州北端の地理的位置から西日本の文化の影響を受けて陸・海路からさまざまな民謡が伝わり、土着したものが老いのですが、先にもいったごとく、うたい方の工夫はまことに独特で、加えて三味線細かいメロデイーは他に例を見ないといってよく、実に変化の多い唄として完成されました。

 

謙良節
青森県津軽地方の(祝唄)です。謙良というのは松崎謙良という人名から出たのだともいわれます。松崎謙良は盲目の芸人検校で、新潟県新発田の出身とされておりますが、唄のもとは「越後松坂」という(祝い唄)ですから(荷方節)ともなんらかの関係があるかもしれません。
一説にはこの(兼良節)が北海道に渡って(追分節)になったとも伝えられています。この唄は正月の若水汲みという、元旦に井戸水を汲み、この水で歳神への供物や家族の食物を炊いたりするときにうたわれた(松崎)の、明るい、しかも厳粛な気持ちをたたえた唄であり、時には婚礼にも儀式の後にうたわれたものです。

 

十三の砂山(とさのすなやま)
青森県の西津軽十三地方の(盆踊り)の唄をそのまま津軽三味線の旋律に乗せて聞く、哀調ただよう曲弾きのよさに、何か津軽の風土性がわかるような気がします。津軽三味線は寒風吹きすさぶ雪の路上でも、一の糸の強い張りをひびかせて奏でたものといわれます。息をつかせぬ曲弾きの響きの中に(語る)(うたう)相手と呼吸と一致した迫力が感じられるのが、津軽民謡を聞くたのしさなのです。ながい演奏から、やがて小太鼓が加わって唄に入る導入の部分の面白さ。ここには本州北の崖の哀感を肌で感じさせるような不思議な魅力があります。
(十三の砂山)は津軽民謡中屈指の寂しい唄ともいえましょう。唄の内容は民謡の方にゆずりますが、唄の部分を除いてみると、砂丘と防砂林のながくつづく十三の浜、囲いの貧しい民家と、青年の去ってしまった活気のない生活の中で、老人と子供が手拍子で踊る年に一度の盆踊りが、ふと浮かんでくるようです。

 

秋田おばこ

 

秋田民謡のうち代表的な唄はやはりこの(秋田おばこ)でしょう。この唄の素朴さと、洗練された曲調とで朗々と郷土の愛着をかみしめるような味わいふかいものが表現されております。
(おばこ)というのは(若い娘)の方言で、秋田美人をいかにもほうふつさせる美人礼賛の歌詞の連続がなんといっても大きな魅力なのです。
山形県の(庄内おばこ)が街道を往来する馬喰によって運ばれ、仙北郡生保内におろされ、土地の大夫によって秋田風の原型が生まれ、やがて今日の唄となったのが明治の末頃といわれております。土地土地で節も異なり、(田沢おばこ)とか呼んでおりますが総称して(仙北おばこ)ともいいました。
(秋田おばこ)というのは、山形の(庄内おばこ)に対して(秋田おばこ)と呼んだからです。
美人と酒のうまさとで、日本一深い田沢湖のほとりで酔う旅の一夜に、さだめし(秋田おばこ)の唄のよさは格別なことでしょう。

 

酒屋唄
秋田県の酒造地でうたわれる酒造りの(仕事唄)です。酒造りの唄には順序によって(米つき)(水釣り)(流し)(米とぎ)(床もみ)(?すり)(仕込み)などという数多い作業唄に分けられている。東北、関東、関西の各酒造地では多少唄の内容も違っており、唄い方も(関東風)(関西風)と区別されているところもあって、酒造りの職人頭、杜氏の腕が酒の味を左右することなど、唄と関連がある極めて多忙な寒中の仕事なのです。唄をうたいながら酒を造ると聞けば大変呑気に聞こえますが、実際は重労働です。秋田の酒造り唄の中でも現在もっとも一般的に愛唱されているのは(?すり唄)であって、職人の心意気と酒蔵の雰囲気を実によく表現しています。

 

久保田節

 

久保田は秋田市の古い呼び名です。もと佐竹藩の城下町として栄えたところですが、現在は名物竿灯で八月初旬は大いに賑わいます。町の各所で(お座敷唄)として盛んにうたわれるのが(久保田節)で、この唄は元秋田市長小玉政介という人の作詞、秋田の民謡家永田定治の作曲による新民謡です。美しい節回しで、秋田の郷土性に欠けるうらみはありますが、上品で歌いやすく、大勢に愛唱されております。

 

長者の山

 

秋田県の大曲から田沢湖へかけて生保内線が通じ、この地方を(仙北)といいます。民謡の最も盛んな所で、(おばこ)をはじめ(ひでこ節)(姉こもさ)(さいさい)(秋田音頭)(生保内節)(長者の山)(どんばん節)(お山コ節)(荷方節)などあげればきりなく、唄すきで、明るい秋田の人々は、酒の出ぬうちから無伴奏で歌いだします。秋田方言をおもしろく唄になおし、県人ならばだれでも無造作にうたえそうな、まこと日本一の唄どころといえましょう。中でも(長者の山)は実にめでたい唄で、昔、田沢湖畔に住んでいた長者が金鉱を掘り当てた、その祝いに村人が繁盛を祈ってうたった(縁起唄)といわれています。仙北と南部の境にある国見温泉に湯治に来た婆婆たちが、前の人の唄にちなんだ文句をうたう(かけ唄)として順々にうたったところから、一名(婆婆踊り唄)ともいわれるそうです。明朗で秋田らしい気分の漂う唄です。

 

秋田甚句
秋田県仙北地方の(盆踊唄)です。古くは(仙北サイサイ)とも呼ばれ(秋田おばこ)とともに秋田民謡の代表な唄とされております。
仙北地方は民謡の宝庫ともいわれるところですが、ここの出身佐藤貞子によって(おばこ)(甚句)が現在の唄の様に美しくまとめられ(サイサイ)の名も(秋田甚句)と改められたのだということです。佐藤貞子の父は横笛の名手であったといわれますが、そういえば(おばこ)も(甚句)もその難しい節回しの中に、横笛の美しいメロデイが生かされていたのかも知れません。

 

姉こもさ
(姉こもさ、誇らば誇れ若いうち)文句からよばれた哀調のある民謡です。よく聞くと、どこかで聞いたことがある節だと、お気づきのことでしょう。宮城県の(気仙坂)、岩手県の(御祝)などとおなじ(銭吹唄)の系統の作業唄なのです。銭吹きというのは、昔銭つくりの職人が職人が製錬のためにふいごを吹きなが火勢を強めて作業したもので、その職人はたたら師ともよばれました。昔石巻の銭座で働いて斎太郎という職人が、事件あって島流しとなり、この唄を艪漕ぎ唄ふうの漁師唄に改作したと伝える(斎太郎節)と同じ節ですが、これは海唄らしい勇ましさがあるのに比して、いかにも山間の暗さを漂わせる美しい節であることが対象です。秋田県仙北地方の民謡です。

 

おこさ節

 

秋田県の(お座敷唄)で戦後流行した賑やかな唄です。酒の席の騒ぎ唄らしく陽気で明るい民謡ですが、他の民謡と比較する秋田らしい情緒に欠けるようです。はやし文句の(おこさで おこさでほんとだね)から(おこさ節)の名が出たのでしょうが、作者は解かっておりません。

 

飴売り唄
秋田県に残る飴売り商人の唄です。飴売り商人は台盤という大きな盆をのせ、そこに飴を入れて。太鼓をたたきながら売り歩く格好もあれば、飴箱を肩から下げてゆく姿もあり、青とか赤とかの衣装も面白く、子供を集めてにぎやかにうたいながら飴を売ったものです。現在ではこの姿はほとんど祭礼でも見ることはありません。テレビの時代物に時たま登場するのを見かけて昔を想像するより方法がなくなりました。
唄の文句は口説き調で、越後の甚句系統の転用と思われます。数え唄もまじえてながくうたい歩くところから、唄そのものを聞かせるものでなかったでしょうか。この種の商売の消滅とともに、民謡としての(飴売り唄)が残されて今日に及んだものなのです。しかし実に洗練された美しい節であることか、秋田県の唄は特に優れていると思います。

 

長持ち唄

 

(長持ち唄)は(たんすかつぎ唄)(嫁入り唄)などとも呼ばれ、婚礼の調度品を運ぶ人夫の(道中唄)が婚礼披露の宴席でも一般にうたわれるようになった(祝儀唄)の一つです。仙台の北と南とで歌い方に特色があり、仙北は普通の(長持ち唄)仙南は二人でかけあいで必ず歌います。婚礼の日は間口に臼を据えて祝いの持ちをつき、嫁を迎えるとき、玄関先で嫁方と婿方から美声の者が出て(嫁わたし唄)(受取り唄)の文句をうたえば。長持ちをかついだ人夫たちは(お渡し申すぞこの長持ちを二度と返さぬ ふるさとへ)とうたい、いよいよ花嫁のお輿入れとなります。(長持唄)の文句は、きょうのめでたさをまずうたい、花嫁礼賛、婿の家ほめ、花嫁の覚悟を両親に伝えるなど、厳粛な式のなかにも嫁をむかえる喜びと、親元を離れて嫁ぐ情感が漂う洗練されたものばかりです。
宴席では(さんさ時雨)(長持ち唄)(餅つき唄)(お立ち酒)(立ち振る舞の酒)(安床)(お床いりの唄)などにぎやなかうちにも婚礼の儀式の進行に従った唄の順序がだいたい決められていたようです。

 

