三橋美智也の魅力    スポーツニッポン新聞文化部

 

「よく来てくれたね。ありがとう。とてもうれしいよ」とガッシリ握手されたのはことし一月、帝国ホテルで開かれた彼のパーテイのことでした。民謡リサイタルで芸術祭の賞をとって、その喜びようは大変なもの。キングが主催した受賞祝いのパーテイのほかに、「ごく親しい人たちをだけを招いて…」と、もう一度、今度は彼自身が主催した会で、歌謡界のそうそうたるメンバーが集まりました。
だから会場での話は期せずして、20年におよぶ彼の歌手生活のエピソード集みたいになりました。
その一つ一つが楽しくて「やっぱり!」とか「なるほど」とか思い当たり、ふと気が付いたのはパーテイの客のほとんどが、三橋美智也という歌手の生い立ちのどこかにかかわりあった人ばかりだったこと。そこへゆくとこちらは、三橋美智也の魅力を享受して育った世代でありました。
そんな立場の違いはあっても、しかし、彼の大きさ≠ヘ打てば響くようにわかっているつもりです。
何しろ、昭和30年代に青春時代を持ったということで、そのはやり歌観≠ワで、決定的に、彼の影響下にある世代なのですから…。
「おんな船頭唄」をラジオで聞いて、それっきり、夢中になってしまったのは、高校生の時と記憶しています。茨城の田舎道を12キロバスに揺られれて、レコード店がある町まで出かけたのが、すぐそのあと。「君は海鳥渡り鳥」と春日八郎の「別れの一本杉」がカップリングされていて、それからしばらく、このレコードは、宝物の一つに数えていました。
毎月毎月新譜がでて、それが次々ヒット曲になってしまう勢いには、ラジオにかじりついている方があせってしまうような気分。前奏も間奏もエンデングも、頭から丸暗記で、あっぱれの三橋美智也通ができ上りです。
真木不二夫の「東京へ行こうよ東京へ、思うだけではきりがない。行けば行ったでなんとかなるさ…」を地でいって、何ともならず転がり込んだ友人の安下宿。隣の部屋のラジオをふすまに耳をつけて聞いたのが「リンゴ村から」だったりしたものです。

 

また話はパーテイの席に戻ります。握手をした時の、その手のぶあつさと力強さが印象的でした。実に旺盛なエネルギーを秘めて、彼の生活≠サのものを感じさせる手でありました。
いつか座興にみせられた特技は、人差し指と親指だけで。ビールびんのふたをねじ曲げてしまう底力。それが同時に、津軽三味線のバチをにぎるその手であることに感動したのを覚えています。
彼の手は土の匂いがします。物心ついたころから、バチを持つ手に、叱責のバチが飛んできた…とききました。
幼児期から彼の場合、歌は「好き」という発想をはるかに越えて「生活」そのものだった聞きました。
北海道の民謡一家に育てられて、彼の手は実に様々な生活を支えてきたようです。都会で育った男には、絶対に持つことのできない手をかれはもっている気がします。
歌いながら同時に、労働に耐えきた力強さをもっている手です。
「子供のころから歌が大好きで、どうしても歌手になりたくて…」と、今、16、7歳で思うつぼの歌手になれた!と笑うこのごろの若者には、絶対にもつことのできない手だという気がします。というようり、むしろ、そんな軟弱さをきびしく拒むような手だというきがします。
その軟弱組の一人だったのです。いっぱしの三橋美智也通のつもりで、東京の暮らしに馴染み切れないころは、安酒のんで、「哀終列車」を歌って…。せっせとのど自慢に通ってこれが特徴の、華麗な小節を、物まねまがいに一生懸命ころがとうそして、ころがしそこない、鐘の音が少ないと審査員をさかうらみしたこともありました。
「おとこ三味線」の前奏を、口三味線でいい気分、肩をゆすって飲み屋街をうろつき、ギターひきの友達ができて、少しはまじめにやろうかなどと意気投合して、コーリューブンゲンをこねまわしたのもわずか半年くらいのこと。
それがなぜか新聞社にはいって、いろんな仕事をあれこれやって、音楽担当になったのが28歳の時、胸ときめかせて真っ先に、インタビューとやらにかけつけたのが、三橋美智也の楽屋だったのです。
気さくな態度を、いつも保ちつづける人です。案外、細かいところまで気を配って、相手の気分を楽にする優しさをもっている人です
「ちょくちょく、遊びに来てください。この世界もだいぶ変わってきて教えてほしいこともあるしさ…」などと、楽屋の鏡の前でニコニコ。小柄な彼がひょこっとあぐらをかいているだけなのに、それがとても大きく見えてしまうのは飛び込んだこちらが、取材記者なのか、サインねだりのファンなのか、自分で自分を扱いかねて、腹のすわりそこなった気分も手伝っての事でした。
村田英雄と初めての合同公演を、正月、国際劇場でやることが決まったとき、初めて酒が出た席にすわったと覚えています。
二人とも豪快そのものの飲み方で、談論風発、とどまるところを知らず、ハイテイーン歌手ばやりで、幾分仕事慣れしたつもりのこちらもまるで形無しでした。
お互いに一曲づつ、相手に唄を作ってプレゼントし、それをステージで歌い合おうなどと、話がまとまるのも気合が入っている感じ。村田と肩をたたき合う彼には、歌一本やり、体を張ってきた…と表現してもオーバーでないような男の覇気を感じたものです。
「高野を失ったことで、僕は生涯の共と、コンビの作詞家を同時に失った気がします」としみじみ語ったのは、作曲家船村徹でした。話題の主で物故した高野公男との作品には「ご機嫌さんよ達者かね」や「あの子がないている波止場」があります。
「あのころは面白かったよ。みんなで、競争で、三橋、春日の歌を書いたもんだ」と大いに語ったのは作曲家の吉田矢健治で「お花ちゃん」「夕焼けとんび」「かすりの女と背広の男」などの作者です。
「とことんまで煮つめて、一つずつかいていたって実感があるな。歌手のとっても、俺たちにとっても、とてもいい時代だったって気がする。今はああいう熱っぽい歌のつくりかたって、はやらなくなっちまったけど…」とまだ青年っぽさを残す口調になるのが佐伯としをで「泪と侍」「旅行く一茶」「東京見物」などをかいた作曲家です。
「昔、歌ていたそうですねなんて、失敬なことをぃちゃいかん。そりゃ君、勉強不足だよ。そんな心構えで演歌がどうのこうのなんて、いっちゃいかんな」とこごとを頂戴したのは今は亡き中野忠晴でした。「ああ新撰組」「おさらば東京」からエレキギターが鳴った「東京の鳩」まで実に若々しいセンスの作曲家です。
 多くの人々に接する機会を得て、実に様々な教えを受けました。
そんな中で、鵜呑みにしてきた三橋美智也の20年におよぶ仕事の大きさが点と線が結び合うようにはっきりとしてきたし実感があります。整理され体系づけられ、次第にくっきりと形どられてくる三橋美智也の世界、それは同時に、演歌絶頂期の、歌謡界の姿ともダブってくるようです。

