三橋美智也讃  小西良太郎 (スポーツ・ニッポン)

 

ある日、苦笑いしながら、三橋がポツリといったのは、NHKから出演交渉のことでした。
「それがね、歌はいいっていうんだ。三味線だけでねー」
苦笑のかげに、自信のほどが、チラリとしました。民謡と歌謡曲を華麗な節回しの中で融合した、歌手として大きさ℃知の事実ですが、彼にはもう一つ津軽三味線の名手という魅力があるのです。
まだ、あまり知られていない彼の側面なのですが、三橋は歌手の裏芸≠ニしてでなく、三味線に、真正面から取り組んでいる自負があるようです。

 

ある国際劇場の公演で、三橋はエレキ・ギターの名手寺内タケシと競演しました。双方とも、まるで、曲弾きみたいな激しい演奏のぶつけあいで、会場は異様な興奮に包まれたことを覚えています。
もともと古い楽器や音楽である津軽三味線を、もっとも新しい流行の楽器と、セリ合わせからみあわせて、新しい魅力を捜し出す?使命感にでもかりたてられるように、熱中しているとき、彼の目には、強い光が集まっています。その一途さに、ふと感じるのは芸能人というより、むしろ芸人と呼びたいような、懐かしい体臭でもあります。

 

ある日、これを苦笑いしながら、子供のころバチで受けた折かんの話をしたことがあります。北海道を中心に、民謡を歌い歩いていた彼の義母は、同時に、きびしい民謡と三味線の師匠でもありました。
「ぼくの手が動かないと、バチがピシッと飛んで来るんだな。寒さでこごえているし、それは痛いもんだよ。脳天にひびくほどね。でも子供ながらにクソッ!≠チて気になったもんさ…」

 

一種のスパルタ教育で、それがいいとばかりもいえませんが、正統派の厳しさの中で、正統派の味は育てられたようです。三橋さんは、はたから見れば切ないくらいに、耐えて生きる人のようです。耐えることの中なら、何かを学んでいく?昔風な、実に古風な男の生き方を、見るような気がするのです。

 

はっきりいって、流行歌手としての三橋は一つの頂点に達したような気がします。昭和20年代後半から、ロカビリーブームの洗礼をうけた30年代前半をこえて、彼の民謡と歌謡曲をつなぎ合わせる仕事の中で、三橋は大きな花を咲かせたようです。そのあと、30年代後半から今日にいたるまで、流行歌の世界ははげしい西欧化の波に洗われています。
エレキブーム、フォークブーム、GSブーム、カレッジポップスブーム……みんな、西欧に芽生え、育った音楽の移植と、それをなんとか消化した和製≠フそれとの連続です。そんな流れは、一つには、日本にあった古い、いいものから、どこまではなれられるかーという闘いであったような気がします。三橋の流行歌は、だから、いまの若い人々から、一時おあずけの形になっています。

 

流行歌は、しかし、一つの流行があり、その反動の時期があり、一時代ずつを作ってきました。三橋の土の匂いのする流行歌はもうすぐみんなが待っていた形の中に、もう一度、よそおいを新しくして登場するように思います。それまでは三橋は時期をまつのです。
そのときに間にあうかどうかーそれはまだだれもわかっていません。流行歌手の宿命みたいなもので、ただ勝って見せる!≠ニ歌手たちはみんな待つのです。
三橋は、三橋民謡少年隊を育てています。彼が習い覚えた、日本民謡のすばらしさを若い世代に伝えようとする作業でしょう。
三橋は、同時に三味線を弾き続けます。体で覚えた日本の古い楽器と、音楽のよさを、からだの中になりひびかせながら、彼は何かを後世に残そうと、焦ってさえいるようにも見えます。

 

このレコードは、東京キューバン・ボーイスと三橋が、三味線の名手として競演したものです。西欧ふうなリズムと、音楽づくりの中に、彼は彼の三味線をバッチリと生かしています。
きらびやかともいえるバチさばきの中に、いいしれぬさびしさをひびかせて、三橋の三味線は鳴り響いています。彼はこれだけは、絶対に、誰にも渡さない日本人のにおい≠ニして、いつくしみ育ててきた意地でもあるのでしょう。
ある日、苦笑いしながら、彼は最近の心境を、こう語ったものです。

 

「頑固だといわれるし、時代しらずともいわれるかもしれないけど、ぼくはぼくの道をいくしかない。はやりすたりとは別に、僕はいいものはいいんだ…と訴えたい。僕がもっているすべてを、一人でも多くの人に伝え、一人でも多くに人にわかってもらおうとするーそれが考えてみれば、芸人冥利ってものじゃないかな」