新タント節
(タント節)は本来藁打ち作業のときの(仕事唄)で、数え唄式のものと、口説き調のものとがありました。秋田県や青森県で盛んにうたわれておりますが、これは三味線伴奏に工夫が加えられるのに及んで一層面白く変化したものと思われます。元唄は越後方面の口説の移入と考えられておりますが、この(タント節)に他の民謡を即興的にいれてなお面白く改良を試みたのが(新タント節)です。したがって新民謡といった方が適切です。ここでは高橋掬太郎作詞、山口俊郎編曲による唄をうたっております。

 

外山節

 

岩手県盛岡市郊外の外山牧場でうたわれた(お座敷唄)です、外山牧場は軍馬飼育のために開拓されたといわれ、そこに働く工事人夫が、仕事のつれづれにうたわれていたものが、いつしか定着して今日の型となったものらしいのです。曲は秋田県仙北郡の角館地方の(お山コしゃんりん)によく似ており、あるいはこの地方の人的交流による民謡の移動と言えるのかもしれません。お座敷調の三味線も加えられて明るい節回しとなっており、素朴な中にすてがたい味のある民謡として親しまれております。

 

南部牛追い唄

 

岩手県南部地方の民謡は、独特の細かい節と半音(陰旋)の美しさに加えて、素朴な土の叫びを感じさせます。中でも(南
部牛追唄)すぐれた哀調のある響きが聞く人の胸を打ち、日本の心中に残されていた祖先の暖かい愛情と平和を愛する心情とを感じるすぐれた作品であると思います。
岩手では牛のことを(べコ)といいます。(肥えた牛に曲木の鞍コ置いて、金のなる木を 横づけに)などとうたいながら牛を放牧するのですが、雪が消えて初夏の候となれば、奥羽山脈の谷間谷間に牛が追われて次第に山を上る牧歌的な情景を見ることが出来ます。
岩手県は(日本のチベット)などとありがたくもないことばをもらい、面積の割合に人口が少なく、土地も山がちの上に風水害、潮害、地震、冷害、干害とあらゆる天災が多く、農業生産力も全国的水準より低く、封建性のなごりも強いといわれていました。その岩手県を強く現代に発展させているものは酪農です。土の中に培われた不屈の精神と(牛追唄)の響くサイロの建つ農家とが、やがて日本一の酪農王国をつくるにちがいありません。

 

南部子守唄

 

岩手県の盛岡地方に伝わる(子守唄)です。全国的に同じような歌詞がうたわれるのは、子守労働という単調な目的に対する表現のためで、(ねんねん)が寝ようという意味である限り、他地方と共通の文句でもよかったのでしょう。
ヤットコ山田の 白犬コ
一匹ほえれば 皆ほえる
も(向えの山の白犬こ 一匹吠えれば 皆ほえる)と地方によっては地名が異なるだけで内容はさして変化がみられません。(子守唄)は一般的に暗く、(泣く子は嫌い、泣かぬ子でさへわしゃ嫌い)といった傾向のものが多いですが、赤児の夢を育て親心というものが表現されている場合には、子供好みをかなえてやりたいという心情を、食べ物、玩具などに置きかえてうたっています。

 

からめ節

 

(金山踊)とも呼ばれたこの民謡は、鉱山の唄で、からめの名も鉱石の不純物を除くことをからめるといったところから出たといわれています。岩手県から秋田県にかけての(鉱山唄)として残されうたわれている民謡です。(南部牛追唄)の文句と同じ(田舎なれども南部の国は 西も東も金の山)も文句は 旧南部領、現秋田県の鹿角地方で金鉱が発見された時の模様をうたったものといわれております。鉱山からうたわれ出した(からめ節)は明治以後、今日のような唄に整えられたのです。

 

南部木挽唄

 

山で働く木挽師が大鋸で切り裂きながらうたった(仕事唄)です。南部木挽き唄は腕利きとして知られ、各地へ招かれて作業したと伝えられますが、山中の労働唄らしい孤独な風情と感情とがよく表現されているようです。

 

沢内甚句

 

岩手の沢内地方は、南部の隠し領といわれ、(沢内三千石お米の出どこ)とうたわれた最大の米どころなのです。現在は和賀郡沢内村に属し、奥羽山脈の山ふところに抱かれた盆地の村ですが、その昔、年貢の代償として庄屋のお米が藩主に差し出され、これに同情した村人たちが(お米の出どこ 桝で計らねで、み(身)ではかる)うたったものだといいます。沢内地方のお蔵米は牛の背に積まれて南部藩の米倉まで運ばれましたが、歌詞も(南部牛追唄)との共通のものが多く、現在は(盆踊唄)(お座敷唄)としてうたわれております。

 

さんさ時雨

 

宮城県仙台地方は奈良時代から東北地方の経営の重要な拠点であったばかりでなく、恵まれた地理的環境は陸奥及び日本海沿岸の地方への物資・文化輸送の中心地でもありました。仙台市はもと伊達氏62万石城下町として栄え、なかでも青葉城址と城下の流れ広瀬川の景観は東北第一を誇る大都市の面目を保ち、過ぎし森の都の繁栄を物語っているといえましょう。
また現在は行政上の機能及び産業、文化、教育などの諸施設においても東北を地方を全体を統括する一大中心地でもあります。この仙台の開祖ともいうべき伊達政宗が、天正16年(1588年)に近隣諸侯と戦って勝利を得、
宮城野で祝宴を催した際に、伊達氏の一族亘理五郎重宗が詠んだ(音もせず 茅野の夜の 時雨来て 袖にさんさと 濡れかかるらむ)という歌を、政宗自ら(さんさ時雨か 茅野の雨か…)と歌って以来、家臣をはじめ多くの人々によって今日に伝えられたという伝説の唄が(さんさ時雨)です。仙台地方でも(祝儀唄)として格調高く歌い上げ、郷土の誇りとしております。

 

斎太郎節

 

雄大なスケールと、海に生きる男の荒々しい感情の中に、ふと故郷へ寄せる温かい愛情を巧みに表現した(斎太郎節)が、もとは宮城県から岩手県を中心とする海岸でうたわれた(祝い唄)であることは、すでにご存じの方もおおいでしょう。(斎太郎節)を(さいたら)と読むのは、お正月の神様(歳徳)から出たともいわれ、あるいは昔の南部生まれの斎太郎が石巻の鋳銭場で騒動を起こし、首謀者として遠島(江ノ島)に流されたが、漁師となって鋳銭場当時の(たたらふみ唄)(銭吹唄)を艪のリズムにのせてうたったので、斎太郎の名が出たともいわれております。
最近はこの唄に(遠島甚句)をつけて(大漁唄いこみ)といっておりますが、(斎太郎節)は独立しても実に風格のどうどうとした唄で、元は銅銭をつくる製錬場でうたった(ふいご吹きの唄)が、(鋳銭場)(気仙坂)(姉こもさ)の名で各地方につたえられたものであろうということです。
五・七・五の短い文句に(サヨ)をつけて、実際には七・七・五でうたう、太平洋演歌の代表的民謡です。

 

塩釜甚句

 

一名は(はっとせ)とも呼ぶ、宮城県塩釜市の(お座敷唄)です。塩釜港の漁師相手に歌われた港の騒ぎ唄でしたが、町の遊郭などで好まれ、その心情が唄の文句からも推察されるようです。(ハットセ)という威勢のよい太平洋民謡らしさに(海唄)の片鱗がうかがえられるようです。

 

お立ち酒

 

婚礼の際の祝い唄です。宮城県の(長持ち唄)(さんさしぐれ)とともに婚礼祝儀の際の、(立ち振る舞いの酒)の唄です。婚礼は道中にうたわれる(長持ち唄)につづき、祝いの座敷では(さんさしぐれ)(えんころ節)(安床)などといった様々の祝儀づけの唄がうたわれますが、宴もすすんでいよいよお開きの時に客を送るわかれの唄として、うたわれるのがこの(お立ち酒)なのです。何か別れの寂しさがこもっていて、品んよい静かな雰囲気をもつ民謡です。

 

 

新さんさ時雨

 

(さんさ時雨)は宮城県一帯の祝いの席に欠かすことのできない(祝儀唄)ですが、近年(新さんさ時雨)も唄われているようです。

 

夏の山唄

 

宮城県下でうたわれた山の草刈り唄です。古くから(かくま刈唄)といわれ、雑木を刈り取る作業のときにうたわれてものとかんがえられます。草、萩、柴などを刈りながらうたうのどかな野趣をたたえた唄ですが、しだいに工夫されて今日の民謡に整えられたものです。宮城県仙北地方では、山の木伐唄を(秋の山唄)草刈り唄を(夏の山唄)と呼んでおりますが、これは同県の民謡家後藤桃水氏によって名付けられたものです。のど自慢大会にもよくうたわれる唄ですが、いかにも(山唄)らしい爽快な気分がみなぎっているいや味のない民謡だと思います。

 

花笠音頭 

 

山形市を中心とする村山地方でうたわれ、三橋美智也によって全国的に流行した唄です。民謡と同時に踊りも普及し、どのグループでも必ずこの唄が選ばれるほどです。
(花笠音頭)は(花笠踊り)(笠踊り)ともいわれる(踊り唄)で、従来は田植の踊りに属する花笠を持つところからこの名がでたのですが、山形は江戸藩政時代から紅花の産地として知られこの紅花を笠に飾って色彩あざやかに踊ったものです。
日本海の海岸は地形が嶮しく、ことに昔は冬の往来が陸・海路ともに困難のため、春から秋の間の交通が盛んで、西(京阪地方)への往来は海路を利用したものです。途中寄港する町々の文化は直輸入の形で、移入され、それが土着して郷土化することはごく自然のことですが、この唄もまた出雲あたりの(海唄)が変化したものでしょうか。はやしの(やっしょ まかしょ)は出雲の(船方節)に、また唄の曲節は島根県の益田に伝わる(餅つきばやし)のよく似ております。