 

 三橋美智也が歌謡界の一ページに、特筆大書される理由は、歌謡界と民謡の融合を、完全な形で実現したことにあると思います。そしてそれを可能にしたのは、幼児からの、徹底した民謡修業、それに耐え得た生来の闘志、まさに華麗とよぶにふさわしい天与の美声などによるだろうと思います。
この三橋美智也以外は誰も達成できなかったろう大仕事は、出世曲「おんな船頭唄」ですでに完成しており、以後は円熟身を増す一方だったことはおどろくべき現象だと思います。
 三橋美智也のヒット曲の譜面には、ところどころ五線の上にW印が目につきます。
これは作曲家が、楽譜に表現しきれない節回しを、三橋のノドにたくした痕跡と理解されています。
レコ―デングは常に、三橋がその部分をどう歌いこなしてしまうか?という興味でスタッフに見守られていたとも聞きました。そんな神通力?さえに彼に与えていた民謡の大きさにも思い当たります。九州から北海道まで土地の人々が歌いついできた民謡の枠を、一人の体で、体得していてはじめて可能だった三橋節かもしれません。
 そして昭和30年代は、地方から都会への若者たちが、競って移動、流入した時期でありました。そういう若者たちの郷愁と、送り出した地方の人々の感慨が、歌でむすばれた時最も威力を発揮したのは、民謡に似た土の匂いを三橋が持っていたことだったと思います。そんな時代の感傷≠背景に控えて、三橋節は、この時代の青春を一色に塗りつぶしてしまうほどのパワーを持ちました。この時期にはやり歌に¢S身を染めた人々は、以後三橋の世界の凝縮度や完成度からのギャップを数えるという形で、歌そのものを受け止める体質を持つことになったはずです。
 今、40年代後半は、都会へ出た若者たちが、地方へ、自然の中へ、戻っていく勢いを持ち始めています。そういう若者たちの郷愁とそれを迎え入れようとする地方の人々の感慨が、また唄でむすばれそうな気配があります。
民謡の再認識もおこなわれはじめて、これは三橋節への傾斜ともかかわりかねない雲行きが見える気がします。
 そんなとき、彼の20年間の所属が、オリジナルのまま集大成され、再認識されることに、一人のファンとしても、取材者としても、大きな意義を感じています。
ほとんどがおなじみの、この70曲を、一曲一曲、ひどく個人的な、歌キチの思い出とからめて聞きなおして、僕は僕の青春についてももう一度ここで考えてみたいと思います。昭和48年