 

最上川舟唄

 

(五月雨を あつめて早し 最上川)と芭蕉の句にるように、墨絵のような最上川の風情と、川の緩急を巧みに組み合わせてうたう(最上川舟唄)。この唄も(出雲節)の変化したものといわれ、最上川の下流酒田港でうたわれた(舟唄)の前唄にかけ声を組み合わせた、二部作ともいうべきおおらかな(舟唄)です。最上川の歴史は古く、奈良時代から江戸時代にわたて開かれ、明治34年の奥羽線開通まで舟運輸送が続けられました。この舟は米沢の米を酒田港まで運ぶのですが、最上川は(日本三急流)の一つでもあり、難所が各地にあって、時には陸から網で舟を曳いたものだそうです。上り舟は魚塩類、下り船には米を積み、唄は主に下り船でうたったものらしく、そのほとんどがかけ声ばかりで、時には単独で(酒田追分)を歌うか、あるいは(江差追分)の前唄同じ(平戸節)をこの掛け声に挟んで歌ったものといわれます。この種の唄は北上川や信濃川の船頭たちにも歌われたものらしく、土地の古老は文句を変えて今日に伝えております。

 

大黒米

 

山形県の(祝い唄)です。名の示す通り、大黒頭巾をかぶって、打ち出の小槌と日の丸の扇子をもった門付け芸人が、商売繁盛、無病息災を祈って門毎にうたった語りものの民謡です。民謡といっても一般的にうたわれたものではなくて、専門的な職業集団の人々の唄であり、季節的に巡回してくる(歳事唄)としての要素をもった祝福芸ということろに意義があるのです。しかし今日ごとき民謡の盛行にともなって、この難しい唄ものど自慢に登場しており、日本民謡に対する意欲的な熱意と研究心のほどがうかがわれるようです。

 

新庄節

 

山形県新庄市中心の(お座敷唄)です。古くは(羽根沢節)という唄が、新庄の遊郭万場町でうたわれるようになり、三味線の手も加えられて(お座敷唄)化したものといわれます。

 

真室川音頭

 

(真室川音頭)は、北海道や樺太で働く人夫やカニ缶詰製造の女工たちによってうたわれた(ナット節)が、昭和24年ごろ、真室川の料亭紅屋の女将佐藤ハルエという人によって編曲された歌といわれます。真室川という所は新庄に近い奥羽線の一駅で、川の名ではありません。この唄が流行歌(やっとん節)として流行すると、実は元唄がこの(真室川音頭)でございとばかりに。一躍全国へ知られるようになりました。するとさらにその元唄が(ナット節)がまた登場する、といった具合に戦後このかた幾多の生長論争が生まれ、元唄の詮索など盛んとなったものでした。
(真室川音頭)の陽気なメロデイと歌詞の内容は、久しく地方でうたわれた土臭いにおいを都会風に洗練しなおした、いわば新民謡風の民謡として、戦後の一大流行を招く一つの典型だったともいえます。

 

庄内おばこ

 

山形県庄内地方の唄であり、山形県の代表的な民謡として親しまれております。山形県下でも各地で存在し(大沢おばこ)(米沢おばこ)といったぐあいに、地域的には多少うたい方に相違がみられます。しかしこの唄のユーモラスな明るい文句と節回しはまことに優れていて、米どころ庄内の何北に細長い平野に住む人ののんびりとした人情というものがにじみでている民謡だと思います。

 

新花笠音頭

 

山形市の(新民謡)としてつくられた唄で、矢野亮作詞、吉田矢健治作曲、白石十四男編曲によるものです。

 

相馬盆唄

 

日本の数多い(盆踊り唄)の中でも特に代表的な民謡で、うたい出しの(ことしゃ豊年だよー)は昭和31年以来の大豊作ブームに拍車をかけられて全国的に有名となりました。この豊作ブームは神武以来の景気ともいわれ、日本農業史開闢以来はじめておとづれた農村最大の幸福であり、同時に勤労の喜び、収穫のありがたさを無限に感じ、荒廃した敗戦後の日本を一挙に現代水準へ押し進めた記念すべき時期に流行した民謡です。
暗い田舎の広場でも、都会の道路や学校の校舎につくられた盆踊りの櫓でも、この唄は全国で踊られうたわれました。
相馬の一地方でしか聞けなかった(盆踊り唄)が、電波に乗って全国で踊られる?もはや民謡は日本人全体の心の唄として、その優れたリズムが高らかにうたわれる時代の到来をつげたのも、この唄に負うところが多いといえましょう。
民謡を日本人全体の唄に、この夢を抱いて上京した三橋美智也の夢をオーケストラに乗せてみごとに成功させた民謡の一つであります。

 

相馬流れ山

 

福島県の太平洋沿岸を(浜通り)と呼び、中でも相馬地方には民謡が数多くうたわれておりますが、この(相馬流れ山)は中でも代表的な唄として知られております。
毎年7月11日から3日間、原町のひばりが原を中心に(野馬追い)の行事が昔の騎馬武者の壮烈な野戦を想像させるように展開されます。
この行事をうたったものが(相馬流れ山)です。唄の文句にある(野馬追い)とはもとは下総の流れ山藩主相馬氏が、小金が原で行った騎馬演習を相馬地方に移したものとつたえられ、その起源は平将門に始まるといわれます。
中村、小高、太田の三妙見の祭礼に行われますが、中でも中村が有名で、鎧兜に旗指物をしょって馬にまたがり、合図の花火から落とされる三社の旗を取り合う競技は、現代風にせめられたとはいえ、まことに勇壮無比な神事と言えましょう。加えてほら貝、陣太鼓の踊りと(流れ山)の唄は相馬地方を吹きまくる野の風の調子を伝えて遠く響き渡ります。

 

原釜大漁祝い唄

 

福島県相馬市原釜地方の民謡。(相馬中村原釜は 角網どころ)と唄にうたわれるごとく、定置網の一種角網漁にによる大漁を祝って地元の人々がうたい広めたものです。福島県から宮城にかけては(斎太郎節)(遠島甚句)系統の大漁唄が浜毎に地名をつけてうたわれ、沿岸の漁師の心意気が美しい曲となって表現されております。(斎太郎節)ににた哀調のある唄で、宮城県の(閖上大漁祝い唄)とともに近年とみに歌われ出した民謡です。

 

 

 

相馬土搗唄 基子のインターネットしらべ

 

…日本の民謡。土搗歌(どつきうた),胴突歌ともいう。労作歌,祝歌(いわいうた)の一種で,家の建築の際などに土台を固めるための地搗き作業に歌われる。…

 

 

 

 

新相馬節

 

戦後の流行でありながら、しかも古い民謡の仲間のごとくどうどうとうたわれ、あふれるごとくににじみ出る郷土色、相馬を知らない人でも(相馬恋しや なつかしや)とわが故郷のような感慨でうたえるのがこの(新相馬節)です。この唄は新作といっても、その底に流れるもの哀しい曲節は古くからうたわれた相馬の(草刈り唄)と(石投げ甚句)の巧みな組み合わせであるからで、これを作った堀内秀之進という人は(相馬民謡の父)とも呼ばれた方です。
この方に従事した故鈴木正夫が全国的に普及させ、当事流行歌手として破竹の勢いを示していた三橋美智也によって広い年齢層にまでうたわれるようになったことは、まだ耳新しいことでしょう。
歌い方の特徴は、陰旋で(半音)で、(南部牛追唄)や(佐渡おけさ)のごとき哀調あるリズムが、ことに戦後の民謡愛好家に歓迎されたようです。
(民謡は米を同じ心の糧である。ぼくにとって民謡の一節一節は命にひとしい)と当時の三橋美智也は叫びにもにた力強い歌声でこの(新相馬節)をよくうたい、深い感動をあたえたものでしたす。

 

相馬草刈唄

 

福島県相馬地方の労作唄です。家畜の飼料にする草刈り仕事にともなう明るくのどかな民謡です。一般に東北民謡は暗いといわれておりますが、おなじ草刈唄の(刈干切唄)(宮城県)と比較してみれば、その明るさユーモラスな節回しは正に逆で、素朴ながら土に親しむ東北の人情がほのぼのとうかんでくるような民謡です。
草刈仕事は、男女ともに行うため、恋愛感情とか、夫婦生活を歌った文句も多く、時には直接性に関するうたもかなりあったのですが、明るさとユーモラスな軽い調子が、よく調和してうまく全体をまとめております。
「なんだこらよ」の見事な締めくくり方は、他に類をみません。
戦後相馬の堀之内秀之進という人がこの唄と(石投甚句)と合わせて(新相馬節)をつくったといわれます。

 

会津磐梯山

 

(会津磐梯山)は会津盆地の(盆踊り唄)で、踊りを(かんしょ踊り)といいます。昭和10年ごろ、小唄勝太郎さんがはじめの文句をとって(会津磐梯山)として売り出し、一躍有名となりました。(かんしょ踊り)の「かん」はかんしゃくの「かん」で、(気違い踊り)という意味だそうです。越後から伝えられた(甚句)が元唄で、明治初年ごろ会津若松で歌い始めたといわれています。この唄を有名にしたのは、曲のよさばかりでなく、、唄の中に登場する(小原庄助)なる人物のなんともいえない滑稽さも手伝っていると思います。
小原庄助が実在したどうかはよくわかりませんが、朝寝、朝酒、朝湯がだいすきで身上をつぶしたのがまた妙な魅力で、どこのだれという詮索など必要としない人物として人気を得ている点、熊本県の(おてもやん)と同様、はやしや文句の妙であって、いかにも大衆の唄らしい味わいのあるものです。

 

常磐炭坑節

 

(炭坑節)は各地炭坑でうたわれる(作業唄)です。一般に歌詞、曲節とも同じ系統のものですが、それは炭鉱夫の交流によってもたらされたものと思われます。したがって常磐地方の(炭坑節)も特に地名をいれて(常磐炭坑節)と呼ぶわけですが、福島側にも同じ唄がうたわれるので、ここでは茨城県民謡として取り上げておきます。
というのは(常磐炭坑節)には(ハ ヤノヤッタネ)というはやし文句がはいり、実に関東風独特の気分が漂っているからです。(野郎やりあがったな)という意味の言葉をどうして唄にまでいれるのか理解できない方もおられるでしょうが、栃木県の(山仕事唄)に同じ(ヤロヤッタナ)という唄もあり、感じはいかにも北関東らしい言葉の荒さを取り入れております。またそれがいかにも歯切れよく、宴席でも特に(騒ぎ唄)風に受け入れられ、戦後の民謡中に屈指の仲間入りをしたものと思われます。

 

磯節

 

茨城県水戸市から東へ俗に三里の大洗は、太平洋に面する古い港町です。うしろの大洗磯崎神社からの眺望は雄大で、遠く鹿島浦の長い砂浜が現前に展開します。唄の文句(波の花散る)海岸は神社の真下にあり、海中に三百メートルものび、岩礁に怒涛が打ち寄せてはごうごうと砕け散る景観は実に豪快・壮観です。
この港町は江戸時代からの漁港であって、東北・北海道の海産物の集散地であり、その船乗り相手の遊興場が豪勢な栄え方であったといいます。この花街で芸者衆に歌われるうち、明治の中頃、あんまの安中という美声の持ち主によっていっそう有名になったのがお座敷唄(磯節)で水戸出身である相撲取りの常陸山の力によって広く紹介されるに至ったといわれます。(磯節)を(安中節)ともいったのはそのためです。全国的に有名な唄ですが、太平洋の波の感じをゆったりとした俗曲風にいかに取り入れるか、ここが唄の味わいどころというものでしょう。

 

網のし唄

 

茨城県の海岸に伝わる(漁師唄)です。鮪漁に使用する網の目の手入れ作業の唄ですが、近年しだいに有名になって広く唄われるようになったものです。
(のせやのせのせ 大目の目延し のせばのすほど 目が締まる)網の目をのして締めるという唄の文句でもわかるように、漁休みの時、浜に出た漁師は網の手入れに時間をかけて、その結び目を締め、また破れ目の繕いをするのです。これは
かなりの力仕事ですから、大勢の手が必要で、唄の一つも唄いながら気を揃えたことなのでしょう。いかにも(仕事唄)らしい内容の民謡です。

 

日光和楽踊り

 

栃木県の日光から宇都宮一帯にうたわれた古い(盆踊り唄)です。もとは越後方面から伝えられた(甚句)系統の唄で、福島県の(相馬盆唄)、埼玉県の(秩父音頭)などとよく似た曲節で、東北から関東まで広く分布しております。
足尾銅山日光精銅所では、従業員の家族慰安に毎年盆踊りを開催しておりましたが、大正2年にたまたま日光御用邸に避暑のため行幸された大正天皇と皇后陛下が日光精銅所へのお立ち寄りになられるに際し、この盆踊りを天覧に供したのでした。そのおり盆踊りでは失礼とかんがえ、歌詞を改作して協同和楽をモットーとする精神を生かして「日光和楽踊り」と改め、これが機で全国に知られるようになったものです。
毎年、八月六・七日は日光市清滝の古河電工日光電気精銅所で(和楽踊り)が開催され、市の名物ともなっております。踊りは(手踊り)(笠踊り)とあり、以前には足尾銅山選鉱婦の動作を生かして振り付けた(石投げ踊)りという型もありましたが、最近ではあまりみられません。

 

草津節

 

群馬県草津温泉の民謡です。西の(山中節)と肩をならべる(温泉民謡)の双璧ということができましょう。(草津節)にももう一つ(草津湯もみ唄)というがあり、ともに熱湯をかきまわす作業のときの唄で、これで(お座敷唄)化して全国的に有名となったものです。高温、硫化水素を含む強酸性泉で万病にきくと伝えられます。(お医者様でも、草津の湯でも惚れた病はなおりゃせぬ。(草津よいとこ一度はおいで、お湯の中にも花が咲く)は全国的にしらえた名文句で親しまれている民謡です。

 

秩父音頭

 

埼玉県の民謡はあまり知られておりませんが、この(秩父音頭)は、秩父盆地の皆野町に伝わる(盆踊り唄)で、(豊年踊り)と呼ばれいたものです。(盆踊り)と(豊年踊り)とは本来違った性質の違ったものですが、(相馬盆唄)も時に(相馬豊年踊り)とといわれたごとく、地方によって両者の区別はなく、両方にうたわれたものと思われます。
(盆踊り)はいうまでもなく祖先の霊を迎えて、ともに踊りなぐさめるためのもので、本例は寺の境内で行われました。
また(豊年踊り)は秋の収穫を祝って鎮守様の境内で行われました。また(豊年祭り)は秋の収穫を祝って鎮守様の境内で行った神様への感謝のための踊りですが、両者が混同され、次第に娯楽的要素が加わると、ほかに遊びのない田舎ではこの催しがレクリエーション化し、若い男女にとってこよない社交場ともなり、ついには縁結びの機会ともなり、また唄そのものもそういう内容へと変化します。中では上品でない歌詞もうたわれて、あまり放送やレコードに適さないために、懸賞によって新作を募集し、マスコミにのせて宣伝する、といった具合で世間に登場するものです。秩父にはもともと(横樽音頭)という(八木節)系統の歌が盆踊りにうたわれておりましたが、最近はもっぱら(秩父音頭)を歌っております。

 

木更津甚句

 

相模の海に投じて身を竜神に捧げた日本武尊の妃おとたちばなひめの、衣の袖が流れ着いたという袖が浦の伝説から、(君不去 袖師が海に 立つ波の その俤を みるぞ悲しき)の歌からとった町の名といわれる木更津は、江戸時代の要港として栄えた港町でした。現在は商業都市として機能を持つ町のなかには、童謡で知られる証誠寺の(たぬき塚)や歌舞伎で有名な(切られ与三郎の墓)などがあり、観光面でも市内には見るべきものがおおくあります。現在の海岸は遠浅のため、潮干狩り、海水浴に適しておりますが、近代の港湾には不向きで、江戸時代に繁栄した港の面影はみられません。江戸時代の木更津は江戸湾内の海上権を掌握した船頭衆が勇ましく活躍した港で、その船頭衆たちにうたわれた唄が(木更津甚句)であるといわれております。はやしの(やっさい もっさい)は船乗りの掛け声です。

 

銚子大漁節

 

千葉県銚子は暖・寒流、つまり(黒潮)と(親潮)の交流する漁場資源の実に豊富なところで、室町から江戸時代を経て、網漁業の改善から特にイワシの大漁が続いたといわれます。ここはまた海流の関係で魚種も多く、北の寒流性魚類が回遊するところから(鮭は銚子に限る)(限るは限界の意)といったのを、粋な江戸っ子は(酒は銚子に限る)としゃれたものだという話さえ伝わっております。千葉から宮城県にかけては実に大漁の唄が多く残されておりますが、このような地理的背景による民謡の世界でも、相馬の(数え唄式大漁節)が銚子へ流れ込んで、今日の(大漁節)が完成されたものであるといわれます。何よりも(一つとせ)といううたい出しの景気は、河岸の元気なせりの声を思い出させます。一般にはお座敷の(騒ぎ唄)風でありながら、民謡として荒々しい磯のにおいを感じさせる豪快さは、関東好みのものといえましょう。

 

大島アンコ節

 

東京伊豆大島の民謡で、(大島節)とともに島を代表する唄の一つです。アンコは娘のことです。この唄の曲調は九州の鯨唄として有名な(平戸節)から出たともいわれ、伊豆七島へ集まる西海漁船の漁師によってもたらされた(海唄)の変化と考えられます。椿の花咲く観光地大島の情緒がただよい、その明るい節回しは(大島節)より一般にうけているようにもかんぜられます。

 

武蔵野盆唄

 

東京の西郊武蔵野の農村部にあった古い唄を母体としてつくられた民謡です。武蔵野市は畑作地帯ですから、(麦うち唄)(臼ひき唄)(餅つき唄)などの(仕事唄)のほかに、(獅子舞)などの郷土芸能、(祭礼ばやし)などがのこされておりました。(盆踊り)の唄も(伊勢音頭)(はつうせ)(四つ竹)などと各種の(祝い唄)を利用してうたっておりましたが、この(武蔵野盆唄)の原型は東京西郊から利根川流域にかけてひろくうたわれていたものらしく、何処か野の風が雑木林を吹き抜けてゆくような。平野育ちの感じが滲んでおります。

 

剣崎大漁節

 

神奈川県三浦市の東端松輪はタイ、サバの近海もので知られる漁村である。この地に古くからある(松輪甚句)に漁船の航海を祈る船玉信仰の言葉を取り入れて新作したもので、作詞は私、作曲は三橋美智也の全く新しい民謡である。新造船の進水式の際に航海安全、豊漁祈願をこめて船玉さまをまつる習慣が以前にはあった。
小さな箱のなかに人形、髪の毛、くしなどが入れられ、サイコロが二つ、三つ目をむけて重ねられてある。神主のお祓いの後、この船玉様は密封されて船の中央底に納められる。魂としてまつられるのだから,終生再びその姿を見ることなしに、舩と共に命を全うするのである。
このサイコロが正面三、上が1、左右2と5、裏が四、下が六となる位置におかれてあり、(天一地黒、右舵ぐっすり(五)左舵にっこり(二)、船は四三の波をのりきる。)という祈りを暗示している。
(天一黒地)とは空に一つの雲もなく、下は魚で真っ黒という意、右舵ぐっすり)はエードモという右舵から荷物乗り降りする位置で、船の安定を意味している。(左舵にっこり)左舵から荷揚げする。大漁でにっこりという意、(四三の波)前方左右からよせる危険な波ものりきるという意味である。
また吉野瀬、根中手本、岩堂出しというのは、魚種も豊富な漁場であって、吉野瀬はイサキ、根中手本はタイ、ヒラメ、岩堂出しはイカの漁場として有名である。
剣先灯台から城ヶ島へかけての沖合漁場の名称である。
三浦海岸北下浦に二年ほど住んでいた歌人若山牧水は「東南風吹き沖もとどろと鳴りし一夜咲き傾き白梅の花)と詠んでいるが、この地方の東南風は漁師の骨休みの風であって、最も危険とされているのである。
いささかな概説であるが、日本の民謡の中で生活と密接したこの種の歌詞はめずらしいので、解説にとまどうふしもあろうかと、蛇足をくわえさせていただいた。

 

佐渡おけさ

 

同じ佐渡でも(おけさ)は地域によってうたい方が少しずつ違います。相川、小木、選鉱場と地域的な相違もあれば、同じ相川でもうたい手の個性によってまた変わった感じの唄になりますが、その中から共通の佐渡情緒とでもいうものがなんとなく理解されてくるのは、みなぎる哀調の中に海の文化をじゅうぶん呼吸して育った、伸び伸びとしてものが漂っているからでしょう。越後に現存する(おけさ)の閉鎖的な暗さが佐渡にはどうしても感じられないのです。
(佐渡おけさ)は九州の(海唄)(はいや節)から変化した唄で、(津軽あいや)などと同系総の民謡なのですが、一つの唄を日本のいたるところで工夫改良し、美しいリズムを完成させるという、実に平和な総合文化育成の所産であって、まことに日本の心のふるさとの唄であると思います。
佐渡には順徳上皇をまつる真野御陵、日蓮上人、日野資朝などの流罪にまつわる哀史をはじめ、文弥・のろま人形などの郷土芸術品など数多くの観光が存在し、また佐渡に遊んだ文学者によって格調高い(おけさ)の美しい歌詞が作られて、旅の情緒を味わいつつ昔を偲べば一抹の哀愁を感じさせます。

 

十日町小唄

 

新潟県十日町市にうたわれる新民謡です。作詞永井白眉、作曲中山晋平の両氏。昭和四年に完成したといわれますから、四十年以上経た古参ともいえる唄で、新民謡よりは、民謡と考えた方が適切かもしれません。もっとも作者の明確な唄を(新民謡)と呼んでいるのは一つの分類なのですが。十日町は積雪量の多い信濃川中流にあり、古くから越後縮の産地で有名です。明石縮というのも高級品なのですが、織物の宣伝につくられた越後情緒豊かな民謡で作者の苦心の跡がうかがえるよい唄です。

 

七浦甚句

 

新潟県佐渡の相川に近い漁村の唄です。七浦海岸は二見、春日崎など(おけさ)にうたわれた海岸線の美しい段丘をもつ変化の多い地域で、半農半漁の生活を営んでいるんですが、ここの漁師はイカ漁のため青森県八戸方面へ出稼ぎに行き、八戸民謡(ナニヤドヤラ)系統の(盆踊り唄)を持ち帰って七浦の民謡としたものです。
(南部一番北田の娘、反で二枚の着物着る)(南部でるときゃ涙で出たが、今じゃ南部の沙汰もいや)と古くうたわれ、やがて(遠い他国の二階のぞめき 聞けばなつかし佐渡おけさ)と望郷の念をうたっております。
佐渡観光のバスが、軒すれすれに漁村をとおりぬけながら、運転手とガイドのうたう(おけさ)に陶酔するところが、七浦の漁村なのです、

 

新潟甚句

 

新潟市の(お座敷唄)です。もとは樽をたたいて踊った(盆踊り唄)でしたが、花柳界でもっぱら三味線入りの静かな唄を好むようになり、今日のような民謡となったのです。歌詞の特色には特に地方色はみられません。
(磯節)の文句にみられる(松が見えます。ほのぼのと)とかいった(お座敷唄)の共通的文句を謡ったものが多いようです。

 

相川音頭

 

新潟県佐渡が島の民謡(相川音頭)は、昔は佐渡金山奉行が置かれた相川町の(盆踊り唄)です。佐渡にはこのほか(真野音頭)(国中音頭)などという、やはり長い語り物の(盆踊り唄)(これを(口説き)という)があり、新潟越後地方にも語りもの中心の(盆踊りの唄)が数多くの残されおります。
群馬県へ移された(八木節)この一例です。
(相川音頭)はその口説きの種類も、心中もの、恋物語など数多く語られていた中で、今でも一番多くうたわれた(源平軍談)が一般的に、ここにうたっているのは第五段の(義経弓流し)の一説です。
元来は節を聞かすのではなく物語を聞かすのが目的ですから、曲節は割合に単調ですが、これに初段から第五段までえんえんと数時間を読通しうたい継ぐ記憶力と根気は実にたいしたものだったといえます。
義経の智謀武略で敗戦を重ねた平家も屋島に賭けて対陣し、悪七兵衛景清が主人に最後の暇を告げて陸に上がれば、えたりと源氏の美尾谷四郎刃を合わせる。やがて二人の腕くらべとなり、太刀を折られた美尾谷を逃さじとばかり、兜のしころをつかんで互いに引き合ううちに、兜のつけぎわからしころが切れてしまい、美尾谷無事逃げ去った。この戦況を見ていた敵も味方も二人をたたえ、(されも腕の強さ)(首のつよさ)とどっと笑ってその戦いをほめた。そこで(どっと笑うて)と続くのです。

 

越後の子守唄

 

新潟県越後平野の蒲原地方に伝わる(子守唄)です。今日曲調はいたって素朴、(眠らせ唄)の本質を聞く様な、静かな(子守唄)です。豪農と地主王国のどこか暗いパターンに閉ざされる雪国越後平野で、守ッ子と呼ばれる子守りたちがうたったかなしい望郷の唄ともいえる(子守唄)です。
働くことを生活の信条としているような、忍耐強い越後の人々。子供のころから、きびしい労働に耐えていく試練的な生活の中で、ふと父母のいる里への郷愁が思い出されるといった、里子の悲しみが漂う唄です。
こういう唄は、熊本県人吉地方の(五木の子守唄)にも古くからあり(うちのお父っあんナ あの山居らす 居らすと思えば 行こうごたる)と共通しております。

 

両津甚句

 

新潟県佐渡の玄関、両津市の(盆踊り唄)です。夷と湊の二つの部落を合併して明治23年に両津となったのですが、その二つの部落にかけられた橋が、唄にある両津欄干橋なのです。
この民謡は古くは鼓だけでもうたわれておりました。唄い方の(つっこみ)がむずかしく、そのため一般にはうまくうたえないところから、佐渡と言えば(おけさ)(相川音頭)が有名になったのですが、(両津甚句)すぐれた民謡だと思います。

 

新津松坂 

 

越後の民謡を代表する(祝い唄)松坂が、新津で(お座敷唄)として唄われるようなった民謡です。もとは盆踊りにもうたわれ、太鼓だけのものや、笛を加えるものもあり、まことに素朴優雅な唄でした。三味線の手が加えられて現在のような節になったのですが、おなじ(松坂)系統のうたが、東北地方の(荷方節)(謙良節)などに変化したことを考えると、民謡の伝播と、それを受け入れて土地風に工夫改良してゆく過程が面白いと思います。本集の(松前荷方節)(謙良節)などをお聞きの上比較してみてください。

 

伊那節

 

長野県諏訪湖に源を発する全長216キロの天竜川は、伊那の峡谷を南へ流れて赤石山脈の下で天竜狭の大峡谷を刻み、天下の名勝(天竜下り)でにぎわう県髄一でにぎわう県髄一の景勝河川です。
天竜狭は飯田市南、時又の下流で、花崗岩がまっすぐに柱のようにそそり立つ直方状摂理をなし、春から秋にかけては、いたるところで、盆栽のような松や山桜、つつじ、紅葉などの木々が紺碧の水流に彩り美しく姿を落とします。
両岸には季節ごとに眺望のよい山々が船上の観光客の眼を奪います。
金昆羅山、つつじの富士山、桜の新公園、展望髄一といわれる姑射橋、浴鶴岩、竜角峰、弘法山舎、今村公園などの名所を左右に眺めながら、水量の多い天竜川は夏なお涼しく、急流を巧みによけて下流へと進む船頭の長い竿と、かすりの木綿に赤いたすきをかけたガイドの説明とで、行楽客の心をなぐさめてくれます。
川下りの人々も、岩も散策する人も、つい口ずさまずにはいられない(伊那節)の魅力に強くひかれることでしょう。

 

 

木曽節

 

中央線の木曽福島を一帯とする(盆踊り唄)が(木曽節)です。
長野県の二大河川、天竜川と木曽川はともに二千メートル以上の高い峰をもつ木曽山脈を分けて流れる水量の多い河川です。
伊那谷と木曽谷とは権兵衛峠によって結ばれ、物質の交流とか御岳山参りの参詣人が往来したものでした。木曽福島からバスで約一時間30分で黒沢口・王滝口の登り口に着く御岳山は標高3063.4メートルの円錐状休火山で、古くから霊峰として信仰され、山中いたるところに開祖の普寛・覚明両上人の碑が立ち、白衣姿の信者が大勢参拝し、夏は特ににぎわいます。
(山開き7月10日ー9月15日)この御岳山には古く同じ名前の御岳山節がうたわれていましたが、これが伊那、木曽両地方へ運ばれ、それぞれ(伊那節)(木曽節)として大成され、今日の型となったのです。
(木曽節)は一名(仲乗りさん節)ともいわれます。(仲乗りさん)というのは川下り筏師のことです。
また(木曽節)の踊りには免許状も与えられて、これが町の宣伝に一役果たしております。

 

小諸馬子唄

 

江戸時代の五街道の一つ、中山道の小諸地方でうたわれた(馬子唄)です。北に浅間山の雄姿も望む小諸から山麓の追分、軽井沢の各宿場には、昔馬子とかごかき(俗に雲助)が往来する人々や荷物などをはこんだものです。
関西方面から、江戸(東京)へ入る道は主にに二つあって、一つは東海道、もう一つは中山道でした。江戸時代は幕府の政策から主要河川に橋をかけませんでしたから、江戸への旅は決して楽ではなく、特に雨季など水量が増加すば川止めで幾日も宿屋に逗留しなければなりませんでした。したがって川の多い東海道より、坂は多くても中山道を利用する旅行者がおおぜいいたことはいうまでもありません。
追分の宿は、中山道、北国街道の分岐点でもあり、特ににぎやかで栄えたと思われます。
「浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾にお十六 持ちながら」俗に山麓の宿屋、追分、沓掛、軽井沢を「浅間三宿」と呼び
この「三宿」を数字で、三・四・九(加えて十六)と分解し、それを「娘十六」とかけた唄の文句など、なかなか計算的でおもしろいものです。

 

越中おはら節

 

富山県婦負郡八尾町では毎年9月1日から三日間、(風の盆)と称して町ぐるみの(小原節踊り)くりひろげられます。
9月1日といえば暦では二百十日、文字通り風の到来を待つかのように熱狂的に町の通りをうずめて踊る(流し踊り)は、四国の(阿波踊り)とよい対象をなしております。
立山連峰を越えて吹く乾燥した強い南風は、時に裏に日本特有の大火をもたらし、水田に散在する農村の屋根へと飛び火して数十キロも彼方を火の海にすることがあります。
このようなフェーン風や、二百十日の暴風雨を魔神の荒業と信じ込んで、その邪霊を踊りによってやわらげ、風水害、火災の恐怖をのぞこうとはじめれらたのがそもそもこの踊りの期限だということです。
哀愁をおびた節回し、待っていましたばかりにうたわれるはやし文句の妙は、ちょっとほかに例を見ない(小原節)の情緒といえましょう。

 

山中節

 

石川県江沼郡山中温泉は、北陸線の大聖寺駅から電車で約25分、大聖寺川のつくったわずかな谷底平野に開けた温泉です。
近代的な温泉設備を持つ旅館が建ち並び、北陸屈指の温泉郷と言われますが、山代・片山津・粟津の温泉群のある中で、山中温泉が有名になったのは、この(山中節)のお陰と言えそうです。
伝説では千三百年昔に僧行基が発見したといいますが、時代は近世にはいって蓮如上人、江戸時代では松尾芭蕉そのほかの文人が訪れて知られるようになったといわれます。
一羽の白鷺が傷ついた足を湯にひたして洗っているのを見つけた狩人が、ここに温泉のあることを知って里人に教えたという話があります。大聖寺川は黒谷川ともいい、こおろぎ橋から下流の黒谷橋までの渓流美は、芭蕉も(平岩に座して手をうちたたき、行脚のたのしみここにあり)とほめたくらいです。
以前は(シシ)と称する湯女がいて湯客の世話をしたそうです。
(シシというのは、フロ敷でほおかぶり湯女の格好がシシに似ているとか、また十六才以上の女の子なので、四四の十六からとか)

 

ノーエ節

 

学生の(騒ぎ唄)として古くから親しまれた流行歌的民謡です。静岡県三島市の唄と、横浜市野毛山の文句をうたった(野辺山節)の二種あり、節は全く同じです。江戸末期の異国船来航の当時、国防の目的で洋式軍事訓練を実施した伊豆韮山の代官江川太郎左衛門が、行進のためにうたわせたとも伝えられる唄で、近くの農家から集めた青年たちを(農兵)とよんだので、(農兵節)となったといわれております。
其の後この唄は酒の席の騒ぎにうたわれはじめ、やがて旧制高等学校の学生間に愛唱されて流行したものです。

 

駿河大漁節

 

作詞北原白秋、作曲町田佳聲氏による(新民謡)です。静岡には水揚げ首位を誇る焼津港があり、マグロ・カツオをはじめ遠洋近海の魚種も豊富な漁港として東海地方で大いに繁栄したところです。加えて富士山と日本一を誇るミカンと茶の生産。ちゃっきり節が内陸の名物をうたう(新民謡)であるなら、同じ作詞作曲者による(駿河大漁節)は海の名物をうたったものとして対照的です。

 

ちゃっきり節

 

日本一の茶どころ静岡県の唄。昭和二年の新作で、北原白秋作詞、町田佳聲作曲の新民謡です。(ちゃっきり)というのは、茶切り鋏の擬音を題名にしたものです。
静岡県牧之原を中心とする茶の生産は幕末の横浜当時から企業化され、対外貿易の大きな収益となったものです。
明治維新後、徳川幕府の武士は新しい薩長政府に使えるのをきらい、自活の道をほかに選んだものでした。北海道の開拓もその一例ですし、(士族の商法と笑われながら商人に転向した武士もおりました。
牧之原に茶の栽培に入植ちた武士もその例で、このほか大井川などで働いた川場人足もともに平和産業に転向し、その努力は日本一の茶どころをつくりあげたのです。静岡茶の生産は歴史上ではもっとも古く、(駿河路や花橘も 茶の匂ひ」と芭蕉の句にもあるように、元禄時代から盛んであったことがわかります。
茶の葉を摘む5月はまだ白い富士を望み、しろい手ぬぐいをかむり、赤いタスキがけの茶摘み娘がいそいそと働く風景は、なんといっても東海道の絶景です。富士と茶とみかんと日本一がそろう中に、街道一の親分・清水次郎長を加えて、名物を歌いこんだ歌といえましょう。

 

岡崎五万石

 

愛知県岡崎市は徳川家康生誕の地といわれ、その岡崎城は三河以来の徳川氏に縁故のある譜代大名が城主に選ばれたといわれます。かつては徳川氏の本城であっただけに東海道五十三次の重要は宿駅でもあり、俗にいう三十七曲りの道は城下町の色彩をいっそう濃くして、その面影を伝えていたのでした。
市の西を流れるのは矢作川で、岡崎城の防衛であったばかりでなく、現在ではこの流域にわが国の代表的な多角的農業地帯が展開し、紡績、製糸、レーヨンなどの工場も発達し、川の西の安城市を中心として「日本のデンマーク」と呼ばれるほどの典型的な近郊農業を生むにいたりました。
かつて不毛の地として人さえ足を踏み入れなかった矢作川の流域とはおもえない発展ぶりです。この矢作川を昔往来して船頭衆がつたえたのではないかとおもわれるのが(五万石)という端唄風の唄です。ローカルな味わいを感じることはできませんが、いかにも城下町らしい風情を持つ静かな唄です。

 

郡上節

 

毎年八月十三日から十六にちまでの四日間を中心として、七月から九月にかけて踊られる(郡上踊り)は岐阜県郡上郡八幡町の盆踊りで、同県の飛騨高山に伝わる(高山祭り)とともに岐阜の二大祭りといえます。
(郡上節)には(川崎)(三百)(春駒)(やっちく)(松坂)などいろいろ種類がありますが、中でもお座敷調の(川崎)が一般的にはよく唄われています。
歴史も古く寛永年間(1624−43)に藩主遠藤但馬守が人心の和をはかるために催したものが(郡上踊り)のはじめといわれております。
八幡町は美濃太田から越美南線で一時間十分のところにあり、美濃の平野から福井・飛騨方面へ抜ける途中の町で交通の要地でもあり、ここの通行者も(郡上踊り)を楽しんでは故郷へかえったらしく、かなり広く伝わり、有名になったのです。
(郡上踊り)を一応心得た人は免許を与えられるのは(木曽節)と同様ですが、ここまで達すると踊りの立役者ともなって一晩中町を流したくもなることでしょう。事実、8月13日から四日間、この達者な人々を中心に夜通しおどりが続けられております。

 

伊勢音頭

 

三重県伊勢市は伊勢神宮のために発達した鳥居前町です。江戸時代から「お伊勢参り」「お陰まいり」「ぬけ参り」などといって参詣人が多く集まり、細長く発達した町の両側には旅宿や商家が立ち並んで大いににぎわったものといわれます。
現在でも毎年全国から集まる参詣人は、二、三百万といわれ、カバンをさげた修学旅行小中学生も京都・奈良のスケジュールに必ず伊勢神宮を加えております

 

「伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は ヤンレ 城で持つ」

 

この唄は参詣人によって全国に運ばれ(盆踊りに)に(土搗き唄)にまた漁村の(祝い唄)(道中唄)など、あらゆる種類の唄の中にうたわれ大流行しました。
歌舞伎では(道中唄)として出てきます。
漁村で(祝い唄)及び祭礼ばやしにつけてうたう(木遣り)がありますが、これを「伊勢木遣り」と呼んでこの唄の流れを受け継いでおりますが、最近は歌う人の数がすくなくなってしまいました。

 

尾鷲節

 

熊野灘に臨む、林業と水産の町、尾鷲市にうたわれる民謡です。尾鷲は波荒い熊野の海に向かって天然の良港をなす尾鷲港の港町として発達した古い町で、この漁港に水揚げされる大きなぶりは特に有名です。
熊野灘の荒れるときは大型帆船が避難して風待ちをしましたから、港の花街では各地の人々が酒席でいろいろな唄をうたったことでしょう。
またここは大台が原の麓にあって雨量が多く、良質の桧山もあり、木材が運ばれますので、海と山の資源に恵まれ地理的な環境がよく、港としての立地条件を12分にそなえております。

 

古くは熊野水軍の威勢良い面影をしのぶ「やーやー祭り」があり、新しくは港町尾鷲の(尾鷲節)があって、尾鷲は産業の街として発達した面目を発揮しているといえましょう。
この唄は(なしょまま なしょままならぬ)とうたった(なしょまま節)が現在の(尾鷲節)となり中に(道中唄)をいれていっそう優雅でおもしろい唄に工夫されております。

 

宮津節

 

(日本三景)の一つの天の橋立。宮津滝の奥に細長く発達した砂州のみごとに松林が与謝内海をいだき、白砂青松が海を二分する風景は、まさに天にかける橋という表現が当てはまります。ここに遊ぶ人は宮津市の情緒とともに観光気分を満喫することでしょう。
宮津は入り江に富む宮津湾の一番奥にあり、港町としてまた漁港として栄え所で、江戸時代には日本海回りの帆船が入港して大いににぎわったともいわれています。
元禄年間、五代将軍綱吉のときに、江戸吉原を模した遊郭ができました。
裏日本指折りの繁華な町であったのでしょう。
(二度と行くまい、丹後の宮津 縞の財布が 空になる 丹後の宮津で ピンと出した)
という文句の唄で全国に知られるようになったのも、そういう背景があったからと思われています。そして元禄のころはすでに盆踊りとして流行していたといわれます。

 

串本節

 

 本州最南端にある潮岬と、細長く発達した砂州のよって接続した砂地の上に串本町があります。
地形しては北海道の函館と同じ連島砂州で。いわば砂上の町ですが、町の両側に海を見て、東西に漁港を持つ港町です。漁業中心の町として栄え、まぐろ、かつお、いわしが主で、南氷洋活躍の捕鯨業者の基地ともなっております。

 

 串本町東には大島があり、波荒い熊野灘の南、太平洋に突き出した位置にある関係で、波の侵蝕を受け、海食崖の発達した断崖絶壁の風景が壮観です。
この大島に向かってほぼ南北に一直線の岩が串本の海岸から並んでいます。大小30あまり橋杭岩です。
(一つと二つと 橋杭たてて 心にとどけよ 串本へ)
南紀めぐり観光地として、新婚旅行者の気持ちをくんでか、この橋杭と潮岬の灯台は、海風強い南の海へ突きでして恋の闇路を照らしている、このような情緒が(串本節)にうたわれております。

 

デカンショ節
(デカンショ デカンショで半年暮らす)の文句で有名なこの唄は、兵庫県丹波の篠山町の民謡で、元唄を(篠山節)と呼びます。一説には丹波の酒造り職人、杜氏が灘の酒造地から持ち帰った唄といわれておりますが、はっきりしません。(デカンショ)も出稼ぎしよう、という意とか種々あります。この唄も(ノーエ節)とともに学生間によく愛唱されたもので、旧制一高の寮内で同地出身者によりうたわれて流行したと伝えられます。

 

貝がら節

 

島根県浜村温泉地方の民謡です。元唄は漁師の帆立貝採集の(作業唄)でした。昭和のはじめに、地元の歌人松本穣葉子と作曲家の三上留吉という両氏の力で今日のような唄に完成したといわれますが、流行したのはもちろん戦後の(民謡ブーム)の時でした。唄いやすさと野趣の味わいが好まれてのど自慢にもよく登場します。漁師唄ですから、威勢よく、太い声で唄った方が感じもよく出せるのではないかと思います。

 

しげさ節

 

近年よくうたわれるようになった島根県隠岐島の(お座敷唄)です。大正初年の作といわれますが、元唄は(しげさ恋にしやる しげさ しげさのご勧化、山坂越えても 参りたや)の唄と考えるのだそうです。(しげさ)は(出家さん)訛りだというわれる。観光隠岐の宣伝によくうたわれ、レコードにも放送にも紹介されて、島の味をしのぶことができるようになりました。独特の節回しにご注目いただきましょう。

 

下津井節

 

瀬戸内海は我が国の生進地帯ともいうげきところで、農業、工業、商業盛んなところです。岡山県の児島半島は江戸中期から干拓工事が行われ、南の下津井港は祖国及び瀬戸内海航路の渡船場で、古くから交通の盛んなところでした。この港町で歌われた唄が(下津井節)です。港に出入りする船頭衆の(櫓漕ぎ唄)が上陸して(お座敷唄)化したものといわれ、瀬戸内各地の港町では(櫓音頭)として唄われる(芸者唄)となっております。
いままで港町とか宿場町は、人物交流や物資の集散などの関係から、他国の民謡及び近隣の(仕事唄)などが流入し、それが(お座敷唄)化して一般にもてはやされたものであることを申しましたが、
ほかからそのまま流入したとしても、一度一か所で固定されると、その土地の情緒にふれて次第に変化し、また土地の人々の工夫も加えられて、全く変わった唄として誕生する場合もあります。
港町の唄であれば(海唄)らしい素朴な櫓の調子が昔はあったものでしょうが、(下津井節)のようなおもしろい(はやし)がいつ、どこでうたわれたものかはっきりしなくなることもやむおえないことかもしれません。

 

三原やっさ

 

広島県三原市中心の(盆踊り唄)で、はやしことばの(やっさやっさ)から(やっさ節)の名がでたものです。三原市は山陽本線と呉線の連絡駅であり、工業生産の上では繊維、セメント、重工業などこの地方の指折りの工場が密集し、酒造業も発達している工業都市です。また南は瀬戸内海にのぞみ、糸崎港は海上交通の要地として活躍しており、船の出入りの関係から日本列島をほとんど一周して影響を与えた(はいや節)系統の唄がここから上陸して(三原やっさ)となったものと思われます。
(はいや節)という唄は、九州長崎県の田助、熊本県の牛深あたりから船によって各地の港へ伝播した(騒ぎ唄)で、(三原やっさ)のほか、山陰の(浜田節)、新潟の(おけさ)津軽の(あいや)、仙台の(塩釜甚句)など、日本海をぐるっと回ってその根をおろした一大流行歌だったのです。その中でも(はいや)系のリズムをよく生かして山陽風にうたっている代表的な民謡が(三原やっさ)といえましょう。

 

金比羅船々

 

海上の守りとして古くから航海する人々の信仰を集めて有名な金比羅宮は、(お伊勢参り)とともに一生に一度は必ず参るところとして庶民全般の信仰の対象でした。
古くは像頭山金毘羅大権現といわれ、標高521メートルの像頭山の中腹に社殿がまつられてあります。石段のつづく門前町が琴平の町で、1368段をあえぎあえぎ登りながら、みやげ物産のお客を呼ぶ娘さんたちの黄色い声をふりきるところに参詣のおもしろさがあります。祭神はおおものぬしの神。

 

 元来海の信仰といえば新造船の船おろしのときにうたう(祝い唄)がその代表であり、航海の安全を祈るときには船中に船玉様を祀って厄除けをすることが慣習であるのに、これを唄で表現することは珍しいといわねばなりません。もっともこの唄は(お座敷唄)ですから、酒宴の騒ぎうたわれたもので、もともと海の信仰とは無関係ですが、航海業者は縁起ものとしてこの唄を珍重しております。
歌詞の反復もおもしろいのですが、神奈川県三浦の漁村でも、時化のとき(青い海)ということばを三回繰りかえすと波が静まるということなど、唄の繰り返しに関係あるかもしれません。

 

阿波踊り

 

毎年旧の7月13日夕方から16日まで、徳島市全市をあげて乱舞する熱狂的な南国の盆踊り。天正十三年、藩祖蜂須賀氏が国守として入城したときに、城の落成を祝って踊ったものがその始まりといわれています。徳島は江戸時代から藍の特産地として知られ、この藍商人たちが、当時の新楽器三味線を伴奏にして、もの珍しく唄い出したものといわれ、これが全国的に知られる結果ともなったということです。
(阿波踊り)のグループを「連」といい、それぞれの連中が男女おのおのおそろいのゆかたを着、女はあみ笠をかぶり、下駄をはいて町を流せば、その調子につれて老若男女を問わず全市民、見物人が街頭にとび出して、伴奏の三味線、太鼓、篠笛に合わせて踊ります。
踊りは単調で、活発、軽妙、洒脱ですが、「気違い踊り」の名にふさわしく、われを忘れて、汗だくになって夜通し踊り歩く一世紀前の国産ゴーゴーともいえましょう。

 

よさこい節

 

南国土佐を代表する(お座敷唄)です。(よさこい)(今晩おいで)の踊りも八月の中旬ともなれば(阿波踊り)に匹敵するほどの熱狂的な催しで、高知市の宣伝に役立っております。
 五台山竹林寺系統の僧純信という人が、鋳掛屋新平の娘お馬に思いを寄せてかんざしを買ったことが知れ渡り、二人は琴平に脱走しましたが、関所破りで捕らえられ、純信は藩外へ、お馬は仁淀川以西へ追放されたという、この恋愛不自由な時代の悲恋を文句にうたったことで有名です。
唄の曲節はどこからはいったものかよくわかりませんが、(串本節)にも似たところがあり、四国巡礼のお遍路さんが運んできたともいわれます。
唄にでてくる播磨屋橋付近は、市の中心街で、商店、会社など密集する繁華街ですが、その昔山之内一豊入国して城を築き、(河内山)と呼んだものが高知の語源となったという故事など全く昔語りで、その面影はなくなりました。

 

黒田節

 

格調高く男性的で、どうどうとあらゆる機会にうたえる民謡というものは、そうたくさんあるものではありません。しかも、日本伝統のが雅楽から生まれた優雅で豪快な節回しは男性にも女性にも愛唱され、また舞踊にも踊られて日本国中愛唱されている(黒田節)は、日本民謡の代表的なものといえます。
(黒田節)(筑前今様ともいう)は雅楽の越天楽の節をくずしたもので、歌詞は福岡城主黒田長政公の家臣の作といわれ(黒田節)を(黒田武士)と考えて酒の徳を賛美し、忠義孝行を奨励し、時には古典、謡曲にも題材を得てみやびやかな王朝風の(今様)にした手腕はまことにりっぱというよりほかはありません。(酒はのめのめ)と左党にはまことにありがたい文句ですが、母里太兵衛という黒田の家臣が福島正則の家宝、名槍日本号をかけて大盃の酒を傾け、ついに槍を飲み取ったという豪快無比の逸事が冒頭の唄として知られております。

 

炭坑節

 

(月が出た出た 月が出た)で戦後の日本の荒廃したやるせない気持ちを和らげ、一大流行を呼んだ(北九州炭坑節)は、戦後の民謡ブームの大きな端緒を開いたものでした、北九州は、わが国四大工業地帯のひとつで、鉄工業と石炭の採掘は特に重要な役割を果たしております。中でも筑豊炭田、三池炭田を背景とする北九州の工業は、鉄の都八幡で代表される製鉄業を発達せしめました。
(炭鉱唄)はこうした背景で発展した筑豊炭田の(炭坑唄)です。(田植え唄)をはじめ(仕事唄)などに多くの種類が仕事の順序によってうたわれるのと同様に、炭田の(労働唄)も(採炭節)(背負い節)(南蛮節)(先端節)などの種類があります。この(炭坑節)は(選炭節)で、リズムのよさ、陽気なメロデイは特に宴席でてはやされ、衝立と丸盆の小道具を使う余興まで登場して、全国的な流行となったのです。

 

長崎ぶらぶら節

 

この唄は長崎市(お座敷唄)として有名です。長崎は江戸鎖国時代、日本に開かれたただ一つの窓、出島を通じて、海外の近代的知識を輸入して西洋文化を摂取した港町です。すりへった石畳の坂道、唐風の建築物と瓦、外人墓地、キリスト教史跡、蝶々夫人ゆかりの庭園グラバー邸など、施設からオペラの材料に到るまで実に数多くの観光資源に恵まれたところでもあります。
また季節季節の祭りも多く・四月中旬「凧あげ」。下旬の「港祭り」、六月の「ペーロン」と呼ばれる中国風の舟の競漕、八月の「精霊流し」、十月の諏訪神社の祭礼「おくんち」(お九日)など多数の観光客をしないのぶらぶら見学に誘いだします。もともとは丸山遊郭を中心にうたわれた(お座敷唄)ですが、その起源はかなり古いらしく、江戸時代の初期からともいわれております。
「長崎名物 旗揚げ盆祭り 秋はお諏訪のシャギリで氏子がぶうらぶら ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう」
内容は以上の説明の通りですが、「シャギリ」というのは、はやしに合わせて打つ鉦、太鼓のこと、また「いうたもんだいちゅう」とは「いったもんだという」という意味の方言です。

 

五木の子守唄

 

熊本県人吉市から北へ25キロの山間に開けた集落、五木村の(子守唄)です。ここは球磨川の支流、川辺川の流域で、上流には日本最大の僻地といわれる五家荘と呼ぶ五か村が焼き畑耕作に専念し、近年まで主食に粟、ヒエを用いていたという秘境の村へ向かう途中に存在する村です。五家荘は平家の落人が開いた集落で、現在でもそのなごりを伝える民間伝承はかなり存在しております。現在うたわれている「五木の子守唄」はこの五木村で聞く(子守唄)とはかなり節も違います。原曲は下の句を繰り返し、もっと素朴で哀愁に満ちた唄であり、絶望的な子守労働の忍従というものがよく表現されております。
「おどまお父あんナ あの山居らす 居らすと思えば 行こうごたる」

 

山間の日暮れは早く、遠くにまだ日の当たる山をながめて子守の子供は父の名を呼んだに違いありません。
現在の(子守り唄)は人吉地方あたりのものではないといわれますが、曲調のもの悲しさに格別の魅力があり、オーケストラでもよく演奏されています。

 

おてもやん

 

「おてもさん あなたこのごろお嫁入んさったというのではありませんか。お嫁入したことはしたのですが、お婿さんがアバタ面ですから、まだお祝いの盃はしておりません。村役や鳶役のお年寄りの人たちがお世話下さいますから、後はどうにかなることでしょう。河端町の方へ廻り路しましょう。春日かぼちゃ(かぼちゃの種類)さんたちが、おしりを出して今花盛りです。(お空には)ピーチクパーチク、ひばりの子が鳴き、ゲンパク茄子(茄子の種類)のとげとげさんもおりましょう」
幕末のころの唄で、「熊本甚句」ともいわれますが、越後方面の(甚句)と違い、明朗でおおらかで、「おてもやん」というなんとなくとぼけた味は絶妙というよりほかはありません。
曲調は山口県に伝わる「男なら」(オーシャリ節)と同じで、維新当時の流行歌らしいのです。
また一説には熊本勤王党(おてもやん)が、疱瘡を病まれた孝明天皇(ごていどん)のことを慕ってうたったものものともいわれます。

 

刈干切唄

 

宮崎県から熊本県の山間で、萱を大きな鎌で切りながらうたった萱切の唄です。この唱は宮崎県西臼杵軍高千穂地方のものですが、(陽旋)と(陰旋)の二つの唄があり、現在は後者の方が一般に歌われております。刈った萱は冬の秣にするのですが、天日で乾かして枯らすところから(刈干切)の名が出たと思われます。
秋の日暮れまでの山の斜面で働く人々の素朴な感情が切々と迫ってくるような、まことに美しいメロデイーは近年特に愛唱者を得ております。
節回しのむずかしさと、日向地方独特のことばじりをのむ発音はなかなかまねしにくく、唄も容易に刈干切りにはならず、雑草を抜く程度に終わってしまいそうです。
(もはや日暮れじゃ 迫々かげるヨー 駒よいぬるぞ 馬草負えヨー)(迫々)というのは古語で、谷間谷間のことをいいます。

 

 

ひえつき節

 

平家の落人部落で有名な宮崎県椎葉は、文字通り椎野の葉で、屋根をふき、焼き畑耕作にいろしみ、ヒエを常食として山間ん部落生活を営んだところで、熊本県五家荘とは国見岳(1739メートル)をへだてて背中合わせに存在する秘境です。昭和28年、日本で最初のアーチ式だむが完成、その工事中にお座敷などでうたわれ、民謡ブームでいち早く電波に乗って全国にしられた(仕事唄)です。
常食にするヒエを臼に入れて周囲から竪杵で搗き乍ら三、四人でうたった唄ですが、現在のリズムからはヒエを常食とした山間の悲哀は感じられません。
唄の歌詞は茄子の与一の弟大八郎宗久という人が平家追討の任を負ってこの地を訪れ、平清盛の末裔鶴富姫と恋愛し、やがて悲しく離別したという物語によって構成されております。

 

鹿児島おはら節

 

鹿児島では単に「小原良節」といいますが、宮崎県日向の(安久節)が鹿児島市郊外の伊敷村原良を経てつたえられたところから「原良節」として知られていたわけです。リズムのよさから(仕事唄)(お座敷唄)などにもうたわれ、郷土の唄として他県の代表民謡と同様に、胸をはってどうどうとお国ぶりを発揮できる豪快な民謡です。
南の国の太陽の下で聞く「小原節」の野性的な味わいは格別です。西南戦争で散った西郷隆盛を郷土の英雄と崇拝し、噴煙絶えるひまなき桜島を郷土の誇りとして、そのめぐまれぬシラス台地に開墾の鍬をふるう、日本の最南端に燃える郷土愛の強さをつくづくと感じさせるような唄です。産業の北九州とは全く違う地理的環境が、太陽と火の国の明るい生活につながっているのかもしれません。

 

串木野さのさ

 

鹿児島県串木野市の(お座敷唄)です。九州ではこの他に、(五島さのさ)もあり、本州から俗曲を好んでうたううちに、それらが酒宴の席で土地化され、地名を新しく付して民謡的存在になってしまうものがあります。(串木野さのさ)もその例で、どちらかというと俗曲に入る唄です。